ふと考えたこと

要するに神サマの世界には「見合うこと」「見合わないこと」とあることのようですが、例えばこの私が「生の豊穣の太母」だとすれば、それを損なうようなこと、例えば地震に乗じて、原子力発電所を爆発させようとすることは、「私の取り分を冒すこと」に他ならないのだから、それこそが「僭越な行為」であり、私がそれを止めようとしたことこそが「当然の私の取り分」なのだから、それに対して敵がどうのこうのと言うことそのものも「僭越な行為」であり、こうした「僭越な行為」の連続が相手に「貸しを作る」ということなのであれば、この私がその「貸し」を取り立てて、何が悪いのか? ってそう考えただけなわけですが。だいたい「全て」が私に属するものなのであれば、どんなビデオだのアニメだのを見ようとも、それを「勝負」だのなんだのと言うことそのものが、「僭越だ」と思うだけです。今のところはね。

さて

昨夜は、最後に羽生結弦君の2012年と2014年の世界選手権の「ロミオとジュリエット」を見て欲しい、ということで見て見ました。どちらも羽生君は白黒の衣装を着ていますし、ロミオとジュリエットというのは、「敵同士」の家柄なのに、互いに好きになってしまう二人の物語と言うことで、蛇の兄さんと、蛙の私のことを意識して演じてくれたもののようです。白黒の衣装は兄さんの象徴ですし。
本来は、氷上のスポーツなんて、我が家には良くないものですし、勝負事もよろしくないものです。だから、それは「見てはならない」ものなわけですけれども、結局いろいろと「敵の取り分」と「味方の取り分」という風に線引きされている今の世界では、「敵の取り分」とされているものの中にも「良いもの」はあるのだから、境界を破壊して、それを「自分の取り分として再生できること」が「破壊と再生の神の力」だと考えられているらしいです。要するに彼はそのことを私に教えようとしてくれているし、私たちならいつかはそうできると信じて、フィギュアスケートの世界に身を置いているわけだ。そして、父権社会のヨーロッパでは、太父としての兄さんにそのような力を期待しているようです。要するに現状でいえば、羽生君の「ロミオとジュリエット」は味方のものだから取って欲しいし、「オペラ座の怪人」はどうみても敵の取り分だから、取って欲しくないもので、その区別がつくようになって欲しいということなのだと思います。フィギュアスケートだから、全て駄目っていうふうにはしないで。

で、その間にも蛙の人たちが、「女神よ、あなたはあまりにもおっかないから、我々は永遠にあなたのことは忘れません。」とか言ってくるわけで、何というか、正直で真面目な蛙さん達からは、いつも心底うれしくなるようなお褒めの言葉を頂けて嬉しいですよ? 本当に? という気持ちになるのですがーー;。お目付役からは「あなたがあの男よりも冷酷になってどうすんですか?」とか言われるわけで。もー、じゃー、どーしろと?(苦笑)と思うわけですが。

そして、寝ようとしていると、兄さんが「夫婦って言ったって、現実には自分は表向き一生独身なんだし、二人が夫婦だったっていう証も残すことは許されないし、覚悟していたし、分かっていたつもりだったけれども、ただただ悲しい。」って泣いているものですから、「あー、兄さんも普通の男の人の幸せを全部諦めなければならなくて可愛そうだな。」と思って、ちょっとほろっとしましたら、お目付役が「冷酷なあなたならその男に流されたりしませんよね。」とか言うわけで。私が冷酷な理由の一つには、どうにも有能なお目付役の存在がある気がするんですけれどもねえ? って本気で思うわけですがーー;。

で、朝方耳元で「生きてる生きてく」って囁かれて目が覚めましたら、丁度「生きてる生きてく」がかかりまして、で、そのあとにゆずバージョンの「守ってあげたい」とJUJU姐さんバージョンの「守ってあげたい」がかかりまして。そっかー、ゆずバージョンは、二人からで、JUJU姐さんバージョンは兄さんからのお歌なんだ-、と思ったのですが。「生きてる生きてく」はストレートに「君と子孫(遺伝子)を残したいんだ」っていう歌ですからねえ。確かに、この曲を最初にMステで聴いたときは、「独身のはずのこの人も誰かと遺伝子を残したくなったのかしら?」とはちらっと思った気はするわけですが、さすがにこういう展開になるとはねえ、ということで。しばらくは、この曲を兄さんは一生懸命プッシュしてくれるんじゃないのかな、と思いますが。確か、誕生日に見た夢で、1番目の子から結婚指輪を貰ったら、次の瞬間、福山君と新婚生活を送っている夢を見て、「何故@@」と思ったことがありましたが、その頃からそうするって決めてたんですね、兄さん? って思うわけで。
で、起きた後、気が付いたのですが、どうも関係者はみな「目の力」が強くなってきているようで、兄さんとか一番目の子もそうなっているらしいです。で、誰かさんは強くなった自分の気をもてあまして、どうもどこか遠くで「気」で咆哮を上げていたようで、それは何となく感じたのですが、そうすると「朝からうるさい」とか「黙れ」とか「静かにしろ」とかいう呟きが私の方に回ってくるんですけど?@@ みたいな。

で、その後は、勝負というよりは、いろいろお勉強させて頂くために、いろいろと動画を見ていました。B’zのお二人の動画を見ていると、稲葉さんは周囲を圧倒するような気を発しているわけですが、でもそれでいてご本人にはまだ力のほとんどを使っていないような余裕を感じるわけで。「それで稲葉さんは、こちらの視線が届いても平気なんだ。」と兄さんが呟くわけで、強い力を持ちつつ、人間性も安定して優れている稲葉さんは、兄さんの憧れの方であるらしいです。

で、その後、まずはKinki-Kidsのお二人から見たわけです。お二人は、二人だけの時には、剛君の方が「歌を送る方」で、光一君の方が「守る方」なのだと思います。守っている時の光一君は、歌詞の一言一言に、周囲を圧倒するような気を放っている気がします。で、光一君の方が力も強いと思います。でも、バックにJrとかがいるときには、光一君も「送る方」に回っているわけで、そっかー、Jrとかのバックダンサーの意味は「守るため」にあるんだ、と分かったわけです。そうすると、歌を送る側はそれに専念できるからです。

そしてその後は少年隊の「君だけに」を見て欲しい、ということで見たわけですが、みなさん、白黒っぽい衣装を着てらっしゃって、「あー、これ兄さんのお歌だな。」と思ったわけです。1987年の歌ですから、まだみんな高校生の頃の歌ですねえ、今の兄さんからはなんだか想像がつかないくらい純情な歌だな、と思ったわけですが。少年隊は、今でも第一線で活躍してらっしゃる東山さんの力が安定して優れていると思います。だいたい、週刊誌のインタビューとか読んでも、意志強固な方らしいですし、気の力も意思の力も優れた方なのだと思います。(「そうです、東山さんは我々の憧れの先輩です。」っていう声があちこちから聞こえてくるわけで。)

その後はTHE ALFEE。おそらく「星空のディスタンス」は2番目の子の歌? という気もしないではありませんが、3人の中で一番力が安定しているのが桜井さん、で、次は高見沢さんだと思うのですが、高見沢さんは目の力はそれほどでもないように思われます。目力だけだと坂崎さんの方が上に感じる。だから全体でいうと、桜井さん>高見沢さん>坂崎さんという力関係だと思うのですが、「目」に関しては坂崎さん>高見沢さんなのかな、と。でも、きっとお三方がおっしゃりたいのは、誰が力が上とかそういうことではなくて、お三方がずっと仲良しでTHE ALFEEをやって来られたように、こちらの男の子3人にも力を併せて仲良くやっていって欲しい、ということなのだと思うのですが、なにせ兄さんは「仲良くするのは表向きだけ。」っていう人ですのでねーー;。どこかで、会うことがあったら「気」で蹴飛ばしてやって下されば、それが一番の薬になると思うのですが(って書くと蛙の人たちが「全くその通り」って言うわけですがーー;)。でも、基本的にはなんとなく、皆さんは一番真面目な子を可愛がって下さっているような気がなんとなくするのですが。彼の真面目で優しい性格は同性の年上の方々から可愛がって頂いているように思います。(まあ、兄さんとかはあんまり可愛げのある性格には思えませんからねえ 苦笑。)

その後は、昔懐かしい「女性アイドル」というものをいくつか見て見ようということで見たのですが、たぶんお味方なのは、有名な中では小泉今日子さんくらいなんだと思います。で、小泉さんでもいつも良い曲を唄われていたとは限らないわけで、私がいろんな曲を聴いていた大学時代は、本当に暗い気持ちになるようなよろしくない歌ばっかり身の周りにあったんだな、と思うわけです。
で、敵の側の「アイドル」というものをいくつか見て見ると、なんというか大きく分けて2種類に分かれるように思われるわけです。一つは、要するに女性アイドルだとファンは主に男性と言うことになりますので、客席とかから放たれる男性の気みたいなものを受けるのが楽しくてたまらなくて、やっているタイプです。そういう人たちの目は、客席から寄せられる気だけで満足しているのか、それとも現実でもつきあう男性の気を喰うのが好きなのかという違いはありますが、そういうことが楽しくてたまらないのだという気がします。おそらく、現実でもつきあった男性の気を食いちらかして、飽きたら捨てて別の男に乗り換えて、そしてそういう能力がある自分自身の生き方も楽しくてたまらない、ってそういう目をしている人もいる気がする。なんというか、それこそ夫を食い散らかして、飽きたら捨てて地獄に突き落とし、別の男に乗り換えるイナンナ女神の性欲を象徴するようなタイプというか。(「『芸能人の夫を食い散らかして捨てて、他の男に乗り換えろ』みたいなことを示して、暗に煽るようなことをやってるような例もありますよねえ?」と兄さんが言うわけで、「あー、それってミ○○ンのこと?? まあ、でも私自身に『芸能人の夫』がいるって気が付く前にそんなことされましてもねえ??」と思うわけですがーー;。)

で、もうちょっと性質の違うのが、何というか男性と同じで、自分の目の力を知っていて、それを目的を持って利用できるタイプな気がします。そういう人たちが果たそうとするのは、男性の心を操ることだけではないわけですから、場合によっては女性も対象になり得るわけで。で、昔、明菜派とか聖子派とかあったなーと思って、この2人を見てみたのですが、明菜ちゃんとかはこういうタイプなんではないかと思います。いやな感じでも「目の力」はけっこう強い感じです。きっと私が彼女の曲を好きだったのも、その「力の強さ」に惹かれたからだと思う。でも、年が進むにつれて、ライブでの彼女の目の中には、次第に怯えているような陰が目立つようになってきているように思われますので、現況を見れば、明菜ちゃんも「力を使いすぎてしまった」傾向が強いのではないかと思う。
で、一方の聖子ちゃんは、あまり力は強くない感じに思われます。特に年をとってからは、年齢相当の図太さみたいなものが出てる気がしますが、若い頃から時々、目にちらちらと「不安の陰」みたいなものが出てる気がします。でも、彼女の優れているところは、そういう「無理をし過ぎていて出る不安感」が出ると、ふっと力を抜いているのが分かるわけで、そういう不安感が目に出てしまっても止められないで走り続けることしかできない人たちに比べれば、バランスをとって力を使うことに長けており、それが彼女の長続きしている秘訣なのだと思います。まあ、でも「力」そのものを愛でる傾向が強い私は明菜ちゃん派だったわけだ。(しかも、あの鼻声がどうにも好きになれなくてですねえ? みたいなーー;)

で、一番すごいと思ったのは森高千里でしょうか。昔ね、2番目の子とつきあっていた頃に、彼が「森高は嫌い」って言ったことがあって、私の方は何も知らないので「そういう人の悪口を簡単に言うみたいなのはどうなんだろう。」って内心思っていたわけですが、でも今森高の若かりし頃の「私がオバさんになっても」とか聴くとですねえ、明菜ちゃんみたいな目的意識を持って使っている目力で「絶対あいつをあそこから引き出してやる」って言っているわけで。他のアイドルは目的はどうであれ、その力はお客とか、見ている人全員とか、割と普遍的に使う傾向が強いわけですが、彼女は明確に標的を知っていて、それを意識して力を使っていたわけで。「あいつって誰? っていうか、その「あいつ」って私のことにしか見えないんですけれども。そっかー、それで2番目の子はそのことを警告しようとしてたわけだ@@。」と分かったわけですが。でも、私はどうにも「鼻声」って受け付けないタイプでしてねえーー;。もうあの頃から、私は明確に「標的」にされていたわけだ。

それから、小泉今日子さん。よろしくない歌でも、私の思い出の中に強く残っている曲をいくつか聴いたわけですが、中に「優しい雨」という歌があって、あー、この曲買って持ってたな-、と思ったわけで。で、聴いてみると歌詞の中に「私のすべてに目を反らさないで」っていう言葉があって、そこだけ自分の昔の2番目の子に対する気持ちと強く共鳴するわけです。私が彼に送りたいと思った曲はZARDの「Boy」とこの曲のこの部分だったんだと思う。彼が尾崎豊の「I LOVE YOU」を唄って、私が「Boy」を唄って、たぶんそこのところまではお互いの気持ちは通じていたと思うのですけれども、「優しい雨」は良くない曲だから、そこに気を取られてしまっていて、彼はこの気持ちには気が付かなかったのかもしれないと思う。自分のことを全く理解されていないという気持ちは私の中に昔からあったし、2番目の子の方は彼は彼でやらなければならにことに必死で、結局若い二人の気持ちはすれ違ってしまったわけですな。(って書くと「それが『力』の差」って呟く兄さんがいるわけですがーー;。まあ、兄さんも確かに「良い性格」ではあるのですけれども、私の性格の一番の理解者であることも否定できないと思うのでね。)

で、あとはジブリアニメの予告編とかいくつか見てたわけですが、「ハウルの動く城」関連を見ていると、ソフィーとカルシファーが映っている場面で、「ソフィ-、ソフィ-、本当にそんな男でいいの? ハウルさんのことを忘れないで。ハウルさんが魔と対決する時にソフィーの肩を抱いていたように、あの病院で辛い思いをしている時に彼がそうやって肩を抱いていてくれてたのを感じていたでしょう。たとえ、彼にはそれしかできなかったとしても。」って言われるわけで。あー、そういう感覚は何度もありましたし、確かにそれに支えられていたことは大きかったですけれどもね。要するに現状で言いたいことは、兄さんの「千と千尋」を使うなら「ハウル」も使えってそういうことなわけね、と思うわけで。じゃあ、そうしましょうかということになると、毒蛇兄さんが「ちっ」って言うわけで、どうも兄さんはハウルの中では、自分は主人公どころか、「火の悪魔」ということで、人間でもないのが面白くないらしいです。じゃあ、ナウシカのテトはどうなの? って聞くと「あいつにはそれで充分」って言うわけですからね。もー、本当にこれ以上私にどうしろと? って思うわけですが。とっても冷酷にならないとやっていけないのですな(苦笑)。

魔の時間ですな

ええと、ついでに「ラピュタ」と「もののけ姫」の予告編を見たわけで。

「ラピュタ」はですねえ、要するに主人公のカップルの名前が「パズー」と「シータ」って言いまして、で二人併せて「破壊(とかつ再生)の力」を持つわけだ。「パズー」っていうのは、要するに「アメン・ベス・ネルガル系」の「伝統的な破壊(と再生)の軍神」なわけで。一方の「シータ」ってのは、蛙の女神の名前なので、要するに「破壊性を持つ蛙の女神」の象徴ということで、平ったくいうと、「エレシュキガル」というメソポタミアでイナンナと対を成す、いわば「イナンナ・エレシュキガル」とも言うべき「死の太母」の象徴なわけ。要するに、「パズー」と「シータ」っていう組み合わせというのは、「ネルガルとエレシュキガル」という「破壊と再生の夫婦神の象徴」であって、それを「取り分」として取るからには、その力を正しく使い、良くないものを破壊し、かつ残すべきものを再生できるような、強力な「力」と、それを使いこなせるだけの「人間性」が必要とされるわけで。だから、兄さんがラピュタが好きなのは、そしてそれを買い戻したいと願うのは、それができるのは彼が「伝統的な破壊(と再生)の軍神」として認められた時で、それだけの男だと認められたことになるからです。

で、一方の蛙娘はですねえ、「蛙の女神」っていうのは世界中見回すと、「生と豊穣の女神」から「死の太母」まで守備範囲が広いので、この私がどういう蛙娘か誰も良く分かっていなかった、ということで。ともかくつい最近に至るまで、みな、ラピュタが買い戻せるかどうかは兄さんの力量によるものと思っていたわけだ。

そして、現在のところ、「破壊(と再生)の軍神」としての権利は黙示録等で、明確に敵がその権利を主張しており、彼らはそれに乗っ取って、あちこちで争乱を起こして悪さをしてる。それだけに、それを「取り分」として主張できる力量には相当なものが必要なわけで、下手して負けちゃうと自分が潰されるか、自分の力を相手に利用されるだけになってしまう。

で、一方の「もののけ姫」。なんていうかですねえ、最後にいた病院と同じく、最初にいた病院でも「同じ事」が私に要求されていたのだと思う。「もののけ姫」は破壊性の強いアニメで、死の匂いが強いから、あれも買い戻すことはできない。しかも、何よりも私は「主人公サン」では無いと思うから取れない。たぶん1997年のあの時点では、みな私が「人ならぬ所に住んで、死者の世話をさせられていて、人ならぬ存在とされている」だけの存在にしか見えていなくて、ともかくそこを抜け出して「生きて生きて生き抜いていって欲しい」と思っていたんだと思う。それだけでもできたら、私には上等だ、と。だからみんな言ってた。「医者じゃなくたっていいじゃない。生きていくのに最低限必要なお金さえ稼げて、それでささやかにつましく生きて行ければそれでいいじゃない。」と、呼びかけてた。その方が、例え何の力もなくてもせめて「人として生き残れる可能性は高い」とみな思ってたわけだ。まあ、おかげさまで次の年には、蹴り入れてやめちゃったわけですが。そして、兄さんの方にはあくまでも「お前のあの娘の不幸が癒やせるのか?」と突きつけられていた。神としての力をほとんど持っていないのに、その立場になってしまった娘の不幸を、癒やし守れるだけの存在になれるのか? と。まあ、兄さんもちょっと前くらいまでは、そういう気持ちでいてくれたように思うんですけどねえ? と言うしかないわけで。

それが何だか、今になると「魔」から突きつけられた勝負には、「そんな風に妻の力を自分の道具として使うような男が許せるのか?」とか言われてるようですので、なんだかね、皆様の中で、ずいぶんと私も出世させて頂いたというか(苦笑)。たぶんね、「もののけ姫」の登場人物の中で、誰が一番私に近いのかといえば、それは主人公のサンではなくて、烏帽子であるのだと思う。だいたい「烏帽子」という名前が遊女を連想させる名であり、かつ物語の中の烏帽子は、そういうこともやったかもしれないけれども、自分の守り育てる小さな健全な村を守る情熱と優しさは人一倍であり、それなのに彼女自身はそれを守るために何でもやってのける、という矛盾した存在として描かれる。そして、彼女の目も、「そうするためなら何でもやる」という魔的な情熱に溢れている。どうにもね、私もそういう性分ですのでね。だから、私は「力」を好むのだと思う。そうできるだけの「力」が欲しい、と常に欲しているからだ。そういう私の欲を満たしてくれる男がいるのであれば、彼が妻の力を道具としてどしどし使うような冷酷な男でも全然結構である。戦いに必要なのは、どんな戦いでも「力」であって、「人間性を失わないで居て欲しい」なんてのは、結局勝ったあとの綺麗事な話に過ぎないのでね。まずは勝つことが先である、と。それだけのことですともさ? 味方からならともかく、敵から余計な世話を焼かれるようなことでは全くないですともさ。
(でも兄さんはすごく男気のある良い人だと思いますけれども? 個人的にはね。)

たぶんね、2番目の子とつきあっていた時に、私は彼が何か私には言えないような悩みを抱えていて、何か「戦わねばならないものがある」とは気が付いていたと思う。だから、そのことを正直に言って欲しいと思っていたし、彼が言ってさえくれれば、彼を支えて、共に戦っていくのに、といつも思っていた。彼にそれを言うだけの力がなかったのか、言えても言えなかったのかは知りませんけれども、そうしなかったから、結局蛙の人たちは、自分達の太母を自分達だけのものとして取り戻すことが永遠にできなくなったんだと思います。言ってくれてたら、私だって烏帽子のように、あなたたちを守り抜こうとしたと思うんですけれどもね。

 

ネルガルとエレシュキガルで結構。それでラピュタを買い戻せて兄さんを喜ばせて上げられるなら、それだけでもそう名乗る価値はあると思いますけれどもね。

アニメ日和

昨夜、夕飯の時にMステを見ようということになったのですが、兄さんがぐだぐだにならないためにサポートがいっぱい入って下さったようで、っていうか、ものすごく大勢の人の気配がするわけで、小さい蛙の人とか小さい蛇の人が周りにいっぱいいるような感覚がするわけです。で、兄さんは「支えるっていうのは『衆人環視』ってことかい。」と呟くわけで、要するにみんなで見てれば、兄さんも面子があるので、あんまりぐだぐだにならないだろう、とそんな感じだったらしいです。

で、福山君のライブの告知の映像は、見返せばそれほど長いものではなかったわけで、黒いスーツ着た福山君がけっこうとんがった感じで映っていたというか、そんな感じであって、まあ確かに「爽やか好青年という感じではない」という感じでしたが、まあ、私の中での「福山雅治」という人のイメージはだいたいあんな感じというか(正確にはもうちょっとナンパな感じですかねえ。だいたい「生きてる生きてく」くらいなイメージだったわけで)。で、兄さんは「あれは営業用。」って呟くわけですが、周囲からは
「お母さん、ああいう男が好きなんだ-。不良だ-。」とか「お父さんも不良だ-。」とかいう呟きが聞こえてくるわけで。いや、好きなんだ?って言われましても?? ああいう人なんじゃないの?? っていうイメージしかないんですけど@@。みたいなーー;。
で、どうしても一瞬映っただけでも、福山君の胸元あたりに視線がいってしまうわけで。そうするとまた、
「胸元を見たぞ。」とか「胸元をまさぐってるぞ。」とか「へー、そうやって見るんだ。」とかいう呟きが来るわけで(苦笑)。

それから、寝た後、朝方「生きてる生きてく」と「わたしは風になる」が続けてかかって目が覚めたわけで、「生きてる生きてく」は「子供が欲しい」ってような歌に聞こえますし、「わたしは風になる」は「戦いの後に会いにいきます」というような歌だったよなー、と思って目が覚めたのですが、その後、兄さんと他の二人から何か「お願い」をされた気がするわけですが。まあ、よろしいんじゃないですかね、別に、ということで。

 

で、起きてから、某ニュースサイトを見に行きましたら、なんというか、どこかの「法王」みたいな人のニュースが写真付きで載っていまして。それで閃いた兄さんが言うわけです。「そうか、別に宮司じゃなくたって、こいつでもいいわけだ。」と。それで、「ちょっとこれ見て貰える? だって、あなたこれ見ても別にカトリックに改宗したいと思わないでしょ。見るだけなら減るもんじゃなし。」ということで。「あー、いきなり頂上対決ですか? っていうか、こんなお手軽なことでいいんだ?@@」と思いながら、見て見たわけで、だからといって良く相手の反応も分からないというか。で、30秒くらい見ていたわけです。その他にも何人か「見た」気がするわけで。

その後、いくつかPV等を見ていたのですが、平原綾香嬢の「はじまりの風」を見ていた時に(彼女もけっこうやな感じの目をしてた気がするのですがーー;)、「そういえばこの曲は昔良く見ていたアニメの主題歌だったな。」と思い出しまして、「じゃ、今の目でアニメがどう見えるか、見て見ますか。」ということになったので、「彩雲国物語」のオープニングのアニメとか探してみたわけです。で、見ていると、1番目の子が、すごく気持ち悪がっているのが分かるわけで、「え? なんでこれで気持ち悪いの?」と思ったわけですが、どうも彼が言うには、アニメの登場人物は、実在の人物でもないですし、要するに「敵に踊らされている人でも『人は人』」ですが、そこにあるのは「生きてもいないのに踊らされるだけのもの」ということで、要するに「生の豊穣」を大切にする人には「死体が操られて踊らされている」もののように見えるらしいです。アニメって。そっかー、それだからアニメとか漫画とか(場合によってはフィクションの小説も)駄目なものなんだ。登場人物が全部「生きているもの」ではないから。ということで。でも、兄さんだって「星矢」をキーワードに使ったでしょ? って聞いてみましたら、兄さん的には漫画は好きでも嫌いでもなくて、帳尻あわせのために買うことはあっても、読めばすぐに捨てちゃうでしょ、あんなもん。ということで、どうも私みたいにため込んだりするのは相当な「悪食」なんだ、それ@@。と思ったわけですが。

で、その後Mr.Childrenの動画を見て、「終わりなき旅」の2011年のライブバージョンを見ていたわけです。ミスチルの桜井君の歌い方も兄さんとちょっと似ているというか、伝えたい言葉を強調して唄うような、歌い方をしているわけで。そして、曲にすごく入れ込んで唄う方だとも分かるわけで、そしてこの「終わりなき旅」は「昔の恋なんて忘れちゃえ」みたいな歌詞がありますから、それだけでもう「兄さんの歌」だなって分かるわけです。ここのところで、怒ってるのは「兄さんの歌」の一大特徴ですのでーー;。そして、見るとうまく言えないのですけれども、桜井君も蛙の人なんだな、となんとなく思うのです。GLAYが2番目の子を応援しているのだとすると、ミスチルは蛙でも兄さんの応援をしている人たちなわけだ。で、「終わりなき旅」への桜井君の感情移入もすごくて、そこには事態をそこまでにしてしまったことに対して、敵にも味方にもものすごく怒っている、まさに龍神の咆哮と激情があるように思えて、まるでこちらも巻き込まれてしまってちょっと腹が立つような感じがするわけです。あー、2011年ですもんね、この頃の兄さんの本音は、こんな感じであって、福山君のライブとかから感じるよりもずっとはっきりこっちに出ているわけだ。と思ったのですが、そうこうしていると、兄さんが誰かとハイタッチしている気配とかあって、「ん? 何かあったの?」と思ったのですが、更に1番目の子がすごく気持ち悪がっているのが分かるわけで、そしてみんなが「見返してやれ、見返してやれ! やり返せ!」って言ってるのが聞こえるわけで、どうも朝見た写真のあたりから反動が一番弱い子のところに来たらしくて、それはほっとけませんので、朝見たじいさんの写真を今度はもっと念入りに見て見たわけです。そうすると兄さんは、ものすごく攻撃的な気を送り込むわけで、1番目の子は気持ち悪くなっちゃったようで、そういう時の兄さんは「弱いものは潰れておれ!」って、ものすごく心優しいことしか怒鳴らないわけですーー;。で、誰かがサポートに入って下さって「あなたはあれを見てはいけません。目を閉じなさい。」って言っているわけです。そして、後ろで守ってくれていた1番目の子の気配がすっと消えて、そこに2番目の子が入ってくるのが感じられるわけで。で、30秒くらいしたら、兄さんが「もう止めましょう。」って言うわけで、見るのを止めましたら「止めるな! もっと勝負を続けろ!」って怒鳴っているのが聞こえるわけで、「何、それ?」と思いましたが、どうやら兄さんによると「視線が相手に届いている。」のだそうで、兄さんは「止めるなってことは、もう欲しくてたまらなくなってるな。自分は、こちらが見たいときに見て、見たくないときにうっちゃられるだけの「奴隷」だと思い知ればいいさ。」とか、超温厚な性格むき出しで、すごいこと言ってるわけで「げっ」と思ったわけですーー;。で、2番目の子も「そうか、こういうやり方があったんだ。」って驚いているわけで。

で、その後はまたいくつか動画を見て、そういえば2012年に、いろんなことが始まるときに、「家に籠もらなければならない」と言われて、「どのくらい?」って尋ねた時に、Mステで嵐が「1年」って言っていて、Mr.Childrenが「365日」を唄ったのを思い出して、「365日」を見て見たわけです。そしたら、これも「兄さんの歌」だ、と気が付いたわけで、そっか、あの時、家を閉じる前に兄さんの代理人のMr.Childrenと、2番目の子の代理人の嵐がメッセージと曲を送ってくれていたんだ、と気が付いたのです。

そして、その後いろいろと見ていたわけですが、あまりよろしくないお歌ですけれども、「イノセントワールド」を聴いたり、「HANABI」を聴いたり、「シーソーゲーム」を聴いたりしていたわけです。「イノセントワールド」は良くない曲ですが、一部に良い部分もあって、悪い影響が出ないのであれば、それを使いたいと思った兄さんが、「これ使おうかな、どうしようかな。」と悩んでいましたら、周りから「あんた自分の悪い歌はとっとと入れておいて。」って言う呟きと共に、いろんなものが兄さんに投げつけられる気配がするわけで(苦笑)。いや、それ「誕生日に真白な百合を」(2013年リリース)のことでしょ? きっとそれは2012年に出された「Beautiful life」と対をなすもので、とってはいけないものであって、中には「会えなくなる」とか「死」を連想させる表現があって、よろしくないものであることは私も分かっていましたけれども、歌詞の一部にぬけぬけと兄さんが私への気持ちを入れてる部分がありますので、兄さんはそれを聴かせたがるし、私も聴きたいと思うので、聴いていたわけですが、でもPVの福山君の顔には「この曲を取らないで欲しい」って書いてあることも知ってはいたわけで(苦笑)。で、「イノセントワールド」は使うことに決めたわけです。
で、「HANABI」。これは良くない曲で、「もう一回」って歌詞がものすごくたくさん入っているわけで、で、兄さんが「これって誰の曲だと思う?」と聞くわけです。ええと、歌詞の内容からすると、「人生はケセラセラ」とかって言ってた人の歌? っていうか、げーっ、あれも私に歌を送ってたんだ?@@ と思ったわけで。兄さんは、「あいつこんなこと考えてたんだ。ってせせら笑うわけですし、びっくりしました。
それから「シーソーゲーム」。これは男の子達に争うようにそそのかしている歌だから、駄目と。

で、ついでの久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」を見たわけで、これも良くない曲ではあるわけです。で、何故か、久保田利伸を見ているとその後ろに、何かこちらに悪い気を送ろうとしている老人の姿が見えるわけで、でも、その首筋に小さくていやらしい目をした蛇女が巻き付いていて、じいさんの首を舐めたり嚙んだりしているわけで、じいさんはその感触ですぐ潰れちゃうまでは言ってませんが、真っ赤になって堪えていて、とてもこちらに集中できる状態ではない、と。それを見て兄さんが「あれも女の経験はあんまり無いと見える。」とか言ってせせら笑っているわけですが。っていうか、あの「小さな蛇女」って誰のことなんですかねえ? 自分で見てても嫌な感じがするんですけれども、「太陽の神サマ」ってもっと神々しいものだったんじゃないんだ?ーー; という気がするわけで。「いいじゃないですか。こちらだっていろいろ騒がれたりして、集中を邪魔されるようなこといろいろとされたんだから、邪魔仕返してやれば。」っていうわけで。

どうもね、神々の世界の力関係というのは絶対的なもので、力の強い方が、弱い者を操ろうとするのは、強い者にとっては、ご飯食べながらできるような超簡単なことらしいです。でも、弱くて踊らされるばかりの人からすれば、それは逃れられないものであるし、更に力がなければ踊らされていることしか気が付かないものらしいです。要するに力の強い人は、弱い人の写真を1枚見て、「ああしろ、こうしろ」と思えばそれで良いだけのことらしい。そっかー、それだからみんな「その力に溺れずに、人としての気持ちを忘れないで下さい。」っていうんだ、それは私にとっては「簡単過ぎる」ことだからだ。と思ったわけで。(でも、兄さんが中にいないと、自分ではうまく力を使えないわけですからね。もっとも、兄さんは「使える」と分かれば、速攻で頂上決戦を挑むような分かりやすい人でもあるわけですが。)

で、その後は、アニメの主題歌を見ていたわけで、「不思議の海のナディア」を見たわけです。ナディアは今では良くないものだと分かっているわけですが、これはいろいろな「因縁」を含んでいるアニメなわけで、まずそこから書きたいと思います。

ナディアの原案は、宮崎監督がNHKで連続アニメを作るために作られたもので、でも結局宮崎監督はそのアニメをNHKのためには作らずに、原案を元にして「天空の城ラピュタ」という映画を作ったわけです。でも、その原案はNHKの側にも残されましたので、NHKはNHKで庵野監督に依頼して、連続アニメを作り、それが「不思議の海のナディア」なわけ。だから、ラピュタとナディアは同じ原案を元にして作られた「双子のアニメ作品」といえるわけで、似ている部分も多少はあるわけです。で、ラピュタの方は良くない作品なわけで、何故かというと中に「滅びの言葉(パルス)」という言葉が出てくるわけで、そういう縁起でもないものはよろしくないということで。でも、主人公の名前から察すると、それは兄さんと私を応援してくれる意図も含まれた作品なわけです。

で、ナディアの方はというとですねえ、こっちもヒントはいっぱいあるんですけれども、内容は「良くない作品」なわけです。でも、私はナディアがずっと好きだったわけで、なんでかというとこれは2番目の子が、「好き」って言ったアニメなわけで、ずっと私にとっては彼との思い出のアニメだったわけで。
で、改めて見て見ると、このアニメの主人公はナディアという女の子で、父親は「ネモ船長」というのですが、「ネモ」というのは「アメン」に通じる言葉ですから、「父なるネモ船長」とは「父なるアメン」を暗示している存在なわけだ。で、見て思い出したのですが、このアニメの最後には、主人公のナディアは敵に操られてネモ船長を撃ち殺そうとしますし、実際ネモ船長は話の最後に死んでしまいますし。なるほど、これは「父なる神アメン(要するに兄さんのこと)」を殺してしまえという暗示に満ちたアニメなわけで、2番目の子はこれを私に勧めて見させる代わりに、つきあうことに成功したわけだ。それが最後に全部ぐだぐだになっちゃったわけだから、はっはっはっ、そりゃ兄さん怒りますよねえ(棒読み)。ということで、それで毎晩蛙の人たちのことを、「あいつら本当に意地悪なんだよ。」って呟くわけだ。まあ、直接愚痴を聞けるようなところまで話を進められればですねえ、好きなだけ兄さんの愚痴を聞き流して上げますので、言いたいだけ言ってくださいな、みたいな(苦笑)。

でもって、誰かさんは「ラピュタならその内に買い戻してあげられるかもしれん。」と呟くわけで。要するにそこに暗示されている「呪い」みたいなものの力よりもこちらが上であったり、それをこちらが自在に制御できれば、それはこちらの力として使えるから、取っても良いものになるわけだ。(そうすると「あいつ、世界のあちこちでパルスっていう気かい!」って突っ込みが周囲から来るわけで、あー、兄さんて怒らせればそういうことしそうな人ではありますけれどもねえ??ーー; とは思いますが(苦笑)。)

それから、良くないものをということで「千と千尋の神隠し」の予告編とか見て見たわけですが、要するにこれは「あの世」の話ですし、千尋があの世で、死人のために働く話ですから、たぶん我が家にとって、宮崎アニメの中で最大に取ってよろしくないものがこれである、と。そういうことなのだと思います。主題歌も「死」をイメージしていて良くないものです。で、この映画が、私にとってどの点がヒントとなり得たのかというと、これは2001年に発表されたものですから、要するにその頃から敵は私を狙っていて、陥れようとしていた。それで、

千尋にお金を握らせて、その代わりに殺そうとしていた「カオナシ」とは、あの病院のことです。あそこは「敵の本拠地」も同然であって、そこに誘い込もうと敵が画策していたことはみんな分かっていた。あの頃は、そのように直接敵と取引して代価を得るというようなことは、あなたの娘さんに「見合った行為」ではないと、敵も味方も考えていた。だから、敵は敢えてそうさせることで、娘さんを潰そうとしていた。宮崎監督はそのことを警告しようとして、敢えて見せてはならない映画を作って、最大限のヒントを送ろうとしていたのです。あそこで仕事を教えて貰えなかったのは、当然です。敵は、あなたの娘さんが彼らと労働契約を結ぶことを僭越な行為として、カオナシが千尋にしたように「潰す」ことしか考えていなかった。だから、仕事など教える気も、必要も敵には最初からなかったのです。確かにお金は生きていくためには大切なことなのかもしれないけれども、「見合った以上のことを行おうとすると潰される」ということはどういうことなのかということを知ってください。敵にとっては「支払う対価」がいくらだったかどうかなんて問題では無い。彼らはカオナシのように娘さんを、お金を与える代わりに潰すつもりだったんです。そして、本来であれば、清浄を保っていなければならないはずの娘さんが、彼らから「対価を貰って死者のために働く」ことこそが、誰にとっても問題だったんです。

って、うちの親に言ってくれ、とみなが言うわけですが。まあ、書くだけは書きますけれども、結局は結果オーライですのでね。それに、あそこで私が「死体をつつきながら対価を得ていて、なおかつ正常に生きていた」ということは、要するに「死の汚れを喰って私が生きていける存在」であることの証明であって、だからこそ、稲葉さんは「あなたなら出雲大社の穢れの中にでも入っていける。」とおっしゃるのだと、兄さんも気が付いたようですから。でもって、みんなは言うわけです。
要するに、私はあそこでピザは食べる、ハンバーガーは食べる、しかもゲーム、ビデオ、漫画と、よろしくないものはあり放題だった。そこで、敵は「怒り狂って自滅しろ」か「うつにでもなって自殺しろ」とか、そういう気しか送ってこなくて、そこで私は確かに「怒り狂って」いたかもしれないけれども、無秩序にその怒りを発散させることはなく、それを明確かつ的確に敵に向かって使ってた。要するに、それが私自身の持つ「力」であったことの証明である、とそういうことのようです。

そして、今となってはみんなが言うわけです。あの世で千尋が闇の中に消えてしまいそうになった時に、飛び込んできて、敵に酷使されていても、自分の命と引き替えにしてでも、千尋を助けてくれようとした小さな竜の男の子のことを忘れないで。彼は、もしもあそこであなたが潰れて消えてしまいそうになったら、自分の命と引き替えにあなたを助ける気だったのです。そして、それができるだけの力を持ったのも彼だけしかいなかったのです。その決意を伝えるために、宮崎監督はあの映画を作ってくれたのです、と。

そっか、その人には好みでもないじいさんをねめつけるようにお願いされてますので、忘れてる暇もなさそうに思われますが(苦笑)。そして、みな、この「千と千尋」の予告編の動画を「使え」と言ってくれる。この映画は買い戻せません。これに耐えうるのは鈍感な私と、せいぜい兄さんであって、他の二人にとっては「死の穢れ」が強すぎるからです。それは私にも分かります。(でも、予告編を「使う」だけでも、「境界を越える」ことになるらしいです。なぜなら、「死の穢れ」は本来敵の領分であるからです。)

それで、その後はおまけに「ハウルの動く城」の予告編も見てみたわけです。ハウルは魔法使いですけれども、自分の力をうまく制御できない。火の悪魔カルシファーは、爆発的な力を持つけれども、時に人としての心を失いそうになる。かかしのカブはソフィーに対して手も足も出ませんし(っていうか、これが目下の問題なんですよねえ? 確か?ーー;)、マルクルは保護の必要な子供です。要するに、これは3人が、自分の弱点をさらけ出す代わりに、「戻ってきて欲しい」という思いを伝えるために作られた映画なわけだ。まあ、余録としてこの予告編も「使って良い」とのことですので、そうさせて頂ければと思います。だって、ハウルも買い戻せないものです。なぜなら、主人公のハウルは兄さんじゃないんで、兄さんはこれを買い戻すことは許さないでしょうからね。(兄さんはどう見てもカルシファーですものね。)

 

ミスチルの「終わりなき旅」を見ていると、ステージの上で、兄さんの代理人として咆哮している桜井君に対して、客席から「絶対に届けさせるものか。お前も潰れてしまえ!」というものすごい気が発せられているのが分かります。桜井君も力の強い方ですから、それに押されたりはしていませんが、「死刑宣告」とやらが出された2011年という年は、そこまで「暗い」年だったのだな、と改めて思ったのでした。そして、あの病院での真実の情報が得られたことが、まあ、今日の勝負の戦利品ということなのでしょう。

どうもね

ええと、念のためということで、駄目押し的にX JAPANの動画も見て見たわけで、曲は「Forever Love」と「Endless Rain」。ライブ自体は禍々しくて、更にメンバー全員が酷使されていて、もはや「生きた幽鬼」みたいになっちゃてるようにしか見えません。かろうじて何とか保っているのがYOSHIKIのみと。そっかー、X JAPANの不幸続きの歴史は、この「酷使され過ぎ」が原因なわけだ。

でもって、曲そのものはどうでも良いわけですが、動画を見ていると客席から歓声が聞こえてくるわけで、それがこう言ってる。

 

「そうか、それが羌族が1万年の間、ひた隠しにしてきた「目」の秘密だ。女神よ、よくぞ我らに明かして下さった。我らはあなたのその誠実さと率直さを決して裏切りません。蛇の一族の一途な真心をあなたに捧げて、行き着くとこへ行き着くまで、必ず我々が4人のことをお守りします。誰一人、バランスを崩すことも、狂うことも無くお守りします! それが我々のあなたに捧げるForever Loveです。」

 

って。うわー、って思うわけで。兄さんが「すごいな、敵のライブの気を喰っちゃってる。」と呟くわけですが。

そっかー、こうやって男心の情欲をそそり立てるこの「目」が、羌族の太母を「神」たらしめている所以なわけだ。つまらない男がその目に触れれば、結局は身を滅ぼす。でも、その目を受け取るに相応しい男がいれば、その目はその男心に雄々しい火をつけて、何よりも頼もしい頼りになる「夫神」に変える。でも、蛙の人たちは、そのことをずっと秘密にしてきて、誰にも教えなかった。だから、蛙以外の人たちは今まで誰もその秘密を知らなかった。

でも、今その秘密が暴露されたから、蛇の人たちは兄さんにそのような「夫神」になれ、彼女の狂気をもたらす目を受け止めて。と言うわけだ。まあ、兄さんならきっとそうなれると思いますけれどもね。私はそう信じていますとも。