我こそがアルバであり、オメガである。

たまたまタイミングが重なって、2日続けての更新となりました。「ヒッタイト3神」と私が勝手に呼んでいるヘバト、テシュブ、クシュフのうち、2神までも紹介できてうれしく思います。
こうして見てみると、人類の歴史の中で、宗教的に大きな変換点は2つあって、一つは
「農業が開始されて、農業共同体に関する祭祀が成立した時点」
であり、もう一つは
「鉄器の生産が開始されて、鉄器時代が始まり、祭祀が製鉄と関連づけられた時点」
なのだと思うようになりました。ヒッタイトが重要なのは、鉄器と祭祀の関連が整備され、そしてそれまでの複雑怪奇な神々の発生と分化が、とりあえず整理された点なのだと思うのです。でも、一口にヒッタイトと言っても広い国だったわけですから、首都に近いヤズルカヤ遺跡と、そうではない場所での信仰や神々とでは、人々の意識にも差があり、面白いな、と思うのです。特に「牡牛信仰」の強いルウィ系の文化では、ヒッタイトというよりはよりトラキア・ギリシャ・ローマ的な信仰文化がかいま見えるわけですが、そこの神話に登場する王だか神の姿はエジプトのオシリスの象徴である「アテフ冠」を被っているわけで、何故ここにアテフ冠があるのか? と自分でも奇妙に感じたりするのです。
「百聞は一見にしかず」といいますが、ヒッタイトの遺跡の写真をほぼフリーで使うことを許可して下さっているサイトを見ると、とても勉強になるわけです。例えば、太陽女神ヘバトと、太陽神系雷神と思われるテシュブの「天候」に関する役割分担って、どうなっているのだろうか? と不思議に思っても、壁画を見るとなんとなく想像がつくわけです。そして、肩から羽根が生えているはずの「月神」が両手に蛇を持ってかなり醜悪な図で描かれているのも見て「何故?」と思うわけです。図像から見て、「月神」であることも「水源の神」であることも分かる。でも、「蛇を肩から生やしているわけではない」のが不思議なのです。そしてこれも「月神」であるならば、蛇王ザッハークの起源がここにあることも分かるわけです。エジプトからやってきたこの神を探って、それがアテフ冠と豊穣の牡牛とどんな関係があるのかを考えた時に、本来「攻撃的な軍神」であったはずの「テシュブ」を一つに纏めて、太陽女神の夫に配したヒッタイトの人々の配慮がすごいな、と思ったのです。この神を理解するのはちょっと大変でしたが、うまく書き表して、その先に繋げていければ良いな、と思います。
それから、ここ1ヶ月くらい頭を悩ませていたフェニキアの「フェニックス」ですが、やっとここまで書けて、それこそ「大変」うれしく思います。おそらく、フェニックスは
「我こそがアルバであり、オメガである。」
と言うのではないかと思いますが(苦笑)。フェニックスとヘバトという名前の変化の過程もいつか書けたらと思います。
本日は午前中は資料採集、午後は記事のあっぷに励んでおりました。暖かくなってきたせいか、あちこちに蒔いてもいないひまわりの種が発芽しています。

クシュフと私

原文の本文数が4行しかないという量の少なさのため、比較的早く仕上げることができたと思います。古代メソポタミア(特にシュメール)では、とても重要な神であったエンキ(キエン)であったのに、ミン神が農業の豊穣の神から「労働者の神」へと変貌すると、次第にその地位が低下傾向になる「月神の群」が生じてくるわけです。なぜなら、古代社会でも「貧しい人がよりきつい労働力となって働かなければならない」点は現代とあまり変わらないからです。でも、ヒッタイト時代の神は、
貧しい人の神
というほど、その地位が低下して、時には軽蔑の対象とされるほどに嫌な変貌は遂げておらず、良いものを作り出すために誇りを持って働く職人や労働者の神として、まだ高い地位を誇っているように感じます(壁画の中でも男神の中ではテシュブの次に描かれています)。
ヒッタイトの月神クシュフは、このように「過渡期」の神として重要なのだと思われます。頑張って紹介できてうれしく思います。そして、この神を知れば、
「労働者こそが神」
という思想の源流が、この神と更にその古くはミン神にまで遡ることも分かるわけです。そう、これは「無神論」な思想などではなく、「月神信仰」な思想なのです。しかも、ローマ時代に入ると
「下層階級の月神信仰の神」
というローマの神々の階級社会を反映した神となるのです。下層階級の肉体労働者の神、奴隷の神。2000年ほど前に、ローマでこのような階級に野火のように広まった神があります。この「神」は最初はおそらく「自分達の神はあなた方の神と同じものです。搾取されている人々よ。」という具合に入り込んだのだと思うのです。そして「自分達こそが月の神の代理人なのだから、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と説いて歩いたのだと思うのです。何故なら、当時は「王権者こそが神の代理人であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と考えられており、それこそが「神の愛」でした。だから、人々は「好き勝手に人を殺す権利を持つ者が神の代理人であり、それが神の愛である。」と言われても全く違和感を持たなかったと思われます。要するに、貧しい人々の中にこうやってはびこったものを「原始キリスト教」といいます。
そして2000年後、
「労働者こそが神である」
という思想が突如登場して、ヨーロッパ社会に革命の嵐が起こります。労働力は確かに社会にとって貴重なものなのかもしれません。でも、だからといって支配者になって、それ以外の階級の人々の上に君臨し、好き勝手に生殺与奪の権利を持っているというはずはないのです。それでは、彼らはかつての専制君主にとってかわっただけの存在でしかなく、働くことを誇りに思い、労働者もそうでない人も含めて、人々全体の生活環境を良くしようという意志は無いように思われます。それどころか、実際には労働者ではなくても「我こそは労働者である」と述べさえすれば、誰でも「我こそは神である」と言って、好き勝手に人を殺せるようになる、ということになれば、それは「労働者主義」というよりも「労働者という言葉を借りた専制君主主義」というべきなのです。「原始キリスト教」は「貧しい労働者の神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した結果、しまいにはローマの国教にまで成り上がりました。そして、2000年の後には「貧しい労働者こそが神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した国家が生まれるようになったのです。それを「共産主義国家」というのではないでしょうか。共産主義というのは、宗教には否定的だと言われます。しかし、古代の人々が宗教や神に名を借りて、人々を強圧的に支配しようとしたのであれば、「共産主義」や「労働者」という言葉を借りて同じことをしようとするのも「同じ思想」といえます。古代ローマが「原始キリスト教」の名の下に人々を支配しようとした精神と、共産主義国家が「労働者」という言葉の下に人々を支配しようとしている精神は「同じ」なのです。そして、古代世界においては、ローマの「原始キリスト教」の神も「労働者の神」も「同じもの」だったのです。要するに、現代の「労働者信仰」は古代における「原始キリスト教」の焼き直しに過ぎないともいえる。
いったい誰が
労働者こそが神であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ
などという思想を作り出したのでしょうか。可哀想なミン神、可哀想なクシュフ。彼らは社会構造に激しい階級制などはなく、みながほぼ同じように働いていた時代に、人々が農業の豊穣を求める神であったからこそ敬われたのです。そうして生まれた彼らの高い地位を、人殺しのために利用し、更に「彼らの真の民」と言うべき農業従事者を弾圧して滅し尽くそうとするものも世の中にはいるように思います。何故なら、農業の豊穣を大切にする文化は、けして「月神」とはそのような凶悪なものではない、と示していますし、原始キリスト教の神へと変化した凶悪な「父なるコロン・バチカン」は、古き農業の豊穣神の歪んだ焼き直しに過ぎない、とそれは調べればすぐに分かることだからです。
私はただ、偽りのねじ曲げられた月神の姿ではなく、本来のあるがままの彼らの姿を探していきたいと願っているのです。

執筆活動継続中です

いろいろと書いて書いて書きまくって、一段落ついたところですが、これから内容を整理して纏めなければなりませんので、アップするまでにはもう2、3日かかりそうです。Wikipedia本文には2行くらいしか記載が無い神サマのことで、なんでこんなに解説で書くことが多いのだろう? と自分でも思うくらい書いています。
本日、とある雑誌を読んでいたら、スマホ向けのアプリに「グノシー」という名前のものがあるという記事を読んだわけです。アプリそのものには興味が無いのですが、「グノシー」ってどういう意味なんだろう? なんで、そんな名前をつけたんだろう? と思ったわけです。
で、これに近い言葉でキリスト教関連の「グノーシス」という言葉があったな、と思い出したわけです。グノーシス(Gnosis)とは古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する言葉だそうです。でも、これって子音で分解すると
G-no-si-s
となりますよね。前半のG-noというのは、お決まりのコロン(Choron)のことと思われます。ということグノーシスというのは
ジュピター・ゼウス・サバジオス・コロン主義
ということで、ここで述べられている「認識・知識」とは、オデュッセウス的
「悪知恵と奸計主義」
ということでしょうか? それ? と思うわけです。とっくに消え失せたと思っている「神」を示す言葉がこうやっていかにも「他のものの名前」みたいなふりをして復活する。それを「神のようだ」と思って人がはまれば、それはコロン神に「はまった」ことになるのではないですか? とも思う。こうして古き神々を全く別のもののような顔をさせて復活させているということが現実にあるからこそ、グノシーという名前のアプリは存在するのです。不思議なことです。

アナとアン

本日は金曜日ですので、これを書くのが妥当かな、と。見ていて思ったのですが、目玉は「Let it go」だったのでしょうか。その次が氣志團くらい? と思ったわけで、氣志團も長らく活動休止してた気がするのですが、いつの間に再開したのでしょうか、という感じです。
そして、思ったのですが、最近「アンと花子」という「赤毛のアン」とその翻訳者の物語とか、「アナと雪の女王」とか、なんだかメディアに「アナ」とか「アン」という言葉が目立つように思ったわけです。で、これは両方とも女の子の名前です。でも「アヌンナキ」の「アヌ」が男性で「コロン(エンキ)」を略したものだとすると、「アナ」とか「アン」も「コロン」の省略版ということになります。
で、May J版「Let it go」を聴いたわけですが、確かに歌は上手いと思います。でも、背景が真っ青の上に水色のドレスで「自由、自由」って言われるわけです。「青」は西洋では古代よりラピスラズリの色、ということで高貴な色でもあり、「太陽女神」の象徴にも使われる色で、それがまたいろんな意味へと変化していったのが西洋の神々なわけです。そして、西洋の「自由」という言葉の起源は「奴隷」の待遇をちょっとだけ良くして「奴隷じゃないと思わせる」ための方便に使われる言葉ともいえます。その象徴は円錐形のピレウス帽ですが、実際に「自由」「自由」と連呼だけするのは、ピレウス帽など被らず、高貴な青で身を包んだ人々だったわけです。May Jも当然帽子なんか被っていなかったわけで、どうも青い服でそんな歌歌われて、しかも主人公の名が「女コロン」というのは、倫理的にどうなのでしょうか? みたいなーー;。ともかく、いろんな言葉の意味を知ると、あんまり楽しくない歌な気がするわけです。
一方の「赤毛のアン」ですが、孤児のアンを引き取ったのは、マシュウ・カスバートとマリラ・カスバートという「M」のつく兄妹なわけですが、この「カスバート」というのはヒエログリフを見るに、古代エジプト語における「ラピスラズリ」のことのようです。「マ」のつくラピスラズリの蛇のシューとリラ(要するにフフやクク)が女コロンを育てるというそういう話ですか? これ? みたいな。作者のルーシー・モード・モンゴメリーって、牧師の妻だということは知っていましたが、なんというか古代エジプト神話の達人でもあったように思えてならないわけです。しかも大きくなったアンが結婚するのは幼なじみの「医者」です。なんでそんな展開にしたのか、モンゴメリがいたら聞いてみたいとか、本当にそんな感じなわけですが。(しかもアンは思い切り晩婚であった気がする。)
どうも最近は「コロン」的名前が多い上に、「青」とか「自由」とか「ラピスラズリ」という言葉がついて回っている気がします。でも、私が探しているのは、ラピスラズリなんか持てなかった庶民のシューであり、ヘケトであり、ヘパトなのです。
そういえばRihwaというお姉さんもMステに出ていましたが、これは「R-W」→「K-B」でヘパトに通じるお名前ですねえ、と思うわけです。だいたいJUJU姐さんが出たあたりから、アルファベットの名前の女の子のアーティストが増えた気がしますがMay Jの「J」ってどういう意味でしょうか? とか考えてしまうわけです。5月の「J」って、メイデイ(May Day)のこと? という気もしますが、なんというかたいていみなさん、神話的に意味深な名前な気がするわけです。miwaちゃんなんかは「三輪山」の「miwa」ですしねえーー;。
そして、最後に珍しく来週の予告が流れたわけですが、平井堅君が「家族になろうよ」を歌うとかで、え? とか思ったわけです。どうやらこの曲も入ったカバーアルバムを出すそうで、そのプロモーションの一環だと思うのですが、これは大抵の人は知ってると思いますが福山君の曲です。
ほぼ1年前にとあるところに、とある講演を聞きに行ったわけですが、それを聞いた次の日に、とあるお店で丁度背景に流れていたのが平井堅君の「いとしき日々よ」だったわけです。で、うちの親なんかが
講演の演者と平井堅君のイメージが似てる
とか言うものですから、相乗効果でどちらも覚えていたわけですが、今度は「家族になろうよ」を歌うんだ、へー、みたいな。気になってカバーアルバムの内容を見てみましたが、長渕剛の「順子」もカバーするとか。この曲は私の子供の頃に流行った曲ですが、「じゅんこ」という名前には純子とか淳子とか潤子とか、いろんな書き方があるわけです。個人の名前がタイトルになる曲も珍しいですが、なんでこの漢字の「順子」をわざわざ選んだろう? とかちらと思ったことはあります。こちらの方は堅君版を特に聴きたいとは思いませんが、なんだか不思議な選曲だという気がしたものですからーー;。(どうも曲順は「家族になろうよ」の次が「順子」であるらしい。なんでその順番? という気もしないでもないわけですが)

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女々しいゼウス

ギリシア神話の主神ゼウスには2通りの綴りがあります。一つは「呼格」といって、要するに
「ゼウスよ!」
と呼びかける場合の綴りで、Zeûと書きます。古代ギリシャ語には格がいくつがあるようですが、それ以外の格はだいたい「Di-」で始まります。Diosというのは、属格(ゼウスの)を現す書き方のようです。格によって綴りが微妙に違うのは、
格によって起源となる神の名が違うのではないだろうか
という気はなんとなくしていたのですが、今回改めて真面目に考えてみました。ゼウス(Zeus)の「Z」という子音は本来「S」という子音が濁ったものと思われます。そうすると「Seus」とか「Sius」という綴りにも成り得ます。それで気が付いたのですが、ヒッタイトでは「神」を指す言葉を「Siu」というのです。それに太陽女神の別名を「Sius」という情報も一部にあります。あら、そこから来た名前なんだ、これ? と思うわけです。で、シウス(Sius)という言葉をインターネット検索してみると、どうもユーピテルとか、ゼウス(Dios)と同じ言語系統の名前だ、みたいに書いてあるサイトが多いわけです。
え、でも「S」は普通あまり「D」とは交通性が無い子音のように思うのですが、印欧語的には文法が崩れてなまってるのかしら? とか思うわけです。で、よくよく調べてみるに、どうやらフルリの「年」を現す言葉は「Siw」というらしいです。で、ヒッタイトで「神」を現す言葉は「Siu」というのです。
「年」を現す言葉は、エジプトで「Repit」ですから
レピト(エジプト)ーシウ(フルリ)
となるようです。フルリ人はパレスチナ方面にも進出していましたから、言語的にはエジプトと連続性があっても不思議ではありません。でウガリットの太陽女神を
シャプシュ(Shapash)
といいます。シウ(Siw)の「w」は「p」と交通性がありますから、シウとシャプシュは「同じもの」ということになります。
で、これがヘバト(Hebat)女神とおなじもの、ということになりますと、ヒッタイトにおけるシウ(Siu)というのは、「神」であり「年」であり「太陽女神」であり「シェン・リング」を持つということになります。古代エジプトのレピト女神とほぼ同じです。
要するに、ゼウス(Zeus)って、「Hebat」のことなんじゃん? と思うわけで、もう一つの名前の「Dios」がタウエレト女神由来だとすると
どちらも「女神」に由来する名前じゃん!!!
ということで、どうも頭の中で「某金爆」の
「女々しくて~」
という歌声がぐるぐる回るわけですーー;。だったら、ミノタウロスみたいに
シャプシュディオス
みたいな名前にすれば良かったのに。と思うわけですが、これが後にはけっこう冗談にも洒落にもならない事態を生み出すわけです。
それだものだから、「神が男である」と言い張りたい人々は、ヘバト女神が「女神」であることを隠すのです。自分とこの神サマがどこを向いてもオカマの河馬だとは言いたくないわけだ、やれやれーー;。

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