台風が来ていたせいか、今日も暑くて。そして、一日気分もけっこう悪くて。あまり作業に集中できなくて。ノルマはたぶん、こなせていません。でもあと少しなので、提出日までには間に合うと思う。気分が悪いときに無理して作業しようとすると、軽いめまいがするし、ミスが多くなるのでー;。やっぱり更年期かなあ、と思う。眠いときと眠くないときの落差も激しいし。蛇の兄さんには「頑張れ」って言って貰えます。できる時に、できるだけ頑張ってます-;。
で、お外組はいつも通りの仕事であって。今日は、基礎の下をけっこう掘ったとみえて、礫とはいえない大きめの石がけっこう出てました。そういうのは、地盤工学的には「粗石」と言うらしいのですが。
で、母親から「本が買いすぎ」って注意を受ける-;。自分でもそう思うので、そろそろしめなきゃ、とは思ってるわけです。でも、来月ちょっと大きなフォントがいるー;。後は、読みながら少しずつ買い足していければと思う。特に、読む速度が全然追いつかないわけです。斜め読みで、大筋を読むことはけっこう早くできるわけですが、じっくり長時間の読書ができない。それは、他にやることがあって、裁判の書類を書かなきゃとか、そういう理由もあるのですが、どうも長時間集中して一つの本をじっくり読むことができなくなっていて。裁判関連の本とか、必要があればある程度はできるけど、趣味の本を無理して集中して読む必要はないわけで。そうなると、他にすることがあっても、なくても、1頁読んで、30分休んで、というペースでないと、まともに読めない-;。途中で、ぼーっとして内容が頭に入ってこなくなるわけでー;。年なのか、これも更年期なのか?? と思うわけですが-;。
で、今回予算オーバーになっちゃったのは、一応言い訳をしとくと理由があって。一つは、どっかのじいさんが「本を貸せ」とかって言ってきたからで。そもそも、じいさんに貸すような本がないわけです。吉川英治とか大衆文学とかが好きな人だしー;。別に大衆文学は、私も嫌いではないし、否定もしないけれども、私が買うのは、民話、神話、歴史関連の本で、大衆文学っていったら、デュマくらい、ってそんな感じなので。「新平家物語」も独特だけれども、面白くないとは言わない。でも私は「建礼門院右京大夫日記」とかにはまるタイプだからー;。じいさんの趣味とはそもそも合わない。しかも、元先生のくせにあんまり教養のないじいさんであるので。中学生向けくらいの本を読ませといて丁度いいともいえる。で、「どうしましょうかね?」と思ったわけですが。兄さん達に「小説 十八史略でも読ませといたら?」と言われる気がするわけで。「十八史略」とは、中国の宋の時代の寺子屋の先生が、子供達に歴史を教えるために書いた、読本であるー;。まあまあ、中国の歴史の概略は分かる-;。まあ、その程度のものを預けとくのがまあ正解、というか、それでも高尚すぎる気がする。中国の大人向けの歴史書としては、西のヘロドトスの「歴史」と並び立つ、司馬遷の「史記」とか、倭国も出てくる「漢書」とかあるわけで、大人ならそのくらいのものを読むべき、と思うわけですが、ともかく、うちのじいさんのことだから、さすがに「共産中国」は知ってても、「それ以前に国なんかなかった」とかって言いそうなレベルで話にもならないので-;。まあ、いざとなったら入門書でも預けてお茶を濁そう、ということで、「十八史略」を買ったから、それが第一の予算オーバーである。(でも、自分でも世界史は弱いので、入門書から読んでみたくはあるわけですが。)
それから、九州国立博物館で、三国志の企画展をこれからやるので(東京国立博物館で今やっているもの)、その図録が一般発売されていて。「それを是非買え」と言われる気がするわけで-;。「だいたいなんでこの時期に九州で三国志の企画展なんかやるんですかね。しかも、なんでわざわざ図録を一般発売するのか?」と聞かれる気がするわけで。「九州」と聞くだけで、脊髄反射で「宗像?」とかって出てきそうである-;。要するに、私にその図録をわざわざ買わせようと企画してる人達がいるらしくて。まあまあ、多くは「偉大なる曹操の足跡を知るように」と言われる気がするわけで。だいたい、どっかの軍師を拷問にかけて殺した、とかそういう話が出てくるんじゃないの? 勉強すればさ?? と思うわけですが-;。ともかく、7番目の兄さんにことをもっと知るべき、という人は多い気がするわけで。そして、蛇の兄さんには、「三国の時代は、女王卑弥呼が生きた時代とも重なるし、当時の日本はなんだかんだ言って中国を見習うところが大きいので、当時の中国の文物を知ることは、女王卑弥呼の時代を知ることにもなるし。」と言われる気がするわけで。読書のペースで良ければ、演義も正史もそのうちには買える。でも、まずは、最新の研究の成果の図録を買え、ということらしいです。これが予算オーバーのもう一つの理由であるー;。
で、7番目の兄さんには、「お金をかけさせちゃって申し訳ないけれど、でも、それだけのものを家に入れて、じいさんが日々やってきた妙ないやがらせのこととか、ようやく気がつけて、そして対応策も練れるようになってきたでしょ。」、と言われる気がするわけで。不思議なことだけれども、石を出して、「勧められた本」を入れると、本の内容と関係のないことで、しかも母親とか全然本を読んでもいないのに、いろんなことが気づけるようになるわけで。石が多いと、人間まで石になったかのように、何も考えられなくなるし、気がつけなくなるんだよねー、不思議だー、と思う。でも、これがあるから、「買え」と言われたものを「買う」気になるわけです。経験的に、良いことがあるって分かってるからですな。
で、スキタイについて。世界レベルで、「西のスキタイ、東の匈奴」と言われる二大遊牧騎馬民族の彼らなわけですが。この2つは似通っているけれども、違いもある。スキタイは、土を盛り上げてクルガンと呼ばれる墳墓を作るけれども、匈奴は土を盛り上げたお墓は作らない。スキタイは、馬と犬を重要視するけれども、匈奴は馬のみ。スキタイは豚を飼うけど、匈奴は飼わない、という具合に。そして、紅山分化との直接の繋がりはあまり明らかではない。紅山分化は地理的に朝鮮の先史時代の文化との関連が語られるし、遼東半島、モンゴル、バイカル湖の西の方、と大陸は続くから、スキタイとの直接の繋がりは地理的にも語りにくい。(でも、匈奴とは近いから、そちらの関連性はより語れると思う。)で、スキタイも匈奴も馬や家来の「殉葬」が行われたし、匈奴では「寵愛を受けた妻妾も殉死した」とあるそうなので、おそらくスキタイにも同様の習慣があり、これらが、印欧語族の「寡婦殉死」の制度と大きく繋がっているものであると思う。そして、スキタイの戦士階級が特に好んだ「馬と犬と人」の「三位一体」は、ヨーロッパに広く伝播しで神話・民話になっているわけで。「ケルト海竜物語」という、ケルトの伝承にもその「三位一体」は登場する。でも、「馬と豚と蛇」が一体化されて「龍」という神が作られたように、馬の方が犬よりも「神」としての地位は高い。犬はその多産性が豊穣と結びついて神的な存在とされたけれども、東アジアでは、「神に捧げる特別な犠牲獣」から「食料」へと変化してしまって、「食べると精が付く動物」みたいになっちゃってるから、と言われる気がするわけで@@。そもそも、扶余・高句麗が騎馬民族系の人々であることは、彼らの伝承とかからも分かるわけですが、でも、歴史に登場する時代の「高句麗」はすでに定住していて、城塞都市を造り、騎馬民族というよりは、騎馬民族から身を守るために城壁を作る人々になっていたし、日本にやってきた弥生系の人々は、「遊牧騎馬民族」ではなくて、水稲耕作農耕民としての性質の方が強いので。扶余の前身の騎馬民族が、匈奴に近い人々なのか、ローカルではあっても独立した勢力であるのかもはっきりしていない、と言われる気がするわけで。古代の日本人が、騎馬民族の習慣を残しているのは、「兄弟相続」が認められていた、という点くらい、と言われる気がするわけで。スキタイや匈奴は「文字」を持たなかったので、彼らの思想が彼らの言葉で語られたことはなく、各地に残っている民話や伝承で、その姿を想像するしかないわけですが、東洋から連続して彼らの文化を追いかけることで、その思想を垣間見ることができるわけです。というか、ちゃんと連続性はあるんだよねー;。