本日の外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土掘り、土の清掃でした。
「ヘルメース主義」と「デュオニューソス主義」とは何かということです。ヘルメースもデュオニューソスもギリシャ神話の神サマで、主神であるゼウスの子神です。ヘルメースは身分の低い女神から生まれた神で、神々の「伝令神」とされ、武器として鎌を持っています。「伝令」なので、神と人の間のやりとりを仲介することもあるし、冥界へも出入りできる、とされていましたし、道祖神的な役割も果たしていました。「知恵の神」ともされていました。おそらく、人々は彼に対して、もっと上位の神々に対する取りなし、とか旅の安全を願ったのだと思います。また牧畜の神でもあって、キリスト教とも関連しますが、初期のキリスト教徒はイエスのことを「良き牧者」と呼んで、自分たちを導くヘルメースのようにみなしていたと思われます。その意味するところは、みんなで真面目につつましい生活をし、働いて得たお金は共同体のものとして、弱者(寡婦等)にも平等に分けよう、といったものだと推察されます。また、各地の共同体はかなり自治的な性格が強く、「何が正統なのか」ということは、初期はなかったのだと思います。要は、それぞれの共同体が持っている文化によって、贅沢を慎み、知恵を出し合い、工夫しながらお互いに助け合っていこう、というのが「ヘルメース主義」の原始キリスト教といえます。
一方の「デュオニューソス主義」ですが、これは「オルペウス教」とも関連して、奇怪な信仰といえます。オルペウス教のデュオニューソス神話はザグレウス・デュオニューソスの物語と、オルペウスの物語が核となります。ザグレウス・デュオニューソスの神話は
「神々の王ゼウスは蛇に化けてペルセポネーに近づき、交わってザグレウスをもうけた。ゼウスは全宇宙を継ぐべき存在として彼を寵愛した。これに嫉妬したヘーラーは、ティーターン族をザグレウスに送り込み、惨殺するよう仕向けた。
ザグレウスは、牛の姿になったとき捕らえられ、縛り上げられて殺されてしまう。その後にバラバラに引き裂かれ、四肢や肉片をティーターン族に煮て食べられてしまう。ただ、心臓のみはアテーナーによって救い出され、ゼウスの元へ届けられる。ゼウスは心臓を呑み込んでセメレーと交わり、ディオニューソスをもうけた。このディオニューソスの心臓は、本来ザグレウスのものであり、これはザグレウスの再誕を意味した。
以後、ザグレウスはディオニューソスとして、ゼウスと共に宇宙を統治した。」
というものです。要は、ザグレウスという神が非業の死を遂げて、デュオニューソスとして生まれ変わって宇宙を統治した、という思想です。デュオニューソスは一度死んだ神なので、冥界へも出入りできる、とされました。デュオニューソスは紀元前15世紀まで遡る神であり、酒の神で、自分に経緯を払わない者は、自分の信者達に惨殺させる、という神でした。そういう古くて残酷な神から、紀元前6世紀頃に「オルペウス教」というものが誕生しました。オルペウス教の「オルペウス」は、有名な楽人であって、エウリュデュケという妻が亡くなったので、冥界に妻を取り戻しに行ったけれども、失敗した、という有名な「オルフェウスとエウリュデュケ」の神話のオルペウスです。オルペウスとエウリュデュケの神話には続きがあり、失意の内に冥界から戻ったオルペウスはデュオニューソスを神として敬うことを拒否して、デュオニューソスの熱狂的信者に殺されました。
で、オルペウス教の言い分によれば、彼らの神であるデュオニューソスはゼウスとペルセポネーの「不倫」から生まれており、そこから人類も発生しているので、人類は生まれながらに「不倫から生まれた」という「原罪」を持っている。人類の魂は「永遠」のものであるのに、原罪のおかげで有限の肉体を持つ「人間」に生まれることしかできない。永遠の存在にはなれない。しかも、人々は輪廻転生して、有限の命の生活を何度も繰り返さなければならない。「原罪」から解き放たれて、輪廻転生からも解放され、「永遠」の存在になるためには、オルペウス教の教えを信じないといけない、とそういうことなわけです。 だから、仏教ともちょっと似ていますけれども、「輪廻転生」の輪から抜け出して「解脱」するには、あれこれ教えを守る必要がある、というのとまるっきり同じ事なのだと思います。そして、デュオニューソスは黄泉の国へ出入りできる神ですので、人々を輪廻転生から救い出して、解脱させる神、とされました。デュオニューソスを信じない人は殺して「解脱」させてあげるわけです。そうすると、その人は救われることになります。その象徴がオルペウスといえます。オルペウスはデュオニューソスに殺されることで解脱できて救済されました。デュオニューソスはザグレウスであったときに、非業の死を遂げて生まれ変わった神ですし、そうすることで特殊な「救済能力」を身につけることができました。イエスも非業の死を遂げたわけですから、生まれ変わったらデュオニューソスのようになって、人々を殺して救済する神となる。殺されて救済されたくなかったら、自ら進んでキリスト教徒になり、自分が救済される側ではなく、救済する側、すなわち「人を殺す側」になりましょう、というのが「デュオニューソス主義」といえます。ローマ式に当てはめると、「ローマを信じない人(協力しないで対立する人)は殺して救済してあげましょう」という感じになるのかと思います。もちろん、こういう考えに賛成しない人たちは「正統」ではないので「異端」ということになります。異端はどんどん殺して救済してあげなきゃー、現実の財産はもらってあげなきゃ、それが彼らの救済のためである、ってそういうことなのかと。ザグレウスは「死んだ女神」であるペルセポネーから生まれました。だから、「母」となる女神をどんどん殺して「黄泉の神」にしてしまうのが、「ローマ式デュオニューソス主義」といえます。みな、女神をペルセポネーになぞらえているのです。死した女神イザナミの子であるスサノオがデュオニューソスに相当するのが、熊野信仰といえます。スサノオは酒で敵を倒す神です。また、木曽義仲は「死した女神」である竜蛇神の守護を受けた子神と暗示されていますから、若くして非業の死を遂げた義仲は、生まれ変わったらデュオニューソスという神になる、すなわち、義仲が死んで生まれ変わったらスサノオになる。彼に協力しない者は、どんどん殺して救済しちゃう、というのが「ローマ式デュオニューソス主義」の行き着くところだったのではないか、と思います。でも、現在のところ、彼に「協力しない」天照大神を殺し損ねて「救済」できず、熊野の呪いを成就できなかったので、スサノオは「一番の神」になり損ねているらしくてー;。
小山田圭吾という人が、学生時代の「いじめ」でいろいろと問題になっているそうで。どうも、個人的にはその人だけ攻める気になれない、というか、昔は「虐められる方にも問題がある」とかっていって、「虐められる方が悪い」というのが常識の時代があった気がするので。だから、そういう時代には彼のやったことは英雄的行為で雑誌でどんどん宣伝するようなことだったんじゃね? 今とは時代が違う話だしー、当時の常識で、英雄的行為だったことを、今の常識で一方的に攻めるのは、ちょっとどうなの? とかちょっと思うわけですが-;。「虐められる方」にどういう問題があるんですか? スサノオに協力しないから? 虐められる(=救済される)のは当然なの? となるわけで-;。義仲が生まれ変わって、スサノオになって世界や天照大神を救済する、って熊野式? というか、熊野式+下社式の概念が幅を効かせていた時代もあったんだなあ。小山田圭吾氏の現況は、名前が似ている「救済者」の現況を示す鏡のようなものなのではないのか、と思うわけですが。あたくしは「熊野の呪い」を追いかけていくだけです。
というか、「熊野神社」の水で作ったお酒って「熊野のお酒」(黄泉の酒)ということにならないのですかねえ? と思う。聖の山の水源の水が「熊野の水玉」であったら、それで仕込んだ酒も「熊野の酒」だったりする? と思う。ということで、どうも強い敵意を怒りを感じる気がするわけです。・・・わりーのはお前だろ、前世がどうのとか言ってないで、今の自分のやったことは他人にさせるのではなくて、自分自身でケツをふけ、って感じで、あたくしも思うところはあるのかもしれませんが-;。(というか、私の松本時代は、知れば知るほど「義仲まみれ」であるー;。今になって、そのオカルトっぷりにドン引きしてるわけですがー;。)