ひまわり百本ノック

一昨日は、思ってもみなかったアクシデントがいくつか重なって、ブログの更新もできませんでした。
昨年秋に、
「ひまわりを自然に放置したらどうなるか試してみたい。」
と思って、一番できの悪かった小さな花が枯れた後、そのへんに捨てておいてみたのです。そうしたら秋の内にいくつか発芽してしまいまして、それが冬になって枯れてしまったので、もったいないことしたな、とは思っていたわけです。そして、春になり、ここ数日、残った種がどんどん発芽し出しまして、だいたい70本くらいまで数えたのですが、それをどうしようか、ということになりまして、一昨日はせっせと移植をしていたのでした。苗を土から掘り出そうとして土を掘ると、その中からも発芽途中の種が次々と出てきますし、種が思ったよりも深いところから発芽していて、掘り出すのが大変だったわけです。でも、ともかく時間をかけてほとんど移植して、そして今日、また新たに10本発芽しているのを発見した、とーー;。おそらく、全部で百本くらいになったのではないかと思います。もっと綺麗に咲いたひまわりから採っておいた種もいくつか撒いてあるのですが、植える場所が尽きそうです(苦笑)。ひまわりがこんなに発芽率の良いものだとは思いませんでした。
それから昨日の夕方は雨も降っていないのに、空に虹が出て、その根っこに三日月があって、なかなか幻想的な景色を見ることができました。蒔いた種は、花によってばらつきはありますが、ほぼ全種類発芽してくれてうれしいです。

アリンナの太陽女神

英語版wikipediaでは、ヘバト女神についての項が一つにまとまっていなくて、ばらけてあちこちに少しずつ書かれていますので、少しずつ情報をかき集めながら書いています。本日中にアップできてうれしく思います。
本文中に出てくるムルシリ2世ですが、知っている人にはすぐ分かるのですが、篠原千絵さんの「天は赤い河のほとり」という漫画に出てくるヒッタイトの皇帝です。知っている人は、今更「天河」と思うかもしれませんが(苦笑)。漫画中にはヘバト女神は出てきません。アリンナの神殿の名前がちらと出てくる程度です。で、この漫画の主人公はこの皇帝の奥さんという設定で、
「ユーリ・イシュタル」
と呼ばれています。ヒッタイトなのに何故イシュタル? とずっと思っていたのですが、そのことについてもいずれ書ければと思います。
金曜日ですので、恒例のミュージックステーションを見たわけですが、最初にタモリさんが割とニコニコしている感じだったので、
「今日は楽しく見れるかも」
と思ったわけです。で、平井堅君が歌う「家族になろうよ」を楽しみにしていたわけですが、MCで
「鉄瓶を見ると福山君を思い出す」
と堅君が言っていたので、ちょっと
「おっ」
と思ったわけです。私も「暁」を聴くときにはそんな気分になるような気もするのですが、どちらかというと昨日辺りから福山君のTwitterを見て
「黄色いボス、とか、黄帝とかアメン神とか」
いろいろと思い出して、どうも
「他のことも思い出したい」
とか思わないでもないものですからーー;。堅君の「家族になろうよ」は、最初に暗い夜空のようなバックで、その次に「小さな頃~」のところで、背景に黄色い星、というか光がたくさん浮かんで、最後の最後にまた暗くなって、その中に白くて大きな光が浮かんでいて。
黄色い小さな光がたくさん浮かんでいるところは、たくさんの名前があるのに、結局は一つのものであるアリンナの太陽女神のことを思い出したわけですが、最後の白い光は「月」なのかな、と思ったわけです。やはり私は福山君よりは平井堅君を見た方が、鉄瓶のことを思い出しそうな気がするわけです。
それから、アリンナの項には書きませんでしたが、シュメール語とアナトリア半島で「URU」とされる言葉は、古代エジプトでは「WER」という言葉になって、「偉大な」という意味でも使われているのです。時代が下ると、牡牛を意味するようになる「URU」が女神の名に使われているのは、「牡牛」という意味であるよりはエジプト的な使い方なんだろうな、とは内心思っていましたが、いずれ書く機会もあるだろうと思って今回は書きませんでした。で、メソポタミアでは「偉大な」という言葉は「GAL」といって、これが時代が下ると英語の「great」に繋がりますので、「偉大な」とか「すごい」という意味に「G」を使うのは、メソポタミア的な使い方ということになります。だから女神の「URU」という楔形文字の意味をエジプト的に解釈すれば、それを現代の英語に直した時に「Great Sun」という言い方もできるわけです。だからアナトリア的にいえば「Great UTU」というのがアリンナの太陽女神を指す言葉と言えなくもありません。
で、嵐の曲なのですが、
「曲の最後に注目」
と言ってましたので、見たわけですが、人文字で「G-UTS」と書いてあったわけで、まあ「UTS」も「UTU」も発音的には近いかな、と(笑)。嵐の曲そのものは「パレード」とか聴いた時点で、どうも太陽女神と言うよりは
サバジオス
の方を思い出したわけですが、なんというか、こういう小ネタというか、わりと大ネタを持ってきてくれるのが嵐かな、と毎回思うわけです。
あとは例によって、目のすごい人が多かったかな、と(そして、何故に今頃「プラネタリウム」? とも思ったわけですがーー;)。
なんだか、堅君にはいつも緊張するような役割ばかり振られてる? という気もしないでもないわけですが、今日はなかなか良かったMステだったかな、と思います。でも、AKB系の出演が無かったので、ゲストの座る席がガラガラしているように見えてしまって、
「大人数がすし詰めで座ってるのに見慣れてたな~」
とも思ってしまった回だったのでありました。

資料採集中

本日も資料の採集と整理を行っていました。いわゆる「雑種」の神サマであるテシュブは、調べることもたくさんあって大変です。しかも、その周辺にちらつくクヌムとかベスといった神々との関連性もいずれは纏めていかなければならないわけで、先は長そうです。
天気は雨っぽい上に暑くて、だるい感じの一日でした。植物の発芽には良さそうな天気ですが、昼間は急に暑くなったように感じて、音頭の調節が難しいように感じました。

明日から5月です

雨が降ったら、ひまわりの種がこれみよがしに発芽しています。種が大きい花は発芽も早くて豪快で良い感じです。種の細かい花は、発芽するまでがドキドキですし、芽が出てもあまりにも小さいので、ある程度育ってくれるまで安心できません。
本日は次なる記事の資料を集めたり、作ったりしていました。壁画とかの図はそのまま載せるよりも、スケッチした方が見やすい気がして、せっせと描いております。ヒッタイト3神のうち、残るはテシュブですが、この神サマが複合的な上に、時代や場所によってかなり「見てくれ」が変わってきていて、少々複雑な気持ちです。それから有角獣の内でも「牡牛」に対する信仰というものにも、いろいろと考えさせられます。
トルコは洋の東西の文化の交流点と言いますが、古代世界においても同様だったと思われます。古代のアナトリア半島の信仰の歴史は、最初に新石器時代の有角獣と地母神の関係から始まって、その次にエジプトとメソポタミアの両方の影響を受けるわけで、ヒッタイトの時代にはアナトリア・ヒエログリフというエジプトのヒエログリフのアナトリア半島版ともいうべき象形文字と、楔形文字の両方を使用していました。従って「神」を示す言葉にも両方の書き方があるのです。でも、ヒッタイトも一応は印欧語族に入るので、もっとヨーロッパの古代の文化に近い要素も入ってきているのです。例えば、遊牧民の文化から発展した古代のヨーロッパでは
「豊穣の大釜信仰」
というものがあります。これは北欧神話に目立つのですが、要するに神話的には、中身を食べても食べても減らない、と言われる「魔法の鍋」みたいなものに対する信仰といえます。現実の祭祀的にはこれが「死と再生の象徴の釜」みたいな存在になるわけで、要するに生贄を捧げて煮て、その代わりに神様から豊穣とか永世というような御利益を得よう、というような信仰ではなかったのかと思う。で、どうもそれに似た信仰を描いた壁画があることはあるのですが、供物を捧げられている先の神サマが「アテフ冠」を被っているわけで、オシリスなんじゃないですか、それ? と思うわけです。どうも犠牲を捧げられる相手が、北欧のオーディンとかケルヌンノスとか言われると、ヨーロッパ系の神サマということで違和感を感じないわけですが、
オシリスが大釜で犠牲を捧げてもらっている図
というのはなんだかとっても違和感を感じるわけです。しかも、場所はヒッタイトで古代エジプトでもないわけですから。こんな感じで古代のアナトリア半島の文化は習合的な文化ですので、時代が下るほどに次第にギリシャ・ローマ化するのですが、それでも失われない
族長ヤコブ的な穏やかな豊穣を望む文化
がそこにはあったと思われるわけです。そのような思想を守ってきた人の心の強さとか、それをいかに残酷に潰そうとする人々がいるのか、とかそういうことを考えさせられるわけですが、まずは資料の作成に励みたいと思うわけです。

合成神サバジオス

トラキアの神サバジオスをアップしてみました。これを訳していた時、丁度ピレウス帽についても訳していたので、どちらの項も文章は多いし、ローマやギリシャの風物に疎い私には、1行毎に知らない事が書いてあって、訳しては調べ、調べては訳しの繰り返しで、本当にいつまでたっても終わらないのではないかと思いましたが、やっとアップすることができました。
この神は綴りを見ると、ヘバト(Hebat)とディオス(Dios)の合成神であることは分かるのですが、何故かなり性質の異なる2神、しかも女神と男神で性別も違うものを強引に習合させているのだろう? とまずそれが謎でしたし、その上にこれがローマのユーピテル、ギリシャのゼウス、ユダヤのヤハウェと各地で習合しているわけです。で、トラキアあたりではそれを「唯一の神」と称して「一神教」として信仰する向きもあったようですから、習合と合成を重ねて、神を一つに纏めてしまえば、確かに見かけは「一神教」かもしれませんが、それを「一神教」と言っていいのだろうか? とも思うわけで、これでは「一神教」も「多神教」も「言い方の違い」の問題でしかないようにも思うのです。
どこの「唯一絶対の神」も、それぞれの都合に併せて習合・合成されており、その取捨選択の微妙な違いに、宗教等を基にした民族差別が存在している、というのがなんとも嫌な感じがするわけですが。このような「合成神」の概念を初めて知ったので勉強になりました。文章は私にとってかなり難しかったので、今までで一番自身の無い訳となっています。拙い点は笑ってご容赦下さい。
あとは、ヘバト等の語源を調べて、論文もいくつか読んで思ったのですが、どうやら「Sius」というヘバトの別名と、「Dios」というゼウス系の神の名を「同じ語源」として纏めてくくろうとする傾向が強くて、若干呆れております。専門家がそういうこと言うなんて、誰もどっかのリケジョの論文に文句言うどころではない気がするわけで。要するに、どんな論文でも「論文なんて書いちゃったもん勝ち」というのが、いわゆる「専門家」の世界の流儀なのではないでしょうか、と思うくらいです(苦笑)。
また、簡単なイスタヌ女神をアップしてみました。ひげも無いし、スカートを履いているのに何故「男神」扱い・・・? というのはもう書き尽くしたように思いますので書きませんが。

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