だいたいのデータの引っ越しや、新しいソフトのインストールは終わりましたが、細かい作業をちょこちょことやっていた一日でした。OsをXPから7にアップする際には、アプリケーションを全部入れ替えすことになるとネットで読んだのですが、レジストリに影響を与えないような単純なアプリケーションなら、データファイル的に扱って、まとめて「Windows_old」というフォルダに残してくれているようですので、バックアップをとっておくのを忘れて、「もう使えないかも」と諦めていたソフトが使えるようになったり、「何とかなる」と思っていたものが使えなかったりと、多少の悲喜こもごもはありましたが、少しずつ作業も復活しつつあります。
OSを入れ替えたところ、古いPCでは、時々モニターが真っ暗になって、「ディスプレイドライバーが応答を停止しましたが、正常に回復しました」というメッセージが出るようになりました。これが酷くなると再起動がかかってしまうようで、どうやらXP時代から続いている不具合は、ディスプレイドライバー回りの異常のようです。古いPCを買った時には、「ともかく文章さえ書ければ良い」としか考えていなかったので、CPUもグラフィックボードも何もかも一番安いものしか買ってありませんので、たぶん、どれもあまり性能が良くなくて、本当の原因がどこにあるのかはよく分かりません。作業が立て込んでくると良く落ちた気がしますので、処理に負荷がかかると症状が出るのかもしれないし、ネット上で調べても、「これ」といって原因がはっきり特定できるものではないようです。とりあえずサブマシンには重い仕事はさせず、それこそ簡単な文章書きとか、そういうことに使おうと思っています。
それから、OSをアップグレードしましたので、HPの表示フォントをメイリオ優先にしてみました。XPの頃は、メイリオをインストールしてもそれほどメリットは感じなかったのですが、7にしてみたら、やはり読みやすくなったように思います。今はOSも8.1まで出ている時代ですから、これからのWindowsOSの主流はやはり7&8ということになるのでしょうか。メイリオに切り替えるにも、良い時期のように思います。来年には9も出るという話ですし、技術は相変わらず日進月歩です。
作者別: Bellis
少々間が空きました
ここ数日、ブログが更新できませんでした。今までXP機を使っていて、サポートが切れた後も、
「まだ使えるし、大丈夫」
と思っていたのですが、サポートが切れるのをまるで待っていたかのように、ブラウザがフリーズしまくったり、PCの起動が不安定になったり、と不具合が連発しましたので、良い機会だ、と思って新しいPCを買ったわけですが、よく考えたら、古いPCもWindows7のダウングレード版を買ったものだから、OSさえ入れ替えれば不具合が無くなるかもしれない、ということに気がついて、結局2台体制で使ってみることにしました。古いPCを捨てるにしても、中に入っている個人情報を削除するのが大変ですし、最近グラフィック関連のソフトをよく使うので、1台でパワーが足りない時には、もう1台あっても良いかな、と思ったわけです。それで、おととい新しいPCが来て、古いXP-PCからデータを移して、新しいPCのメンテナンスをして、古いPCのOSをアップグレードして、とずっと作業をしていましたので、時間がかかって疲れるばかりで、ブログを更新する余裕がありませんでした。
新しいOSでは、XPに入っていても、ほとんど使わなかった余計なアプリケーションを入れず、メモリを圧迫していたフォントも最低限にして、機能をだいぶスリムにして使ってみるつもりです。それからWindows Live Writerを入れてみましたので、ブログの更新がちょっと楽になるかもしれません。これからもマイペースでHPの更新を続けられると良いな、と思います。
ニゲラの花が咲きました。去年は種を蒔く時期が遅くて、うまく花を咲かせることができず、今年は3月末にせっせと種をばら蒔いてみましたら、やっと花を咲かせることができました。家の近所では、判で押したように青い花しか見たことがなかったのですが、やや紫がかったピンク、青、白と様々な花色があるようです。ここまでやっとこぎ着けてうれしいです。
夢
朝方、バスに乗っていて、誰か隣に座っている夢を見たわけですが、ふと前を見たら会いたい人が乗ってきたので、私の方から隣に座りに行く、という夢を見ました。瞬間的にうとうとしながら見た夢でしたが、会えて良かったと思います。
夏に雪を蒔く天候神
普段私はあまりテレビを見ないのですが、おとといは出先でたまたまテレビのついているお店に行ったので、そのお店で用が片づく間テレビを見ていたら、相葉ちゃんの出ているミスドのCMが流れていたわけです。で、夏なのに(というか夏用の冷菓商品の宣伝ということで)小型の降雪マシーンを2台抱えて相葉ちゃんが雪を降らせてましたので、「水色の天候神が2つ?」とかって思ったわけですが。
本日はテリピヌの記事をアップしました。メソポタミアの楔形文字は、横書きで右から読んでも、左から読んでも可な文字で、そういう点からの神のバリエーションもたくさんあって、テリピヌというのは単純に「ニヌルタ」の逆読みなのだ、ということに気がついて「うーむ」と思ったのでした。単純に書いた言葉を逆に読んでいるだけなら、それは「ほぼどちらも同じ」と言って過言ではないわけです。で、メソポタミアのニヌルタはニンフルサグの息子であり、名前からしても「太陽神」的な名ですから、ニンフルサグを男性形に変えた神ともいえると思うのです。古い時代の文化は、主に農業文化と牧畜文化があって、双方が共存できるように様々な形での「習合」が試みられて、「軍神」としての神の性質は牧畜文化から来ているわけですが、誰もが平等に暮らせるように様々な努力が成されていて、その結果が各地の「神話」なのだと思うようになりました。だから、逆に「牧畜文化」の人たちだけが威張ってる文化には、農業文化の人々の神だけを犠牲にするような傲慢な神話が作られるわけで、神話を見るとそこに暮らしていた人々の「思想」が分かる、とそういうことなのだと思います。テシュブとテリピヌは、どちらもニヌルタに近縁性の高い神ですが、ヒッタイトの神話では、太陽女神の夫がテシュブ(シュメールではエンキ)、息子がテリピヌ(シュメールのニヌルタ)という感じで纏められ、メソポタミアではそれぞれ仲が悪くて喧嘩ばかりしていたのが、みんな仲良く暮らせるように神話を作っているのだと思います。だから、ヒッタイトの思想は、古代において「平等」ということを大切にした、ある意味「理想の思想」なのだと思う。テシュブもテリピヌも本来同じ神であるけれども、一方は夫で、一方は息子だから、テリピヌに相当する方は「年下」なのでしょうか? とそんな風に思うわけでーー;。2つの似たような「天候神」、だけど異なる「天候神」なわけなのだと思います。
今日は、Hey!Say!JUMPのsmartから気に入った曲を纏めたりしていました。「はじまりのメロディ」とか、なかなか良い曲だと思います。
6月の悪夢
20年前の6月27日に「松本サリン事件」があって、私の同級生が一人亡くなったわけです。当時、私は学3(要するに医学部の5年生ということ)で、事件のあった日は講義も休講になって、当初は何が原因なのかも分からずに、全体にピリピリした空気が漂っていたように思います。で、2コマ目の時間に、学3も学4の講義室に集められて、学4のクラス長が、泣きながら彼女の死を報告してた。あまりにも、突然過ぎて衝撃的な事件でした。(なんで、学4の彼女が私の同級生なのかというと、私が1年だぶってるからなわけですが)
ここ1ヶ月くらい、ハンナハンナに取り組んで、類話を考察して、どうも自分でも良く分からない点があって、なかなか前に進まなくて。で、アップして気が付いたわけです。6月27日っていうのは、だいたい夏至から5~6日のところにくるんじゃないのか、と。それが神話的に示唆することはただ一つ、曰「タンムーズの葬式」。
あの時、あの教室にいて、沈痛な面持ちをしていた人たち、泣いてた人たち、彼らは、もしこの世に「神」というものが実在するのだとしたら、その時神に何を願ったのだろうかと思う。タンムーズの死に嘆き悲しむふりをする人たちのように、死神の復活を望んだのか、それとも正義を願ったのか。それは私には分からない。私は「神」というものの存在は基本的には、信じる人ではなかったし、その後のマスコミと警察の迷走ぶりはまだ知らない段階だったから、もっと単純に「法治国家」というものの理性を信頼していたし、その内容に自分が口を挟めるような立場ではないと思っていた。そういうことは警察や司法に任せるべき問題だと思ってたし、民主主義とは、間違ったことがあれば、たとえ一人であっても、法律に則って誰に対しても正統に権利を主張できるもの、であると「悟る」ようになったのはもっと後のことで、だいたいあの時、私個人に何か主張できる「権利」みたいなものがあるとも思っていなかったし。だって、死んだのは私ではないのだし、彼女の死を悼むことはできても、彼女に変わってその権利を主張することはできない。
かくして、泉水ちゃんの時と同様に、死は私の近くを足早に駆け抜けていき、その後の警察やメディアの動きも含めて、「世の中ってこんなことが起き得るんだ!」という深い衝撃だけが残ったわけで。私の受けた衝撃と、その時に感じた孤独感を知っている人はいたかもしれないけれども、直接に私が話せた人はいなかった気がするわけで。当時、信大病院は、あの騒ぎの中、自分のところの学生以外は受け入れない、みたいなことをやっていて、確か一命を取り留めた同級生も、民間の病院に入院していたように思う。
私がこの件に関して、同級生達の言葉で印象に残っているのは、とある人が、同じクラスの某K氏が、事件の後、怯えて泊まりに来て困った、と愚痴をこぼしてたことと、誰かが、信大病院の姿勢を批判するようなことを言ってたことだけだった。実際、患者の治療を断るような真似しておいて、治療法を纏めるような場にだけ、主人公面して仕切ろうとする当時の信大病院の姿勢はどういうものかとは、私も思っていました。(でも、この「誰か」というのが、どうもちょっと正確に思い出せないというかーー;。大人しそうな人だけれど、時々こういう鋭いまっとうなこと言う人が言ったような気がするのですけれどね、違ってたらゴメンね、という感じなわけで。福山君の海月っぽい「暁」とか聴いて思うこととか無いですよ。それはきっと気のせいかとーー;。)
そして、20年たって、とかく最近の世の中は、神話的に暗喩的に思えて、どうも私にとっての「世の中」とはそういうものなのであろう、と悟るようになったわけですが、先週も先々週もMステには泉水ちゃん絡みのVTRが流れていて、「揺れる想い」も「負けないで」も好きな曲ですけれども、なんで今更泉水ちゃんなんだろう? とは思ったわけで。今の彼女の曲には「死の臭い」がどうしてもつきまとうように思うからです。それで気が付いたのですけれども、夏至の時期に彼女の曲を流すことにも「暗喩的な意味」があるのかも、ということに。泉水ちゃんの死に、何か暗喩的な意味があったのだとしたら、人々はそこに何を見たのだろうかと思う。
かつて、すぐそばにあった「理不尽な死」に対して、何の反応も無かった者が、怒りに目覚めた時に、そこにいたのは「正義と平和を愛するアテーナー」であったのか、覇王アレクサンドロス3世の胸に輝くのが相応しい「破壊と死の女神メドゥーサ」であったのか。でも、本当はそのどちらでも無いのだと思う。
「死が穢れ」というけれども、死は誰にでも訪れるもので、自然なもので「穢れ」なんていうのがおかしいのだと思う。神を「死神」にしたいから、「理不尽な死」を捧げるのだというのならば、それはその「死」が穢れているのではない、何の罪も無い人をそんなことに利用しようとする者の性根こそが「穢れて」いるのです。理不尽なことに怒りを覚え、正義を求めて、理性と理論で戦うことができるもの、それが「人間」だと思うから、ただ、そのように人としてありたい、と思うだけです。でもまあ、世の中にはいろいろな「目」があるということも分かってきた昨今ですので。そういうものに惑わされずに人としてあることも大切なのだな、と思います。
ここ2年くらいで、急変した生活の中で、「最初」と「最後」という言葉とか、「ありがとう」という言葉とか、なんだかキーワード的な言葉をあちこちで見かけたわけですが、遂にその場所でも「最初」とか「最後」という言葉を見かけるようにもなったのだな、と思う。夏至の季節を乗り越えて、神が誰かの死を得て、復活するものなのだという思想こそが消えて欲しいものだと思います。何年の時を経ても、神とはそのようなものではあってはならないと、人としてそう思うだけだから。それだけのことです。