21年5月17日 その2

 本日は父親を市民病院へ連れて行く日だったことと、午後雨が降ったので、私は外作業はお休みしました。母親は土の埋め戻し、姉は土の清掃をしました。それから、今年お初の小雀の姿を見かけました。

 だいたい、「富の王家」を象徴する物品を全て買って欲しい、と言われる気がするので、言われるままにせっせと買って、最低限必要なものが家に届いたのが、先週の金曜日(14日)だったわけです。で、堅君ショックがあって、その後、夜ずっと嵐のDVDを見ていたら、「今蚩尤のことは、「妖精国の騎士」という漫画のディオルト・エンゲリックのようなものだと思うように」と言われる気がするわけで@@。で、この漫画は各方面の好意で最初の5巻だけが古い家に置いてあったわけです。(でも全部で54巻もある・・・。)だから、次に古い家に行ったときには、それを持ってくるように、と言われる気がするわけで。16日の日曜日に小雨模様だったので、古い家に行って持ってきたわけです。他に持って来たのは、卒業アルバムの元になった写真が治められているアルバムと、私が一番最初に手持ちの織機で織った小さな織物である。織り姫の一番最初の作品・・・というか、作品というほどのものでもないけれども、小さな織物である。掃除してたら、たまたま見つかったので。後は「そろそろキリスト教関連の書物も持ってくるように」と言われる気がするので、1冊持って来て。

 で、後は「物語論」である。今蚩尤の方からは「「魔法使いの弟子」と「ウサギ番」が同起原の物語で、東アジアとの中間点にある中央アジアの伝承で「ケサル」という名前であるのなら、子音から見て、それは西欧ではなんという名になると思うのか?」と言われるわけで。・・・それは、「キャメロットのアーサー?」と思う。というか、アーサー王伝説とケサル大王伝が「同起原」と言われれば、それは全くその通りと思う。アーサー王伝説はケルトのク・フーリン伝説と類似していて、どちらも様々な戦いの末に、主人公は唐突に非業の死を遂げる。ケサル大王もある日突然地獄に落ちてしまう。・・・「だいたい、人から指摘されないと、自力でケサル イコール アーサーってたどり着けないところがニブいんだよ。」と言われる気がするわけで@@。一言多い、と思う-;。

 「物語論」からは、「妖精国の騎士」について、「光の騎士ローゼリィー、太陽の騎士アーサー」ってあるでしょ。物語というのは、現実のものを投影させるときには、男女の性別を入れ替えたり、役割や立場を入れ替えたりすることはよく使われる手法です。現実ありのままを書くと、ノンフィクションになってしまって、権力者とかに都合の悪いことを書くと弾圧される恐れがある。男女の性別を入れ替えたら、「現実に存在する人のこととは違う物語です。フィクションです。」って言い訳できるでしょ、と業平さんに言われる気がするわけで。だから、「太陽の騎士ローゼリィー、光の騎士アーサー」って入れ替えたら、誰のことなのか分かるでしょ、と言われる気がするわけで-;。・・・いっそのこと、ナイツ・テイルのアーサイトって言えば? と思う。(アーサイトは光ちゃんの役の人-;)

 だけど、ク・フーリンとかアーサー王っていったら、ペルシャのロスタムと同じ起原の人ですよねえ? ロスタムは「b」の子音から始まる名前だから、アーサーとかケサルという名前からはかけ離れていませんか? と思う。そうしたら、「その人は元々2つの名前を持ってるんですよ。でも、「2つの名前を持っている一人の人物」として名前が残っているのはケルトのク・フーリンだけです。クがアーサーやケサルに相当し、フーリンがロスタムに相当します。印欧語族の伝承では、だいたいどちらか一つの名前しか残していないのです。」と言われる気がするわけで@@。そして、その人の中国での名前は「盤古」だから、そこでも後半の名前だけが残っています。だけど、「盤古の右目は月、左目は太陽」と言われるから、盤古は月でもあり太陽でもあるのです。印欧語族では「ク」を「月」、「フーリン」を「太陽」に割り振ってることが多い。だから、ケサル、アーサー、ヒッタイトの月神カシュクは同じ系統の名前、盤古、ヘーリオス、ハウルは「太陽」ということで別れているのです。と言われる気がするわけで@@。だから、「太陽の騎士アーサーと月の騎士ローラント」は本来、一つの同じものなんですよ。と言われる気がするわけです@@。

 そして、印欧語族とその周辺では、「双子」の片方が死ぬ、という話も多い。ギリシャのカストールとポルックス、ローマのレムスとロームルス、カフカスのエクセルテグとエクセル、メソポタミアではエンキドゥとギルガメシュ。一部例外の名前もありますが、「月」に相当する名前の持主が死に、「太陽」に相当する方が生きることが多い。これはおそらく、「月の満ち欠け」と関係しているのだと思います。だから、双子として表される場合は、「死なないB音(太陽)」と「死ぬA(K)音(月)」に別れる。アーサーとローラント、アーサイトとパラモンのように、と言われる気がするわけで@@。・・・だけど、ナイツ・テイルではアーサイトもパラモンも死なないんじゃないの? と思う。そうしたら、2重の意味で、その必要性は解消できます。一つは、印欧語族が望むように、アーサイトとパラモンをもとの形、一体のもの、すなわち「月神」ではなく「日月神」の形に戻せば「太陽は死なない」ので、死ぬ必要性はなくなります。もう一つは、「太陽と月が夫婦である」というのは、中国南部の非印欧語族である母系文化の神話であるので、そこでは月神が死ぬ、という伝承はない。逆に太陽女神を二人の夫(二つの月神)が支える、となるわけだから。月神を印欧語族の伝承から切り離して、「我は印欧語族の神ではない」と述べれば死ぬ必要性はない。

 印欧語族の方は「家督」とやらを移して、富の王家をこちらに買い取らせたら、まず速攻で月読と火明を任命させることで、「月が死ぬ」という呪いを外してしまった。大名王家の方は最初から「自分達は印欧語族ではない」と宣言してる。大名王家の月神は、新月の期間の間、あるいは太陽が隠れている間隠れているに過ぎないので、死んでいるわけではない。しかも、「二人の月」が「一つの太陽」を支える、という形式はより上位の神話に沿ってる、ということで、体制を整えられる時が来たら、速攻で実行してる業平さんの手腕に、敵も味方もドン引きしてる状態らしいです。ともかく、有能な業平さんは、「女を口説くのに必要なのは「余計な一言」ではなくて「気の利いた一言」だ」と言う気がします。・・・・業平さんは業平さんで「気の利いた一言」が多すぎるお方のような気がするわけですが・・・-;。

21年5月16日 おまけ

 あとは、「天火明命」について一言欲しい、と言われる気がするわけで。「天火明命」については、端的に述べればWikipediaに「天津神系の出雲神を源流としていることが伺える」とあり、名前から男性の太陽神であることは明らかなので。出雲系の大国主神話は印欧語族の「呪的逃走」の形式を良く残しており、グローバル的には印欧語族の「男性形の太陽神」=「雷神」であることが伝統でもあるので。その名前は「火明」を祖神とする人々が良く相談して、誰に割り振るかを決めるように、と思う。

 私は、板橋の小さな諏訪神社にも足繁く通ったけれども、一番最初に神社巡りを始めたのは丹後の籠神社と真名井神社からだった。真名井の宮は「元伊勢」と呼ばれ天照大御神が大和から最初に移った場所とされている。よって、古くから土着の「太陽女神信仰」があった場所と推察される。その起原が中国南部であれば、その夫は月の神とすることが妥当である。実際伊勢でも、外宮の女神とその北にある月読の宮の神は夫婦神のように構造からは扱われている。丹後半島では宇良神社の祭神と真名井の祭神は夫婦である、という伝承があったように思う。それは浦島太郎と乙姫の名前が充てられていたように思うが、元は伊勢の構造と同じく月読と太陽女神の組み合わせだったのだと思う。「男性」という観点からいうと、丹後半島は籠神社の火明(太陽)、宇良神社の月読(月)、すなわち表の太陽、裏の月、という信仰が成立しており、太陽は太陽女神と並立し、月は太陽女神の夫である、という構成になってる、と今では思う。そして、「天の神」がいずれも男性である、というのは古い時代の印欧語族の思想と一致する。というよりも印欧語族の一番古い思想は「天の父神」という形式であるので、彼らの父神は太陽神でもあり、月神でもあり、雷神でもある。

 一方、「太陽が女神である」という思想は中国南部の母系社会が起原である。(ちなみに「月が女神である」という思想は母系の漁撈民の思想だと思う。)「太陽が女神である」という思想から見れば、「夫は月の神でなければならぬ」ということになるので、二つの民族が協調して同じ土地に住む場合には、印欧語族の方が折れて、「天の神」を「月の神」をメインに書き換えて、太陽女神を擁する民族と政略結婚をするのが妥当だったのだろうと思われる。その一方で、祖神として「太陽の神」をメインにした神も作り出したので、「火明」と「月読」は「表と裏」で、元々一体のものだったのだと思う。しかし、その後の人間の歴史の変遷により、「月読」と「丹後半島の太陽女神」が夫婦であった、という伝承は正式な神社の起原からは消し去られてしまい、民間伝承と伊勢の外宮の「構造」にのみ残されることになった。太陽女神と夫の月神は、いったいどのような事情で引き裂かれたのか、その謎を知りたい、と思ったのが私の旅の出発点だった。そして、それに加えて、「その謎を解き明かしたらあなたの願いは叶う」と言われたのが、オカルトな超常現象の出発点である;。

 太陽と月が共に男性形であり、印欧語族の神であるということになれば、元の姿は自然信仰の「天の神」であり、それが男系の台頭と共に「天の父神」へと変遷したものである。すなわち、「火明」と「月読」の原形は、中国の人が「天帝」とか、あるいは「黄帝」と呼ぶ者であると思う。「月読」の方は、元の持ち主に全て還すわけにはいかない事情がある。何故なら、これからディオルト・エンゲリックの住み家に行く、という仕事があるわけですが、それに対応して、新月の月の如く「隠れている」のは、光ちゃんではなくて潤ちゃんだからである。6番目の子に「月」の役割だけを背負わせて名前を与えないのでは公平性に欠ける。「火明」の方は「祖神」であるので、子孫が決めるが妥当であると思う。でも、私がこう言えば結局その名前は7番目の兄さんのところに行くと思う。私に異議はなく、異議がないと言えば、一番最初に私を丹後半島に招いてくれた方々に喜んで貰えると思うわけですが、如何に? となります。それが私の考えです。

21年5月17日

 金曜日の「堅君ショック」から色々とあったわけですが;。ともかく「妖精国の騎士」である。蚩尤=ディオルト・エンゲリック、饕餮=ユーグ・ルギマルドとすると、「ソレス(太陽)のアーサー」と「シルヴァン(月)のローラント」はどうなるのか、ということになる。そういうことを色々と検討した結果、結論だけ述べると、今蚩尤の兄さんは蚩尤の名前のみとって「月読」の名前は返上して頂くことに決まった。そもそも、その二つは「違うモノ」だからである。「月読」の名前を誰に割り振るのか協議した結果、7番目の兄さんと6番目の子が5分5分ということになりました。

 蚩尤の胴塚は役に立つ範囲で、私の役に立ってくれれば良いと思います。でも、明日の準備があるので、今日はこれだけ、ということで<(_ _)>。

 ・・・というか、小雨っぽい天気だったので古い家に行って来て。部屋の片付けをして、大学時代の古いアルバムを見付ける。日付けに「1995年9月10日」って書いてあって、堅君の「1995」という曲のタイトルを思い出してドン引きする-;。ディオルト・エンゲリックも何も、霊園で卒業アルバムの写真を撮るそのセンスを何とかして欲しいとまず思います;。