本日の外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。水道管の下からまた波トタンが顔をのぞかせてるのですが?? と思う-;。
ここ3日くらい、「水源を整えるように」と言われる気がして、あちこち駆けずり回っていて。国の境を押さえたら、今度は水源を祀らないといけないらしい。だいたい、どこの水源にもイザナミとかがとりついていて「黄泉の国」の水にしてしまってあるからです-;。そうして、回って思うことがある。
「鳥居のない神社ってどうやって入るの? 入り口(鳥居)がなかったら神域に入れないですよねえ?」
と。入り口以外のところから入っても、神社の敷地の中には入れるけど、それは「俗界」であって「神域」にはならない気がするわけで。そうしたら、
「普通の人では、鳥居がなかったら神域には入れません。鳥居がない場合は、神様はそこに封印されているか、野ざらしにされて神様としての役に立たなくされているかどちらかです。よっぽど小さな路傍の祠とか石碑みたいなものは、そこまでうるさく「神域」とは言わないで使ってますけども。」
と言われる気がするわけです。でも更に言われるわけで
「飯綱の呪法に「ネズミ大明神の呪法」という邪法があります。この呪法を会得すると、いざというときに鳥居がなくても神域に入ることができる能力を身につけることができます。転じて、ネズミのように、他人の家にも自分の家のように自由に出入りできる、という呪法でもあります。飯綱とか戸隠は忍者の産地なので、忍術の呪法ですよ。だいたい、あなた自身が他人に我が物顔に家の中にさんざん入られて苦労したんじゃないんですか?」
と言われる気がするわけで@@。・・・もしかして我が家の周囲は修験道の忍者ばっかり住んでる? と思うわけですが-;。ともかく
「飯綱・戸隠関連で特殊な祈祷を受けると「死人の呪い」がかかります。その代わりに、飯綱・戸隠の修験道者の資格も手に入るので、あなたとお母さんは正規に修験道者の資格を持ってるんですよ。修験道者がネズミ大明神と結縁すると、呪法を会得できます。」
と言われる気がするわけで@@。「死人の呪い」はどーなったんですか? と思うわけですが、そっちは
「あんまり効果ないでしょ。堂内に押し入って神サマを取ってきちゃったし。おかげで御嶽山とか火山との相性も良くなったし。」
と言われる気がするわけで@@。それで思い出したけど、どうも飯綱へ行った後から、ときどき「押し込み泥棒が来た」って、失礼なこと言われる気がするんですけど?? と思う-;。というわけで、なんだか、鳥居がなくても神域に入れる能力を持ってるらしくて-;。でも、
「鳥居があれば、そこからちゃんと入らないとだめですよ。玄関以外のところから入ったら、それこそ「押し込み泥棒」みたいで神サマに失礼だから。」
と言われる気がするわけで-;。
というわけで、今日は門前の熊野神社にお参りに行って。小さいけれども古社ですし、善光寺界隈では割と重要な神社であるので、本来なら鳥居があってもよさそうなものですが、ここにも鳥居はなくて。でも、神域に入れるから気にしないー、ということで-;。
で、何日か前から、諏訪神の子神とされる「出早雄命(いずはやおのみこと)」の「出(いず)」という言葉は「伊豆」のことでもあるし、「出雲」のことでもありますよねえ? と思う。で、松本あたりをうろついて思ったことですが、
出早雄命(いずはやおのみこと) = 穂高見尊(天之手力男神) = 泉小太郎
ですよねえ? と思う。安曇族と出雲族は元々「同じモノ」で、出雲族の一派が特に諏訪氏(神氏)を名乗っているだけで、どちらも同祖同族だし、氏によって神様の名前を変えているだけ、ってお互いに分かってるのだと思うわけです。だから、安曇族の側の穂高見尊と諏訪側の出早雄命は「同じモノ」で民間伝承で泉小太郎と呼ばれるモノだと、特に強く思うわけです。だから、その親神はというと
諏訪神 = 綿津見の神 = 八束水臣津野命
となるので、諏訪神の子神が出早雄命ですよねえ?
出早雄命(いずはやおのみこと) = 穂高見尊(天之手力男神) = 大国主命
ですか? 分家の神サマの方が、本家の神サマの大国主に対して、「自分の方が親だ!」って言う? と微妙に思うわけで。こういう構図を考え出した人は、ものすごーく気が強いと思う、と思うわけですが。しかも、諏訪大社の神紋は「梶の葉」であるので。それは出雲的には天御梶日女命(あめのみかつひめのみこと)という女神に相当すると思う。というか、本来の形としては天御梶日女命は八束水臣津野命の妻神とするとすっきりすると思うわけですが。ま、だから上社の方は、天の女神である天御梶日女命をそのまま「天の女神」として最高神にしている神社、下社の方は「八坂刀売」が境界神であるとおり、天御梶日女命を八坂刀売と習合させて「黄泉の女神」にしてしまえ、という神社かしら? とそう思うわけで。木曽の水無神社には、神サマの乗っている神輿を谷底に落として壊してしまえ、という趣旨のお祭りがあるそうで。神輿は神そのものでもあるのだから、壊す、ということは神を殺す、ということでもあるのでは? と思うわけで。水無神社の祭神は高照姫という出雲の太陽女神の一柱と思われます。それを墜落させて殺すの? 蚩尤? それとも首なしキュベレー地蔵? と思うわけで-;。木曽の信仰は、下社からの社家が義仲の子孫と組んで絶大な権力を握っていたそうなので、水無神社とか重要な神社の祭祀には、起源にけっこう関わっているはずだよねえ? と思う。ともかく、諏訪でも木曽でも、「太陽女神を墜落させて黄泉の女神にしよう」ってそういうのが下社で、善光寺門前の熊野神社ですか? と思うわけですが-;。
熊野神社の本家本元は出雲の熊野大社である。これは元は熊野山(水源の山)の神を祀ったものであるし、縄文系の神は女神であるので。熊野山の水源の女神が本来の祭神であったと思われます。記紀神話的には、奇稲田姫、天照大神、出雲的には天御梶日女命あたりが祭神であった方が妥当であると思う。でも、出雲系の人たちは、あんまり原住民に自分の祖神を押しつけないので、一番最初は「熊野明神」みたいな形でお山の水源の女神を祀っていたものと思われます。
というわけで、熊野神社に参ったら、近くの紙屋さんで
「熊野の紙(神)」
を買うように、と言われる気がするわけで。「会津木綿柄」の折り紙というものを買ってきました。「会津」とは「出雲」のこと。織物は、太陽女神のものだから。それが、天御梶日女命の象徴で、出雲の熊野神社の本来の祭神では? と思うからです。別に自分の選択が間違ってるとは思わない。
あと、もう一つは、美濃の古川さんとこの和紙を買って。今回の旅も上州の布留主(香取の神)のかなりお世話になったわけですし。太陽女神と香取の神の組み合わせも、美しいかな、と思って。夫婦だものね、たぶんね。
で、出雲の熊野大社の神紋は「亀甲に大の字」なわけで。亀甲紋はいかにも出雲系の紋に見えますが、「大」の字のつくところは出雲系ではないでしょ、と思うわけで-;。私の知っている限り、「大」の字が好きなのは建五百建命の家系であると思う。だいたい、なんで自分ばっかり大きくなるのが、自分ばっかりが一番になるのが好きなのか? と思うわけですが-;。信濃国では諏訪神を隠れ蓑にして諏訪関連の氏族みたいに見せかけているけど、出雲では出雲の神サマみたいなふりをしてるのか?? と思うわけで-;。熊野信仰を作ったのは「大」の字のつくところであると思う。木曽御嶽信仰を作ったのは下社関連であると思う。どっちも建五百建命の関係者では?? と思うわけで-;。
で、今日Mステを見たら、「元気が出るソング特集」みたいなものをやっていて。1位はZARDの「負けないで」だった。槻井泉神とは九頭竜のことだけれども、「槻」という木に降りて依り付く神でもあるわけだから、「槻」は神界と人界をつなぐ「境界」でもある。また、「黄泉平坂」という通り、あの世よこの世の境界は「坂」という言葉でも表される。「坂井泉」とは「槻井泉」という意味だし、「九頭竜」という意味でもありますよねえ? と思う。彼女が生きている間に気がついてあげられなくて、ただただ申し訳なかった、と思うのです。太陽女神を墜落させて殺そうとする者は何者ぞ? と思う。
それから、木曜日ははっしーのお誕生日でした。おめでとうございます<(_ _)>。