本日の日誌

まだちょっとぼけてるかも-;。

昨日は、いろいろな資料をかき集めて「地歴」について書いて。うちの裏には「六ヶ郷用水」という歴史と伝統ある用水が流れているわけで。で、市誌とかによると、たぶんそこを開いたのは平安末期から鎌倉時代初期に領家だか荘官であった八条院領の関係者の「和田氏」という人が中心であって、当時は和田氏、栗田氏、島津氏といった人々が、荘官等々として長野市に入り込んでいて、土地の開墾にもいそしんでいた記録があるわけで。和田氏は八条院領の荘官、栗田氏は清和源氏の末裔である在地の領主、島津氏は近衛家の荘官だから、上の方の名前はいずれも劣らぬ名門、名家である。八条院って言ったら、鳥羽天皇と美福門院の愛娘だし。で、たぶん平安末期に一番権力があったのは八条院領であったと思う。八条院は今で言うところの「愛子ちゃん」的な立場であって、鳥羽天皇にとっては最大の愛娘であり、お馬鹿さんと評判だった後白河天皇よりも、父親はよっぽど八条院の方を可愛がっていて、莫大な財産を彼女に残した。それが八条院領であって、大きな財力を握っていた八条院は、政治的には後白河天皇、清盛、頼朝も無視できない存在であったし、「打倒平家」について、陰で八条院が果たした役割は大きい。「打倒平家の令旨」を全国にばらまいて頼朝や各地の源氏挙兵のきっかけを作った以仁王は八条院の猶子だし。

だから、うちの近所は、元々は川の流域とか川の底であったわけだけれど、用水が整備されて開墾され、田んぼとしても千年近い歴史があるわけ。元の川底の地層なんて、どこまで掘ったら出てくるのさ? という感じなわけ。たぶん2mも掘れば出てくる。ゴミ掘りで、裏でちょっとだけ昔の川底も見たから。だから、その上の「基礎に係わる地盤」が、「扇状地の堆積物」なんて恥ずかしげもなく言ったら、裁判所でそれがまかり通っても、自分が死んだときに、あの世で開発領主だったご先祖様に会ったら合わせる顔がないぜ? と思うわけで。「てめえは誰よりも当地の地歴について周知していて当然の立場であろうが。ふざけんな。」って意見書を書いて出したい気持ちになったりする(まあ、やんないけど 笑)。

というわけで、当地の歴史には詳しくなりました。次は何について書くかな-;。

本日の日誌

まだちょっとぼけてるかも-;。

昨日は、いろいろな資料をかき集めて「地歴」について書いて。うちの裏には「六ヶ郷用水」という歴史と伝統ある用水が流れているわけで。で、市誌とかによると、たぶんそこを開いたのは平安末期から鎌倉時代初期に領家だか荘官であった八条院領の関係者の「和田氏」という人が中心であって、当時は和田氏、栗田氏、島津氏といった人々が、荘官等々として長野市に入り込んでいて、土地の開墾にもいそしんでいた記録があるわけで。和田氏は八条院領の荘官、栗田氏は清和源氏の末裔である在地の領主、島津氏は近衛家の荘官だから、上の方の名前はいずれも劣らぬ名門、名家である。八条院って言ったら、鳥羽天皇と美福門院の愛娘だし。で、たぶん平安末期に一番権力があったのは八条院領であったと思う。八条院は今で言うところの「愛子ちゃん」的な立場であって、鳥羽天皇にとっては最大の愛娘であり、お馬鹿さんと評判だった後白河天皇よりも、父親はよっぽど八条院の方を可愛がっていて、莫大な財産を彼女に残した。それが八条院領であって、大きな財力を握っていた八条院は、政治的には後白河天皇、清盛、頼朝も無視できない存在であったし、「打倒平家」について、陰で八条院が果たした役割は大きい。「打倒平家の令旨」を全国にばらまいて頼朝や各地の源氏挙兵のきっかけを作った以仁王は八条院の猶子だし。

だから、うちの近所は、元々は川の流域とか川の底であったわけだけれど、用水が整備されて開墾され、田んぼとしても千年近い歴史があるわけ。元の川底の地層なんて、どこまで掘ったら出てくるのさ? という感じなわけ。たぶん2mも掘れば出てくる。ゴミ掘りで、裏でちょっとだけ昔の川底も見たから。だから、その上の「基礎に係わる地盤」が、「扇状地の堆積物」なんて恥ずかしげもなく言ったら、裁判所でそれがまかり通っても、自分が死んだときに、あの世で開発領主だったご先祖様に会ったら合わせる顔がないぜ? と思うわけで。「てめえは誰よりも当地の地歴について周知していて当然の立場であろうが。ふざけんな。」って意見書を書いて出したい気持ちになったりする(まあ、やんないけど 笑)。

というわけで、当地の歴史には詳しくなりました。次は何について書くかな-;。

本日の日誌

まだちょっとぼけてるかも-;。

昨日は、いろいろな資料をかき集めて「地歴」について書いて。うちの裏には「六ヶ郷用水」という歴史と伝統ある用水が流れているわけで。で、市誌とかによると、たぶんそこを開いたのは平安末期から鎌倉時代初期に領家だか荘官であった八条院領の関係者の「和田氏」という人が中心であって、当時は和田氏、栗田氏、島津氏といった人々が、荘官等々として長野市に入り込んでいて、土地の開墾にもいそしんでいた記録があるわけで。和田氏は八条院領の荘官、栗田氏は清和源氏の末裔である在地の領主、島津氏は近衛家の荘官だから、上の方の名前はいずれも劣らぬ名門、名家である。八条院って言ったら、鳥羽天皇と美福門院の愛娘だし。で、たぶん平安末期に一番権力があったのは八条院領であったと思う。八条院は今で言うところの「愛子ちゃん」的な立場であって、鳥羽天皇にとっては最大の愛娘であり、お馬鹿さんと評判だった後白河天皇よりも、父親はよっぽど八条院の方を可愛がっていて、莫大な財産を彼女に残した。それが八条院領であって、大きな財力を握っていた八条院は、政治的には後白河天皇、清盛、頼朝も無視できない存在であったし、「打倒平家」について、陰で八条院が果たした役割は大きい。「打倒平家の令旨」を全国にばらまいて頼朝や各地の源氏挙兵のきっかけを作った以仁王は八条院の猶子だし。

だから、うちの近所は、元々は川の流域とか川の底であったわけだけれど、用水が整備されて開墾され、田んぼとしても千年近い歴史があるわけ。元の川底の地層なんて、どこまで掘ったら出てくるのさ? という感じなわけ。たぶん2mも掘れば出てくる。ゴミ掘りで、裏でちょっとだけ昔の川底も見たから。だから、その上の「基礎に係わる地盤」が、「扇状地の堆積物」なんて恥ずかしげもなく言ったら、裁判所でそれがまかり通っても、自分が死んだときに、あの世で開発領主だったご先祖様に会ったら合わせる顔がないぜ? と思うわけで。「てめえは誰よりも当地の地歴について周知していて当然の立場であろうが。ふざけんな。」って意見書を書いて出したい気持ちになったりする(まあ、やんないけど 笑)。

というわけで、当地の歴史には詳しくなりました。次は何について書くかな-;。

本日の日誌

今週は色々と資料の収集と整理に費やして。どうも、相手方が「堆積物」がどうのこうのと言うので、地歴をしっかり詳しく書かないといけないらしい。ということで、長野県の住宅供給公社に行って、情報公開を求めてきたのが、木曜日である。うちの土地は「大分、昔に造成したものなので、工事を発注した記録は残っているけれども、工事の詳細な記録は残っていない」と担当のKという人から言われて。まあ、残っているものを見せて貰いましょう、ということで水曜日に出かけたらたらい回しにされて、担当が留守とか言われたので、木曜日に出かけて。で、見て見たら、代理人届、工程表、工事発注の契約書、見積もり、工事予定とか、「残っていた」わけで。必要な部分のコピーと公開はお願いしてきました。別に個人情報とかが欲しいわけではないので、個人名とかは黒塗りで全然構わないわけですが。埋め立ての土に何を使ったか書いてある資料には、「土の個人名」とか書いてないわけで。ともかく、資料があることは確認したので、情報公開を求めて出さなければ、文書提出命令か送付嘱託かを出すし、と思う。

で、造成時の様子が分かったら、「その前のことも調べるように」と言われる気がするわけで。「どうやって調べよう?」と思うけれども、我が家は裏に用水、ちょっと離れた南に用水があって、家の横に、北の用水から南の用水に水を流す水路があるの。これは昔田であった名残で、昔は水路から田に水を引いてた。なので、「長野市」と「用水」で調べて見たら、用水は裾花川の昔の流路を利用して作られており、用水が整備された後は、古くからの流路で土地の低いところは、昔でも宅地に向かないので、田として整備されたところだということが分かった。用水が整備されたのは、江戸時代初期であって、整備された後はずーーーーと地歴は田である。だから、用水が整備される以前は、裾花川にきちんとした堤防もなくて、不安定な流路が作りだす堆積物が溜まる扇状地であったところが、整備後は低地が田として開発されて400年近く田であったの。だから、元の地盤も、純粋な自然のままの堆積物ではないし、そうであったら、水はけの良い砂と礫からなっている地盤であったはず。おそらく、ある程度水持ちの良いように、粘度の高い土を入れて田を作り、その上に表層の余計なものを取り払って、最近宅地として造成したものだから、どこからが「400年前の堆積物」なのかははっきりしないわけですが、少なくともサンプリングして地質調査した範囲にはない。地盤調査を見るに、たぶん2mくらいより下なのではないか、と思う。ということを書かなきゃいけないわけだ。

で、おととい生理になって、この前が16日で来て、今回はその反動で28日で。間が空いた分出血が激しいし、おととい、昨日と貧血っぽくてふらふらしていて。今日はちょっと回復して、用水についてのコピーを取りに市立図書館へ行ったり、歯医者さんに行ったりしていて。そろそろ、資料も集まったので、本文が書き始められるといいなあ、と思うわけです。

本日の日誌

今週は色々と資料の収集と整理に費やして。どうも、相手方が「堆積物」がどうのこうのと言うので、地歴をしっかり詳しく書かないといけないらしい。ということで、長野県の住宅供給公社に行って、情報公開を求めてきたのが、木曜日である。うちの土地は「大分、昔に造成したものなので、工事を発注した記録は残っているけれども、工事の詳細な記録は残っていない」と担当のKという人から言われて。まあ、残っているものを見せて貰いましょう、ということで水曜日に出かけたらたらい回しにされて、担当が留守とか言われたので、木曜日に出かけて。で、見て見たら、代理人届、工程表、工事発注の契約書、見積もり、工事予定とか、「残っていた」わけで。必要な部分のコピーと公開はお願いしてきました。別に個人情報とかが欲しいわけではないので、個人名とかは黒塗りで全然構わないわけですが。埋め立ての土に何を使ったか書いてある資料には、「土の個人名」とか書いてないわけで。ともかく、資料があることは確認したので、情報公開を求めて出さなければ、文書提出命令か送付嘱託かを出すし、と思う。

で、造成時の様子が分かったら、「その前のことも調べるように」と言われる気がするわけで。「どうやって調べよう?」と思うけれども、我が家は裏に用水、ちょっと離れた南に用水があって、家の横に、北の用水から南の用水に水を流す水路があるの。これは昔田であった名残で、昔は水路から田に水を引いてた。なので、「長野市」と「用水」で調べて見たら、用水は裾花川の昔の流路を利用して作られており、用水が整備された後は、古くからの流路で土地の低いところは、昔でも宅地に向かないので、田として整備されたところだということが分かった。用水が整備されたのは、江戸時代初期であって、整備された後はずーーーーと地歴は田である。だから、用水が整備される以前は、裾花川にきちんとした堤防もなくて、不安定な流路が作りだす堆積物が溜まる扇状地であったところが、整備後は低地が田として開発されて400年近く田であったの。だから、元の地盤も、純粋な自然のままの堆積物ではないし、そうであったら、水はけの良い砂と礫からなっている地盤であったはず。おそらく、ある程度水持ちの良いように、粘度の高い土を入れて田を作り、その上に表層の余計なものを取り払って、最近宅地として造成したものだから、どこからが「400年前の堆積物」なのかははっきりしないわけですが、少なくともサンプリングして地質調査した範囲にはない。地盤調査を見るに、たぶん2mくらいより下なのではないか、と思う。ということを書かなきゃいけないわけだ。

で、おととい生理になって、この前が16日で来て、今回はその反動で28日で。間が空いた分出血が激しいし、おととい、昨日と貧血っぽくてふらふらしていて。今日はちょっと回復して、用水についてのコピーを取りに市立図書館へ行ったり、歯医者さんに行ったりしていて。そろそろ、資料も集まったので、本文が書き始められるといいなあ、と思うわけです。