21年8月9日

 本日の作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。台風のため、突発的に雨風が吹いたり、止んだりしていました。お隣の家の庭に草よけ? で敷いてあったビニールが風で飛ばされたり、我が家の庭もミニバケツが風で散乱したりしていました。

 今日は午前中の朝の内、台風の影響で雨が降る、という天気予報だったので、信州新町の古い家に出かけてゴミを片付けて、早めに長野に戻って観音寺(四万八千日観音)と十年寺をお参りしました。観音寺は頼朝の髻にあった観音を本尊にして開基された、とのこと。十念寺は、頼朝が善光寺に参詣した時に、その場で阿弥陀如来に関する霊異があったので建立された、とのことで、いずれも頼朝関連のお参りでした。とある場所では、近所の人が「目の力」で「きゃー、きゃー、嫌な奴が来たーー。警戒警報ーー。」とかって言っていたような気がする-;。もう一方ではそんなことありませんでした。きっと空耳かとー;。観音寺の方は縁日の日にお参りすると、四万八千日お参りしたことになる、とからしいので、130年以上分お参りしたことになったようです。どちらも浄土宗で感じの良いお寺でした。特に十念寺で感じたことですが、農民とかよくよくの庶民のための真宗と違って、浄土宗は割と裕福な町人に支えられてきたお寺なんだなあ、と思いました。

 で、昨日から伊野尾ちゃんと神宮司君のドラマを見ていて。なんだか、子供の頃に「死霊のお祭り」に迷い込んで、人が嘘をついていることが分かってしまう、という特殊能力を身につけてしまった主人公の神宮司君と、彼が通う大学の民俗学の准教授である伊野尾ちゃんのコンビが怪異を求めて、怪異っぽい事件に挑む、というドラマらしくて。見ていると、なんとなーく「修験道とは危険な物」と言われる気がするわけで。で、今日十念寺に行ったら立派な「秋葉神社」というものがあったわけです。そもそも明治の廃仏毀釈以来、同じ敷地にお寺と神社が仲良く同居している構図そのものが珍しい、と感じたわけです。で、あからさまに秋葉大権現三尺坊(天狗)を祀る、と書いてあったので、三尺坊の地元が戸隠であることと併せると、さすが地元、と思う。だけど、誰がいつ秋葉神社を建てた、とかそういう掲示が目に付くところに見あたらなかったので、「家に帰ってから調べてみるように」と言われる気がするわけで。調べてみたら、江戸時代以前に問御所に菊屋という庄屋さんがいて、造り酒屋で大金持ちであって。その家に三尺坊が立ち寄ってお札を授けたとかそういうことがあったので、十念寺に秋葉神社を寄進したのが神社の始まりであったそうです。で、菊屋さんは境内の井戸で酒を作っていた、という伝説があるらしいです。この菊屋さん(屋号が菊屋で名字は山﨑さんというらしいのですが。)というのは、三尺坊とか神仏の加護があって栄えた、とされていて、頼朝とも縁があった、とされているようです。でも、明治以後繁栄は廃れたようです。

 ・・・門前の大地主で大商人だったら、善光寺とも当然なにがしかの縁があったはず・・・、と普通に思うと思います。信心というのでなくても、商売関連とかで。参詣客にお酒を売ったりとか、御神酒を売ったりとか。で、三尺坊とか稲荷とかとも縁があった、というと、修験道との縁も深い、と感じられます。そういう人達だって、托鉢で養ってくれる裕福な町人は必要だし、逆に行者が御神酒とかを買ってくれる、ということだってあったはず。ということは、善光寺と戸隠・飯綱の修験道は直接関連がないように見えても、門前の商人を通して、けっこう深くつながっていたのではないのかなあ、彼らの繁栄は善光寺と修験道を結びつけることでも成り立っていて、明治以後衰退したのは修験道が禁止されたから? とふと思う。そして、山﨑っていう知り合いが、昔二人ほどいたけど、菊屋さんの関係者だった? もしかして?? となんとなく思う。私は信州新町の田舎者なので、門前の古くからの人間関係はよく知らないのです。当然だけれども。

 で、お昼寝していたら夢を見て。自分がまだ高校生くらいで、後輩に神宮司君と岸君がいて。学校の行事だかで親が炊き込みご飯をたくさん作って、みんなにふるまっていて。そうしたら、神宮司君が「おかずだけ食べちゃいましたよ-」と言って、ご飯だけ残ったのを見せに来て。で、その後岸君も同じようにご飯だけを見せに来て。「二人とも同じことを言ってる-」と思って。そして、よその学校の生徒に「天下のキンプリと普通に話してるなんて図々しい」とかって陰口とかを言われる、という夢で-;。

 ドラマの終盤には「黄泉竈食い(よもつへぐい)」のことをやっていて、伊野尾ちゃんが「ここ(研究室)のコーヒーを飲んだんだから、君はもうここの人間だよ」みたいなことを言っていて。「黄泉竈食い(よもつへぐい)」については、うちのPちゃんが「黄泉の国の食べ物を食べると生きた世界に戻れない」というのが間違いで、本当は「千と千尋」の千尋の例みたいなのが正しい、と言う気がするわけで。「黄泉の国」の相に入ったら、自分だって「黄泉の国」の住人だから、そこの食べ物を食べてもよくなります。だから、黄泉の国の深い相に入ったときはパスタでもピザでも食べて良い。でも、生者の世界に戻ったら、もう食べちゃだめ、って言われる気がするわけですが@@。でも、変なモノを食べると、戻ってきたときにけっこう変な声が聞こえますよ、伊那でくるみの入った味噌のついた五平餅を食べたときはけっこうきつかった、と思うわけで-;。まあ、出先でその土地の神サマをちょこちょこと動かした時には、お礼と代償もかねて、その土地の食べ物を食べるようにはしています。まあ、それも一種の「黄泉竈食い(よもつへぐい)」だとは思いますが。でも、私の場合は「水」に関わることが多いので。「あなたが関わった水を飲めば、むしろその土地の人々があなたの国の住人になってしまう、とそう言うべき。」と言われる気がするわけで@@。むしろ人様に「生者の竈食い」を勧めて歩く立場らしいです。で、「研究室のコーヒー」については、デジャヴを感じる。昔、教授にやられた記憶があるけど、あれも「黄泉竈食い(よもつへぐい)」の呪術だった? と今になって思う。

 で、「主人公が人の聞こえない声が聞こえる」という点に感じるモノはないの? と聞かれる気がするわけで@@。「え、その設定も何か引っかけてるの?」と思う、というか、「人の聞こえない声が聞こえる」なんて空耳じゃん? とか思う(笑)。「でも、行けと言われたところに行くでしょ?」と言われる気がするわけです。行け、と言われたところに行く以外にすることないじゃん! と思う。なんだか鴨のシャーマンらしいし? ということで。普段はできるだけ触らないようにしている「穢れ」の神社にもいくつか触ることにはなります。でも、半分以上「別の世界」にいっちゃってる人々が登場する民俗学的なドラマには違和感は感じない-;。まあ、私もあんな感じで別の世界にけっこう足を突っ込んでるからです-;。