それでも人命は大事です

現在、イラクでは武装過激派が少数派のヤジディ教徒を弾圧し、彼らは危機的な状況にあると言われています。
ヤジディ教というのは、イスラム教、ゾロアスター教、ミトラ教などが混合した宗教と言われ、部分的には(特にミトラ教については)起源が非常に古い宗教といえます。しかし、正式に確率されたのは12世紀頃のようです。この宗教は一神教ですが、神と人との仲介としてターウース・マラクという天使を持ち、この天使が信仰の中心であるようです。ヤジディ教においては、この天使は「良い天使」ですが、ムスリムの側からみれば、この天使は「悪魔的である」ということで、歴史的にたびたび弾圧の対象とされたようです。
個人的にこの宗教が気になるのは、「ヤジディ」という言葉は、例によって子音に分解すると「d-d-d」となって、「蛇」としての要素しかその名に持っていないこと、そして「ターウース・マラク」とは子音的に「タウロス・MK」と近縁性の高い言葉となるということがまず挙げられます。「タウロス」とは「ディヤウス」と近縁性が高く、かつ地中海沿岸地域では「ミーノータウロス」に象徴されるように「人の犠牲を要求する牡牛神」のこととなります。要するに「父なるプタハ」と同じものです。一方の「MK」とは「メヒト」女神から、女神としての接尾語である「t」を省いた言葉ですので、「ミトラス」の「ミ」の部分と同じ言葉といえます。ミトラスとは、メヒト+ラーの合成語であると私は考えています。メヒト・セクメトとは古代エジプトの荒ぶる獅子女神達ですから、「ターウース・マラク」とは「タウロス・メヒト」も同然の言葉で、どちらも「人の犠牲を求める荒ぶる神」が発祥であり、かつ印欧語の「ディヤウス」と近縁性の高い神の名から派生した「天使の名」であると言えます。これが古代世界であるならともかく、12世紀というのは、中東地域ではすでにムスリムが大勢を占めている時期ですし、かつローマ・カトリック教会が東方に飽くなき「邪眼」を向けている時期でもありますから、何故ローマ的な神の名を持つ天使が、この時期の中東に登場したのか、という点については非常に意図的なものを感じると言わざるを得ません。ミトラスはゾロアスター時代からの神かもしれませんが、「タウロス」はどうなのですか? と思わざるを得ないからです。
ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは、子音でみると「KK・MKD」となりますから、「蛙・メヒト」というような意味になり、全体からすれば蛙の神と蛇の神が1:1という構成になっているのです。しかし、ヤジディでは蛇のみが全面に押し出されていますから、その神話がゾロアスター教に似ているとしても、それは根本的な精神において、「異なるもの」といえ、そこに「蛙」の要素が入る余地が無いように思えます。

 

一方の「イラク・シリアのイスラム国」(ISIS)は、ISISといえば、古代エジプトの女神イシスですから、なんでこんな略し方をする名前を選んだのだろう、というしかありません。どうにもこちらも「異教的」な気がしないでもありません。しかも、項羽がやったみたいに坑をしているようですし。

 

こういう事件に関しては、ナルニア国シリーズを書いたルイスの言葉ではありませんが、「タシの神の名において良いことをしたのであれば、それはアスランの名によって行ったのと同じ事。アスランの名によって悪事を行うのであれば、それはタシの神の名において行ったこと。」と述べるしか無い。アッラーフの名によって、罪無き人々に対して坑を行うことは、ミトラスの名によって行ったのと同じ事、ミトラスの名によって良いことを行うのであれば、それはアッラーフの名によって行ったのと同じ事、とそう言い切るだけの寛大さと良識が現代社会には必要であろうと思いますし、宗教の違いによって他者を「悪」と決めつけることこそが「悪」だと思う。神というものは、現代社会においては、どのような名前であろうと、多かれ少なかれ蛙の神と蛇の神が混合習合したものであり、結局は突き詰めればどの宗教であっても、両者は分かちがたく、区別もつきにくいものへと変貌しているのだから、どのような名の神を信奉しようと、最後に測られるのは、ただその人の良心と生き方のみであると私はそう思うだけです。オバマ大統領が弱者保護のために軍を動かすというのであれば(まあ、裏にはなにがしかの政治的な思惑もないわけではないのでしょうが)
、それは正しいことだと私は思います。

スーパームーン

昨夜は月が地球に近づく「スーパームーン」だったそうです。音楽を聴きながら寝ていて、夜中にふと目が覚めましたら、KAT-TUNの「In Fact」が流れ出して、窓から明るい光が差し込んでいましたので、外を見たら丁度雲の晴れ間から満月が覗いていまして、私も月を眺めることができました。いつもの月に比べて、大きいという気はそれほどしませんでしたが、BGMもぴったりな感じで良かったと思います。

 

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本日は所用があって外出していたのですが、出かけた先が割と水辺に近い所でしたので、イトトンボがけっこういたので、クロバーの葉に停まっていた子を1枚撮ってきました。Wikipediaによると、この子はアオモンイトトンボという種類ではないかと思われます。小さな水性の生き物がいつまでも元気でいてくれるような環境が守れていけたら良いな、と思います。

台風です

中心に近い所に比べれば、被害というほどの被害はないのですが、断続的に一日雨が降り、その後に風が少々吹いたものですから、頭の重たくなったひまわりが何本も倒壊しております。そして、それを起こそうとして外に出ると、風が吹いているにもかかわらず蚊にたっぷりと喰われていますーー;。

 

昨夜は、音楽を聴いてうとうとしていたら、「家族になろうよ」がかかっていたらしくて、最後の「幸せになろうよ」のところではっと目が覚めたりしていました。
昼間は、相変わらず「Dear」と「暁」が連続してかかっていたりしました。そして、「Milk Tea」がかかっているところで、最後の「この心全部あなたのもの」というフレーズで、どうにも白鳥さんの姿が浮かんで来たりしていたわけで、他の人の曲ではそんなことないのに~(泣)。という気分になるというか、なんというかーー;。(そういうとき、虎の子は「すごいね~」とか、そういうことしか言ってくれません。なんというか、信頼はとてもされているらしいのですがーー;。)

雨降りです

台風が日本列島に近づいていますので、雨が断続的に降っています。

 

家の周りのミニヒマワリが、みな枯れ出してきましたので、晴れ間を縫って全て収穫してしまいました。スズメに見つからないところにあったものも既に食べられ始めていて、2,3日収穫が遅ければ食い尽くされているところでした。おとといまでは無事だったのに、彼らは何も言わずに忍び寄ってきて、いつの間にかバクバクと食べております(苦笑)。

 

で、本日は福山君がキューピーハーフのCMに出ているという情報を掴んだので、どんなCMなんだろうと見に行ってみました。今回のは「ドレスドエッグ編」ということで、コンセプトは「マヨネーズを使った卵料理」だと思うのですが、画面が黒い背景に卵の白、というところから始まっていて、そこにクリーム色のマヨネーズがニョロニョロと蛇のように絞り出される図となっていましたので、「マヨネーズが蛇みたい」と思って見ていました。で、そういう図の間に、白いシャツを着た福山君が白いネクタイを締めて、で、マヨネーズを意識したのかクリーム色のジャケットを着て、室外に出て行って、
「晴れた日は卵と遊ぼう」
と言うわけで、相変わらず格好いい福山君なわけですが、なんというか、ちょっとひっかかるものがあったわけです。で、キューピーのサイトに今までのCMもアップされていたので、見てみたのですが、今まではパブリカとかブロッコリーとか、ともかくマヨネーズをかけたものを福山君が食べている図が多くて、いかにも「マヨネーズのCM」という感じのが多かったのですが、今回何も食べてないし、それに今までのCMはこれほどはっきりと白黒でもないし、ということに気が付いたのです。
それで気が付いたのですが、「卵」って神話的には「太陽鳥の卵」ということで、「太陽」のことなわけです。「晴れた日は卵と遊ぼう」って、
「兄さん、晴れてない日でも卵と遊ぼうとしてないですか?」
って思わず思ってしまったわけですがーー;。そして、部屋の外に出ようとして扉を開ける図の福山君が「後ろ姿」なものですから、
「また、「後ろ姿」ですか、兄さん?」
とも思ってしまったわけで。どうにも、こうやっていろんな人の「後ろ姿」ばっかり見て、その意味がどうもよく分かっていない私なわけで、それこそが自分にとっては「永遠の謎?」みたいな気がするのですが。まあ、でもクリーム色のマヨネーズが「蛇」で、兄さんがそれと同じ色のジャケットを着ているということは、兄さんも「蛇」ということで、分かりやすいといえば分かりやすくはあったのですが。
別に私も人の子ですので、セクシーな殿方の背中を見るのは嫌いではありませんが、でも今待っているのは、正面から私と向き合ってくれる二人ですので。
それから、以前のCMに比べて、最新のCMの福山君は、なんだか落ち着いた自信に満ちているというか、そんな印象を受けたのでした。(まあ、ある意味好き勝手に卵と遊び放題なのではないでしょうかーー;。)
そして、まあ、これも本日の「勝負」だったのかもしれないと思った一日でした。

 

 

<追記>

どうも誰かが自殺したせいで、理研が揺れている、とか他の科学者が動揺している、とかいうニュースが目立つ気がするのですが。どうにも、口の悪い同業者としては、理研てそんなに

「次は自分の番かも」

って思っているコピペ人間がいっぱいいるんですか? みたいに突っ込みたい気が(苦笑)。だって、やましいことしてなかったら何も動揺することないじゃんねえ? って思うわけです。そういうやましいことができなければ、海外に流出するしかない人材しかいないなら、潰してしまえば? とか、むしろそういう厳しいことを言いたくなるわけで。

どうにも「研究分野」とやらに進んだ同級生の顔を思い浮かべると、別に彼らが理研とかの「一応トップクラス」と言われているところに就職しているというわけではないのですが、冷たく厳しいことしか言いたくなくなるのは、本当に不思議です(爆)。

いろいろと

まず、佐世保の事件。どうも、事件の前に父親が、娘を自分の母親の養女にしていた、とかを文春が記事にしたらしいです。ネット上にはいろんな情報が氾濫&錯綜しているのですが、どうも
「子供が養子に出ると実の親の相続権が無くなる。」
と勘違いして、父親を悪くいう人が多いようです。普通の「養子」は養父母と実父母の両方の相続権を持ちますので、ある意味養子になると相続権が増えてお得?ということにはなりますが、親の財産を相続できなくなるということはありません。ただ、この件の場合は、同時期に娘は家を出されているわけですから、将来的には何年か経った後であれば、娘が何か騒ぎを起こせば、親は一緒にも住んでないし、戸籍も離れているし、ということで、「監督責任」を逃れる口実になったかもしれないと思いますが、そうなる前に「娘の打った手」の方が素早かったかな、とーー;。民事訴訟は、法律も大事ですが「人間関係」に関しては、「事実上がどうであったか」ということも重要視されますので、にわか養子に出したくらいで、実親が監督責任を逃れることは難しいと思われます。(そんなことは弁護士である以上、父親にだって分かっていたと思われますが?)むしろ、家庭環境が激変し、当人の精神状態が危ういことが分かっているにもかかわらず、更に子供が不安定になるようなことを父親がしている、という点で責任が問われるのでは、と思いますが。
私が買っている某女性週刊誌にもこの事件の記事が載っていましたが、流石に女性向けの雑誌ですから、父親を露骨に擁護するようなことは書いてありませんでした。精神科医の香山リカ氏が、さすが医者らしさを見せたというか、私から見て珍しく「まとも」なことを言っていたのが印象的でした。
そして、ネット上に流れている未確認情報ですが、どうやら実母とこの子が可愛がっていた犬を、継母と父親が殺処分したとかいう噂が流れております。もしそれが事実だったら、「世の愛犬家」をかなり敵に回しそうな気がしますが。
それから、ゆずの歌ではありませんが、世の中の人が「誰かの鏡」であるならば、犬だの猫だの「松尾」だの「尾」のつくものばかりの命が失われているこの事件では、
「何か「尾」という言葉にまつわるものに殺意でもあるのか?」
という気もしないでもないわけですが。まあ、うちの家人はこういうことには気が付かない人たちですし、私は気が付いても「気にしない」という図太いタイプですしーー;。ともかく、自爆的なコメントを弁護士を通じて次々と投下してくれる「父親」の発言を今後も注目したいと思います。(ネット上では既に実名から顔写真まで出回っているわけで、大手メディアの扱いとは雲泥の差だと思うわけですがーー;)

 

で、「図太い女」といえば、理研の笹井氏が自殺してしまったわけで。これで、どういう関係であったにしても、理研内の後ろ盾を失ってしまった小保方氏の去就が注目されるわけですが。なんというか、狭い世界で「王様」みたいに君臨して威張って好き勝手してやっていた人でも、「世間」というものを知っている人と、知らない人とではこうも対応が二つに分かれるのかな、と思ったわけです。一方は、弁護士で世間というものとは相当な接触があって、もはや図太くなりまくりで、自分の擁護だけは百人前、もう一方は世間知らずの研究者で、問題が表沙汰になったとたんに自滅、ということで。理系で純粋培養の研究なり医者なりの世界しか知らない人は、そういう点では脆い部分があるのかな、と思ったわけです。私なんかは、弁護士とも裁判官とも法律片手に、正式な場所でやり合ったりしてますので、そういう点では相当鍛えられてるかも? とか思ってみたりーー;。でも、精神医学的には自傷する人も、他傷する人も精神構造的には似たようなものな扱いだと思うわけですが。違うのは「社会的」な扱いだけなのですよね。

 

それから、ジブリの制作部門が事実上解体、と。宮崎アニメにはさんざんお世話になった私ですから、残念な気持ちが無いわけではありませんが、ジブリの三賢人、宮崎、高畑、鈴木氏的には
「やるべきことはやり尽くした」
と、そういうことなのかな、と思うのです。それもまた彼らの選択であれば、仕方のないことなのかな、と思います。昔は宮崎作品をほぼ全て揃えていた私ですが、今手元にあるのは、最初の「ナウシカ」と最後の「ポニョ」ということで、私的にいろんなことが始まった時には「風立ちぬ」はまだありませんでしたので、この2作品のDVDを大切に持っているわけです。そして、それで良いのだと思う。

 

そして、昨夜見た夢。なんだか、「会いたいのに会えない」みたいなものすごくせつない感情が流れ込んで来る気がして、目が覚めたら「家族になろうよ」がかかっていたわけです。「会いたいのに会えない」と、「家族になろうよ」では、これから結婚しようとする歌なのに、会えないのは何か変?? と思いまして、それが「私の会いたい人の感情だったら?」とふと浮かんだわけです。だったら、そんな夢を送ってくる前に会いに来て、というか、理系純粋培養的に、自分からその一歩が踏み出せないのなら、ポニョみたいに図太い私が会いに行ってもいいのに、とか思ったわけです。そうしたら、
「それが福山君の感情だったら?」
とか、ふと浮かんだわけで。それならそれで、ほうきでとっととはき出してお引き取り願わないと、とかとっさに思ったわけで(誰を? もちろん福山君を 笑)。変な夢を見るなあ、というか、変なことを我ながら思いつくな、と思っていたわけです。
それで、昼間、再び昨日のお店に買い物に出かけたわけで、嵐のポスターと福山君の例のベスみたいなポスターを拝んで来たわけですが、その時ラピュタのシータとパズーのことが思い浮かんだわけです。ラピュタのヒロイン・シータの名前は、インドの古典「ラーマヤーナ」から取った名で、「ラーマヤーナ」というのはとある国の王子である「ラーマ王子」が主人公で、その妃の名がシータというのです。で、一方のパズーというのは、メソポタミアの風の悪魔の名から取ったのだと思います。(ラピュタのパズーはシータを一途に愛するいい子ですが)
シータという名は、子音的には「S-T」ということになりますので、それは蛙の「(K)S-T」という名が印欧語族的に訛った名なのだと思います。しかも、「S-T」ってニンリルの子音でもあるのでは? とふと気が付いたわけで。
で、一方のパズーは、ベスと同じ子音構成なわけですから、福山の兄さんが「ベス・パズー」だとすると、シータって「ニンリル」のことなんだ? それでは、荒ぶる神エンリルは、「ベス・パズー」と同じものであって、シータとパズー、いわゆるニンリルとエンリルの、その組み合わせはいわゆる「寡婦殉死」の神話の象徴である名なのだな、とそこまで気が付いたわけです。兄さんがパズーなら、シータは誰? って言われましてもねえ? みたいなーー;。パズーがシータに「会いたいのに会えない」って言ったら、それはせつないねえ、と思ったわけですが、まあ、総合的にいろいろと考えれば、兄さんには「天河」のラムセスみたいな立ち位置が似合うというか、「じゃぱねすく」の瑠璃姫ではありませんが「鷹男の帝よりも『妻は瑠璃姫一人』と言ってくれる高彬の方が大事。」というか、まあ、そういうことなのだと思いますので。それでラピュタって良くないものなんだな。ついでに言うと、「ハク」竜(ハクには「白」という意味とコハク(すなわちエンリル的印欧語族の太陽)という意味がありますので)と千尋もそれで駄目、なんだな、と気が付いたわけです。(しかも、「千尋」とは諏訪大社下社八坂刀売に直結する名であるので、龍神と千尋のペアはまさに諏訪神夫婦のペアにまっしぐらな名前かと。)「もののけ姫」のアシタカは長脛彦・諏訪神ですし。ついでに「宅急便」や「ハウル」は「魔」がつくから駄目。トトロも魔物だし? ということで、大事なのは「最初と最後」ということで、結果、「ナウシカ」と「ポニョ」しか手元にないわけです。ナウシカのアスベル、ポニョの宗介、とりあえず会いたいのはこの二人だけだ、と。そういうことなわけで。
ポニョはポニョで「PN」の子音を持つフェニックスな金魚ちゃんなわけで。どうせ私もポニョ並に図太くて気が強いのではないのか、と思うわけですがーー;。ナウシカは「今の鹿(鹿=太陽)」ですので。この程度まで分かればそれで良いのかな、とそう思うので、ジブリのおじいさん達には元気で長生きして欲しいとは思いますが、お仕事としてはもう充分なのかな、とも思います。

 

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早朝、太陽に向かって咲くひまわりがあまりにも嬉しそうでしたので、1枚撮ってみました。ひまわりも花のピークはそろそろ過ぎて、最後に残った蕾達が満開になっています。花の左下の花びらの陰にハナバチが隠れて身繕いをしていました。彼らは色が黒っぽいだけあって、早朝でも日の光は苦手なようです。

某週刊誌で愛子様が伊勢神宮に参拝されている写真を見ましたが、子供が成長するのは早いものだな、と思います。元々、神に仕える「斎宮」とは独身の内親王が務めるお役目なわけですから、独身の内親王様の参拝は神様もお喜びになられたのではないでしょうか。