21年8月14日

 一昨日の前の日の作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。昨日は出かける日だったので出かけて、雨宮坐日吉神社と軻良根子神社に行ってきました。

 一昨日は出かける用事がなくて、一日作業でした。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。秋雨前線が活発化する、とのことで「天気予報をちゃんと見ておくように」と言われた気がしました。

 昨日は天気予報どおり雨だったので、信州新町の家の整理に出かけました。押し入れの中に入っていた寝具その他をほとんど持ち出して、軽く掃き掃除とかしてきました。で、帰りに可毛羽神社と今井神社、切勝寺をお参りしてきました。可毛羽神社は北側に「源義経のお墓」というものがあって。昭和45年に建立されたそうです。この辺りは、「横田河原の戦い」といって、上田の依田城を拠点としていた義仲と越後から来た軍勢が戦ったところらしくて。義仲には木曽衆、佐久衆、上州衆がついていた、とあり、義仲は最初、木曽から松本を通り越して佐久に行ったんだなー、と思う。その辺りは古代の信濃国造氏が上州から信濃国に入ってきて、善光寺平に至る経路、信濃国造氏の権力が強く及んでいた地域であった、というのは興味深いことだと思います。上州の西の方は、佐久とものすごく縁が深くて、かつては荒船山周辺は国の境がなかった頃は一体化して開発された地域であった痕跡があります。善光寺は別当の栗田氏が源氏側(要は義仲側)についた、ということは義仲側だったのだと思われます。だから、信濃国造氏・下社系は義仲側だったのだと思う。可毛羽神社は現在の祭神は諏訪系ですが、名前から言ってかつては「賀茂」の神を祀っていた可能性もあったのではないか、と思うのです。今井神社は、今井兼平の館跡といわれ、近くに兼平が創建したと伝えられる切勝寺があり、今井兼平の墓(兼平の部下が菩提を弔うために建立したもの)があり、で川中島今井というのは兼平に由来する地名なのだなー、と思いました。兼平のお墓は整備されていましたが、立て札に「久保田氏の呼びかけで各地の今井さんが~」というようなことが書いてあって。久保田氏とは義仲の子孫であって、可毛羽神社の北側にある義仲のお墓を建立された方々だそうです。現代でも、今井氏は義仲の子孫と交流があられるのだろうか、と思うと少し不思議な気がしました。

 切勝寺は普段は人がおられないそうで、今井神社にお参りする前に通った時には門も閉まっていたので、お参りさせて頂くのは無理かなー、と思っていたのですが、帰るときに見たら門が開いていたのでのこのこと入っていって。せめて本堂の前で軽くお参りさせていただこうか、と思っていたら、ご住職さんに声をかけて頂いて、本堂の中で参拝させて頂くことができました。お盆だし、檀家さんのご法事があられる、ということで、丁度いらっしゃっておられたとのことでした。私は特にお寺関係はちゃんとした作法も知らないヘタレなのでー;。きちんと声をかけて頂くと逆にどぎまぎしてしまうのですが-;。とりあえず仏様に手だけ合わさせて頂くことができて。貴重な体験ができました。

 可毛羽神社と今井神社に思うこと。中学生の時に、屋代だか篠ノ井だか、おそらくその辺り出身と思われる久保田という先生がいたわけです。社会科の先生で、私の担任ではなかったけれども、社会は教わってました。もしかして、この先生も義仲の子孫だったのかなー、と今なら思います。当時はそういうことは全く聞いたことがありませんでしたが。なんだか、自分の大学時代の恋愛遍歴?みたいなものをプリントにして配ったりとか、頭のいい子が嫌いであったりとか(彼が担任のクラスでは殴られた子もいたそうな)、今にして思えばなんかちょっと風変わりな先生だった気もしますが。まあ、小山田圭吾の例ではないけれども「いじめをする方が正しい」というような時代だったので、特に何の問題にもならず。もっと変わった先生もいた気がしますし。でも、中学生に自分の恋愛遍歴を披露とか、やっぱなんか変だよねえ? どういう自己顕示欲? と今更ながらに思うわけですが-;。小学校の時には「自分の先祖は嵯峨天皇である」という先生がいましたし、歴史的にはなんか恵まれていた? というか、変な子供時代だったなー、と思ったのでした。ともかく、義仲絡みのストーカー的オカルト事件はそんな子供の頃から始まっていたのかな、と思いました。

 で、家に帰ってきて一休みしたら、なんだか色々と検索するように言われる気がするわけで。この日あった「とある人」に次の行き先を紹介して頂いた気がするわけで(汗)。