本日は出かける用事があったので出かけて。石を轟商会に出して、郵便局に行って、買物をして帰ってきました。雨が降らなかったので、家にいる間はずっと外作業ができました。
外作業は母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。昼頃、近所を消防車がサイレンを鳴らして走り回って、なんだかどこかで「火災報知器が作動したけれども火事ではありません」というようなことをアナウンスして走り去って行きました。
テレビは、昨夜は「火曜サプライズ」を見て。今日の昼は「ブンブブーン」の録画を見ました。
古代エジプトのオシリスは「天から墜落した神」の変形版であって、その男根ではなく、オシリスそのものが植物(小麦)とも考えられていました。エジプトの対岸のアナトリア半島には、更に奇怪な神話が残されました。フリギアには、アグディスティスという神がおり、彼女?は「天から墜落した」ゼウスの精液から生まれた、とされていて、両性具有の神でした。そういう天ではアプロディーテと似通った「生まれ」といえますが、最初から完全な女神ではなく、元は男性(男根)であった痕跡が残されました。(子音から述べればアプロディーテの方がアグディスティスをギリシャ的に洗練させ、進化させた女神、といえるかもしれません。元は同じ女神であったと思われます。)神々は、アグディスティスの奇怪な姿を恐れて、彼女?の男根を切り落としました。そうしたら、男根からはアッティスという下位の男神が生まれました。アッティスはキュベレーの愛人でしたが、他の女と結婚しようとしたために、キュベレーによって狂気に落とされ、自らの男根を去勢して死にました。そして、キュベレーの魔力で松に化生しました。ちなみに、ギリシャでは、アプロディーテの若い愛人はアドーニスといい、死してアネモネの花に化生しました。アッティスやアドニースは死して植物に化生しますし、天の神、ともいえませんから、蚩尤が変化したものといえます。母親のアグディスティスは男根を去勢して「女神」になっただけですから、オシリスと同様、蚩尤の変化形といえます。アグディスティスの父親のゼウスは、墜落した精液(男根の変化形)の本体である「天の神」ですから、ゼウスは饕餮の変化形といえます。一方で大地(死んだ者)から生まれた女神が、更に大地(男根でもあり死んだ者でもあるもの)から息子を得る、というのはナルト叙事詩のサタナとソスランの関係も彷彿とさせます。ソスランは最期は男根ではなく、膝を切られて命を落とすことになり、特定の弱点を犯されて殺される英雄の「弱点」とは「男根」が変化したものであることが分かります。すなわち、ギリシャ神話のアキレスや、ニーベルンゲンのジークフリート等です。
特にニーベルンゲンのジークフリートは二人の女性のさや当てでジークフリートが亡くなる物語ですから、ジークフリートの妻クリームヒルトがアプロディーテ、元カノのブリュンヒルドがペルセポネー・キュベレー、ブリュンヒルドの夫グンテルがゼウス、ハゲネがハーデス・プルートー等、アプロディーテとアドーニスのギリシャ神話を元にして作られた物語であることが示唆されます。クリームヒルトがジークフリートの死に対する復讐として利用した二番目の夫アッチラとその息子も、アッティスの別の形、といえます。で、物語の最期には主要な登場人物のほとんどが死んでしまいます。どうも、アッティス、アキレウス、アドニース、ニーベルンゲンと、時代が下るにつれて「誰も彼もが死んでしまう」傾向が強くなるように思います。西欧の神話としては古い方のメソポタミアの神話では、タンムーズの死は植物(小麦)の枯死と再生に関連付けられており、最初に冥界に下ったイナンナ女神を再生させるための生贄がタンムーズである、と彼の死の意味と目的はかなり明確でしたし、小麦を食べるその多大勢の人の利益に沿った死である、と言えます。そしてタンムーズ以外の神々は軽々しく死んだりしません。でも、ニーベルンゲンのジークフリートになると、登場人物は個人的な私怨のレベルでどんどん死んで、結局その死は誰の利益にもならないような結末です。言外に彼らの財産を手に入れた者がいれば、それはその人の利益にはなった、と言えるかも知れませんが、「公共性」という点ではタンムーズの神話よりも、中世の伝承の方がより劣っているわけです。そして、ニーベルンゲンには日本の神話との共通点もあります。日本の神話も、初期の主要な神々が次々と理由も曖昧なまま亡くなっているのです。造化三神は姿を隠し、イザナミは焼け死に、イザナギも幽宮に隠遁し、アマテラスは洞窟に隠れ、須佐之男は根の国に住みます。しかも「地上」=「冥界」ということになれば、天孫降臨した神々も次々と死んだことになりますし、その一つ一つが「蚩尤の天からの転落」に対応しているといえます。だいたい、アマテラス、月読、須佐之男はイザナギから枝分れした神々といえますから、イザナギの一部が取れてしまった「死んだ臓物」のようなもので、これまた「饕餮から切りおとされた蚩尤」に対応すると思われます。要は、「饕餮(=上帝)から切りおとされた者は全て死んだ者」で、「饕餮は死んだ先祖」ということになれば、生きている者は、饕餮の子孫のシャーマンただ一人、ともいえます。後は、みんな死んだ蚩尤に関連する者(庶民とか奴隷)だから、死んで蚩尤と一体化して穀物になって食べられるだけ、みたいになります。というわけで、「饕餮」と「饕餮から切りおとされた者(主には男根)」の関係は神話的には
1.兄と弟的関係(ヴァルナーミトラ、ゼウスーハーデース)
1-1.人間の兄と弟(のような)関係(ギルガメシュとエンキドゥ、ロームルスとレムス等:片方の立場の弱い方が死ぬことが多い)
2.父神と息子神の関係(ゼウスーヘルメース等)
3.父神と人間の息子の関係(ゼウスーヘラクレース等、息子は非業の死を遂げることが多い)
3-1.人間の父と息子の関係(ロスタムとソフラーブ等)
4.父神と娘神の関係(ゼウスーキュベレー、ゼウスーペルセポネー等)
5.父神と母神の関係(ディヤウスとプリテヴィー、イザナギとイザナミ)
6.母神と息子神の関係(キュベレーとアッティス、イザナミと須佐之男等:この場合はどちらも「切りおとされた神」)
7.天の女神と地の男神(イシスとオシリス:これはごく一部の例外です)
と枝分れして行きました。というか、蚩尤は本来は男ですから、各地の神話の女神のほとんどはキュベレーのように、男神をご都合主義に女神に書き換えたものといえます。特に「黄泉の女神」はだいたいそんなんだと思う。
でもって、話は変わりますが、出雲神話のうち、大国主とスクナビコナはヴァルナとミトラに相当する、と思うわけです。でも、大国主の正妻の須勢理姫は黄泉の女神というか、良くても「境界神」という感じであって、それをアナーヒタとして良いのか否か? と思ってたわけです。そうしたら、本来の「太陽女神」は「天の太陽」でもあるけれども、昔の人は空は水の塊で、雨はそこから降ってくると考えていたし、太陽が人々に水を夜の間にもたらしてくれる、と考えていました。だから、太陽女神は水源の女神でもあったわけです。アナーヒタ女神は水源の女神だから、性質は弱くなってますけれども、太陽女神でもあるのです。信越地方の水源と川の女神は九頭竜です。糸魚川にある能生白山神社は、尾山がご神体でこれは「尾山(権現山)は長野県長野市戸隠に九頭竜神社に祭られている九頭竜の「尾先」だったとの伝説があり、胴体に当たる関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社には尾先権現がそれぞれ祭られたとも云われています。」とのことです。要は姫川の女神は九頭竜でもあるので、奴奈川姫とは九頭竜のことでもあり、水源の女神だから太陽女神でもあり、アナーヒタのことです。」と言われる気がするわけで@@。「んじゃ、須勢理姫は?」と尋ねたら、「ヒッタイトの神話で「大地の太陽女神」もヘバトとは別にいた、ってあるでしょ。これの代表的なものはキュベレーです。だから、須勢理姫はキュベレー、奴奈川姫はヘバトで、大国主は太陽女神を妻にしてるテシュブ、諏訪神はテシュブとヘバトの息子神であるシャッルマのこと。」と言われる気がするわけで@@。)」とのことです。要は姫川の女神は九頭竜でもあるので、奴奈川姫とは九頭竜のことでもあり、水源の女神だから太陽女神でもあり、アナーヒタのことです。」と言われる気がするわけで@@。「んじゃ、須勢理姫は?」と尋ねたら、「ヒッタイトの神話で「大地の太陽女神」もヘバトとは別にいた、ってあるでしょ。これの代表的なものはキュベレーです。だから、須勢理姫はキュベレー、奴奈川姫はヘバトで、大国主は太陽女神を妻にしてるテシュブ、諏訪神はテシュブとヘバトの息子神であるシャッルマのこと。」と言われる気がするわけで@@。
でも、「境界神」である八坂刀売を太陽女神とした場合には、諏訪神がテシュブ、出早雄命がシャッルマということになりますよねえ? と思う。戸隠、聖高原、熊野が「黄泉の国」にされてしまうのは、そこに水源や川があるからで、水源や川の女神を「死んだ太陽女神」に変えてしまうためにやってるんだ? と思う。要は、「太陽女神」を蚩尤関連の死んだ神にしてしまえ、という呪いらしいです。ヘバトは元々は、生きている神だし、饕餮が食事を運ぶ相手だから、本当は「上帝」の立場にあるはず、と思うわけですが。