本日の日誌

本日は晴れて。晴れると暑いけれども、お外組はしっかり仕事をして。3日分の石とかが溜まっていたので、けっこう纏めて写真を撮りました。どうも、今掘っているところは、軟岩というか、崩れやすい石がちょこちょこ目立ちます。

で、私の方は、書面はだいたい書き終わって。書証の資料もだいたい集めて整理し終わって。あとは残りを集めつつ、次に出す資料の整理整頓をしています。

で、今日は角川ソフィア文庫の「世界神話辞典 世界の神々の誕生」を読み終わって。各論ばっかりやってると、どうしても知識が偏るので、こういう網羅的なものを読むと新しい発見があります。世界の神話というのは、違っているように見えて、どこのものも、どこかに似たような話があるように思う。そういったものの繋がりも解き明かせたら楽しいだろうな、と思う。「太陽と月」に関して、今現在興味深く思うのは、「射日神話」で、二人の人が二つの太陽の内の一つを射殺すと、一つは死んで月になる、と共に人間も一人死んでしまう、という話。殺される方と殺す方が一塊となっていて、どうしてそうなるのか整合性もはっきりしないのですが、本来的にはこれを説明する神話があったはずと思う。それが何なのかを知りたいと思う。もう一つは、人間が火を手に入れるために「盗み」を働く、という話であって。火を盗むと人類には火が手に入るけれども、盗まれた相手は何故か死ぬし、死ぬ方は「神の死」として扱われるわけで。何故盗まれた方が死ぬのかははっきりしない。でも、射殺された太陽が月になるのだとすると、「火」を盗まれて失い、「月」になって死んでしまう太陽神、とイメージが重なると思うわけです。だから、射日神話と「火を神から盗む」話は、起源的にどこかで同じものになるはずだと思う。その元の話を知りたい、と思うわけです。ゲイは余計な太陽を射落として人々を救ったけれども、自らは罰を受けて不幸な一生を送った。プロメテウスは神々から火を盗んで、人類のためにはなったけれども、ご当人は罰を受けて悲惨な目にあった。なぜ、「太陽」を損なったものは、人々のためにそれを行ったのに、不幸にならねばならないのだろう、と思う。

あとは、auのCMが新展開を迎えて。鬼退治の旅に出た三太郎ですが、それはフェイクで、行き着いた先には桃太郎の桃ちゃんと、かぐや姫のかぐちゃんとの、サプライズ結婚式が準備されていた、という展開であって。鬼退治からなんで、急に結婚式? と思う。そうしたら、7番目の兄さんに「黙示録も戦いの後に、子羊の結婚式でしょ?」と言われる気がするわけで@@。やっぱり、「黙示録」になぞらえてやってるんだ? と思う。だいたい、桃太郎とかぐや姫が夫婦って、昔話ではそういう展開ではないわけで。CM独自の設定である。7番目の兄さんには、「宗教というのは理屈ではなくて、イメージでしょ。」と言われる気がするわけで。

だいたい「最後の審判」っていっても、それがいつ来るのか、どんな風に来るのか、本当に来るのか、ということは誰も理論的に証明できないわけで。イメージとして、そういう「壊滅的で悲惨な状態が来る」ということがあるわけです。で、それを生き返ったイエス・キリストが戦いの末に収拾し、死者を蘇らせて新しい世界を作り、結婚する、というのもイメージといえる。CMでは、桃太郎とイエス・キリストが重ねられているし、かぐや姫が花嫁と重ねられている。しかも、かぐや姫というのは「月」のイメージであるので、戦士の桃太郎とかぐや姫の組み合わせは、分かる人には「ゲイとその妻の嫦娥」も重ね合わせられることになる。自分だけが不老不死で、月の世界に行ってしまう嫦娥とかぐや姫とはそもそも起源として同じものです。そうすると、桃太郎はゲイと同じ、というイメージになる。ゲイは太陽を射殺した太陽神の化身であるので、桃太郎も太陽神ということになる。それが黙示録と重ね合わせられているから、桃太郎が、ゲイであり、イエス・キリストであり、男性形の太陽神ということになる。ローマ教会が、各地の伝承や民俗を深く研究する意味はここにある。だいたい、どこの民族にも、桃太郎的な英雄の伝承がある。キリスト教のことを何も知らない人達のところに行って、いきなり「最後の審判」とかって言っても相手にされないことはわかりきっているので。そうではなくて、「イエス・キリストというのは、あんたんとこの桃太郎みたいなもの」だと言う。そうして、元からあった伝承を、いかにもキリスト教的に作り替えてしまう。そうすると、「黙示録と最後の審判」とは、太陽神である桃太郎が悪者を退治して、最後は太陽と月が婚姻してめでたしめでたしになる、という話である、という「イメージ」ができあがる。イエス・キリストのことは知らない人達でも、自分達の民族の英雄のことは誰でも知っているから、それとイエス・キリストを一体化させて話を作り布教する。桃太郎を知っている人達なら、「イエス・キリスト」というものは「桃太郎」と同じようなものだ、と思って納得してしまう。「キリスト」と言われても何もイメージできなくても、「桃太郎」ならイメージできる。でも、「桃太郎」をイメージできる人々であっても、「桃太郎」というのが、具体的にどこの誰で、どんな人だったのか、いつの時代の人物だったのか、と問われれば何も知らなくて、あくまでも知っているのは「イメージ」だけ、ということになる。でも、キリストには親しみはなくても、桃太郎には親しみがある。だから、「同じ」と言われれば、キリストにも親しみを持つようになる。そうやって、親近感を持ってくれた人達を「仲間」だと言って丸め込んで取り込んでしまう、ということで。そのために、民俗学とか研究するんだー、と思う。彼らにとっては、キリストとは、人類のためになるようなことをして、神の怒りに触れ、殺された英雄、ということで纏め得る。なぜなら、ゲイの神話、火を盗む神話のように、同じ話、似たような話は、世界中のどこにでもあるから、ということになる。イエス・キリストというのは、現実的にはその行動がローマ人に警戒、敵視されて殺されてしまったように思うのだけれども、「神の怒りに触れて殺された人」ということにして、伝統的な「悲劇の英雄」になぞらえることで、神格化されているのだと思う。イエス・キリストはアスクレピオースのように、死すべき人を生き返らせたことで神の怒りに触れた、とそういうことになっている。少なくとも、福音書はこの思想に沿って書かれている、と言われる気がするわけで@@。

でも、こういう初期の「教父達」のキリストの神格化の目的は、かなり早い段階で崩れることになる。ローマへ布教したペトロが、ユダヤ人社会の中で優位に立ちたくて、保守的な人々を「イエス殺害の犯人」みたいに言って攻撃したからです。保守的な人々が、堕落していて、イエスがそれを救おうとしていたのに、拒否したあげくに、イエスを殺害した、と言ったのかもしれない。これが後の時代まで、キリスト教がユダヤ教を弾圧する口実とされることになりました。「ユダヤ教徒はイエスの救済を拒否し、それのみでなく、イエスの殺害にまで加担した堕落した人々であって、救いがたい罪深き人々である。」ということになります。福音書の中にも、こういう思想の萌芽はあちこちにみられますが、でも、福音書が作られた時代は、まだこの思想はそれほどメインの思想ではなかったのです。でも、イエスも某エホバアもそうだけど、布教をお断りしたからって、「救済を拒否する、救いがたい犯罪者」だなんて、誰も言われる筋合いはないことなんじゃん? と思う-;。でも、こういう押しつけがましくて図々しいところは、ローマ教会が大いに利用して、活用したところなんじゃないかと思う。

でも、新興宗教といえども、「神格化」とは、伝承に則って行われるんだなー、と思う。だからこそ、うかつに取り込まれないように注意しなければいけないんだなー、と思うわけです。

本日の日誌

本日は晴れて。晴れると暑いけれども、お外組はしっかり仕事をして。3日分の石とかが溜まっていたので、けっこう纏めて写真を撮りました。どうも、今掘っているところは、軟岩というか、崩れやすい石がちょこちょこ目立ちます。

で、私の方は、書面はだいたい書き終わって。書証の資料もだいたい集めて整理し終わって。あとは残りを集めつつ、次に出す資料の整理整頓をしています。

で、今日は角川ソフィア文庫の「世界神話辞典 世界の神々の誕生」を読み終わって。各論ばっかりやってると、どうしても知識が偏るので、こういう網羅的なものを読むと新しい発見があります。世界の神話というのは、違っているように見えて、どこのものも、どこかに似たような話があるように思う。そういったものの繋がりも解き明かせたら楽しいだろうな、と思う。「太陽と月」に関して、今現在興味深く思うのは、「射日神話」で、二人の人が二つの太陽の内の一つを射殺すと、一つは死んで月になる、と共に人間も一人死んでしまう、という話。殺される方と殺す方が一塊となっていて、どうしてそうなるのか整合性もはっきりしないのですが、本来的にはこれを説明する神話があったはずと思う。それが何なのかを知りたいと思う。もう一つは、人間が火を手に入れるために「盗み」を働く、という話であって。火を盗むと人類には火が手に入るけれども、盗まれた相手は何故か死ぬし、死ぬ方は「神の死」として扱われるわけで。何故盗まれた方が死ぬのかははっきりしない。でも、射殺された太陽が月になるのだとすると、「火」を盗まれて失い、「月」になって死んでしまう太陽神、とイメージが重なると思うわけです。だから、射日神話と「火を神から盗む」話は、起源的にどこかで同じものになるはずだと思う。その元の話を知りたい、と思うわけです。ゲイは余計な太陽を射落として人々を救ったけれども、自らは罰を受けて不幸な一生を送った。プロメテウスは神々から火を盗んで、人類のためにはなったけれども、ご当人は罰を受けて悲惨な目にあった。なぜ、「太陽」を損なったものは、人々のためにそれを行ったのに、不幸にならねばならないのだろう、と思う。

あとは、auのCMが新展開を迎えて。鬼退治の旅に出た三太郎ですが、それはフェイクで、行き着いた先には桃太郎の桃ちゃんと、かぐや姫のかぐちゃんとの、サプライズ結婚式が準備されていた、という展開であって。鬼退治からなんで、急に結婚式? と思う。そうしたら、7番目の兄さんに「黙示録も戦いの後に、子羊の結婚式でしょ?」と言われる気がするわけで@@。やっぱり、「黙示録」になぞらえてやってるんだ? と思う。だいたい、桃太郎とかぐや姫が夫婦って、昔話ではそういう展開ではないわけで。CM独自の設定である。7番目の兄さんには、「宗教というのは理屈ではなくて、イメージでしょ。」と言われる気がするわけで。

だいたい「最後の審判」っていっても、それがいつ来るのか、どんな風に来るのか、本当に来るのか、ということは誰も理論的に証明できないわけで。イメージとして、そういう「壊滅的で悲惨な状態が来る」ということがあるわけです。で、それを生き返ったイエス・キリストが戦いの末に収拾し、死者を蘇らせて新しい世界を作り、結婚する、というのもイメージといえる。CMでは、桃太郎とイエス・キリストが重ねられているし、かぐや姫が花嫁と重ねられている。しかも、かぐや姫というのは「月」のイメージであるので、戦士の桃太郎とかぐや姫の組み合わせは、分かる人には「ゲイとその妻の嫦娥」も重ね合わせられることになる。自分だけが不老不死で、月の世界に行ってしまう嫦娥とかぐや姫とはそもそも起源として同じものです。そうすると、桃太郎はゲイと同じ、というイメージになる。ゲイは太陽を射殺した太陽神の化身であるので、桃太郎も太陽神ということになる。それが黙示録と重ね合わせられているから、桃太郎が、ゲイであり、イエス・キリストであり、男性形の太陽神ということになる。ローマ教会が、各地の伝承や民俗を深く研究する意味はここにある。だいたい、どこの民族にも、桃太郎的な英雄の伝承がある。キリスト教のことを何も知らない人達のところに行って、いきなり「最後の審判」とかって言っても相手にされないことはわかりきっているので。そうではなくて、「イエス・キリストというのは、あんたんとこの桃太郎みたいなもの」だと言う。そうして、元からあった伝承を、いかにもキリスト教的に作り替えてしまう。そうすると、「黙示録と最後の審判」とは、太陽神である桃太郎が悪者を退治して、最後は太陽と月が婚姻してめでたしめでたしになる、という話である、という「イメージ」ができあがる。イエス・キリストのことは知らない人達でも、自分達の民族の英雄のことは誰でも知っているから、それとイエス・キリストを一体化させて話を作り布教する。桃太郎を知っている人達なら、「イエス・キリスト」というものは「桃太郎」と同じようなものだ、と思って納得してしまう。「キリスト」と言われても何もイメージできなくても、「桃太郎」ならイメージできる。でも、「桃太郎」をイメージできる人々であっても、「桃太郎」というのが、具体的にどこの誰で、どんな人だったのか、いつの時代の人物だったのか、と問われれば何も知らなくて、あくまでも知っているのは「イメージ」だけ、ということになる。でも、キリストには親しみはなくても、桃太郎には親しみがある。だから、「同じ」と言われれば、キリストにも親しみを持つようになる。そうやって、親近感を持ってくれた人達を「仲間」だと言って丸め込んで取り込んでしまう、ということで。そのために、民俗学とか研究するんだー、と思う。彼らにとっては、キリストとは、人類のためになるようなことをして、神の怒りに触れ、殺された英雄、ということで纏め得る。なぜなら、ゲイの神話、火を盗む神話のように、同じ話、似たような話は、世界中のどこにでもあるから、ということになる。イエス・キリストというのは、現実的にはその行動がローマ人に警戒、敵視されて殺されてしまったように思うのだけれども、「神の怒りに触れて殺された人」ということにして、伝統的な「悲劇の英雄」になぞらえることで、神格化されているのだと思う。イエス・キリストはアスクレピオースのように、死すべき人を生き返らせたことで神の怒りに触れた、とそういうことになっている。少なくとも、福音書はこの思想に沿って書かれている、と言われる気がするわけで@@。

でも、こういう初期の「教父達」のキリストの神格化の目的は、かなり早い段階で崩れることになる。ローマへ布教したペトロが、ユダヤ人社会の中で優位に立ちたくて、保守的な人々を「イエス殺害の犯人」みたいに言って攻撃したからです。保守的な人々が、堕落していて、イエスがそれを救おうとしていたのに、拒否したあげくに、イエスを殺害した、と言ったのかもしれない。これが後の時代まで、キリスト教がユダヤ教を弾圧する口実とされることになりました。「ユダヤ教徒はイエスの救済を拒否し、それのみでなく、イエスの殺害にまで加担した堕落した人々であって、救いがたい罪深き人々である。」ということになります。福音書の中にも、こういう思想の萌芽はあちこちにみられますが、でも、福音書が作られた時代は、まだこの思想はそれほどメインの思想ではなかったのです。でも、イエスも某エホバアもそうだけど、布教をお断りしたからって、「救済を拒否する、救いがたい犯罪者」だなんて、誰も言われる筋合いはないことなんじゃん? と思う-;。でも、こういう押しつけがましくて図々しいところは、ローマ教会が大いに利用して、活用したところなんじゃないかと思う。

でも、新興宗教といえども、「神格化」とは、伝承に則って行われるんだなー、と思う。だからこそ、うかつに取り込まれないように注意しなければいけないんだなー、と思うわけです。