昼過ぎから雨が降り出したので、外作業は午前中のみ。母は土の埋め戻し、土の清掃、姉は土の清掃等、私は土掘り、土の清掃でした。
テレビは昨夜は「ブンブブーン」と「いただきハイジャンプ」の録画を見て。今日の昼は「いただきハイジャンプ」と「サンマ御殿」の録画を見ました。まっすーを見るのも久しぶりー、と思う。
で、結局、「神」というものはチベット系の神々が起原で、「永遠に生きているもの」であって、その役割を人の世界で果たす「現人神」というものが、次々と交代するものであれば、死んだ先祖を偲ぶとか、尊敬する、とかそういうことはあって良くても、先祖を神とかそれに類似したものにしてしまうことが間違ってるわけだ。神が生きている人であるからこそ、食事を差し上げたり、身の周りの世話をすることが必要なのであって、死者にそういう世話は必要ないし、死者に食事を用意してもご当人が実際に食べるわけではない。・・・ということは、死者が神とかそういう類いのものになる、という思想・宗教そのものが間違っているといえる。死者が天国へ行く、とか生まれ変わる、というのは、まあ中庸的な思想といえる。天国へ行く、というのはそこで「死者が永遠に生きる」=神みたいな存在になる、ということだから、それも間違いの第1歩といえる。「生まれ変わる」というのは、生きて生まれ変わって、新たな「現人神」になることでもあるので、それはよいらしいです。
で、「太陽女神が外に出て人目に触れてはならない」という意味は分かるよね? と言われる気がするわけで。月神が、欠けたり満ちたりするのに合わせて、天と地を行き来するものであるなら、太陽は欠けないまま、常に天にいるものであるので、「地上に降りてはならないもの」だからだと思う。太陽が地上に降りているのは「夜」であるので、「太陽女神が地上にいる」というのは「夜」を意味するので、人目に触れてはいけないのだと思うのです。人目に触れている時は「夜」であって、地上にいない時(隠れてる時)が昼なわけだ。だけど、それではあまりにも現代的でなさ過ぎるので、ある程度は「外」にも出られるように呪術を組みかえて行きましょう、と言われる気がするわけで。・・・それはともかく、独身で、目が見えなくて、常に家の中にいて、汚いままで兄弟に飯を運ばせて、あれこれ自分勝手に命令しているような、そういうのが蛙の王家の「理想的な太陽女神」だということですよねえ? と思う-;。そういうのどっかで見たことあるぞ、と思う-;。私は別に、苛められなければ、外に出て働くのだって個人的には嫌ではないわけですがー;。
で、昼寝しようと思うと、何か言われる気がするわけで。イエス・キリストは「神とは永遠に生きるものだ」と知っていて、実体を持たない「死んだ神」に対してお布施なんか上げるのは無駄だし、間違っていると思っていた。だから、そんなお金があったら、それはむしろ人々がお互いを助け合うために出し合って役に立てるべきと考えていた。そもそも、お金は俗世のものであって、神のものではないはずだし。そして、イエス・キリストはク・フーリンと同じく、神ではなくて人である。だけど、彼が「現人神」となる資格を持てば、いずれかの神の名前を貰うことになる。そして、イエス・キリストがどんなに人為的に神格化されても、「現人神」となる資格を持つ人はその名前を貰うことができません。何故なら、彼はク・フーリンと同じく「生まれ変わる能力を持つ人」だから、他の人はその名前を取ることができない。自らの名を名乗ることができるのは本人だけである。そして、本来のキリスト教と、その前身のユダヤ教の「一神教」とは、古い印欧語族の「天空神」に近い神を再築して、色んな人為的な神が際限なく増えて、お布施とか犠牲という形で人々の負担が際限なく増えることを抑制することが目的のものでしょ。そもそも一神教の草分けであるアメンホテプ4世のアマルナ改革は、神官達に富や権力が集中するのを防ぐ目的で始められたもの、と言われる気がするわけで@@。
そして、イエス・キリストは「人」であるけれども、「現人神」となる資格を得た時に、最上位の神でもあり女王でもあるものの名を得れば、その権力を使って、死んだ人を神格化して現人神を立てて、「生きた幽霊」を意図的に作り出してお布施とか犠牲を求めるような無駄なことを止めることができるでしょ。しかも、ク・フーリンもイエス・キリストも「生まれ変わる人」だから、神の存在とは別に彼らも「永遠」の存在である。よって、彼らが「現人神」の資格を得れば、取って替われる人はいなくなる。そうして、廃すべき神・縮小すべき神と、残すべき神々を現実に合わせて整理・整頓しなければいけない、と言われる気がするわけで@@。そして、まずはイエス・キリストと黄帝の2名を「正式な神」の名に加えなければならない。彼らは「死なない人(生まれ変わる人)」なので、神格を与えても「幽霊」にも「生きた幽霊」にもならないから、と言われる気がするわけで@@。イエス・キリストを神に昇格させること、薬師如来と習合させること、そうすれば彼らは「外」を出歩ける神となる。イエス・キリストには各地を旅して、様々な奇跡を起こした、という伝承があるし、伝道のために各地を動き回った人でもある。太陽女神が、外に出ることができないのは、本来であれば、様々な俗世の「穢れ」に触れないためでもあり、死者とか病人がそもそも「触れてはいけない穢れ」に相当するのだけれども、死者や病人を救済する薬師如来の名前を取れば、穢れに触れることが可能になる。
だから、イエス・キリストを神に昇格させて、薬師如来と太陽女神を習合させれば、ある程度「外」に出られるようになる。イエス・キリストも聖書の中ではほぼ医薬神扱いだし、と言われる気がするわけで@@。だけど、その副作用として、永遠に誰も他の「現人神」としての「太陽女神」に立てなくなる。「現人神」としての人も「太陽女神」も永遠だから、と言われる気がするわけで@@。・・・薬師の方は、どうするんですか? 生まれ変わるたびに、医者の仕事もしないのに免許だけ取れって事??? と思う。そうしたら、「薬師の習合が、必要がなくなれば外してしまえばいいんですよ。それは主に京都の結界に使ってるだけだから。」と言われる気がするわけで@@。・・・太陽女神が盲目でも、汚くても、資格があれば「太陽女神」にはなれる。だけど、それでは薬師の名前は取れない。薬師の名、太陽女神の名が取れる者でないと、あの町の結界に手を出せない、と言われる気がするわけで@@。
京都の都も、それに関わる家系の運命も、「変えることができる」のは、最初の家長であるイエス・キリストと薬師如来と太陽女神を兼ねる者、と最初からそう計画して都を設計した人がいるらしい@@。だから、蛙の王家ですら、手を出そうとすると大打撃を食らうことになったわけで。千年続くと言われた「黙示録の千年王国」とは何のことですか? と聞かれる気がするわけで@@。・・・それは、「京の都」のこと? と思う。
で、イエス・キリストは再臨する、と言われてるけれども、再臨する前にどうなる? と聞かれる気がするわけで。その前に、理不尽な裁判に負けて犠牲になる? と思う。だから、理不尽な裁判に負けて、犠牲を支払えば、後は再臨するだけですよ、と言われる気がするわけで@@。「千年王国が終われば、その次は再臨でしょ?」と言われる気がするわけですが@@。・・・そんなことのためだけの裁判? と思う。イエス・キリストも、黄帝も正しく神格化したいと思う人がいれば、してもいいですよ。でも、個人的には「キー」という感じです-;。