夢その他

昨夜は、大学時代に私が居た医局で講師をやっていた先生が夢に出てきまして、この人は今教授をしているのですが、夢の中でとてもここに書けないようなことをやらかしてくれましたので、目が覚めてから
「なんで、この人の夢を今更見たんだろう」
とか
「どこかの法王が近くの国に来ているから、バチカン効果!???」
と思ってみたりしました。

今日は雨が文字通り、降ったり止んだりという天気で、雨の晴れ間にカワラヒワ達が10羽近い群れをなして、人の家の近所を飛び回っていました。人間に怖い思いをさせられたことがあまりないのか、割と人家の近くまで来ています。家から遠いところのひまわりの種は大分食べられてしまいましたので、家の近くの収穫したい種のところにいつやってくるのか、こちらも気を張っています。
昨夜見た嫌な夢の代わりに、昼間音楽を聴いていたら、「BEST FRIEND」(SMAP)、「BELOVED」、「HOWEVER」(後の2曲はGLAY)が続けてかかったりしまして、今日は立派な角を持った牛さんが何だか近くに居てくれるような感じがしていました。

ニゲラの種

ニゲラの種が次々と実っています。この花は、花が咲いた後、花の中央部が風船のように膨らんで、その中に小さな黒い実がたくさんつきます。既に蒔いた以上に収穫できましたので、まあまあ良かったかな、と思います。この花は、おととしに苗で植えてみたのですが、移植に弱くて枯れてしまい、去年は種を蒔く時期が遅すぎて花は咲いたものの実がならず、今年は3月末に種をばらまいたところ、ようやく種の収穫までこぎ着けました。どうも、近所のと比べると花が咲く時期も、実がなる時期も我が家は遅かった気がするのですが、あまり早く蒔いても芽はでないでしょうし、我が家ではこれが精一杯といえます。花はコミツバチが好んで寄ってきていましたが、種を取るために膨らんだ部分を開くと、今でもかすかに良い匂いがします。

 

最近では、早朝にカワラヒワの声で目を覚まし、彼らの姿をチェックしつつ、いつひまわりの種を収穫するのかを考える日々が続いています。ヒワさんたちは、一家総出で朝早くにやってきて、お腹いっぱいヒマワリの種を食べた後、近所じゅうのヒマワリの種の出来具合をチェックしてから飛び去っていきます。まあ、その姿もかわいいといえばかわいいのですが。ヤマガラは遠くからヒマワリをチェックし、スズメはミニヒマワリの種がなくなってから来なくなってしまいました。

お盆です

といっても、それほど特別なことはしないのですが。今年はもう台風が来ましたし、天気は急速に秋に近づいているような気がします。

 

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暑くなってくると、ハナバチ以外にもいろんな種類の蜂の活動が盛んになります。この子は、朝、とある葉の裏に停まっていて、何をしているのかと思ったら、丈夫な口と前足で葉にしがみついて、中の足と後ろ足で必死に花粉だらけの羽をこすっていました。身だしなみを整えるのに夢中で、人間が見ていることもお構いなしの様子がほほえましかったので、ちょっとピンぼけですが、1枚撮ってみました。

アモールとプシケー

今日は比較的暇な一日だったので、8日に放送されたMステをもう1度見てみました。だいたいどの放送も2回は見ますし、キスマイの回だけ1回見て終わり、というのも不公平な気がしましたので。
で、カナちゃんの普通にどうでも良さそうな自己完結的な歌を聴いていましたら、ふっと、「たまには抱っこ」と言って抱きついてくる白鳥さんの図が浮かんで来まして、「うっ」と思いましたが、こういう図はだいたい自分では選べませんので、とりあえずはまあ、抱っこしとけ、みたいな、そんな感じが浮かんだわけです。
で、湘南之風を見ていましたら、やっぱりどんなに迫力があっても、こういうのは、特に太めの殿方は苦手だわ~、と思って見ていましたら、ふっとマヨネーズのCMの福山君の後ろ姿が浮かんで来まして、更に「好きなのはセクシーな背中」とか浮かんできまして、ちょっと待って、「殿方のセクシーな背中を見るのは嫌いじゃない」とは言いましたが、「福山君のセクシーな後ろ姿が好きとは言ってないでしょ!?」というか、何故この場で浮かぶのが「セクシーなお尻が好き」じゃないの!? というか、そういう気分になりまして。さすがに虎の子もどっかで「図太いねー」と言っていた気がするのですがーー;。いったい何のためにMステ見たのかしら? という気分にはちとなりました。

 

神話のお勉強の方では「アモールとプシケー」の神話を軽く復習していたのですが、Wikipediaではアモールのことをクピードー(英語読みだとキューピッド)としていまして、ちょっと違和感があったわけです。私がこの話に最初に触れたのは「アモールとプシケー」というタイトルで触れたのですし、その類話は世界各地の民話の中にたくさんあって「アモールとプシケー型民話」なんて言うものですから、こちらの呼び方の方が私にはなじみが深いのです。
アモールの名は、AMという子音が基礎ですから、メソポタミアの天の神アンあるいはアヌ、古代エジプト神話のアメンと近似性の高い名前です。
キューピー=クピードー=アモール=アメン=羊のコロン=ベス
って、繋がりますねえ、そういえば? それでカロリーハーフなんだ!? 生活感のなさげな独身貴族がなんで調味料のCMに? ってそういうこと?? みたいなーー;。
どうも世の中には、虎の子のセクシーなお尻を取り持ってくれるよりも、自分の背中をアピールするアモールがいるような気がしてならないのですがーー;。プシケーの名の方は「PSK」ですから、「蛙のベス」みたいな変な名前なのですが。
キューピッドというのは、「KPT」な子音ですから構成的にはテシュブの「TSB」に近い名ともいえます。クピードーとアモールの双神が取り持つ「愛」ですか。そうですか。それで以前見た、彼と福山君が送っていってくれるという夢に繋がるんだ、とようやく気が付いたわけですが。神話という者を読み解くのも意外とタイヘンです。(でも福山君が関わることは、たいていは分かる。何も知らなくてもアモールとプシケーとか調べたくなるわけですからーー;。)

 

<追記>要するに、厳密に述べれば「アモールとプシケー型」の神話は、2世紀のアプレシウスの小説に端を発するものであって、世界各地の同類型の神話かつ民話は、全てここから出たものといえる。要するに各地の「アモールとプシケー型」の神話の拡がりを見れば、それがいつの時代にローマの影響を受けて成立したものなのかがいえる指標となるものなのだと思う。なぜなら、このローマの小説は、ヒッタイトの「イナラとフパシヤス」の神話を男女逆転させたものだから、古い時代のものは「イナラ・フパシヤス型」に準じるものとなるからです。
朝鮮における鉢里公主の神話もその類話といえますが、日本における大物主神話もその類型といえる。そして、この神話における一大特徴は「妻」にあたる女性が一度は死なねばならない点にあり、その起源は更に「エンリルとニンリルの神話」にまで遡るものといえます。
要するに、大物主神話が成立した時には、このローマの文化が既に入ってきていたのだし、時代から鑑みて持ち込んだのは原始キリスト教だったのだと言わざるを得ない。(鉢里公主に至っては夫神が弥勒・ミトラスなのだから言わずもがなですし。)
ローマ神話におけるクピードーの母神はウェヌスですので、子音的には「BNS」、すなわち「BNK」に近い音であり、それはフェニックスと同じ構成ということになります。要するにアプレイウスは「殺す神」である「母神」をウェヌスとし、「殺される神」であるプシケーと分けていますが、ウェヌスの元は「蛙の太陽女神」であり、プシケーが「蛙のベス」であれば、それは両方とも「同じもの」であり、二つに分けたに過ぎない。そして、「蛙のベス」には死んだ後に神となれ(要するに「死ね」)という要求が突きつけられているわけです。
大物主神話で、大物主の正体を見て死んでしまう倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓は箸墓古墳であると言われており、かつ近年では箸墓古墳は女王卑弥呼の墓ではないかと言われています。現実がどうであるのかは私には分かりませんが、そういう説が強く現れる背景には、卑弥呼が倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)、すなわちプシケーあるいはニンリルであるという暗喩も含まれているのではないかと思います。
弥生時代に、この国に水稲耕作を持ち込み、非常に早い時期に大和盆地に定住したのが、羌族の末裔であったとすると、彼らは伝統的な生きた炎帝の文化を有しており、その炎帝とは女性であり、「神と人との身分違いの愛」の神話がそこにあったとすれば、それは「イナラ・フパシヤス型」のものであったと思います。なぜなら、羌族の伝統文化は母系の文化であり、女神信仰が優位だからです。そして、そうすると彼らの女王であった卑弥呼とはその時代の「炎帝」のことであったのだと思う。
しかし、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)を卑弥呼に見立てようというのであれば、それは卑弥呼をプシケーに見立てることであり、本来あったはずの「イナラ・フパシヤス型」の神話を「アモールとプシケー型」に書き換えようとするものだとも思えます。まるで、ローマ時代にアプレシウスが、蛙の女神をそうやって抹殺しようとしたかのように。お盆が近いだけあって、アプレシウスの飽くなき亡霊が目の前を通り過ぎたかのような、そんな気がした一日でした。
要するにアモールあるいはアメンを取れば殺されるぞ、というそういう警告ですかねえ。まあ、なびかないって分かっているから、全力全開で誘惑してくる白鳥さんもいるわけですがーー;。本当に毎度のことながら、福山君が関わることには無駄なことも、そつも全くないように思われます。

(そういえば、私は箸墓=卑弥呼の墓、ということにはあんまり興味を示さない人でしたねえ。事実はともかく、そこに作られている「伝承」がそもそもろくでもないものなわけだ 呆)

それでも人命は大事です

現在、イラクでは武装過激派が少数派のヤジディ教徒を弾圧し、彼らは危機的な状況にあると言われています。
ヤジディ教というのは、イスラム教、ゾロアスター教、ミトラ教などが混合した宗教と言われ、部分的には(特にミトラ教については)起源が非常に古い宗教といえます。しかし、正式に確率されたのは12世紀頃のようです。この宗教は一神教ですが、神と人との仲介としてターウース・マラクという天使を持ち、この天使が信仰の中心であるようです。ヤジディ教においては、この天使は「良い天使」ですが、ムスリムの側からみれば、この天使は「悪魔的である」ということで、歴史的にたびたび弾圧の対象とされたようです。
個人的にこの宗教が気になるのは、「ヤジディ」という言葉は、例によって子音に分解すると「d-d-d」となって、「蛇」としての要素しかその名に持っていないこと、そして「ターウース・マラク」とは子音的に「タウロス・MK」と近縁性の高い言葉となるということがまず挙げられます。「タウロス」とは「ディヤウス」と近縁性が高く、かつ地中海沿岸地域では「ミーノータウロス」に象徴されるように「人の犠牲を要求する牡牛神」のこととなります。要するに「父なるプタハ」と同じものです。一方の「MK」とは「メヒト」女神から、女神としての接尾語である「t」を省いた言葉ですので、「ミトラス」の「ミ」の部分と同じ言葉といえます。ミトラスとは、メヒト+ラーの合成語であると私は考えています。メヒト・セクメトとは古代エジプトの荒ぶる獅子女神達ですから、「ターウース・マラク」とは「タウロス・メヒト」も同然の言葉で、どちらも「人の犠牲を求める荒ぶる神」が発祥であり、かつ印欧語の「ディヤウス」と近縁性の高い神の名から派生した「天使の名」であると言えます。これが古代世界であるならともかく、12世紀というのは、中東地域ではすでにムスリムが大勢を占めている時期ですし、かつローマ・カトリック教会が東方に飽くなき「邪眼」を向けている時期でもありますから、何故ローマ的な神の名を持つ天使が、この時期の中東に登場したのか、という点については非常に意図的なものを感じると言わざるを得ません。ミトラスはゾロアスター時代からの神かもしれませんが、「タウロス」はどうなのですか? と思わざるを得ないからです。
ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは、子音でみると「KK・MKD」となりますから、「蛙・メヒト」というような意味になり、全体からすれば蛙の神と蛇の神が1:1という構成になっているのです。しかし、ヤジディでは蛇のみが全面に押し出されていますから、その神話がゾロアスター教に似ているとしても、それは根本的な精神において、「異なるもの」といえ、そこに「蛙」の要素が入る余地が無いように思えます。

 

一方の「イラク・シリアのイスラム国」(ISIS)は、ISISといえば、古代エジプトの女神イシスですから、なんでこんな略し方をする名前を選んだのだろう、というしかありません。どうにもこちらも「異教的」な気がしないでもありません。しかも、項羽がやったみたいに坑をしているようですし。

 

こういう事件に関しては、ナルニア国シリーズを書いたルイスの言葉ではありませんが、「タシの神の名において良いことをしたのであれば、それはアスランの名によって行ったのと同じ事。アスランの名によって悪事を行うのであれば、それはタシの神の名において行ったこと。」と述べるしか無い。アッラーフの名によって、罪無き人々に対して坑を行うことは、ミトラスの名によって行ったのと同じ事、ミトラスの名によって良いことを行うのであれば、それはアッラーフの名によって行ったのと同じ事、とそう言い切るだけの寛大さと良識が現代社会には必要であろうと思いますし、宗教の違いによって他者を「悪」と決めつけることこそが「悪」だと思う。神というものは、現代社会においては、どのような名前であろうと、多かれ少なかれ蛙の神と蛇の神が混合習合したものであり、結局は突き詰めればどの宗教であっても、両者は分かちがたく、区別もつきにくいものへと変貌しているのだから、どのような名の神を信奉しようと、最後に測られるのは、ただその人の良心と生き方のみであると私はそう思うだけです。オバマ大統領が弱者保護のために軍を動かすというのであれば(まあ、裏にはなにがしかの政治的な思惑もないわけではないのでしょうが)
、それは正しいことだと私は思います。