でもって、親から「風と共に去りぬ」は、我が家にとって「良い作品」なのか、「悪い作品」なのか、と聞かれたわけで。「?」というか、だって、あれって奴隷差別の話でしょ? ってとっさに思ったわけで。
で、家に帰って調べてみたわけですが。マーガレット・ミッチェルが「風と共に去りぬ」を出版したのは昭和11年、1936年のこと、映画化されたのはその3年後の1939年、昭和14年であることが分かったわけで。「風と共に去りぬ」は、南北戦争前後のアメリカ南部が舞台の話で、大地主の娘であったスカーレットが、戦争を経て、家が没落しても尚、たくましさを失わずに家と財産を復興する話なわけだけれども、女性としての性格が悪すぎるので、夫に捨てられてしまう話でもある。物語の中で、北軍の兵士は女性をむやみとレイプするような悪魔のように描かれる。この映画は戦後の日本で公開されて、戦後の復興を目指す日本の人達の目に、南部の復興を目指すスカーレットの姿が重なるように仕向けられていた。しかし、スカーレットが愛していた「古く良き南部」とは、奴隷制度が横行し、南部の農園には必ずといって良いほど、色白で父親が誰ともしれない赤ん坊を抱えた若い黒人奴隷の娘がいたところである。ほとんどの農園の女主人は、そんな子供がいることも知らなければ、気にするそぶりもない、という態度であって、子供の父親が誰なのか不審がるそぶりもなかった。言わずと知れたことだが、それは子供の父親が女主人の夫であったり、息子であったりすることを示すわけで。まず、その点だけで、それは女性差別であり、妻である女性を侮辱する行為ではないのか? そもそもキリスト教社会とは一夫一妻のはずなのだから、それは「神の教え」とやらにもそむく行為のはずである。そういうものを懐かしむスカーレットとは、奴隷差別、女性差別を肯定する差別主義者ではないのか? そもそも、「戦後の復興」ということをテーマにするのであれば、古今東西、戦争というものは山ほどあり、そこから作ろうと思う物語もいくらでもあるはず。それにも関わらず、女性差別、奴隷差別、人種差別の意識が非常に強い「風と共に去りぬ」が、なぜ戦後の日本に送り込まれてきたのか? そもそも女性差別とは何なのか? お母さんは戦後の日本は女性にも選挙権が与えられた、と言った。制度の上辺だけが平等になれば、それで「差別がなくなった」ことになるのか? そうではない、牡牛信仰の悪魔達が、「女性は家畜以下の存在で、用がなくなればいつでも殺して良い存在」と思い続ける限り、女性差別も奴隷差別も人種差別もなくなることはない、と言える。上辺では選挙制度は改革され、女性差別はなくなったかのように見える。しかし、その一方で差別意識の塊のような「風と共に去りぬ」が送り込まれてきて、人々に差別主義はさも良いことのような洗脳が続けられている。それでは、差別がなくなった社会、とはいえない。それはお母さんが子供の頃に見た、「ベニスの商人」の紙芝居と同じ事だ。そういうものを見せられ続けて、女性差別や人種差別が、さも当たり前のことのように思い込まされ続けられるだけだ。「風と共に去りぬ」は昭和11年に出版された物語だ。お母さんが子供の頃に見た「ベニスの商人」と同じく、誰を標的としたものだと思うのか? だからこそ、あなたの家はその悪質さを知っていなければいけないのだ。あれは、お母さんに差別主義の思想を植え付けるために作られた物語だ、ってそう言われるわけで。そして、話は私にうつるわけだけれども、あなたも「赤毛のアン」や「大草原の小さな家」を読んだ。「アン」の中にもユダヤ人の行商人を差別する表現が出てくるし、「大草原」のローラの母親は、アメリカ先住民を露骨に差別する女性だった。それを読んであなたはどう思ったか? それはただ「そういう時代だったから」とそう思ったけれども、それが「人種差別」であることは見逃さず、それが当たり前のことだとも思わなかった。しかし、こう考えたらどうか。その物語達は読む人に「人種差別」の意識を植え付けるために意図的にそう書かれたものである。そうすると、書いた作者、すなわちルーシー・モード・モンゴメリ-、ローラ・インガルス・ワイルダー自身が差別主義者であったことになる。特にローラ・インガルス・ワイルダーについては、その人は割と子供時代を美化して、自分に都合の悪いことは本に書かなかった人である。そういう人が、差別的表現を当たり前のように書いたということは、それが「都合の悪いこと」とすら思っていなかった差別主義者だったということではないのか? だから、あなたの家ではその二つの作品を置いておいてはいけないのです。何故なら、それは差別主義の本だから、と言われるわけで。
しかも、最近の「奴隷制」の話題と言えば、テレビの影響で「住んでいる家」の話ばかりだが、そもそも「奴隷」とは、生殺与奪の権限を主人に握られた家畜も同然の存在である。いつ殺されても文句は言えないし、殺されることに理由もいらない。また、南部の農園領主の素行の悪さからかんがみれば、幼い子供が性的虐待の対象とされることも希ではなかったかもしれないし、そういう子供が成長して邪魔になれば、あっさりと殺されて片付けられてしまうような、そういう世界であったかもしれない。「奴隷である」とは、そういうことなわけだが、住んでいる場所だけを取り上げて、自分の子供の頃が奴隷小屋よりも惨めな場所であれば、それだけで奴隷の立場にあった人達よりも自分の方が惨めであったと言えるのか? 自分自身が、幼い頃に誰かの性的虐待の対象にされたことはあったか? また自分の身の周りに、地主に何の理由もなく殺されて、文句も言えずにはいつくばっていただけの人はいたのか? 「地面にはいつくばって生きる」というのは文字通りそういうことを言うのであって、そうでないものはどんなに苦労をしても「はいつくばって生きる」
という範疇には入らない、とそういうことだ。そんな目に誰も合わされずに生きてこれた、ということは、いくら貧しくてもそれだけ「守られていた」ということだが、それには気が付けない。
それは何故か? それは、テレビというもの、メディアというものの弊害のせいだ。最近見たテレビでは、「奴隷小屋」のことしか流さなかった。だから、それを見てものを思う人は2種類しかいない。「奴隷小屋」意外に、当時の奴隷の置かれていた状況を悟って、目の前で見ているものだけでなく、総合的に彼らの立場を理解して思いやれる人と、目の前に見えているものしか見えていなくて、そのことしか考えられない人と。たいていの「大衆」に属する人は、目の前に見えているものしか見えない。だから、宮崎監督はいつも警告してきた。「アニメなんてろくでもないものだ」と。アニメを見たら、それを見たら子供は楽しいかもしれないし、面白いかもしれない。でも、イメージは固定され、それ以外のものが見えにくく、考えにくくなる。テレビも同様で、真面目な番組であろうが、ふざけたものであろうが、見れば一見したところは「いろんな世界」が見えるような気がするかもしれない。でも真実は逆で、イメージは固定され、視野は狭まり、見れば見るほど人はものを自分で考えたり、「察する」ということができなくなり、見せられたもののことしか頭の中になくなって、「真実とは何か」ということから目をそらすようになる。だから、「千と千尋」のお父さんとお母さんは「豚」として描かれる。お父さんは、文字通り目の前に並べられたものを、良いものか悪いものかを考えずに食べるだけの豚だ。お母さんの方は、自分の目の前にあるものが何を意味するのかも考えずに、ただ見えているものしか見ない。その視野の狭さが「豚」として表現されている。豚は、目の前に見えているものの意味など考えずに、それが食べられるものであれば食べるだけだし、食べることに必死なだけだから。お母さんは今でもテレビを見れば、それが何を意味するのか、自分が何を見せられているのか、真実は何なのか、ということは考えない。見て、面白ければ面白い、面白くなければ面白くない、それだけのそういう視野の狭さがどうしても抜けない。物語の中の千尋は、何の力もない子供で、経済力すら持ってはいない。しかし、彼女は、状況の不審さから見て「食べてはいけない」ものをとっさに察する力を持っていたし、慣れない世界で事態を打開するために頑張り続けた。彼女なりに、そこで出逢う人々を理解し、彼らの立場を察して、両親を救おうとした。そうしていた千尋は「生きることに必死」ではなかったのか? それでもない、周囲の人々や世界を彼女なりに理解しようとする視野の広さは失わなかったし、顔ナシですら差別の対象にしようとはしなかった。人が人として生きていくのに必要なことは、そういう視野の広さを持って、自分がどんなに惨めな状況になっても、他人対する理解を怠らないこと、自分自身が差別主義者にならない、ということなのではないのか? なぜなら、差別主義者になる、ということが敵に迎合する、ということだから、である。と、言われるわけで。
要するに、戦前の日本とは、「女性差別」というものがあるように見えて、そういう思想を持つ人達もいたけれども、それでも全体としては家庭の中での女性の地位は高く、「姑」というものはなんだかんだいって威張っていたし、夫が死んだからといって、一緒に死ぬことを強要されたりはしなかった。それはそれだけ社会の中で女性が守られていた証拠であり、差別が少ない社会であった証拠、ということで。上っ面だけの選挙権の有無とか、職場で誰がお茶を入れるのか、とか、そもそも女性が社会進出できているのか、とかいないのか、とかは真の差別とはほとんど関係のないことだ。真の女性差別とは、一見して女性が社会で華々しく活躍しているように見えても、実態は意味も無く女性というだけで、上司や同僚と性的な関係を強要されていたり、その逆に仕事のせいで結婚できずに独身のままで「女性」としては殺されてしまうことを意味するのではないのか。女性の役割が、性的な成熟と性交渉を経て、家庭という環境を持ち、子供を安全な環境で産む、ということまで含めれば、上司や同僚の性的なはけ口とされることもまた、「女性」としては殺されるのと同じことである。現代の真の「女性差別」とは、そういうもので、結局女性は、社会的に働いて終わるだけの道具にされる。投票権の有無とか、土俵に上がれるか上がれないのか、ということは、女性差別の本質とはほぼ関係のないこと、って言われるわけで。まあ、でも、現実にはそんなようなところが多いから、子供の出生率も低いままな気がするわけですが、我が家は特に標的になりやすいから、そういうことからは注意して身を守っていかなければいけない、ということで。視野を広く持つ、ということは、自分を守っていくために必要なことなのだと思うわけですが。