21年6月8日

 本日は松本に出かけて、惣社と四柱神社とカエル大明神を回って帰って来て。町は昔と比べて変わっているところもあるし、変わっていないところもあって。そして、惣社も四柱神社も行ったことがなくて。縄手あたりは良く買物に出かけたけれども、昔からあんなにカエルカエルしい感じだったっけ? と思う。私が気が付かなかっただけだろうか?? と思う。

 家に帰ってから、午後は外作業を少しして。午前中姉が配水管の下のイザナミサマを取り出しておいてくれたので、午後、母親が埋め戻しを始めて、私も少しだけ手伝って。

 国府について。上田に国分寺・国分尼寺の跡があるので、元々国府は上田にあったものだと思っていたわけです。で、この間行った時にも総社である科野大宮社が上田にあるので、当然総社は国府の近くにあるものだと思っていて。で、科野大宮社には「平安時代初期に総社は松本に移された」とあったわけです。総社の神文は梶の葉でしたが、祭神は大国主でした。で、「ここはほとんど空っぽで、しかも現在の県庁は長野にあるのだから、松本の総社に参拝して、総社を長野に移さなければいけない。」と言われる気がするわけで@@。「どこに移すのですかね?」と思うと、「県庁の近くに大国主を祀る神社があるでしょ。あそこは行きつけだし、県政の中心に近い所だし、うってつけですよ。」と言われる気がするわけで。というわけで、上田に行ってから1週間以内に松本の総社に参って、その後大国主神社に参ることになって。それは急ぎなので、今日行ってきたわけです。

 松本の総社は伊和神社といって、主祭神はやはり大国主です。で、行ってみたら神社の看板が外されていて、鳥居の横に置かれていて@@。今年の2月に、危険なので外したらしいです。で、看板には「桓武天皇の時代に国府を上田から松本に移して、総社を創建した。」とあって。・・・桓武天皇って最近よく聞く名前だー、と思う。要するに国府を移したときに、総社も移したってことですよねえ? と思う。

 で、長野に戻ってきて、行きつけの大国主神社に行って看板を読んでみたら、「ここに近い後町は鎌倉時代に信濃国庁のあったところでこの大国神社は国庁関係の神社か。」と書いてあって@@。家に帰って調べてみたら、鎌倉時代初期に国府は長野に移されたらしい。後町とは、今の県庁の北東隣あたりの町です。後町の南の県町に行きつけの大国主神社はあるわけで。お守りも持っているわけですが。ここの神紋は亀甲紋に剣花菱で出雲大社と同じ紋である。で、ここが政庁に関係する神社だった、ということは、結局、ここが元は国府に伴って移された「総社」なんじゃないの? と思う。1つ諏訪梶と八坂刀売&建御名方富命が溢れる長野市界隈の神社達の中で、なんでここだけ亀甲紋に剣花菱? なんでここだけ大国主? とは以前から思ってたわけですが。

 文献上の記録では、信濃国国府は松本ということになっていて、上田は「状況からたぶんあったと思われる」けれども、どこに国府があったのか、とか全然記録がなくて分かっていないらしいです。でも、多分

奈良時代・上田 → 平安時代・松本 → 鎌倉時代・長野

と国府と総社は転々としていて、その後室町時代初期に戦火で焼かれて、再建されることなく、武士の時代へと移ってしまったらしいです。・・・ということは、県庁が総社の近くにあることは、決して偶然ではないですよねえ? と思う。そして、信濃国一宮の主祭神は建御名方富命であるにもかかわらず、総社の主祭神は本家筋の大国主であることが通例であるらしい。すなわち、国司、今で言う「県知事」は出雲系の王族が大国主の俗世での代理人として赴任することが正しい、ということ?? と思う-;。あたくしはシャーマンなので、俗世のことではなく、神サマのことに関わらないといけないらしいです。・・・業平さんは最初から、どこが本当の「総社」なのか知ってたんだ? と思う。相変わらず、すごいなー、と思ったのでした。
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 母なるイザナミと父なるイザナギの「ゴミ相」ですなー;。鉄筋は測ったら約65cmでした。風呂の配水管下より出土。