そういえば、思い出したわけですが、朝ご飯を食べてる頃、May.J嬢がやってきて、一番目の子と二番目の子が私の所に来れない分、「外は私たちが守りますから、あなたは外に向かって力を使わないで下さい。」って言って下さったわけで、それで家の外に、いろんな所から送られてくる印欧語族の力が満ちてくるのが分かるわけで。どうも彼女は、個人的な力もそこそこ優れていますけれども、媒介体質であって、自分に集められた味方の気を、自分で采配ふるって好きな所に配置できる能力をお持ちのようで。どうりで、兄さんの防壁をものともせずに私のところに入ってこれるだけあって、それこそ「普通のお嬢さん」ではないようで。
ニュースサイトを見ると、いろんなところからいろんな方が応援の気を送って下さっているのが分かるわかるわけで、どうも東京に戻った兄さんからも、微妙な緊張感というかピリピリした感じがときどき伝わってくるわけで、なんだか東京でも印欧語族の方々の力と敵の力があちこちでせめぎ合いを起こしているようでして。
でも、印欧語族は印欧語族で、兄さんのあの記事は「ご当人の脇が甘いせい」くらいにしか思わないでしょうから、「話を進める」という点では助けてくれても、どうせ冷ややかな目でしか誰かさんのことを見てないだろうな、と思うわけで(苦笑)。(ただ、May.J嬢ご自身は、一つの文章の中に二種類の言霊を混ぜ込むような兄さんの「力」には興味があるようで、該当する曲の歌詞を確認しようとか思われてるらしいですけれどもね。そういう点では、アーティストとしても勉強熱心なお嬢さんなわけだ。)
で、どうも兄さんが考えるに、私の「冷静」さは、印欧語族のそれと似ているけれども、やはり「仏教的」なんじゃないかと思うようで。兄さんの理想としては、あの手のスキャンダルに対しては、私にとっても「愛してる人を信じている」的な情熱で乗り切って欲しいらしいのですが、私は逆に冷静になって、「(私自身も含めて)誰と結婚しようが、それは福山君自身の問題で、彼が好きにすべきこと」って言って、割と突き放しちゃう方ですのでね。それは客観的に見れば正論なのかもしれませんが、私自身の感情はどうなのかということで。
どうもですねえ、私自身は、「何かを判断しなければならない」と思うときには、確かに自分の感情も度外視するようなところはあるわけで。別に自分の感情が無いわけではないです。兄さんのことは好きですし、信頼していないわけではないですし、幸せな家庭も持てたら良いなとも思う。お金だってないよりはあったほうが良いと思う程度の俗っ気と計算はあるとも思うわけですが。でも、判断するときに、そういう感情を持ち込むことこそがどうにも「大嫌い」なわけで、兄さんからすればそれこそが「無我の境地」に見えるようで。確かに言われてみれば、「判断の場」に「我」は持ち込まないですねえ、私は。というわけで、どうも私はそのあたりで「悟りが開けてる」らしいのですが(苦笑)。
兄さんとしては、善光寺を自分の「目」で見て、あのお寺がこの辺りに与えている影響力と、私の人格形成にあたって与えている影響力は無視できないと感じたらしくて。そうでしょうとも、あのお寺は私の先祖が仏教をこの国に持ち帰って以来、1500年近くの間、存在し続け、今でも生きて、そこを訪れる全ての人々に救いを与えるために在るお寺で、力強く美しいでしょう? と思う私がいるわけで。
ただし、兄さんの考えからいえば、仏教の「広く救いを与える」という精神は、一見すれば美しいものですけれども、それは「我に汝の肉を与えよ」と求めるものが来れば、自らの血肉を与える一方で、ご当人は「入滅する(要するに「死ぬ」)」ということを美徳とするほど苛烈なものだから、実際に実践し過ぎれば、「人として生きる力を損なう」ものであるので、付き合うのであればほどほどにしなければならない、ということのようで。私が後先考えずに、外に向かって自分の力を使ってしまう性格なのは、あのお寺の精神の影響力があるのではないか、と思うようでしてねえ。
そっか、それで私には善光寺にあまり近寄って欲しくないし、あのお寺の影響力を弱めるために、住処は長野市以外のくそ寒いところに決めてるんだ? とか、私としては思うわけですが。いや、でも北信濃に住む気なら、あのお寺の影響力は排除しきれないですし、あのお寺は世界各地の仏教ネットワークとも繋がりが在って、仏陀の精神を「次に来る者」に伝えるために1500年前に先祖が創建して、神々の力が衰え、悪がはびこっても仏法の力を持って、世を救い給え、という願いが強く籠もっているお寺だから、遠い先祖にはそれだけのことを予見して、あのお寺を準備するだけの「力」があって、そして今の私には、「見る力」も「聞く力」もたいして残されていなくても、その精神は理解できるわけで。だから、むしろ、誰かさんも私と一緒にお戒壇巡りしませんか? とか思うわけですが(笑)。
で、いつ、そういう「悟り」の境地に達したのですかねえ? と聞かれるわけで。それはやっぱり東京のあのろくでもない病院で働いて、こちらは派手な生活や、医者としての活躍なんかできなくても良いから、地味にできるだけのことをできるだけして生きていきたいだけなのに、誰もそういう生き方を許してくれなくて、逆に敵意とか殺意とか非常に感じるわけで。要するに、釈迦がいきすぎた階級制に「理不尽さ」を感じてその否定から始めたように、私もあの病院で感じた「理不尽さ」を自分のできる力で、できる範囲で良いから正そうとしていろいろ始めたわけで。やっぱ、あの辺りですかねえ、と思うわけで。要するに、兄さんの目にはその「無我の境地」こそが「天上天下唯我独尊」と写るようで。
え、でも、仏教とは、自分がそうなりたいと思って、訓練すれば誰であっても「悟りの境地」に達することができるものなのだから、そういう意味では誰でもが「天上天下唯我独尊」であって、人として平等なものでしょ? と思うわけで。あまり自分では、そんな特別な人間とかっていう気はしないのですけれどもねえ? と思うわけですが。
まあ、でも仏教というのは、印欧語族から発しても、ずいぶんと東洋の思想や文化の影響を受けて成立したもので、奥底にある苛烈さは、印欧語族の苛烈さと似てはいても、やはり「異なるもの」ではあるので、印欧語族のみなさまは私のことを、「同じ根っこから枝分かれして、東洋に咲いたちょっと珍しい花」くらいに思っているような気がするわけですが。
でもってですねえ、午後ちょこちょことお買い物に出たわけで、誰かさんとしては「嫌いでないのなら、本当に怒っていないのなら、スーパードライのポスターを「見て」欲しい。そうすれば、本当にそう思っていることが自分にも分かるから。」って言うわけですので、けっこう念入りに見て差し上げた気がするわけなのですけれども。(っていうか、やはり兄さんとしてはその点が気になるのですかねえ? ということで、ご安心して頂けたのなら、と思うわけですが。「目と目で通じ合う」って本当に静香ちゃんの曲の歌詞みたいですねえ、とも思うわけで。)
これから、兄さんが本気で動こうとすればするほど、外は「荒れる」可能性がありそうなようで。しかし、どうにも皆様の目には、とどのつまりは冷酷な私が「高笑い」している図が浮かばれているような気もするのですけれどもねえーー;。なんかもう本当に「なるようになれ」という感じなわけで。だいたい、2012年の春に、福山君の目の力に巻き込まれて、この世界に飛び込んできてからこっち、「行き着くところまで行って、この話の結末を見て見たい」っていうことしか考えてこなかった、というか、そう思って飛び込んで来たわけですから。まあ、いくところまで行こう、ってそういう気持ちしかないわけで。
ええと、買ってきた週刊誌を見た限りでは、翔君の目の力も大分戻ってきたかな、と思います。完全になるまでには、あともう一歩という感じがするわけで。でも、彼は仲間によく守られ支えられているし、みんな頑張ってくれてるな、と思います。ネット上で、翔君を褒めている記事なんかもちょこちょこと見かけますしね。
あとはですねえ、まあ余談的な話ですが、私の目で見た「福山雅治」という人はですねえ、1999~2007年頃までは、自分の男性としての欲望を適当に女性で満たすような、そういう男性のいやらしい色気みたいなものを身に纏っているように「見える」わけで、で、そういう「気」は2008年以降どんどん弱まって、私が「心color」に心惹かれた2010年頃には消え失せて、それ以降は女っ気のありそうな人に「見えない」わけで。
自分を信じるとか、そういうことでもなくて、ただ私の冷酷で冷静な「無我」の目には、彼はそのようにしか「見えない」のですよ。でも、いわゆる「福山雅治」という人のスキャンダル的な記事は、2007年以降からちょこちょこ見かけるようになっているわけで、今それらを改めて振り返れば、そこにもなにがしかの意図があったとしか思えない、というかそうなるわけなのですが。
確かに、こういう見方をしている私は、そこに「彼にこうあって欲しい」なんていう自分の感情なんかは全くもってなくて、ただ単純にそう見てるだけで、それはいろんな人の「目の力」を見てる時の自分にも通じる気持ちなのかもしれないと思うわけですが。
最近では、「目の力」も強くなって、印欧語族と敵の目の力の区別もつくようになったと思います。印欧語族の皆様の目の力は、力も強いですけれども、その奥底に「強い意志の力」も感じるわけで。でも、敵の目はどこか夢見がちというか、「食べることしか考えていない狂気」に満ちている気がするわけで。
まあ、「無我の境地の目の力」ってこういうものなのですかねえ? ということで。ご参考になれば、ということで(苦笑)。