さて

今朝は珍しく、福山君の「家族になろうよ」で目が覚めました。

で、午前中は行かなければならない所があったので、出かけていました。そこで、また来週辺りに別の場所に行く用事を決めてきたわけです。行く直前から、なんとなく重要な日になるのだろうな、という予感はしていたのですが、行ったら珍しくも「◎曜日の○○を取れ」って明確にふっと心に浮かんだわけで、そういう芸当ができる兄さんは一人しかいないし、そういう場合には必ず心の声に従うことにしている私ですので、朝の「家族になろうよ」を思い出して、そう決めたわけです。で、割と大事な話をしていましたので、話をしている間音楽は聴いていなかったのですが、話が全て終わって一休み、というところで聴き出しましたら、最初に「One Love」、次に「愛がまわるよ」、で、その次くらいに「Ready Go」がかかって「おおー」と思ったのです。「One Love」もすごいと思いましたけれども、嵐みたいになりたかったというHey Say Jump!もちゃんと、そうなってる、と思ったのでした。
そして帰ってきてインターネットのニュースサイトを見ましたら、赤いスーツを着ている弓弦君がうれしそうに腕を上げている写真が大きく載っていたので、これまた「おおー」と思ったのでした。

帰ってきてからは、あちこちのひまわりが枯れ出しましたので、収穫をしていました。今年は雨が多いので、中には腐ったりカビが生えたりしている種もあってたいへんでしたが、良い種もあるので来年が楽しみです。

それにしても、神々の歴史を見るに、世の「男神」というのは多かれ少なかれ、「軍神」の性質を含んでいるのですが、でも一番古くは「KB」の名を持つ男女一対の月の神と太陽の女神が、同じ「KB」の名の下にあったはずなのです。だから最初の「KB」であった月神は、軍神では無く温厚な豊穣神であったと思うのです。なぜなら、彼らは夫婦一対の双神であるからです。それで私は今にいたって、初めて「KB」の名を持つ「男性の平安と豊穣の神」というものを考えてみたわけです。今は歴史の上から消えてしまったその痕跡しか探すことのできない月神です。そして初めて、カアバ神殿に祀られているという「月からきた黒曜石」と、「アブラハムの宗教の神」であるアッラーフのことを考えてみたわけです。「K」と「B」の音しか持たない「平安と恩寵の神」。男でも女でもない「神」。それは双方を含むものであるからこそ、どちらでもないものなのだと、気が付いたのです。「KB」の女神は、「KB」の男神を探し、選び出さねばならない、と。死神ではなくて、「人を生かすための医者」を。とそういうことなのではないでしょうか。

それで、KAT-TUNの「In Fact」の「嘘の過去を破いたら本当の時が回り出す」という歌詞がぐるぐると頭の中を回っていたわけです。存在しないものの名を「神」などと呼ぶdevilもこの世の存在する。でも、その嘘を見破ったら? そう思ったら、丁度「In Fact」がかかって、その次に「家族になろうよ」が今かかっているわけです。まあ、ちょっと泣きそうな気分にはなるよね(汗)。(というか、みんなで送ってくれる、ってこういう意味だったんだ? と今更ながらに思うわけですが。まあ、その先は、そこまで行ってみないとどうなるのか私にも良くわからないわけですが、きっとまたみんな憑いてきてくれるのでしょうーー;。)

普通の日

今日は雨が時々降るという曇りの天気で、花の種を収穫したり、整理したりしていました。ニゲラの種の整理も終わりましたが、一袋分の種から、お椀に半分くらいの種が取れるくらいに増えましたので、良かったな、と思います。
家の周りのカマキリも、遂に最期の一匹が成虫になりましたので、羽の生えた子があちこちでのんびりと花に留まっています。彼らの寿命はそう長くはないので、残り数ヶ月をのんびり楽しく過ごしてくれたらいいな、と思います。

相変わらずな一日

あまりに暑いので、昼間外に出るとアブが飛び交い、朝夕は蚊が襲ってくるという嫌な日々を過ごしています。でも、アブはそれほど数が多くないので、蚊よりは刺されないようにすればまだマシです。

本日も、花の種の整理をしたり、カマキリの観察をしたり、という一日でした。1本だけ何とか育った薄いピンクの千鳥草の収穫も終わり、ニゲラの収穫もほとんど終わり、枯れたヒマワリを抜いたりしています。

3DCGのお勉強の方は、PlantStudioのパラメーターを細かく調べたりしていました。昨夜はほとんど夢を見ませんでした。

今日も雨降り

というよりも、昼間から雷が鳴って、激しい雨が降り、まるで嵐のようでした。夜は夜で、「変な夢」を見ないように音楽を聴きっぱなしで寝ています。

ローマの思想を調べれば調べるほど、「奴隷は死ぬまで働かせて、死んでから神として祀って、気持ちの上でだけごまかせば良い。」という思想が透けて見えてくる気がします。そうすれば、死んでいく人にとっても「死んだら神のようになれる」という気休めになりますし、遺族も「無くなった人は神のようになったのだから」と考えて誤魔化されるからです。でも、生きている人にとって大切なのは、生きている時に、どれだけ人間的に充実した良い人生を送れるか、ということなのではないでしょうか。「死んだ後にああなる、こうなる」と言って、生きている時には惨めな奴隷のままで良い、と思わせることそのものが間違っているのです。それは人が人間らしく暮らすのを邪魔するための方便にしか過ぎないのではないでしょうか。そして、私の経験からいって、死んだ後のことを盾にとって、人を思い通りに動かそうとする連中に限って、ろくに働きもせずに遊んでいるような気がするのですが。
神というものが、どういうものなのかということは、私にもよく分かっていないのかもしれません。でも、神が人にとって「良きもの」であるならば、それは人の生活を惨めにするものではないし、「改宗したら地獄に落ちる」とか「改宗しなければ殺す」とか、そうやって死と抱き合わせで人を拘束したり、脅したりするようなものではないと思います。良き神であるならば、ただ、人間らしく幸せに生きるために、自分にとっても、他人にとっても、「神」なんてものにとらわれずに、よりよい生き方を模索して欲しい、と願うのではないでしょうか。
例えば、自分の信者がどこかで迫害されていたら、良き神であったら、改宗でも何でもして生きて幸せになって欲しい、と願うものだと思う。自分の信者を助ける努力もせずに、ずっと後になってから「殉教者」とかいって、良い者のように表向きだけ扱ったとしても、それで亡くなった人の生涯が、惨めなものではなかった、ということにはなりません。彼らがどんな立場であれ、人間らしく生きていけるように配慮する義務を「神」の方が怠っており、それを誤魔化すための「殉教者扱い」なのではないかと思わずにはいられません。
そして、もし「神」というものが、国家の大歓迎を受けるような存在であるならば、表向き「弱者の施設」を訪問して「弱者によりそう」なんて言うのもおかしな話です。それだけ「権力」というものに近いところにいるならば、政府を、そして政治を動かして、「弱者のない社会」を何故作ろうとしないのでしょうか。もちろん、そういう弱者の中に信者がいれば、彼らからの「善意の献金」は受け取って憚らないのでしょう? どんな少額でも? と思うわけで。

弱者を奴隷のように搾取して幅からない。死んだら神にしてやる権利が我々にはあるのだから。と、それがローマの言い分なのではないでしょうか? 2000年前も今も? と思うわけです。そして、それをアプレイウスが私に教えてくれているわけです。

お盆です

といっても、それほど特別なことはしないのですが。今年はもう台風が来ましたし、天気は急速に秋に近づいているような気がします。

 

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暑くなってくると、ハナバチ以外にもいろんな種類の蜂の活動が盛んになります。この子は、朝、とある葉の裏に停まっていて、何をしているのかと思ったら、丈夫な口と前足で葉にしがみついて、中の足と後ろ足で必死に花粉だらけの羽をこすっていました。身だしなみを整えるのに夢中で、人間が見ていることもお構いなしの様子がほほえましかったので、ちょっとピンぼけですが、1枚撮ってみました。