漠然と

いろいろなことをやっています。

最近、唐突にそろそろ3DCGでもやろうか、という気持ちを起こしまして、「さて、どのソフトを使おうか」ということになったのです。国産で有名な有料ソフトといえば「Shade」と「メタセコイア」があるわけですが、「Shade」ってどうも「影」みたいな名前ですし、「メタセコイア」も「生きた化石」の名前ですし、もうちょっと何かないだろうか、ということで、考えた結果「SketchUp」というソフトに行き着きました。国産ではありませんが、日本語で使えますし、ネット上での様々なモデルも使えますし、個人で遊ぶ分には充分かな、ということでダウンロードしてみました。このソフトは以前に少し触ったことがありますので、全く使い方が分からない、というわけではないのですが、身についていないことも多いので、ちょっとずつ勉強しています。
そして、3DCGといいますと、だいたい「凡庸的なモデリングソフト」「景観ソフト」「植物系のソフト」と細かく分野が分かれていて、得意分野で作ったモデルを最終的に一つのソフトに読み込んで、レンダリングするということになりますので、景観ソフトとして「Terragen」、植物系ということで「PlantStudio」をダウンロードしてみました。
で、レンダリングはSketchUpと相性の良いKerkytheaとMaxwellを入れてみました。(もうできるだけ無料で済ませようという意図が見え見えですが。)
で、PlantStudioの使い方を少しだけ覚えて、3ds形式で吐き出して、SketchUpからMaxwellでレンダリングしたものがこちらです。

flowerweb

作り物感はベタベタですが、そもそも私は3DCGにリアリティーをあまり求める人ではないので、まあ、良いかな、と。で、これとほぼ同じものを取り込んで作ってみたものがこちら。

 

houseweb
なんだか花だけ微妙に発光していそうな絵ですが。こういう絵も、個人的にはあまり嫌いではありません。
それ以外では、良い天気が続いていますので、花の種を収穫、整理したり、芽が出たひまわりや百日草の世話をしたりしていました。

ポテトサラダ?

まずは恒例の「夢」から。夢の中で私は何かの資格試験を受けようとしていたのですけれども、何かスケジュールが二つ重なってしまっていて、試験を受けられない、けれども頑張って受けようとする、という夢を見ました。で、移動しようとして電車かバスに乗ったところ、なぜかそこに信州大学医学部の某検査室の某教授がいて、こっちを見ていたわけで、
「げっ」
と思ったわけです。で、その後、どこかを歩いていたら、会いたい人がふと横に現れて、ぴったりくっついて
「こういう時のかわし方を教えてあげる。」
と言われて、懇切丁寧に教えて貰った、という夢を見たのでした。でも、その内容は目が覚めたらさっぱり覚えていなかったわけで、ただただ、珍しくも
「天候神と長い間ぴったり密着しちゃったわ。」
みたいな、ちょっとうれしい気持ちが残ったのですが、それ以外はなにせ急に暑くなりましたし、なんとなく落ち着きが無くてあまり何も手につかなかったような一日でした。

でも、種々の事情からImage Readyでのgifアニメの書き出しかたとか勉強していました。私は一応Adobe CSの正規ユーザーですので、一応Windows7でも、こういうソフトを使っているわけです。

で、夕方、日記を書こうと思って、ついでに福山君のHPも見ましたら、キューピーのカロリーハーフのCMで「ポテトサラダ編」とやらがキューピーのサイトにアップされているとのことでしたので、さっくりと見に行ってみました。で、その内容はというと、

 

高い山を背景にして、その前に立っている福山君が、得意そうな顔をしてポテトサラダを食べているというCM

 

だったわけですが、途中に「どこかへ続く道」とか「川が合流する絵」とかが挿入されていて、そして最期に高い山の前にカロリーハーフが映し出されて、空に飛行機が飛んでいたのです。

空に飛行機が飛んでるじゃん!!

ということで、そういう点に関心の高い我が家なわけですが、それは兄さんとキューピーが高い山の前に立ちはだかっていて、そして二つの川が合流するのが近い、ということですか? ってふと思ったわけです。(兄さんはアモールで、キューピーはテシュブですものね。)

「二つの川」というのは、もしかしたら「犀川と千曲川」のことかもしれないとも思ったわけですが。なんとなく悶々とした一日の締めくくりに、

一番インパクトの強いところをさらっていくのもやっぱり兄さんなんだ!?

ということで、こういうタイミングでCMの告知をしてくれるチーム福山のスタッフの方々も、本当にすごいと思った一日だったのでした。(でも、兄さんは「スパルタ」な感じなんで、私個人はあんまりスタッフにもなりたくないとか、そういう気持ちしかないわけですがーー;。)

地味にいろいろとあった一日

まず、「夢」から。なんというか、夢の中ではまだ学生で、学生時代に住んでいたアパートに住んでいて、数学の練習問題を解こうとするのですけれども、教科書に書いてあるのがわけの分からない記号と、複雑な分数みたいな数式で、
「こんなの習ったっけ?」
と思いつつ、解こうとしても解けない、という夢を見ました。

で、朝、半分寝て半分目が覚めているような状態で、ぼーっと「ココカラ」「生きてく強さ」「もっと強く君を抱きしめたなら」を聴いていましたら、ふっと
「福山君を忘れさせるように頑張るから。」
とかいう言葉が浮かんだ気がして、はっと目が覚めました。そして、思ったこと
「なんというか、私と福山君は現実には会ったことすらないんですけれども、何か不適切な関係があったかのような、そういう「不適切発言」を何とかして!?」
ということで、朝っぱらから何事? と思いながらブラウザを立ち上げましたら、福山君が「るろ剣」で「比古清十郎」の役をやるというニュースが目に飛び込んで来ました。主役の佐藤健君は「比古清十郎の役には福山さんがぴったり」とか言っているらしいです。そういえば、剣心の師匠ってそういう名前だったっけ? というか、「清十郎」ってそんな「海幸山幸」みたいな名前の登場人物が出てくる漫画は今ならば読まないところですが、確かにそういう名前の役柄は「福山君にぴったり」かも、と思うわけで、朝ぱらっからの夢はおいておいて、「そうなんだ~」と思ったわけです。確かに毎度毎度そつの無い兄さんです。

そして、昼。朝の夢のことを思い出して、福山君のことを忘れる? というか、唐突に心の中にふっと現れる「白鳥さん」の存在は意識して消すとか、忘れることとかできるものではない気がするのですけれども?? と思っていましたら、
「全く、その通り」
というプラカードを持った白鳥さん登場、ということで、あれま、というかなんというか。どうにも白鳥ゼウス・サバジオスは女の子を口説くのがうまいようで、甘える時はべったり甘えてきますし、ばっちり決める時には格好つけて決める、というわけで、硬軟併せて口説くことができるタイプらしいです。でも、ご当人的には
「虎の子と牡牛の子と再会する件は、兄さんに任せておけ。」
とか思ってるらしいですよ? みたいなーー;。

そして、夕方。「先生・上司にしたい音楽アーティスト」ランキングとかいうもので、福山君が1位をとったというニュースがネット上に載って、にっこり笑っている福山君の写真が添えられていました。虎の子がにっこり笑っている写真は、知っている人しか知らないわけですが、こうやってニュースサイトに載ってしまう福山君の方が、確かに悪いけれども「気」は強そう、ということで、KAT-TUNの自虐的な「In Fact」の歌詞が微妙に頭に浮かんだりするわけですが。(ええと「弱ささらしても」とかいうあたりーー;)とりあえず、大きな山は一つ乗り越えたのかな、と思います。

あとは、SMAPが「相反する二面性を持ち合わせた男を表現する。」というコンセプトのアルバムを発売するというニュースに「ん?」と思ったりとか、今日はやけに「らいおんハート」がたくさん流れたな、とか、そういうことが印象的だった一日でした。

それから、長雨が続いたせいか、花が枯れた百日草からできた新しい種がさっそく発芽してしまっているのを発見しましたーー;。残りの種を回収して、発芽したものは冬が来る前にまた咲くかも? ということで植え直してみました。今日は久しぶりの晴れ間で、暑いけれども良い一日だったと思います。

夢その他

音楽を聴いて寝たら寝たで、どうも歌っている人に口説かれるような夢を見たようです。でも、あまりインパクトが強くなくて、目が覚めたらよく覚えていなかったような。とにもかくにも、夢の中に出てきてインパクトが強いことにかけては福山君に勝るものはありません。

で、キューピーのCMの福山君が薄いクリーム色(マヨネーズの色とも言いますが)のジャケットを着ていたのが気になっていて、そういえばバチカンから韓国に来ているじいさんもクリーム色の服を着ていたな、と気が付いたわけです。ベテホルンの父なるコロン・ベス・サバジオス・ゼウス・アメンは羊がトーテムのイザナギなわけで、「クリーム色の上着」を着ているんだ、なるほど。と、気が付いたのでした。さすがに兄さんは、そつがないというか、無駄なことをしないというか、夢に出てきても、現実でもインパクトの強いことしかしない人だな、と思ったわけですがーー;。

今日は、旧約聖書のヤコブとラケルをちょっと調べていたのですが、ヤコブがテシュブの変化した名であるならば、ラケルはクク(蛙)から変化した名であると思います。母系信仰の強いヒッタイトでは、ヘバトの方が主神ですから、「誰かを犠牲にする」というのであれば、イナンナードゥムジ的に男性の方が犠牲になるという傾向が神話の上で強いのですが、テシュブは本来フルリ人の主神ですから、男系的なフルリの思想においては、蛙の妻を犠牲にするイザナミ的な神でもあったのだと思います。それが、「ラケルが子供を産んで死ぬ」という旧約神話に投影されているのだと思う。だから、「テシュブ」という神の立ち位置はそもそもヒッタイトと、純フルリ的な文化の中では異なる傾向にあるわけで、純フルリ的な文化に近づけば近づくほど、その性質はゼウス・サバジオス・コロンと一致する傾向にあるのだと思います。それがローマ神話のキューピッド=アモール(要するにテシュブ=アメン)という思想に現れているのだと思う。
一方、旧約では同じ「蛙」から発生しても、夫から余り愛されていないレアの方は子供を産んで死んだりはしていないわけで。(最もその名はヘブライ語では良い意味ではないのですが。)旧約神話は、古き祖神神話を、「人間の先祖の話」におきかえる時に、蛙の女神をレアとラケルに分けて、片方を生かし、片方を殺すというような折衷的な内容になっているのだと思われます。だから、妻と共に歩むヒッタイト的なテシュブと、妻を食べてしまうエンリル・ゼウス的なテシュブの二面を「ヤコブ」という存在は内包しており、文民統治主義なのか、それとも略奪主義なのか、という矛盾した二面性はやがてイスラエルそのものを2つに割ってしまうのだと思われます。その芽は、既に彼らを一つに纏めるための神話の中に内包されていたのです。(イスラエルの12部族というのは、実際上は同盟的な他民族集団であり、行動を共にすることで一致していた人々であったと思うのですが。)
そして、2つに別れたあと、近東を離れた集団は、最終的にヤコブとレア・ラケルの神話を、「ニニギとイワナガヒメとコノハナノサクヤビメ」の神話にしてしまったのだと思います。丈夫であるけれども夫に愛されないイワナガヒメと、美しく夫に愛されているけれども儚い命のコノハナノサクヤビメです。しかも、夫に不貞を疑われたコノハナノサクヤビメはラーマヤーナのシータのように、火を放った中で出産するわけで、記紀にはそれで彼女が亡くなった、とか書かれていませんが、それはイザナミの最期やシータの最期(いずれも焼け死んでいる)と同じ最期を暗示しています。そして、そのコノハナノサクヤビメの象徴が「不死の山」である「富士山」なわけですから、そこにも「子を産んで死んで不死の神になれ」という思想が透けてみえます。

そして、穀霊として祀られているニニギは、ユダヤ教的には穀霊として祀られるヤハウェとその性質が一致しています。要するに、「ニニギ=テシュブ=ヤハウェ」となるのが古きユダヤの思想、そしてその前身である古きフルリ人の思想なのだと思います。彼らが奉じる「青い目のラケル」はやはり、殺されるだけの女神であるのでしょう。
私は、ヒッタイト的文民統治的三神主義とでもいうべき理想の思想が、もしあるのであれば、何故ヒッタイト的にテシュブを夫にしてはいけないのかについてずっと疑問に思ってきました。だけど、その神には二面性があり、妻を食い殺すゼウス的ヤハウェでもあるから、とってはいけないのだとやっと気が付いたわけです。古き女神信仰を守れる夫神は、どんな暗闇も優しく照らし出すコンライトの神様のみであるらしいです。(でも、古き巴蜀的多夫主義ではどちらも「夫」なのでしょうけれどもね。洋の東西では「三神主義」の解釈にも微妙な違いがあるわけだーー;。)

だけど、余談ですが、西洋的にはテシュブ=ヤハウェ=ゼウスという思想も強いから、キューピッドとアメン・ゼウスもほぼ同じもので、ゼウスがテシュブの代理人を務めることもできるんだ!? とか思うわけですが。代理人の方が力が強くて、そつがなくて、コワい気もするわけですがーー;。ま、近々良いことがあれば良いな、とは思うわけですが。

今日も雨降り

というよりも、昼間から雷が鳴って、激しい雨が降り、まるで嵐のようでした。夜は夜で、「変な夢」を見ないように音楽を聴きっぱなしで寝ています。

ローマの思想を調べれば調べるほど、「奴隷は死ぬまで働かせて、死んでから神として祀って、気持ちの上でだけごまかせば良い。」という思想が透けて見えてくる気がします。そうすれば、死んでいく人にとっても「死んだら神のようになれる」という気休めになりますし、遺族も「無くなった人は神のようになったのだから」と考えて誤魔化されるからです。でも、生きている人にとって大切なのは、生きている時に、どれだけ人間的に充実した良い人生を送れるか、ということなのではないでしょうか。「死んだ後にああなる、こうなる」と言って、生きている時には惨めな奴隷のままで良い、と思わせることそのものが間違っているのです。それは人が人間らしく暮らすのを邪魔するための方便にしか過ぎないのではないでしょうか。そして、私の経験からいって、死んだ後のことを盾にとって、人を思い通りに動かそうとする連中に限って、ろくに働きもせずに遊んでいるような気がするのですが。
神というものが、どういうものなのかということは、私にもよく分かっていないのかもしれません。でも、神が人にとって「良きもの」であるならば、それは人の生活を惨めにするものではないし、「改宗したら地獄に落ちる」とか「改宗しなければ殺す」とか、そうやって死と抱き合わせで人を拘束したり、脅したりするようなものではないと思います。良き神であるならば、ただ、人間らしく幸せに生きるために、自分にとっても、他人にとっても、「神」なんてものにとらわれずに、よりよい生き方を模索して欲しい、と願うのではないでしょうか。
例えば、自分の信者がどこかで迫害されていたら、良き神であったら、改宗でも何でもして生きて幸せになって欲しい、と願うものだと思う。自分の信者を助ける努力もせずに、ずっと後になってから「殉教者」とかいって、良い者のように表向きだけ扱ったとしても、それで亡くなった人の生涯が、惨めなものではなかった、ということにはなりません。彼らがどんな立場であれ、人間らしく生きていけるように配慮する義務を「神」の方が怠っており、それを誤魔化すための「殉教者扱い」なのではないかと思わずにはいられません。
そして、もし「神」というものが、国家の大歓迎を受けるような存在であるならば、表向き「弱者の施設」を訪問して「弱者によりそう」なんて言うのもおかしな話です。それだけ「権力」というものに近いところにいるならば、政府を、そして政治を動かして、「弱者のない社会」を何故作ろうとしないのでしょうか。もちろん、そういう弱者の中に信者がいれば、彼らからの「善意の献金」は受け取って憚らないのでしょう? どんな少額でも? と思うわけで。

弱者を奴隷のように搾取して幅からない。死んだら神にしてやる権利が我々にはあるのだから。と、それがローマの言い分なのではないでしょうか? 2000年前も今も? と思うわけです。そして、それをアプレイウスが私に教えてくれているわけです。