神聖四字

フェニキア文字における古代ユダヤの神「ヤハウェ」の綴りは、現代の英語に直すと「HWHY」となるわけで、何故それを「ヤハウェ」と呼ぶかというと、最期のYを接頭語ととらえて、「YHWH」すなわち「ヤハウェ」と読んでいるわけです。だから、この名は
ヘブライ語で「HWHY」
それ以外の印欧語で「YHWH」
とされるわけです。古代ユダヤ人の神が、異なる言語に訳されねばならないほどメジャーな存在となった背景には「キリスト教」というものが当然あったでしょうから、「HWHY」を「YHWH」に変えてしまった連中はどうせ、古代ギリシア人とか古代ローマ人が主であろうと思うわけで、現在では「書き換えられた名」の方が有名になってしまいましたが、本来そんな名ではないから、「元々なんと読んでいたのか分からない」ということになっているのだと思います。古い時代のフェニキア文字で書かれた通りに読めば、「読み方は分かる」わけです。だって、元々そちらで呼んでいたわけですから。
そもそも「HWHY」というのは「KBKT」から変化した子音ですから、「KB」と「KT」の神を合成した名なわけです。

1.最初の変化:「KBKT」の3番目の「K」を省略 → ヘバト(Hebat)
2_1.次の変化:T音を先頭にもってきて、男神の名前に変更 → テシュブ(Teshub)
2_2.「KBKT」の「K」の子音が省略されて「H」に変化 → 「HBH(S)T」という神名に変化
→ ヒッタイトではイナラの愛人フパシヤス(Hupasiyas)
→ 印欧語の男性名ハーヴェイ(Harvey)
→ ヘブライ語の「HWHY」

と変化しているわけで、ヘブライ語の変化は、英語の男性名ハーヴェイに近い変化を示しているのです。人の名は、昔は特に神にあやかって神の名をつけることが多いから、それがハーヴェイ(Harvey)という人名に残っているのです。そして、この名の変遷の特徴は、1の段階の変化では女神の姿を保っているのに、2以降の変化では全て男性名に変更されていることなのだと思います。そして、「HWHY」を「YHWH」と書き換えてしまうと、「YHW-H」と別れて「蛙のテシュブ」という意味になってしまうので、別にそれが意味的に悪いとは言いませんが、本来の名、本来の発展してきた意味とは分断されて異なったものにされてしまうことには問題があると思うのです。「HWHY」という文字が何と読むのは分からない馬鹿は、「Harvey」という文字の読み方を英語圏の人に教えて貰えば良いようです。

それにしても、順番からいうと、「ウォークドントラン」という山田ミネコの漫画の主人公ハービーから始まって、消えてもすぐ復活するFFIXのHarveyキャラとか、この名に纏わる奇妙な事象はいくつかあったわけで、確かに気が付いてみれば、もっと早くに「Harvey」という名の意味に気が付いても良かったのだと思います。
まあ、でも個人的にはイナラの「愛人」フパシヤスとか、ポタちゃんの「友達」のでかい蛙とかに微妙に引っかかるわけですが。(しかも秋葉神社の不吉な蛙もおまけについてますのでねーー;)
どうにも、「蛙と蛇の二面性の性質を持つテシュブ」こそが、イナラの「愛人」である「ハーヴェイ」であり、それこそが「ヤハウェの真の姿」であると示されているような気がしてならないわけですが。(さりげなく示すというよりは「大盤振る舞い」って気もしますがーー;)

そういうことを知っている人々を弾圧して、ヤハウェなんてわけのわからないものを、強引に「単独神」にしようとするところに、裏切り者の蛇の名を持つ者と、それを後押しする汚い連中の陰謀を感じる、とまあそんな感じなのでしょうか。しかし、古代世界においては、「t」の子音と「m(n)」の子音はほぼ同じ意味で使われますので、「HWHY」の「Y」を「M」に置き換えると「HWHM」となるわけで、これは「KBKM」が基盤の言葉ですから、これを変化させると

1.アブラハム(Abraham)

更には
2.Human(英語の「人間」という意味)

になるわけです。要するに、古代ユダヤの太祖アブラハムと英語のハーヴェイという名は、ほぼ同起源で非常に近い名だということがここから分かるわけで、「KB-KM」あるいは「KB-KT」の名で示される神の名は、その順番通りに読むのが古来よりの正しい読み方であると分かるわけです。で、これが「KM-KB」あるいは「KT-KB」とひっくりかえることもあるわけです。
「KM-KB」の名を持つ者には、ヒッタイトの神クマルビ(Kumarbi)、「KT-KB」となった者にはおなじみテシュブ(Teshub)がいるというわけで、これらの神々は、どれも男性に作り替えられた合成の太陽神であるにもかかわらず、神話の上では、互いに敵対したり殺し合ったりしているわけです。
その神々の名を「人の名」におきかえて、ユダヤの太祖アブラハムと、実質的な先祖扱いのヤコブ(ヤコブはアブラハムの孫)にして、男神達が互いに殺し合わず共存する思想を、時代に先駆けて作り出したのが古代ユダヤ人だったのだと思います。(ヒッタイトの人々は蛙女神と蛇女神を習合させはしましたが、クマルビとテシュブの争いの神話は温存しました。)
そして、その思想を更に受け継いだのが、古事記におけるイザナギと三貴子の関係なのだと思います。世界のあちこちで、イザナギに相当する蛇神と、羌族的思想の蛙の神々とは対立する神話を残してきましたが、最初にそれを一つに纏めようとしたのがヒッタイトの人々であり、更に軍神である男性神達を纏めようとしたのが古代ユダヤ人であり、古事記においてはイザナギと三貴子は共存する親子の関係とされて、そこに争いは生じていません。ヒッタイトの思想をそこまで発展させることができたからこそ、日本という国は「特別な国」であり、その神話は「特別な神話」なのだと思います。

まあ、それはともかく、なんでしたっけ? 「愛人」とか「友達」とか、何でも良いですが、太陽女神にご飯作らせたりしないようなテシュブなら、それで良いのではないかと。(っていうか、外で働いている旦那に、帰ってきてからご飯作ってね、っていう専業主婦がいたら、それは本当にイナンナ女神みたいなタイプかと思うわけですが。なんかこの辺りに良くも悪くも「ひっかかり」を感じるのですがーー;。)

 

(そういえば、最近は「夫が3人でも少なすぎる」とか寂聴的な発言も目立つ気がしますのでねーー;。その辺にも妙にひっかかりを感じる、というか、どこかに太陽女神に「兄さん」て呼ばれて喜んでいるようなイザナギがいるような気がして、冷や汗が止まらないわけですが。(古代における妹背とは兄妹のことでもあり、夫婦のことでもありますからねーー;))

非常に久しぶりの更新です

ヘバト女神の別の姿であるハンナハンナの項を増やしたわけですが、前回の更新から2週間以上経ってしまいました。ヒッタイトの神話は、エジプトやメソポタミアの古い神話から、ギリシア神話へと神話が変遷する過程で、中間的な位置にいるのですが、書いている内に、古いものとの比較、ギリシア神話との比較をしている内に、書く量が膨大になってしまったわけです。
書いていて、一番悩んでいた部分は、ハンナハンナの神話と、キュベレー・アッティス神話の違いでした。キュベレーがヘバトと同系統の名前を持つ、同系統の女神であることは分かるわけです。ヒッタイトの時代、ヘバトとテシュブの息子神はシャッルマといって、軍神であり、テシュブと一緒に悪竜と戦う神話なんかがあったわけです。でも、ギリシア神話の時代に入ると「アッティス」という息子神が登場して、しかもこの神は軍神でもなく、女神を怒らせて、自ら去勢して死ぬ、という神なのです。そして、アッティスは穀物神に見立てられていて、死んだ後、数日経って生き返る、というような祭祀が実際にあったらしいです。このアッティスに「軍神」らしい要素はあまり見られず、どうもシャッルマが起源とは思えないわけです。ギリシア神話時代のキュベレー信仰は、トラキア系の神サバジオスとキュベレーが習合した後の神話に基づいていますから、サバジオス信仰と関連性が深く、ヒッタイトの時代にみられなかった要素については、「トラキア側から入ってきたもの」とみるしかないと思うのです。そうすると、「キュベレーの荒ぶり怒り狂う姿」もサバジオス的姿であるとも言えるのではないでしょうか。(本来のキュベレーは穏やかな豊穣の太陽女神であったと思われます)キュベレーはアッティスの死に大きく関わっており、彼女がアッティスを「とり殺した」みたいになっています。アッティスが人工的に「作られた」神であるとすると、まるでアッティスは、「女神に殺される」ということを前提として作られたように思うのです。そこで、
「植物だって、実をつけて枯れるものに、枯れないものがある」
のに、なぜアッティスは再生の前提として死なねばならないのか、しかもなぜオシリス的に「去勢」しなければならないのか、どうもその辺りが自分でも良く分からなかったわけです。でも、神話における「親子」とは、単に出自の異なる神々を一つに纏める際に、力関係の強い方を親、弱い方を子にしただけのもの、とすれば、弱い方の神(と、それを信仰する人々)を犠牲として、社会的に上位にいるものが肥え太る、という思想が根底にあって、「親子」というのは、どちらが「喰う神」で、どちらが「喰われる神」なのかを明かにするための「暗喩」に過ぎない、と気が付いてはっ、としたわけです。「子神が親神と同じもの」というのは、子神が親の餌であって、食べられて親神に同化する存在であるからに過ぎない、となれば、死するアッティスは「餌のアッティス」であって、再生するアッティスはアッティスという名の「キュベレー・サバジオス」で、そもそも「別の物」と考える方が正しいのだと思うわけです。そうすると、毎年豊穣のために、「喰う神」にアッティスを捧げる「犠牲の祭祀」が行われる必要性が出てくるわけです。アッティスを神として祀るのは、「喰われる側」の人々をも納得させるためだけの方便のようにも思えます。
こう考えていくと、西欧の神学を論じる際に、「父と子」が「同じもの」なのか「違うもの」なのかということが、非常に重要な問題であることが分かるわけです。「同じもの」であれば、子孫を残さずに犠牲となる神と、それを喰らって繁栄する神とをどうやって「同じもの」として論理的に纏めることが可能であるのか、「違うもの」であれば、親が子を喰うような神々の親子関係をどうやって論理的に正統性のあるものとできるのか、という問題が生じてくるからです。こういう矛盾を解消するために、
表向きは息子は独身で子孫を残していない
けど、
裏では、実はやることやってて、肥え太っていて、子孫もいた親神であった
みたいな流言と、建前を使い分けるような奇妙なことを始める人たちも出てくるのではないかな、と、そう思うようになったわけです。「イエス・キリストに子孫がいた」という伝承とか流言はあちこちにあるわけですが、大切なことは「それが事実なのか否か」ということではないと思うのです。表向き、彼は人々のために犠牲となった「犠牲神」であり、「子神」とされています。でも、裏ではやることやって、肥え太っていて、子孫もいた「親神」であった、と噂することで、「父と子は一体のものである」という矛盾した論理を何とかまとめてようとして、もがいた結果がそうなっているに過ぎず、「流言」の方からは、
イエスこそが犠牲を喰らう「親神」である
という暗喩が浮かび上がってくるわけです。この場合の「親神」とはもれなく「死神」ですので、言い換えれば
イエスこそが死神である
と言っているも同然なわけです。全くもって、剣呑なことと言えましょう。

口を開けたタマネギ

昨夜、寝ようと思ってふと窓の外を見ると、家の前の道を柴犬くらいの大きさの薄茶色の動物がてってと歩いていたわけです。「犬?」と思って見たわけですが、良く見ると尻尾がふさふさしていまいたので、狐だと思います。今まで、タヌキとかは良く見かけたことがありましたが、狐は用心深くて鳴き声を聞いたことはあっても姿を見たことはなかったので、ちょっと驚きました。深夜には野生の獣が徘徊するような田舎に住んでいるわけですが、そのうちに野生の猪だの熊だのを見かけるようになったらちょっと嫌かも。デーメーテールとかアルテミスにお目にかかるのは神話の中だけにしたいものですーー;。
本日も相変わらず「狩人のパレット」のお絵かきだったわけですが、似たような絵を比較するためにいろいろと調べていましたら、両性具有のミノタウロスとか、口をあんぐり開けたタマネギの鍛冶神とか見かけるわけで、そういうものの解説が全く皆無という状況もすごいというかなんというか。でも、死に神の牡牛もちゃんと「阿吽」のポーズはとっているわけで、その点くらい誰か言えばいいのに、とか思うわけですが。「タマネギ頭の鍛冶神」が鍋の中で人間を煮てる姿はシュールとしか言いようがありません。その鍋の中にはきっとタマネギも入っていて、食べたら「タマネギの死に神と同一化できそう」とか思うわけです。西洋の神話はシュールで奥がヘンに深すぎるのですーー;。

天国の門

「天国の門は南天にあり」ということで、巴蜀文字における「方位に関する文字」を纏めてみました。北欧神話なんかでは、風はユグドラシルの木のてっぺんに留まっている鷲(すなわち太陽鳥の一種)が起こすと言われていますが、巴蜀の神話では、南天に門があって、太陽のもたらす暖かい南風はそこから吹いてくることになっているらしいです。で、一方東(海)の方にも植物が生え揃うように太陽が生えてくる?「大地の門」があるらしいですが、こちらは「大地の門」というべき「地下世界との境界の門」ということになります。
で、古代エジプトの「アケル」には「暁」という意味もあって、本来古代エジプトの「大地の門」は東にあったと思われるのですが、それがいつの間にか逆向きの「西の門」となって「日が沈む門」にされているわけです。メソポタミアでも同様です。で、「天上にある門の先の国」を「天国」とすれば、「日が沈む門」の先にあるものは平ったくいうと「地獄」ということになります。ということは「南天」を大事にしないということは、「天国を無くしてしまえ」=「地獄だけにしてしまえ」ということにも通じるのかと、そう思うわけです。
それから、「トンパの達人」というソフトを買ってしまいましたので、せっせと活用しています。納西族の「トンパ神」というのは、どう見ても下半身が「蛇」の「蛇神」で、逆さにして矢で射られた蛙(言い換えれば殺された太陽)なんかを象徴的に使っていますので、彼らの文化は文字的には巴蜀文化に近いわけですが、信仰的にはどうにも黄河&遼河文明に近いわけで、そこのところが非常に残念なわけですが。でも、文字そのものはとても参考になりますので、せっせと活用したいと思っているわけです。

矢尻を調べれば持ち主が分かる

再び「天河ネタ」になりますが、確かこの漫画の中で、主人公が矢で射られて暗殺されそうになる場面があるわけです。ともかく、主人公はそういうことをされかねない物騒な状況にいるわけです。で、犯人を公の場に引きずり出したいわけですが、なにせ古代のヒッタイトを舞台にした歴史モノですから、証拠を写真に撮るとか、録音するとかできないわけです。で、証言だけだと信憑性が弱いというわけで、主人公は
「公の場に出るまで矢を抜かせない」
わけです。何故なら当時は矢も手作りですから、矢尻を箆に止めるやり方にもそれぞれの個性があるから、それを調べれば誰の矢で射られたのかが分かって、犯人も分かる、とそういうことらしいです。
で、昨日は、イナンナ女神について書いている内に一日が終わってしまったのですが、今日は今日でエジプトの獅子女神達についてせっせと書いていたわけです。で、最後に資料を纏めて、アップすれば一段落、というところまで来たわけですが、資料の方になんか「妙」なことが書いてあるわけです。
なんというか、「某神に矢のようなものが刺さった図」があるわけですが、それはどうも私の考えでは「矢」ではないわけです。だって、その図の他の場面にも「矢」の絵が描いてあるわけですが、通常描かれている矢と「矢羽」の形が違うわけです。っていうか、そこんちの「矢」には「矢羽」なんてついてないんじゃん? と思うわけで、なにせ古代の絵だから、まだ矢羽なんてつける習慣が無かったんじゃ? とかそんな気持ちになったわけで。だいたい、そこに描かれている矢の形が「投げ槍」みたいで、弓矢の原型なんてそんなもの? とかそういう感じなわけです。
矢羽を見ても、それが「誰の持ち物」なのか分かることもあるんだ? ということで、「天河」を思い出したわけです。軍神のユーリ・イシュタルの背に「矢がささってる図」そのものが非常に象徴的というか、まるで
「その矢が本当は誰のものなのか見つけて欲しい」
とでも言っているかのように思えたわけです。ハヌマーンの絵を描いていれば、ナルニア国物語の「さいごの戦い」のヨコシマなタシランとか思い出すわけですし。神話的な作り替えのヒントはあらゆるところに溢れているように思われます。そこも書いていかないといけないとすると、ますます本題をアップするのが遅れる訳ですねーー;。

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