20年7月7日

 梅雨末期の大雨が日本列島を襲っています。でも、長野市街地は今日のところは降ったり止んだりな天気でした。晴れたら外仕事をしようと思ったけれどもできませんでした。

 今日は詐欺による意思表示の取り消しと、錯誤無効が区別つくように、と言われる気がするわけで。そして、「動機の錯誤」については意思表示も書くように、と言われる気がするわけで@@。詐欺による意思表示の取り消しの方が第一かなあ? と思うけれども、良く分かりません。なので、何でも書いておきましたー;。

 昼は「ZERO」をちょっと見て天気情報を見る。夜は「さんま御殿」を見ました。

 なんだか、姉の機嫌が悪くてびっくりする。どうも車庫証明を取りに行かせたら、それがご当人的には負担だったらしくて、「自分ばっかりこき使われる」とかって騒ぐ-;。もうその人は役所関係には出さない、と思うわけで-;。見てはいけないNHKとか見ると更に騒ぐし。お天気情報もおちおち見てられない、と思う-;。そして、じいさんも姉もちょっと元気になるとすぐに主導権を握りたがるので-;。あんまり親身に面倒見てやるのもなーー、と思ったのでした-;。でも、これで雨樋の件では、しっかりやらせられる、と思うわけで。だいたいは敵の妨害だからです。

 そして、今日は「日本漢詩集」という本が届いて。なんで「漢詩」? と思うけれども、日本人は、特に教養有る人々は漢文をかなり良く使っていて、江戸時代まで漢詩を作ってたんだなあ、と分かる。現代のような仮名交じり文が当たり前になったのは、教育制度がほぼ全国民に普及した明治以後なんだなあ、と思う。日本で最古の漢詩文集は「懐風藻」といって、天平勝宝3年に編纂されたらしい。孝謙天皇の時代である。「懐風藻」は編者不明とされているけれども、漢詩文が発展した近江朝を懐かしむ趣旨の文集で、淡海三船(大友皇子の曾孫)が編者ではないか、と言われてるらしい。「日本漢詩集」の最初の三つは懐風藻から採られていて、大友皇子、川島皇子、大津皇子となっていて。大津皇子の辞世の句を読む。「辞世の句」が和歌の時代じゃないんだなー、と思う。でも、ちょっと違和感を感じるわけで。淡海三船が近江朝を懐かしんで、大友皇子とか川島皇子の漢詩を集めるのは分かる。どちらも天智天皇の皇子だから。でも、大津皇子は謀反人として処刑されたけど、天武天皇の皇子じゃん? と思う。母親の太田皇女は天智天皇の娘だけれども、大津皇子は壬申の乱の折には天武天皇の陣にはせ参じてるから、近江朝側からは親しい相手とは言えないし?? と思う。それに大津皇子は持統天皇に疎んぜられた、と一般的には言われているけれども、時の天皇である孝謙女帝は持統天皇の孫の孫なんだから、近江朝を懐かしむ文集を出すこと自体、反政府的って思われなかったのかなあ?? と思う。そして、孝謙天皇の初期には近江朝を懐かしむ空気があったのかなあ? と思う。そうすると、それは藤原光明子と仲麻呂の影響でしょ、仲麻呂の先祖と言われている鎌足は近江朝の重臣だし、彼らの真の先祖は天智天皇でしょ? と言われる気がするわけで@@。光明子は夫の聖武天皇が亡くなると、近江朝を懐かしむ文化的な雰囲気を作り出して、かつ孝謙天皇の後継者になりそうな天武系の王族を片付けていくわけで。それって、もしかして光明子が、いずれ天智天皇の男系に皇位を戻すつもりで立ち回ってたってこと? それで仲麻呂と二人で孝謙天皇を丸め込んでたってこと??? と思う@@。で、それと大津皇子とどういう関係が? と思う。そうすると、大津皇子のことで持統天皇を批判できないことは明らかなので、当時の人々は大津皇子の死の責任は持統天皇にある、とは考えていなかった、ということです。孝謙天皇の初期の政治の責任が藤原仲麻呂にある、と今の人々が考えるのと同じで、実際に政治の実権を握っていた者に責任がある、と考えるのは当然だから。持統天皇の時代に、太政大臣を務めて、天武天皇の血筋に皇位を継がせるために力を注いだのは誰ですか? と言われる気がするわけで@@。奈良時代の人々は、大津皇子の死の責任は高市皇子にあると考えていたのですかねえ? 高市皇子と、その子の長屋王は天武系に皇位を継がせるべきと考えていたから、それを邪魔に思った光明子はまず最初に長屋王を廃したし、大津皇子に同情が集まるような文集を作らせたというのは、反高市皇子の意思を示してるってことですよねえ?? と思う。でも、光明子の死後、仲麻呂はあっという間に失脚しましたよねえ? それは何故? と思う。そうしたら、仲麻呂は天智系に皇位を譲るのではなく、天武系にまず皇位を譲るべき、と考えていました。先代の聖武天皇の意思がそうなっていましたし、朝廷の雰囲気もそれを覆せるほどではなかったので、政治的判断かもしれない。でも、それが「裏切り行為」とみなされたから、失脚させられたんでしょ。孝謙天皇は好きになった男に政治を丸投げするタイプだったから、仲麻呂以外に好きな男ができればあっという間に仲麻呂の権力は失われる。だから、井上内親王を白壁王に嫁がせ、仲麻呂政権下で白壁王と山部王を出世させ、いずれ皇位を白壁王から山部王に、と目論んでいたのは光明子でしょ、娘をそのために利用しただけでしょ、と言われる気がするわけで@@。仕組んだのは光明子と水内郡の金刺氏が直々に送り込んだ女官ですねえ、と思う-;。7番目の兄さんには、「大津皇子は近江朝の遺臣に担ぎ上げられても、結局は天智系の王族に皇位を移すための”つなぎ”に使われるだけだと、そんな日の目を見るよりもあからさまなことに何故気がつけなかったのか。父帝に似て聡明な若者だったのに。甘やかされて育っていたから世間知らずな所があって、息の根を止めるのは赤子の手をひねるよりも簡単だったのに。自分には彼を留めておけるだけの力がなかった。」と言われる気がするわけで@@。大津皇子の辞世の句のための「日本漢詩集」ですか?? と思う。私も詐欺による意思表示の取り消しとか、錯誤無効とか、公序良俗無効とか、気が付くまでに相当かかったから気が付けないものは、気が付けないのですよ、と言うしかない-;。というか、錯誤無効な案件なのですかねえ? 詐欺による取り消しか、公序良俗違反が問題になる案件なんじゃないの? どう見ても相手方が言ってることが出鱈目すぎでしょ、と思うわけですが-;。それも良く分からないわけです;。夜は久しぶりに「unpluged」のDVDを見て、何となく7番目の兄さんとお話しながら、書類を見直していたのでした。28頁は維持しております(笑)。