本日は外作業のみでした。外作業は、母親は土の清掃、土の埋め戻し、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。土掘りをする時は母親が助手をしてくれるのでとても助かります。今日は珍しく、夕方雨が降りませんでした。雷は鳴ったけど。
テレビは昼は「ニュースな会」を見ました。夜は、偶然テレビをつけたら「世界一受けたい授業」に廉君が出ていました。
死神信仰がなんでよろしくないのかというと、要はこれは来世、すなわち「死んだ後」のことだけ考えていろ、という宗教だからだと思うわけです。死んだ後に、天国に行かせて下さい、とか、極楽に行かせて下さい、と担当の死神に御願いする宗教といえます。そうすると、あれこれやりなさい、と言われます。そうしたら、人は普通、「やれ」と言われたことを心がけるようになると思います。それも、あんまり大変なことではなくて、持っているお金の内、少々をお布施で上げなさい、とか、南無阿弥陀仏と言いなさい、とか誰でもできるようなことを求められるわけです。難しくてできなさそうなことを求められれば、大衆はついていけなくなるからです。
そうして人々が「来世」のことに気を向けて集中するようになると、当然現実の今の生活への不満とか不平から気がそれることになります。「今が辛くても来世が良ければそれでいいや」となる。そうすると、人々は不平や不満を我慢して、来世でいい思いをしよう、と思うようになります。個々の一人一人の不満は抑えられることになる。
その一方で、人々が特定の「神サマ(この場合は死神)」に入れ込んで、来世で救われたい、と思うようになったとします。人々の、現実世界への不平・不満は抑えられます。その一方で、神サマが不満を持ったらどうなるでしょうか? 神サマは自分の不平や不満を解消するように、信者に求めます。そうすると、信者は来世で救われたいから神サマの不平や不満を解消しようとします。その上、神サマに協力すればちょっとしたお小遣いまで貰えるかもしれません。神サマというものが、精神的なもので観念的なものなのだとすれば、この場合の「神サマの不平や不満」とは、要は神の声を人々に伝える神官の不平・不満、また神官と結びついた政治家の不平・不満ということになります。だから、人々は自分の不平や不満は我慢するけれども、要は神官とか政治家とか、目上の権力者の不平・不満を解消するための道具として使われるようになります。だから、自分の不平・不満のために他者を攻撃したりはしないけど、上(神サマ)から他者を攻撃するように求めるとそれには従うようになります。一方では来世で救われたいし、現実にちょっとしたお小遣いも欲しいし、もう一方では自分が神に逆らう存在、と認定されて攻撃されたくないからです。
例えば、古代から中世にかけてもローマ教会は、法皇はイタリア人の貴族であって、法皇が「神の命令」と言ったことは、要は貴族の政治に都合の良い内容だったのだと思います。人々は自らの不平・不満は我慢しなければなりませんでしたが、「神の命令」に従って、「異端」とされた人々を攻撃したり、拷問にかけたりしていました。それが正しいことだとされていて、「それはおかしい」といえば、そう言った人も攻撃の対象となったと思われます。この場合は、キリスト教は表向き一神教ですので、来世を約束する「冥界神(死神)」の役割もイエスが果たすことになりました。だから、イエスは状況によって、「天の父(ユーピテル)」と一体化したものであり、医薬神(アスクレピオース)でもあり、救世主(ミトラス)でもあり、冥界神(ハーデース・プルートー)でもあったわけです。でも、ご当人は死んでいるわけですから、そういうものに本人がなりたかったかどうかは見向きもされなかったわけです。
で、阿弥陀如来は冥界神ですので、ハーデース・プルートーだったとします。大乗仏教は紀元後にインドの北西で成立した宗教ですので、ギリシャ神話等、西欧の神話の影響を受けていたと思われますし、ギリシャ神話はローマ神話と同一視されていましたし、当時のローマは、ローマの神々をイエス・キリスト一人の名前にすり替えて、ローマのために利用する方法が確立されていました。ローマは武力で外国を征服して支配するだけで無く、キリスト教を外国に布教することで、ローマの政治家の意思に反する者を「異端」として排除することで、宗教の側から外国を征服しようとしていたのではないでしょうか。ヨーロッパ内では、なんだかんだ言って、どこもローマ・ギリシャと似通った多神教を信仰していましたので、それをキリスト教に置き換えることは簡単だったのだと思います。各地の神々を、キリスト教の聖人に仕立てて、キリスト教に取り込んでしまうということもありました。でも、離れたアジアでは、神々の性質も、人々の思想もヨーロッパとは異なってきますので、それなりの工夫が必要です。インド付近で、小乗仏教と出会ったので、仏とか菩薩とか、神々の数をやたらと増やして、ローマ式の多神教とまぜこぜにして作り上げたのが大乗仏教なのではないでしょうか。だから、ローマ人が主に好む「天の神(帝釈天=インドラ)」とか、ハーデース・プルートー(阿弥陀如来)とか、アスクレピオース(薬師如来)とか、ミトラス(弥勒菩薩)とか、一通り揃っていたわけです。
ついでに言うと、盧舎那仏とは、インドラの敵対者のアスラの名前ですので、ギリシャ神話的にはウラノス・クロノス、ローマ的にはウラノス・サートゥルヌスが相当する神なのだと思います。アフラ・マズダではなく、ウラノスといえば? と個人的には思います。まあ、子音的にはどちらも同じ「ヴァルナ」から派生した神と言えます。ローマの神々を大乗に当てはめた人達も、インドの神々と、ローマの神々が元は同じ印欧語族の神であることを百も承知してやってたのだと思います。
ということで、古代のローマ教会とは、要はローマの神々をひとまとめにして、イエス・キリストに取り憑いたものといえる、と個人的には思うのです。これをなんと言うか、「ヤドリギ理論」と呼びたいと思います。ローマの神々が、イエスという木にヤドリギのように取り憑いて、栄養を吸い上げているわけです。だいたい、ヤドリギそのものが印欧語族の間では広く「神聖なもの」とされていました。特に「神聖な木」に宿るヤドリギは特別なものとみなされていたようです。それは、「神に取り憑くもの」こそが最大の権力者である、という暗喩のようにも私には思えます。
フレイザーの「金枝篇」はあまりにも有名ですが、冒頭にはネミの森の祭祀が書かれています。「ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえたこれらの聖所には、「森の王(レックス・ネモレンシス)」と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。」とWikipediaにあります。「森の王」はディアナ女神の夫であり、祭司であるといえます。何故「森の王」になるためには、金枝(ヤドリギ)を手に入れる必要があるのでしょうか? それは、「森の王」自身がディアナ女神の木に取り憑くヤドリギであり、先代の王に取り憑いて殺すヤドリギだからではないでしょうか。そして、印欧語族の多神教の神々が、各地で似通った神話、似通った構成を持っているのに、それぞれが異なる、というのは、それぞれに展開した地で、各地の土着の神々にヤドリギのように取り憑いて、食い殺したり、変形させてしまった結果なのではないでしょうか。征服した各地の神々に取り憑いて「ヤドリギ理論」で、印欧語族の神が一番偉い、ということにしてしまった結果といえます。
というわけで、上座部(小乗)仏教にローマ的多神教が取り憑いて、大乗仏教として東アジアに広まります。で、多かれ少なかれ、各地の土着の信仰と習合しますが、特に中国と日本では、「仏教が最優位」という展開はできなかったように思います。中国では、先祖崇拝が盛んですし、関羽廟とか孔子廟とか、現実に生きていた英雄や偉人を神として祀る習慣も盛んです。だから、大乗仏教とは、仏教に取り憑いたローマの神々だったとしても、ローマの神々が全てを支配することはできなかった国といえます。日本は日本で仏教はまた独特な展開をみせます。
物部氏と蘇我氏が仏教の導入に伴って対立した、という事実は有名ですが、その後は仏教と神々は「神仏」というとおり、同じように祀られて、同一視されていきます。大乗仏教が「ローマ」と同じものだとしても、日本の場合、ローマ一色に染まった、ということになりません。何故なら、記紀の中でユーピテルに相当する建御雷神は主神ではなくて、イザナギや造化三神よりも下位の神に過ぎません。「ヤドリギ理論」からいえば、イザナギや造化三神の方が、ユーピテルに取り憑いている「ヤドリギ」といえます。だから、仏教がいかに「ローマ」そのものであっても、それに取り憑く日本固有のヤドリギがある限り、ローマの神々は「ヤドリギに取り憑かれたヤドリギ」として、寄生される存在でしかなくなるのです。ローマの神々がどんなに偉大でも、親であるイザナギとか造化三神に逆らったら、「親に逆らう親不孝者(異端)」とされて、イザナギや造化三神に支配されている人々から攻撃されてしまうわけです。死にたくなければ言いなりになるしかない、のはローマの神々も同じ、ということになります。記紀神話の成立と体系化は仏教が入ってきたよりも後ですので、これは大乗仏教の性質を良く理解した人が、「ヤドリギ」として大乗仏教に取り憑くために記紀神話を造ったし、それに基づいて神仏習合を進めた、とみるしかありません。だから、日本の古来の宗教は「神仏」が揃っていてこそ正しいのであって、どちらか片方だけでは「片手落ち」に出来ているのです。日本固有の神々は、イザナギ>建御雷神という構成以外は各氏族の祖神を主に取り扱っているわけで、そういう点は中国の祖先信仰と似通っています。でも、それだけだと名のある氏族は神々の序列に組み入れられるけれども、名もなき庶民が属する位置がなくなってしまうのです。庶民には良く分からないご先祖様よりも、豊穣をもたらしてくれる神、病気を治してくれる神、世直しをしてくれる神等、普遍的な神々が求められます。結局、仏教は歴史の過程で、その位置に入り込むことになります。そうすることで、日本の国は、「先祖の神が分かってる身分の高い人々」と「先祖が良く分からない庶民だけれども仏様を拝んでいる人々」という身分秩序というか、階級みたいなものが全ての人々を網羅して成立することになったのでした。だから、日本の国ではローマの神々が取り憑いて支配するどころか、「ローマの神々(大乗仏教)」=「身分の低い人のための神々」と決められて、ローマの神々の方が支配されてしまっているわけです。
逆に言うと、「身分の高い人」に対して、わざと先祖の神を隠して、「お前なんか仏でも拝んでる賤民になってろ」と言っていやがらせをすることもあったと思います。・・・というか、こういう嫌がらせは現在進行形であることなんじゃん? と思う。
それはともかく、結局、そうやってつきつめていくと、印欧語族の神々のほとんどは、ヤドリギに取り憑かれて操られている「操り人形」のようなものに過ぎないのです。より、「身分が低い」と決めつけられた人々を支配するための操り人形です。では、そもそも、神々を適当に作り替えては、土着の神々に取り憑いて支配する「ヤドリギ理論」の元締めは誰なのですかね? ということになります。それは明確に「ローマの神々は下々のための神々」と定義して当然と思っている人なのではないのですかね? と思う。
曰く、イザナギ、天御中主、生国魂といえば、人としては武五百建命か? となる。最近碓氷峠熊野神社というところに行ってきたわけですが。上州の側にはイザナギ、天御中主が祀られていて、イチイの木のご神木にはヤドリギがついていたような気がするわけで。なんだか、象徴的だー、と思って。ご神木はご神木である。神に取り憑いたヤドリギ、祭司とは何者のことなのだろうか? と思ったのでした。(というか、ネミの森の祭祀者って要は「ヒモ」ってことなのですかねえ? と思う。皇帝の王権の象徴である祭祀者は「ヒモ」であるらしい・・・。アッティスですか? というか、西の方には往々にしてアッティスのように「ヒモ万歳」みたいな信仰がある気が・・・-;。)