本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけて。午前中を中心に雨が降っていたので、ゆっくり休んだり、作業をしたりして。雨の割には、作業ができた一日だったのでした。

月曜日に亀梨君のドラマの録画を見ていたら、丁度親が座っているところに、古代エジプトの初期王朝以前の時代の遺物である「狩人のパレット」の絵が置いてあって。山下君から「面白いものがあるね」って言われて。これは神殿に奉納された神話的遺物であることは分かるのですが、そこに描かれている神々は、後の時代のなんという名前の神なのだろう、と思う。それは、大雑把にいうと、「人の一生」と「一日」を重ね合わせて書かれたもので、和風にいうと「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」という意味のパレットだと思うわけですが、英語版のwikipediaには、例によって嘘八百の解説が書かれているわけで。横に細長いパレットの両端には、太陽神を示す「蛙の手」を生やした1対の獅子神が描かれていて。向かって左側の獅子神の尻からは、様々な動物や人が生まれ出てくるわけで。これが「生み出す母神」に相当するわけです。で、生まれたものはいつか必ず死ななければならないので、みな水先案内人の神官を先頭にして「死」に向かって歩いていくわけで、その途中で狩りをしたり、戦闘をしたりしていて。そして最後にはみな、向かって右側にいる獅子神の腹の中に戻っていくし、その「食い尽くす死の母神」の傍らには新しい子獅子が控えていて、喰われたものは、人でも動物でも、次の日に再生する新しい太陽神の「栄養」になることが示唆されていて。そして、その先には黄泉の国の門が控えていて、門番に「境界神」を示す双頭の牡牛神がいて。それらは、後の時代の「プタハとセクメト」のことで、獅子が妻神で、牡牛が夫神だよ、って言われるわけで。現世と冥界の境界神である「双頭の牡牛」はローマではヤヌスと呼ばれる神で、冥界にある時はプタハ(冥界神)、地上にある時はアピス(山とか「水源のある高山」という意味)、天にある時はタウロス(雷)と呼ばれるもの。一方の雌獅子は、「生み出す母神」が「Duaj(昨日、雷、「裁くもの」という意味でもある)」、「死の母神」が「Sefer(明日、という意味。後のセクメト)」であって、後のアケル(水平線のこと)でもある、って言われるわけで。で、この一対がメソポタミアにおける「風の悪魔パズズ」とその妻神のラマシュトゥのことでもあるし、エンリルとニンリルの一対のことでもある。で、古代インド方面では、ルドラ神群のシヴァとサティの一対になる、って言われるわけで@@。彼らは高山から吹き下ろす「風と雷の悪魔」であって荒廃と疫病をもたらす神(というか悪魔、魔神)であるわけです。それは、自然現象としては嵐のことだけれども、人為的には高山から平地に侵略と略奪を目的に降りてくる、好戦的で残虐な人々のもたらす災厄のことであると思うわけで。パレットに描かれている人々は、みな「牡牛の角」のついた兜を被っていて、彼らが戦士でもあり、自ら残虐な「悪魔の子供たち」とも名乗っているわけです。彼らは悪魔の腹から生まれて、悪魔の腹へと戻っていく人々だし、彼らの神は悪魔だからこそ、人類を滅ぼそうと画策している、ということのようで。滅ぼされたくなければ、悪魔の機嫌をとるべし、とそれが西欧の「悪魔信仰」になるわけですし、西欧の「牡牛信仰」の起源的な思想にもなるわけです。そして、「朝に生まれて、夕方には死す」という思想は、仏教の「諸行無常」な思想にも影響を与えていると思うわけで。みな、悪魔の腹から生まれて、悪魔の胎内に戻っていくし、それが「避けられない宿命だ」と、そういうことなんだよね? と思うわけで。そもそも魔族が「神」と呼ぶモノは、他人も自分の子供も食い尽くすことを欲する悪魔なわけだ。

で、今日は帰ってきてからは「VS嵐」を見て。6番目の子は相変わらず元気がなくて、あまり何も言わなかったわけですが。でも、「ゲロ吐かないように気をつけてね」って言われて。それで、今日は雨が降って寒かったので、お昼ご飯を食べていて、急に冷えて寒気がして気分が悪くなったことを思い出して。今日はそういう一日だったのでした。