今日も昼間は暑かったですが、日が落ちると寒くなって。朝晩の寒暖の差が激しい気がします。母親は土の埋め戻し、石拾い等、姉は土の清掃、石片付け、私は土の清掃でした。今日はお出かけする日だったので、私と母は作業は午後だけでした。カルテ開示に必要なので、市役所に行って戸籍謄本を取ったりしました。後は例によって、「買うように」と言われた気がするものを支払ってきて。これでクラフト系のはさみ類は一段落です。
手の湿疹はわずかに腫れている程度で、赤みもほとんど見えなくなりました。でも、ときどき痒くなります。
裁判関連はようやく請求書が届きました。
テレビは、昨日の夜は「1o万円でできるかな」の録画を見て。今日の昼は昨夜の「ブンブブーン」の録画を見ました。夜は「いただきハイジャンプ」の録画を見ました。
出かけた時は、親を車で待っている時とか、ちょっとした時に柳田を少しづつ読んでいるのですが。「一つ目小僧」に関して「耳」の項を読んでいるところです。個人的には、生贄の動物の耳を切り取ったりするのは、首を切り取るのと同じでハイヌウェレ的信仰の名残だと思うし、蚩尤神話との関連性は柳田も認めているところです。柳田民俗学は原則としては国内の資料に基づいていて、国外の資料との比較検討はほとんどないのですが。でも、蚩尤神話との比較があれば、それが全てである、とも個人的には思う。何故なら、蚩尤神話はウーラーノス神話、ユミル神話、クマルビ神話と関連すると思ってるからで、蚩尤神話との関連性が示されれば、印欧語族の神話との比較関連がされてるのと同じ事だと思うからです。柳田って言うのは国外の民俗学を取り扱っていないふりをして、実のところ示唆的なことは十分すぎるほど書いている気がします。その「示唆的」なさじ加減が実に深遠であると思う。
そして、「耳」の項は、表面的には「犠牲となる予定の動物の耳をあらかじめ切り落として他の動物と区別することで、(一定の期間であっても)その動物は「生きた神」と見なされる。何故なら犠牲に捧げられることで、その動物の霊は神として取り扱われるから。」というようなことが書いてあるわけです。そして、昔の人の考えでは、死霊というのは人に害を為す「怨霊」ともなり得るけど、特定の形式で祀れば人の役に立つ「御霊(神)」ともなり得る、ということになっていた、ともある。菅公なんかはその最たる例であって、道真が恨みを持って死ねば祟り成す怨霊となるわけですが、それを神としての形式で祀ることで、人に学問を成す知恵を授けてくれる「学問の神様」として役に立つようにしているわけで。それは、単に「祟りを鎮める」ということに留まらず、プラスアルファがそこに加わるわけです。
だから、犠牲獣の耳を切り落とすことも、役に立つ「神」を作るための過程、とも言えなくもない、と思う。そうやって「耳を切りおとされる」ことが神となる第1歩なわけです。でももっと昔は、直接首を切りおとすことで「神」を作っていたから、「耳」を切りおとすことで一時的に成立する「生き神」というものは存在し得なかったわけだ。首を切りおとせば、人も獣もその場で亡くなってしまうからです。
ここで、深遠なる柳田の論文は「耳なし芳一」へと進む。耳なし芳一のような民話は、割と各地にあるらしいです。芳一という盲人の琵琶弾きが、平家の怨霊に取り憑かれて、亡霊達に対して「平家物語」を毎晩語り聞かせていたけれども、それを看過した高僧とかが芳一が取り殺されるのを助けようとして、お経を彼の全身に書いたけれども、耳に書き忘れたので、耳だけ持っていかれてしまった、というのが大筋です。で、各地の類話も「盲人の琵琶弾きが、その琵琶の才能を気にいられた怨霊に殺されそうになるけれども、耳だけ持って行かれて助かった」という筋が共通しているらしい。で、柳田はこれを「呪的逃走」の類話として考察し、「目が見えない人(目がない人)」「耳がない人」の聖性について述べるわけです。要するに、昔は「耳を切り落とす」ことが、「いずれ神となる予定の生き神」の証であったのだから、その流れで「目がない人」「耳がない人」も特殊な「生き神」ともいえる能力の人である、というようなことが示唆される、とする。そして、それを「呪的逃走」と関連する、と述べるわけです。まだ、そこまでしか読んでないので、その先に何を言ってるのかは知らないわけですが、もうこれだけで「!!!」と、個人的にはなる。
「呪的逃走」というのは、日本で言うと、「イザナギがイザナミから逃れた神話」とか「大国主の嫁取り神話」とか「まったらこうよ」の民話、となります。「桃太郎」民話の遠縁ともいえる。神的な能力を持った者が、大きな敵(黄泉の国の神)から逃れて生還する物語である。そして最後は結婚で終わることも多い。すなわち、本来的な「呪的逃走」の物語のパターンは、目や耳を失う代わりに神となる物語ではないのです。むしろ「全き者」が生きたまま「黄泉の国」から生還する物語である。類話を西欧に求めると「魔法使いの弟子」とか「ウサギ番」の物語になる。西欧の研究的には「魔法使いの弟子」の起源は中央アジア辺り、ということになってますが、私の個人的考察によれば、その起原は「主人公が非業の最期を遂げない射日神話」なので。中央アジア的というのであれば「ケサル大王」と言うところである。
すなわち、柳田の考察は「何か(目や耳)を犠牲にした者が神となる」となるし、「何かを犠牲にする予定の者が生き神となり得る」という方向に向いてるし、それが「意図的」だと感じるわけです。「呪的逃走」と言うのであれば、イザナギや大国主は何を失って「神」となったのか? 彼らは最初から神ではなかったの? ということになる。それを無視して、何を言いやがる、とそういうことである(笑)。ただし、各地の「御霊信仰」に「犠牲とその上での神」という概念があることは私も認める。菅公とかも、非業に死を遂げたからこそ、命を犠牲にしたからこその神と言える。
では、結局いつの時代から「神となる予定の者はあらかじめ生きている内から何かを失う」ということになったのか、ということになる。古い時代の物語、例えば大国主神話とか桃太郎なんかは、「何も失っていない」ことは明らかである。
新しいところから、考察すると「芳一系」の物語は「平家物語」が絡んで来るので、中世以降に成立した物語であることは明らかだと思う。平家物語の元になっている源平合戦が平安末期にあった歴史的事実なわけだから、それよりも古い時代に「平家物語」があったはずがない。それ以前にも蝉丸のように、盲人に特殊な聖性を与える思想はあったかもしれないが、「呪的逃走」と関連付けられたのは、中世以後である。
そして、太古からのハイヌウェレ信仰によれば、犠牲に捧げられた者は、豊穣のための「神」となるはずだから、死んだらそのまま生き返ったらまずいはずなのだけれども(生き返ったら豊穣はもたらされないんじゃ・・・?? だって肥料とか餌の役目を果たさないじゃん? と思うリアリストの私なわけですがー;)。何故か生き返る方に、物語が書き換えられている者がいる。これが世界的に有名な「イエス・キリスト」であって原始キリスト教徒は「神はすぐ再臨する」と世界中に触れ回って歩いたのは有名な話である。でも、イエス・キリストがそのままの姿で黄泉の国から生き返ったら、それは物語としては「呪的逃走」の範疇に入るわけで、伝統的なハイヌウェレ神話からは思想的に逸脱してしまう。要は「イエス・キリストの再臨神話」そのものが「彼は人類のために犠牲となった」とハイヌウェレを踏襲する思想を示しながら、もう一方では「彼は黄泉の国から再臨する」と「呪的逃走」から話を持ってきてしまっているので、ここで「イエスは人類のために犠牲となったけれども、生き返る」という「ハイヌウェレ」と「呪的逃走」のハイブリッドな神話が意図的に誕生させられて、新たな「キリスト教」という思想が誕生したわけです。要は、「「ハイヌウェレ」と「呪的逃走」のハイブリッド神話」の世界的な起原はキリスト教にあり、古代の中東に起原があるわけです。
で、日本のイザナギ神話を見ると、イザナギは黄泉の国に行く前には何かを失うわけではない。でも、戻ってきてから、「左眼から天照大御神、右眼から月読命、鼻から建速須佐之男命の三貴子が生まれた」とある通りであるので。彼は生還して両目と鼻を失った。ここにハイヌウェレ神話の名残が少しだけ残ってるわけです。目を失って、その代わりに天照大御神と月読命が生まれた。ハイヌウェレ的な再生神話です。すなわち、イザナギは目と鼻を失う代わりに黄泉の国から生還した。芳一は目と耳を失う代わりに生還した(目は元々失ってるわけですが)。最後が結婚で終わる大国主神話の方が、「ウサギ番」との共通点が多くて、起原が印欧語族にあり、ハイヌウェレ神話の混在がないのです。
だから、「ハイヌウェレ」と「呪的逃走」のハイブリッドな神話の流れを見ると
イエス・キリスト神話 → イザナギ神話 → (過渡期に蝉丸) → 耳なし芳一
の順で成立していることが分かるし、だいたい「御霊」に関する説話は平安以降の人を主人公にしていることが多いので、平安以降に成立したと言うしかなく。柳田の考察そのものが「キリスト教」の「犠牲と再臨神話」の日本での変遷を考察してるに過ぎないものといえる。それを「この国固有のもの」とすることに問題がある、と思うわけですが。
でもまあ、おそらく古代ローマで成立したと思われる「イエス・キリスト神話」は、少なくとも二人の人間に迷惑をかけていると思われます。一人は、勝手に生贄にされたり、生き返らされたりされているイエス・キリスト自身である。もう一人は「呪的逃走」の主人公であるお犬の盤古サマですねえ、と思うー;。(一部の人からは「早くしろ」とせかす「早太郎」って言われる気がする-;)だいたい、黄帝神話では、ハイヌウェレの立場は蚩尤であるのに、それと「呪的逃走」の主人公をごたまぜにしてしまっているから、本来の神話的には黄帝と蚩尤、ゲイと川の神の区別がつかなくなって神話的には大きな混乱を来すことになっている。西欧的には、テシュブとクマルビ、ゼウスとウーラーノス、ユーピテルとサートゥルヌスの区別がつかない、とそういうことになってしまっているわけですが、ローマ教会は「父と子は同じもの」、すなわち「テシュブとクマルビ、ゼウスとウーラーノス、ユーピテルとサートゥルヌス」はそれぞれ同じ物、と言い張るわけで、矛盾を強く突っ込めば「異教だ-」と言って弾圧するわけだから、そもそもその人達も自分が何を言ってるのか分かってて、無理矢理言ってるのですよねえ?? と思うわけですが-;。
というわけで、こんなご時世で、こんな状況で言うのも何ですが、「黙示録」を何となく思い出す。第四の封印が解けると、青ざめた馬が世界に死をもたらす。変異株とかがあちこちで大盛況だしなー、と思う-;。第五の封印が解けると、殉教者が血の復讐を求める、とある。まあ、自分を裏切った息子を千年経っても許す気のない復讐心の強い父親を一人知ってる気がする-;。そして、もう一人、黄帝と蚩尤を一緒くたにする変な神話を作られて、世界に混乱をもたらしたことについて、非常に強い復讐心の強い「父親」がもう一人いる気がする@@。こっちの方は「イザナギ」の神話の通りに、両目を失った盲になれ、とイザナギを呪ってそうである。その呪いの通りに太陽はイザナギと決裂し、月はそれに乗じてコソコソとしそうな気がする-;。
ということで、今この時になって、改めて思う。「人は何故権力を求めるのか」と。今までは普通に「おいしい思いをしたいから」と思ってたわけですが。利兄さんのDVDを見ていると「自分はエドモン・ダンテスと同じく、その人は復讐のために権力を求めているのだと思います。」と言われる気がするわけで@@。・・・世の中にはそういう人もいるんだーーー、とただただ思う。だけど、デュマもそのような手法を用いている通り、エドモン・ダンテスはモンテ・クリスト伯と名乗り、自らをキリストになぞらえているし、その復讐ももしかしたら黙示録をなぞらえているのかもしれないと思う。だけど、復讐に燃えるエドモンとイエス・キリストはそもそも全然別の人なのでは? と思う。一緒にして「同じ物」とみなしてはいけない二人なのではないか、と思う。
で、結局はいつもこういう命題に戻る。「生まれ変わったイエス・キリスト」というものが存在するとして、「なんで前世のことを全然思い出さないのか」という命題であるー;。それはきっと、過去を思い出して復讐に燃えるよりも、不満に思うことは未来に向かって世の中を変えていくべき、と思うからではないのですかねえ? そうするためには過去の恨みは邪魔だと思ったんじゃないの? と思う。そうすると「では、何千年経っても、全てのことを忘れられない自分はどうしたら良いのか?」と言われる気がするわけで@@。・・・あなたは、私の飼い犬になって、私の尻に敷かれてなさい、と思う-;。そうして、自分よりも大事なものを見付けられない限り、あなた自身が救われない、と思う。というか、我が家の一族郎党は、復讐心が強くて自分が一番大事な人間ばっかだと思うわけで-;。一族郎党は、誰も、一番最初の「父と母」の遺伝子という呪いからは逃げられないのだろうか、と思う。みんなあなたに似てるから、復讐心が強くて自分が一番大事なのだろうか、と思う。常識がある人も、ない人も、みんなそんな感じじゃないの? と思う;。4番目の子は、復讐を遂げるためなら、愛する女性をメルセデスのような目に合わせるエドモンのような男は「夫」には相応しくない、と言うであろうと思う。・・・黙示録とかモンテ・クリスト伯とか、我らはいったいどういう世界に住んでいるのだろうか、と思う。まあ、ともかくコンクリ塊も落としたことですし、話は色々と大きく進むであろうと思います。