本日はお出かけする日だったので、ゴミ捨て、買物、お手紙出し等をして。ちょっとアクシデントもありました。なんだか、人が多く出ていて、敵意も強いように感じました-;。
テレビは、昼は「ニノさん家」の録画を見ました。
善光寺平以外の信濃国の神々や神社の分布をざっくり書いておきたいと思います。出早雄命は外県(伊那)、内県(諏訪)、大県(佐久)を開拓したらしいです。内県(諏訪)は諏訪信仰の総本山ともいうべきところで、上社、下社併せて四社からなる諏訪大社がありますから、単純に
諏訪神 ー 八坂刀売
の王国ともいえます。出早雄命は諏訪神の後継者扱いなのかもしれませんけれども、少なくとも本殿に両親と共に祀られている、ということはありません。諏訪大社から見れば摂社の神サマです。
「大県」の内に現在の上田まで含めるのかどうか、地理に疎い私には良く分からないのですが、上田・佐久を含めても出早雄命を祀る神社はそうは多くないようです。現在では、諏訪系の神社はやはり有名な
諏訪神 ー 八坂刀売
の組みあわせで祀られることが多い気がします。そして、そこに事代主が加わるようです。上田には、建五百建命の墓と言われている二子神社(前方後円墳)があり、それを奉斎するために大星神社が建てられた、と言われています。二子神社は将軍塚古墳よりも新しいものだそうですので、伝承の全てを鵜呑みにすることはできませんが、上田よりも更に碓氷峠に近い佐久は「咲く」とか「開く」という意味の地名だそうですので、少なくとも古代において、碓氷峠を越えて長野県にやってきた勢力があり、その勢力は千曲川沿いに展開して、上田から長野方面へと拡がったと思われます。二子神社は小規模でも前方後円墳とあるからには、この「千曲勢力」の首長の墓であり、それをわざわざ「建五百建命の墓」と述べるのであれば、この「千曲勢力」とは後に信濃国造となる金刺氏のことと思われます。北信では建五百建命は彦神別神あるいは諏訪神と「同じ神」のように姿を変えていたように思いますが、東信では出早雄命あるいは諏訪神と「同じ神」のように姿を変えていたのではないでしょうか。北信では彦神別神の名はある程度残されましたが、東信では出早雄命は中世以降、次第に熊野信仰にとって代わられていった、という印象を受けます。そして、その仕上げとして、かつては善光寺境内内に熊野神社があったようです。熊野には熊野で独特な「三位一体」があるわけです。それは
イザナギ(父) ー イザナミ(母) ー 須佐之男(子)
と一般に考えられています。
紀州熊野三山に対する「信仰」で、文献的に一番早く、そして一番重要なのは「イザナミが死んだとき熊野の有馬村に葬られた」という記述だと思います。「亡くなったイザナミがいるところ」=「黄泉の国」ということで、後に仏教の浄土信仰と習合すると、「熊野」=「黄泉の国」=「浄土」ということで、熊野は修験道を中心とした霊場としても扱われるようになりました。熊野の「子神」が須佐之男であるのは、須佐之男が根の国(黄泉の国)の母親の元に行った「黄泉の国」の王であるからだと思います。熊野の神々は正式には
熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)(イザナギ・父・薬師如来) ー 熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)(イザナミ・母・千手観音) ー 家都御子神(けつみこのかみ)(須佐之男・子・阿弥陀如来)
とされており、正式に家都御子神=須佐之男とみなされるようになったのは江戸時代以降のようですが、少なくとも熊野の神々とイザナミとの同一視は古くからあったものと思われます。熊野信仰の問題点はいくつかあるわけですが、個人的に気になることは3つくらいあります。
1つは、熊野速玉男神が本当にイザナギで良いのか、ということです。「『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。(玄松子)」とあるように、速玉男命はイザナギの唾であって、イザナギの子神といえます。また、熊野には泉津事解之男も祀られていますから、熊野の神々は
速玉(子) ー イザナミ(母) ー 事解之男(子)
となって、これはむしろ「離婚の神々」ではないのか、と思うわけです。そこに須佐之男が後から加わると
イザナミ(母)+離婚神 ー 須佐之男(子)
となって、これはいわゆる母子神信仰というか、神宮皇后と八幡神の組みあわせみたいに見えるわけです。神宮皇后も夫と死に別れているわけですから、「夫と別れた女神」ということで、熊野のイザナミを彷彿とさせます。だから、速玉をイザナギと解釈するのは、本当に妥当なの? と思う。だから熊野信仰というのは、本当は
須佐之男=八幡神
を暗喩しているのではないか、と思うわけです。どちらも「夫と別れた母親」から生まれた存在であり、母親べったりの神々だからです。そうすると、熊野信仰も神宮皇后・八幡神もイシス・ホルス型の母神信仰の上に成り立っており、なんだか聖母マリアとイエス・キリストというものを暗示させる気がします。信濃国と善光寺界隈の信仰から見ると、東信の場合、出早雄命信仰が熊野信仰に置き換わる、ということは
出早雄命 = 家都御子神(けつみこのかみ)(須佐之男)
と習合させよう、との意図が感じられる気がします。ということは、八坂刀売・出早雄命の母子神信仰も成立し得るのか? ということも暗示されることとなると思います。熊野信仰が
須佐之男 = 八幡神
を暗喩しているとすると、その一方、信濃国では
彦神別神 = 八幡神(北信)
出早雄命 = 熊野・須佐之男(東信)
久留須命 = 出早雄命 = 須佐之男(東御市)
という構図が作りあげられたように思います。実態の乏しい 彦神別神 = 出早雄命 としてしまうと、本当に
須佐之男 = 八幡神 = クルス神
となってしまうわけです-;。というか、そのように作りあげようという動きが、信濃国造家の影響の強い地域であった、ということが重要だと思うわけです。ちなみに、縣諏訪神社については、「当社は「するすの宮」とも呼ばれており、この「するす」は「くるす」が訛ったものらしい。ということで、久留須命を祭神に加える伝承もあるのだろう。また、鎮座地名の字が伊豆宮というので、「伊豆宮」とも呼ばれていたのだろうか。」と玄松子さんのサイトにあり、すごいな、と思う。「伊豆宮」と言ったら、本来の祭神は出早雄命であったと思うしかないわけで、それが「クルス神」でもあった、ということらしいです。中世以後、神々のこのような作り替えや習合が進められたのでした。主導したのは、信濃国造家関係者だったのでしょうか? そして、須佐之男が黄泉の国の神である以上、出早雄命は本来は開拓神であり、祖神であったはずが、出早雄命まで「黄泉の国の神」になってしまい、出早雄命のいるところが「黄泉の国」と、そうなるように作り替えられてしまったのです。
2つ目は、熊野三山には天照大神が祀られている、ということで、黄泉の国に天照大神がいていいの? と純粋に思います。でも、平安中期から末期にかけて、天皇家の熊野詣でが盛んに行われますので、少なくとも天照大神の子孫と呼ばれる人達は、このことを容認していたのだと思います。しかも、熊野信仰では天照大神が十一面観音とされています。観音もまた冥界神なのに、天照大神が冥界神でいいんですか? と思います。