本日は姉が病院に行って。その後、姉と母で買物に出かけました。なんというか、近くの家に妙にお金持ちそうな見知らぬ人達、不動産屋風の人が出入りしたり、家の横の道路に変な車が路駐していたりして、せわしない、というか変な日でした。ここ何年か、我が家の近所の家の住民が次々と入れ替わっていたわけですが、最後に残った1件もいなくなるのか? 不動産屋みたいなのが出入りしてるし?? とか、なんとなく想像しています。まあ、思い過ごしかもしれませんが。(我が家には関係ないことといえば無いとも言えますが・・・。)でも、こういう変な人達が出入りするときは、誰かがイライラする、ということで姉が割とイライラ気味でした。
外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、私が土の清掃、土掘りでした。今日は昼間も夕方も雨が降ったりしたので、雨を避けたりしてたので、全体としての作業時間は短めでした。
Amazonを装った妙なメールは今日も来てた・・・。詐欺目的とも言い難い内容ですし、嫌がらせ以外に何が目的なのかが良く分かりません。でも、一番は作業の邪魔をしたいんだろうなあ、と思います。
姉については、薬の効果が今一なので、もっと強い薬に変えましょうか? というようなことを小谷の姉さんに言われました。だいたい、前回の血液検査でも結果は今一だったので、今月から薬を変えて貰っても良かったのですが、ちょっと強く言いそびれてしまって、何故か「今日やった検査の結果を見て決めましょう」ということになってしまいました。私が強く言えば変えて貰えたと思いますので、その点は反省しています。前回高めだったカリウムの値が正常だったのを確認したことと、メバロチンの処方箋を朝一回から夜一回に書き換えさせることで、今回は力を使い果たしてしまいましたー;。まあ、姉の検査の値を正常にすることには、親に対してほど私も神経を尖らせて気を遣っていない、という傾向はあると思います。・・・親身になって、健康のために尽くせば尽くすほど、逆恨みして「お前なんか死んじゃえ」って本気で言ってくる相手にそれほど血道を上げてまで親切にする気には、さすがに私もなれないらしいです。で、ご当人は機嫌が悪くなると、先祖のことをあれこれ言い出して、「うちの先祖は立派な人だったんだ。」とか言い出すわけです。で、「そんな立派な先祖なら助けてくれればいいのに。」とかって言うわけで。・・・正直、お犬様のご先祖様に「その人も自分の子孫なんだし、もう敵の中に戻ったとしても居場所はないのだから、ちゃんと面倒見て一緒に自分達の所に連れてくるように。」って直々に言われてなかったら、私もこんなに頑張って面倒みないかも、と思うわけですが-;。真に、誰に心配されて面倒を見て貰ってるかは全然自覚がないらしいです。でも、薬の件については、次回には私が善処したいと思います-;。
だいたい、まともに「えらい人」になろうと思ったら、阿弥陀だの薬師だのではないですけれども、人々を助けて、健康を守って救わなきゃならないわけじゃん? と思う。まともにやったら体がいくつあっても足りないし、寝てる暇もないでしょ、「偉くなる」というのは、そういうことで、結局他の人よりも苦労するって、そういうことだと思うわけで-;。「偉い人」の定義が分かっていない人は、本当に困る。人を助ける立場なんだから、自分のことは自分で助けられて当たり前、とかその程度のことしか言われなさそうな気がします-;。
そして、今日は「少クラ」の録画を夕飯の時に見ていたわけですが、なんだか誰も落ち着いて見ていなくて-;。でも、Snow Manの兄さん達の歌の時だけ、親も黙って見ていて。「うちの歌だと思う」と言ってました。さすがにその兄さん達は、自分達の歌をちゃんと聴かせることができるだけの強力な「目の力」を持ってるなー、と思う。あっちもこっちも敵意だらけの中で、ちょっとだけ心が和みました-;。
そして、「熊野信仰」関連ですが、古代中国には西王母という女神もいて、彼女は不老不死の薬の持主、とされていました。だから、彼女も人の生死を定めることのできる「生と死の境界の女神」といえます。熊野信仰を中心としたイザナミも「境界の女神」ですので、「皇位の女神が境界神でもある」というのは、中国の女かや西王母の例のように、中国から来た思想なのではないか、と思います。そして、「生と死の境界の女神」は西欧にもいました。例えば、ギリシャ神話のデーメーテール女神は、気にいった子供を不老不死にしようとして、火で燃やしていたところを他人に見られてしまった、という神話を持っています。(おそらく、普通の火ではなくて女神の使う魔法の火だったのでしょう。)また、古代エジプトのイシス女神も亡くなった人を生き返らせる魔力を持っていた女神でした。そう考えると日本の神話の特徴は、イザナミが「境界の女神」であると同時に「黄泉の国の女王」でもある点だと思うのです。西王母や女かは「冥界の女神」ではなく、それぞれに独立した住居を持っていると思われます。デーメーテールやイシスも同様です。彼らの場合「境界(場合によっては、中つ国=人間の世界)」と「冥界」は明確に区別されているといえます。
日本の神話で、二大母子神話といえるのは、熊野のイザナミ・須佐之男神話と、神宮皇后・応神天皇神話だと思います。両者の共通点は、親神は配偶者と「死に別れている」という点だと思います。おそらく古代の人の概念では、夫婦が「死に別れる」ということも一種の「離婚」という概念だったのだと思います。そうすると、夫婦がそれぞれ「別の世界」に住んでいることが「離婚」とみなされていた、ということになります。イザナギは天界に住み、イザナミは冥界に住んでいました。仲哀天皇は冥界に、神宮皇后は地上に住んでいた、ということにもなります。逆に言うと、イザナミと神宮皇后の共通点は、そのくらいしかないように見えます。一見すると、伝承の上からはイザナミは黄泉の国の住民であり、神宮皇后は普通に生きて活躍して、おそらく年老いて寿命が来たら普通に亡くなったのだろう、と想像される存在です。でも、海の神を祀る住吉大社に神宮皇后も祀られており、海の神も境界神ですから、神宮皇后も境界(この場合は海)を越える神通力を持った「境界の女神」としての性質も持っているわけです。
そして、古事記には須佐之男は、地上に降りて、ヤマタノオロチを退治した後、「出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地へ行きそこに留まった」とされています。出雲国は地上に実際に存在する国だから、本来は「中つ国」のはずで、「根の国(冥界)」ではないはずなのですが、何故かここでは出雲の「根之堅洲国」とされて、地上に「根の国」があることにされてしまっているのです。じゃあ、「根之堅洲国」は「中つ国」なのか、「冥界」なのか、ということになりますが、古事記の別の項では、大国主が「根の国」の須佐之男の元を尋ねた、とありますので、須佐之男が住んでいるところなら、「中つ国」の内にあるように見えても、それは「根の国」である、とするしかありません。こうして、「中つ国」と「根の国」が、少なくとも一部分では「同一の存在である」という思想がもう既に古事記において明確に示されることになったわけです。これは、「天の神」と「地上に降りた子神(イエス)」が「同一の存在である」というローマ式の思想に非常に近い概念といえます。ただし、西欧の概念で言えば、冥界神はよく言ってもハーデース・プルートー、悪く言えば悪魔、ということになりますから、日本の神話的に「地上に降りた子神」と「冥界神」が「同一の存在である」と言ってしまうと、「子神は冥界神であり、悪魔とも同じものである」ということになってしまいます。そうすると、地上も冥界、ということになりますから、「天の神」は管轄外になってしまって、人々は浮世の苦楽について、天の神に救いを求めても無駄、ということになります。だって、地上は冥界で天の神の管轄外だから。そこで、人々は冥界に君臨する冥界神にすがって救いを求めることになります。だから、結局、イザナギも冥界に君臨するために冥界に下るし、造化三神も次々と「姿を隠して(=死ぬ)」わけです。要は、日本の神話では偉い天上の神々も次々と死んで冥界に下る(=地上に下る)ことをしているわけで、そうやって冥界神になって人々の上に君臨しているわけです。だから、イザナギとイザナミが、「死に別れる」という以上に、明確に「離婚」しているのは、「同じ世界に住んでも、もう夫婦にはならない」という強い意思の表れともいえると思います。ということは「天孫降臨」なんて仰々しいことを言う前から、死んで地上(冥界)に降りてきた天の偉い神々がいくつもある、ということになりますし、「天孫降臨」も、要は天の神が死んで降りてきた、とそういうことになってしまいます。植物中心の神話で、穀物が天からもたらされたもの、であるとするならば、植物はいったん死んで冥界(地上)に下り、冥界神の魔力で再び冥界で息を吹き替えす、とすればなんだかつじつまが合っている気がします。
ということで、古事記に端を発して、「地上=冥界」、「地上の神=冥界神」、穀物は一旦死んで、黄泉の国で息を吹き返した新たな植物、という概念が生まれ、穀物を得るための開拓神=冥界神とする下地が造られました。そうすると、イザナミは死んでいる女神だから冥界神です。神宮皇后は地上の神(女王)で、地上と冥界が「同じもの」だから、冥界神なのです。このように見ていくと、イザナミと神宮皇后は、共に境界神であり、冥界神でり、夫とは同じ冥界にいても離婚している女神、ということになるのではないのでしょうか。