本日は午前中出かける用事があって。出かける前から「今日はちゃんと腹ごしらえして行くように。」と言われた気がするので、ちゃんと食べていって。色々な手続きに行ったのですが、登録してあった電話番号が間違っているとか、予想していなかったことがいくつかあって、思ったよりも時間がかかりました。でも、訂正すべきところは訂正できたので良かったと思います。
外作業をしました。母親は土の埋め戻し、姉は土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。夕方は夕立なのかけっこうな量の雨が降ったので、作業できませんでした。
聖徳太子と仏教の話です。現在、法隆寺の金堂には「中の間」に釈迦三尊像、「東の間」に薬師如来、「西の間」に阿弥陀三尊が本尊として配置されています。阿弥陀三尊は鎌倉時代の作とされ、おそらく阿弥陀信仰が盛んになった後に造られたものではないか、と個人的には思います。法隆寺には「善光寺如来御書箱」という箱が遺されており、聖徳太子が善光寺如来に送った手紙に対する返事が治められているとされています。聖徳太子の時代に阿弥陀信仰がそんなに盛んだったのか? と個人的には思いますが、そのような伝承があったことが大切だと思います。法隆寺の本来の本尊は釈迦如来で、薬師如来は天智天皇以降、薬師信仰が盛んになってから納められたものだったと個人的には考えますが、自前の仏様達を差し置いて、更に善光寺にまで聖徳太子が使いを送ったとなると、聖徳太子が
阿弥陀如来 > 釈迦如来
と考えていた、と言えなくもありません。阿弥陀信仰が盛んになる以前からこういうことが「あった」とされると、後に流行する阿弥陀信仰に対して、根拠となる、というか起源ともいえるのではないか、と思います。聖徳太子と善光寺如来とのやり取りの「伝承そのもの」が、「阿弥陀信仰が流行る前」に作られた物だとすれば、それは後に阿弥陀信仰を流行らせる予定で、あらかじめ箔をつける予定で伝承を作成した、ともいえます。
法隆寺については、薬師如来についても謎めいていて、光背には「607年に聖徳太子の父である用明天皇の病気平癒のため」に造られた、とありますが作風などより、7世紀後半(天智天皇の時代?)に作成されたものと考えられており、なんでわざわざ真実ではないことを光背に書いたのか? となります。どうも、薬師信仰が盛んになりそうな時代に、わざわざ「聖徳太子の時代から信仰されていた」とするために意図的に造られたものかもしれないと思います。誰が? と問えば、それはやっぱり法隆寺の再建に大きく関わったと思われる天智天皇とかでは? と思います。天智天皇自身に、薬師信仰を流行らせたい、という思いがあり、また、天智天皇が「聖徳太子の後継者的存在となりたい」という思いがあったから、聖徳太子もまた薬師信仰者であった、とするために法隆寺に薬師如来を納めたのではないか、と想像しています。天武・持統天皇は「壬申の乱」で天智天皇の家系とは対立しましたが、薬師信仰は形式的には引き継いだ、といえます。
薬師信仰は奈良時代になると、在野で非常に盛んになり、各地の国分寺・国分尼寺で、本尊として祀られるようになったとのことです。在野といっても、一般庶民ではなく、下級貴族やそれなりに教養のある地方豪族に非常に人気があったようです。ここで「あれ?」と思うことがあります。国分寺とか政治的な要素の強いお寺で日常的に薬師如来が拝まれる、ということは個人的な誰かのための「病気平癒」とかの目的でないことは明らかです。そして、そのような変化に伴って、「病気平癒」のための神として、「武塔天神」が備後国(現在の広島)風土記に登場してきます。武塔天神は備後国風土記の蘇民将来説話に登場してきます。備後国一宮である素盞嗚(すさのお)神社が祇園信仰の発祥の地と言われています。この神社は天武天皇の時代に創建され、素盞嗚(すさのお)を祀っていました。元々武塔天神を祀っていたところに素盞嗚(すさのお)を習合させたのかははっきりしませんが、備後国風土記では武塔天神と素盞嗚(すさのお)が同一視されています。牛頭天皇はいつの頃からか、武塔天神と同一視され、京都の祇園では主祭神とされています。でも、「祇園牛頭天王御縁起」では牛頭天皇は武塔天神の息子とされています。また、平安時代の初期には、牛頭天皇=大国主の荒魂と考えられていたようですので
武塔天神(=素盞嗚(すさのお))・父 ー 牛頭天王(=大国主)・息子
と最初は考えられていたのものが、時代が下るにつれて、
武塔天神=牛頭天王=素盞嗚(すさのお)=薬師如来(本地垂迹)
とひとまとめにされたものだと思います。