本日の日誌

ええと、一昨日、7番目の兄さんに、「黄帝」の長江文明側の子孫が良渚文化の王や、苗族の人達であるとすると、黄河文明側の子孫は? と聞かれる気がするわけで。さあ? と思う。

で、お外組は毎日仕事をしていて。私は昨日は書類の枚数をせっせと数えていて。で、思い切って、バートン版の「千夜一夜物語」を全巻買えと言われるので買って。

で、親と一緒に夜中過ぎまで頑張って寝て。朝、ご飯を食べながら「ブンブブーン」を見ていたら、7番目の兄さんに、ふっと「ケサル大王伝」だけ買っておくように、と言われる気がするわけで。それはチベットの英雄伝説らしいです。で、追加で注文して、どういう物語なのか調べていたら、ケサル大王という英雄が、人食いの王とか悪者を倒して仏教を各地に伝える、という話らしくて。で、中央アジアには、広く、「優れたところを示して高貴なお姫様と結婚し、人生の大部分を人食いの悪者との戦いに費やし、異民族の王女を伴って国に帰ってくると、奥さんは他の男に言い寄られて困っている」という話の英雄譚があちこちにあるらしくて@@。ケサル大王伝もそういう話の一つである。だいたい、文献的な古代ペルシャの英雄達が、イスラム教化以前の英雄であることは明らかなので、中央アジアに分布する英雄譚が全て同起源で同じくらい古いものであることは明らかである。そういう英雄達は特定の氏族の先祖であることもあるし、そうでないこともある。何故? と思うと、中央アジアの遊牧民は、個々の氏族だけでは血統を維持できなくて、遺伝子だけ旅人のものを貰う、ということがままあるので、一族の中の誰かが「英雄」の子孫であるかもしれない、ということはままある。そういう曖昧さは代が下るほど曖昧になるので、中央アジア全体に、「先祖であったり、先祖であるかもしれない英雄」の話が分布することになる、と言われる気がするわけで@@。

そういう物語は、中央アジアに住んでいた印欧語族の先祖も持っていて、彼らはそれを西欧にも持ち込んで、ペルセウスやテーセウスといった英雄神話になっているんだなあ、と思う。そして、キリスト教化が始まると、「先祖の神」に対する信仰が禁じられるし、「先祖が犬だの馬だのあり得ないでしょ」とトーテムを否定されれば、それも事実であるので反論できない。だから、神格化された先祖の英雄の物語は、再び「人間の英雄」の物語として焼き直され、アーサー王物語とか、ニーベルンゲンとか中世の騎士物語へと移行する。「英雄」に相当する「登場人物」は架空の人のこともあるし、実在の人物を元にしてることもある、と言われる気がするわけで。そういう物語の主題は、英雄が優れた資質を示すことと、二人の女性との三角関係である。キリスト教化された後は、ヨーロッパでは一夫一妻制が理想とされるので、太古の一夫多妻の英雄は、「理想の英雄」であるために一夫一妻の英雄に焼き直されるけれども、元のモデルが「奥さんが二人いた英雄」だから、この「三角関係」をどうやって表現するのかが、作家の腕の見せ所になる、と言われる気がするわけで@@。ヨーロッパの騎士物語はこのように発展してきたものだから、中世から近代の作品まで、古代の英雄譚を投影したものはいくつもあり、「黄帝」の事業を褒め称える作品は味方のもの、そうでないのは敵のもの、とみな区別していたらしくて。でも、中央アジアの英雄譚は我が家からは、「読んではいけない本」にあるのがほとんどであって。要するに、なるべくその物語を私が知らないように仕向けてあるらしくて。仕向ければ、槃瓠とゲイと黄帝は同じ者で、それが一体となった伝承が中央アジアからヨーロッパに移動している、って私に分かりにくくなるからなのだと思う。要するに、黄河文明側の黄帝の子孫は、良渚文化が拡がるにつれて圧迫され、中央アジアに流出している。長江文明側の子孫で、良渚文化に迎合しない人達は中国の南端に追いやられて、東南アジア方面にも流出している、ってそういうことね、と思う。長江文明側の子孫は犬の英雄先祖の伝承を残したけれども、黄河文明の側の英雄は正義と平和のために戦い続けて、家庭生活にあんまり恵まれなかった英雄譚を山ほど残している、ということらしくて。「兄さん、なんだか女運には恵まれてなかったのね;」と思う。

で、郵便を出しに行って、帰って来てお昼に「ブンブブーン」を見ていたら、某イングランドのおばあちゃんが、ブスブス怒って「ケサル大王伝」まで行き着いたら、すぐに「アイヴァンホー」を思いつくのが普通、って言ってくるわけで@@。アイヴァンホーって言ったら、身分の高いロウイーナ姫と結婚しようと頑張るウィルフレッドが、一生懸命働いて、異民族の娘のレベッカが悪い男に食い物にされるのを命を賭けて助け出して、まさに、「近代の黄帝譚の最高傑作じゃないの、婚約者に対して「女運に恵まれてない」とか嫁入り前の小娘が生意気なこと言ってるんじゃない」と怒られる気がするわけで@@。はい? というか、おばあちゃんは「アイヴァンホー」が好きなんですね? 要するにねえ? と思う。あんまり怒らせて国際問題に発展するとまずいので、早急に注文する-;。

で、FNS歌謡祭を夜に見ていたら、相変わらずのミュージカル特集であって。「レ・ミゼラブル」とかやっていて。これも昔は持ってた。捨てちゃったけど。で、ぼーっと見ていたら、登場人物の中に「エポニーヌ」という女の子がいた。「レ・ミゼラブル」の後半は、フランス革命とその狭間で揺り動かされるマリユスとコゼットの恋物語である。マリユスはお金持ちのお坊ちゃまで、コゼットは養父のジャン・バル・ジャンに大切に育てられた賢い女の子だけれども、結局はただの孤児である。エポニーヌは、コゼットの幼なじみで、貧乏で教育も躾もうけていない下層階級の娘である。でも、純粋なところがあってマリユスのことを本気で好きになるけれども、相手にして貰えない。革命に参加したマリユスは、銃に撃たれて殺されそうになるけれども、エポニーヌが彼を庇って代わりに死んでしまう。重傷を負ったマリユス君はジャン・バル・ジャンに助けられて、結局コゼットとめでたく結婚できる。そして革命も成就する。ぎくっと思うけれども、「エポニーヌ」とは「エポナ」のことである。要するに、エポナを生け贄に捧げて、マリユスとコゼットの愛は成就する、そしてフランス革命も成就する、ってそういう話だよねえ、これ? と思う。だから、これは「敵の物語」なんだ、「生け贄を肯定しているから」と気がつく。西欧の文学とは、こうやって敵と味方に分かれて発展してきたんだなあ、と思う。だから、味方の物語を選んで家にいれないといけないらしい。そして、そういうものを読んで、「生け贄反対」の精神を自然と学ばなければいけないものらしい。

で、FNSを見て、寝る前にふっと「ジプシー民話集」という本が目に付いたので、読んでみたくなった。第1話は、「牛飼いの若者が真面目に勇敢に働いて、竜の生け贄にされそうになっていたお嬢さんを助けて結婚する」という話だった。これは、オズボーン・ブーツとオーディンのユミル退治が分離する前の物語だし、女性が一人に纏められてしまっているけれども、中央アジア由来の英雄譚の流れを組む話である。

私だったら、「貧しいけれども、勇敢な羊飼いの若者が狼や猛獣から主人の羊をよく守ったので、働きが認められて婿に迎えられた。今度は隣の家の娘が、人食いの竜の「妻」という名目の生け贄にされることになったので、娘を気の毒に思った若者は、竜と戦って竜を倒し、こちらの娘とも結婚した。竜の体は硬くて、役にたったので、若者はこれを家の材料にしたり、境界の柵にしたりして、人々のために使った。若者は第一夫人の家と第二夫人の家を行ったり来たりして、どちらの家も子供に恵まれたが、第二夫人の実家の者は身分の低い若者のことを嫌っていた。そこで、孫が大きくなると、孫息子をそそのかして父親を殺させた。孫息子は、「自分こそが父親の正当な跡継ぎだ」と言って、第一夫人のところにいる兄達の財産も奪って、兄達を追い出してしまい、一帯の王となって君臨した。」という物語を書くと思う。

この物語の中に、オズボーン・ブーツも、オーディンのユミル退治も、槃瓠も、ゲイも牽牛織女も黄帝も全部収まる。アイヴァンホーなんてメロドラマでしょ、って言ったらものすごく怒られたわけですがー;。でも、「七夕の王子様」に選ばれてなんだか嬉しそうな4番目の子と、あんまり嬉しそうじゃない7番目の兄さんを見てると、「今生でも女運があんまりよろしくないかもー;」と思うあたくしがいるわけですがー;。こういう性格でごめん、と思う。でも、まあ、お勉強はできる範囲で頑張りたいと思うわけです-;。

本日の日誌

ええと、一昨日、7番目の兄さんに、「黄帝」の長江文明側の子孫が良渚文化の王や、苗族の人達であるとすると、黄河文明側の子孫は? と聞かれる気がするわけで。さあ? と思う。

で、お外組は毎日仕事をしていて。私は昨日は書類の枚数をせっせと数えていて。で、思い切って、バートン版の「千夜一夜物語」を全巻買えと言われるので買って。

で、親と一緒に夜中過ぎまで頑張って寝て。朝、ご飯を食べながら「ブンブブーン」を見ていたら、7番目の兄さんに、ふっと「ケサル大王伝」だけ買っておくように、と言われる気がするわけで。それはチベットの英雄伝説らしいです。で、追加で注文して、どういう物語なのか調べていたら、ケサル大王という英雄が、人食いの王とか悪者を倒して仏教を各地に伝える、という話らしくて。で、中央アジアには、広く、「優れたところを示して高貴なお姫様と結婚し、人生の大部分を人食いの悪者との戦いに費やし、異民族の王女を伴って国に帰ってくると、奥さんは他の男に言い寄られて困っている」という話の英雄譚があちこちにあるらしくて@@。ケサル大王伝もそういう話の一つである。だいたい、文献的な古代ペルシャの英雄達が、イスラム教化以前の英雄であることは明らかなので、中央アジアに分布する英雄譚が全て同起源で同じくらい古いものであることは明らかである。そういう英雄達は特定の氏族の先祖であることもあるし、そうでないこともある。何故? と思うと、中央アジアの遊牧民は、個々の氏族だけでは血統を維持できなくて、遺伝子だけ旅人のものを貰う、ということがままあるので、一族の中の誰かが「英雄」の子孫であるかもしれない、ということはままある。そういう曖昧さは代が下るほど曖昧になるので、中央アジア全体に、「先祖であったり、先祖であるかもしれない英雄」の話が分布することになる、と言われる気がするわけで@@。

そういう物語は、中央アジアに住んでいた印欧語族の先祖も持っていて、彼らはそれを西欧にも持ち込んで、ペルセウスやテーセウスといった英雄神話になっているんだなあ、と思う。そして、キリスト教化が始まると、「先祖の神」に対する信仰が禁じられるし、「先祖が犬だの馬だのあり得ないでしょ」とトーテムを否定されれば、それも事実であるので反論できない。だから、神格化された先祖の英雄の物語は、再び「人間の英雄」の物語として焼き直され、アーサー王物語とか、ニーベルンゲンとか中世の騎士物語へと移行する。「英雄」に相当する「登場人物」は架空の人のこともあるし、実在の人物を元にしてることもある、と言われる気がするわけで。そういう物語の主題は、英雄が優れた資質を示すことと、二人の女性との三角関係である。キリスト教化された後は、ヨーロッパでは一夫一妻制が理想とされるので、太古の一夫多妻の英雄は、「理想の英雄」であるために一夫一妻の英雄に焼き直されるけれども、元のモデルが「奥さんが二人いた英雄」だから、この「三角関係」をどうやって表現するのかが、作家の腕の見せ所になる、と言われる気がするわけで@@。ヨーロッパの騎士物語はこのように発展してきたものだから、中世から近代の作品まで、古代の英雄譚を投影したものはいくつもあり、「黄帝」の事業を褒め称える作品は味方のもの、そうでないのは敵のもの、とみな区別していたらしくて。でも、中央アジアの英雄譚は我が家からは、「読んではいけない本」にあるのがほとんどであって。要するに、なるべくその物語を私が知らないように仕向けてあるらしくて。仕向ければ、槃瓠とゲイと黄帝は同じ者で、それが一体となった伝承が中央アジアからヨーロッパに移動している、って私に分かりにくくなるからなのだと思う。要するに、黄河文明側の黄帝の子孫は、良渚文化が拡がるにつれて圧迫され、中央アジアに流出している。長江文明側の子孫で、良渚文化に迎合しない人達は中国の南端に追いやられて、東南アジア方面にも流出している、ってそういうことね、と思う。長江文明側の子孫は犬の英雄先祖の伝承を残したけれども、黄河文明の側の英雄は正義と平和のために戦い続けて、家庭生活にあんまり恵まれなかった英雄譚を山ほど残している、ということらしくて。「兄さん、なんだか女運には恵まれてなかったのね;」と思う。

で、郵便を出しに行って、帰って来てお昼に「ブンブブーン」を見ていたら、某イングランドのおばあちゃんが、ブスブス怒って「ケサル大王伝」まで行き着いたら、すぐに「アイヴァンホー」を思いつくのが普通、って言ってくるわけで@@。アイヴァンホーって言ったら、身分の高いロウイーナ姫と結婚しようと頑張るウィルフレッドが、一生懸命働いて、異民族の娘のレベッカが悪い男に食い物にされるのを命を賭けて助け出して、まさに、「近代の黄帝譚の最高傑作じゃないの、婚約者に対して「女運に恵まれてない」とか嫁入り前の小娘が生意気なこと言ってるんじゃない」と怒られる気がするわけで@@。はい? というか、おばあちゃんは「アイヴァンホー」が好きなんですね? 要するにねえ? と思う。あんまり怒らせて国際問題に発展するとまずいので、早急に注文する-;。

で、FNS歌謡祭を夜に見ていたら、相変わらずのミュージカル特集であって。「レ・ミゼラブル」とかやっていて。これも昔は持ってた。捨てちゃったけど。で、ぼーっと見ていたら、登場人物の中に「エポニーヌ」という女の子がいた。「レ・ミゼラブル」の後半は、フランス革命とその狭間で揺り動かされるマリユスとコゼットの恋物語である。マリユスはお金持ちのお坊ちゃまで、コゼットは養父のジャン・バル・ジャンに大切に育てられた賢い女の子だけれども、結局はただの孤児である。エポニーヌは、コゼットの幼なじみで、貧乏で教育も躾もうけていない下層階級の娘である。でも、純粋なところがあってマリユスのことを本気で好きになるけれども、相手にして貰えない。革命に参加したマリユスは、銃に撃たれて殺されそうになるけれども、エポニーヌが彼を庇って代わりに死んでしまう。重傷を負ったマリユス君はジャン・バル・ジャンに助けられて、結局コゼットとめでたく結婚できる。そして革命も成就する。ぎくっと思うけれども、「エポニーヌ」とは「エポナ」のことである。要するに、エポナを生け贄に捧げて、マリユスとコゼットの愛は成就する、そしてフランス革命も成就する、ってそういう話だよねえ、これ? と思う。だから、これは「敵の物語」なんだ、「生け贄を肯定しているから」と気がつく。西欧の文学とは、こうやって敵と味方に分かれて発展してきたんだなあ、と思う。だから、味方の物語を選んで家にいれないといけないらしい。そして、そういうものを読んで、「生け贄反対」の精神を自然と学ばなければいけないものらしい。

で、FNSを見て、寝る前にふっと「ジプシー民話集」という本が目に付いたので、読んでみたくなった。第1話は、「牛飼いの若者が真面目に勇敢に働いて、竜の生け贄にされそうになっていたお嬢さんを助けて結婚する」という話だった。これは、オズボーン・ブーツとオーディンのユミル退治が分離する前の物語だし、女性が一人に纏められてしまっているけれども、中央アジア由来の英雄譚の流れを組む話である。

私だったら、「貧しいけれども、勇敢な羊飼いの若者が狼や猛獣から主人の羊をよく守ったので、働きが認められて婿に迎えられた。今度は隣の家の娘が、人食いの竜の「妻」という名目の生け贄にされることになったので、娘を気の毒に思った若者は、竜と戦って竜を倒し、こちらの娘とも結婚した。竜の体は硬くて、役にたったので、若者はこれを家の材料にしたり、境界の柵にしたりして、人々のために使った。若者は第一夫人の家と第二夫人の家を行ったり来たりして、どちらの家も子供に恵まれたが、第二夫人の実家の者は身分の低い若者のことを嫌っていた。そこで、孫が大きくなると、孫息子をそそのかして父親を殺させた。孫息子は、「自分こそが父親の正当な跡継ぎだ」と言って、第一夫人のところにいる兄達の財産も奪って、兄達を追い出してしまい、一帯の王となって君臨した。」という物語を書くと思う。

この物語の中に、オズボーン・ブーツも、オーディンのユミル退治も、槃瓠も、ゲイも牽牛織女も黄帝も全部収まる。アイヴァンホーなんてメロドラマでしょ、って言ったらものすごく怒られたわけですがー;。でも、「七夕の王子様」に選ばれてなんだか嬉しそうな4番目の子と、あんまり嬉しそうじゃない7番目の兄さんを見てると、「今生でも女運があんまりよろしくないかもー;」と思うあたくしがいるわけですがー;。こういう性格でごめん、と思う。でも、まあ、お勉強はできる範囲で頑張りたいと思うわけです-;。

本日の日誌

ええと、一昨日、7番目の兄さんに、「黄帝」の長江文明側の子孫が良渚文化の王や、苗族の人達であるとすると、黄河文明側の子孫は? と聞かれる気がするわけで。さあ? と思う。

で、お外組は毎日仕事をしていて。私は昨日は書類の枚数をせっせと数えていて。で、思い切って、バートン版の「千夜一夜物語」を全巻買えと言われるので買って。

で、親と一緒に夜中過ぎまで頑張って寝て。朝、ご飯を食べながら「ブンブブーン」を見ていたら、7番目の兄さんに、ふっと「ケサル大王伝」だけ買っておくように、と言われる気がするわけで。それはチベットの英雄伝説らしいです。で、追加で注文して、どういう物語なのか調べていたら、ケサル大王という英雄が、人食いの王とか悪者を倒して仏教を各地に伝える、という話らしくて。で、中央アジアには、広く、「優れたところを示して高貴なお姫様と結婚し、人生の大部分を人食いの悪者との戦いに費やし、異民族の王女を伴って国に帰ってくると、奥さんは他の男に言い寄られて困っている」という話の英雄譚があちこちにあるらしくて@@。ケサル大王伝もそういう話の一つである。だいたい、文献的な古代ペルシャの英雄達が、イスラム教化以前の英雄であることは明らかなので、中央アジアに分布する英雄譚が全て同起源で同じくらい古いものであることは明らかである。そういう英雄達は特定の氏族の先祖であることもあるし、そうでないこともある。何故? と思うと、中央アジアの遊牧民は、個々の氏族だけでは血統を維持できなくて、遺伝子だけ旅人のものを貰う、ということがままあるので、一族の中の誰かが「英雄」の子孫であるかもしれない、ということはままある。そういう曖昧さは代が下るほど曖昧になるので、中央アジア全体に、「先祖であったり、先祖であるかもしれない英雄」の話が分布することになる、と言われる気がするわけで@@。

そういう物語は、中央アジアに住んでいた印欧語族の先祖も持っていて、彼らはそれを西欧にも持ち込んで、ペルセウスやテーセウスといった英雄神話になっているんだなあ、と思う。そして、キリスト教化が始まると、「先祖の神」に対する信仰が禁じられるし、「先祖が犬だの馬だのあり得ないでしょ」とトーテムを否定されれば、それも事実であるので反論できない。だから、神格化された先祖の英雄の物語は、再び「人間の英雄」の物語として焼き直され、アーサー王物語とか、ニーベルンゲンとか中世の騎士物語へと移行する。「英雄」に相当する「登場人物」は架空の人のこともあるし、実在の人物を元にしてることもある、と言われる気がするわけで。そういう物語の主題は、英雄が優れた資質を示すことと、二人の女性との三角関係である。キリスト教化された後は、ヨーロッパでは一夫一妻制が理想とされるので、太古の一夫多妻の英雄は、「理想の英雄」であるために一夫一妻の英雄に焼き直されるけれども、元のモデルが「奥さんが二人いた英雄」だから、この「三角関係」をどうやって表現するのかが、作家の腕の見せ所になる、と言われる気がするわけで@@。ヨーロッパの騎士物語はこのように発展してきたものだから、中世から近代の作品まで、古代の英雄譚を投影したものはいくつもあり、「黄帝」の事業を褒め称える作品は味方のもの、そうでないのは敵のもの、とみな区別していたらしくて。でも、中央アジアの英雄譚は我が家からは、「読んではいけない本」にあるのがほとんどであって。要するに、なるべくその物語を私が知らないように仕向けてあるらしくて。仕向ければ、槃瓠とゲイと黄帝は同じ者で、それが一体となった伝承が中央アジアからヨーロッパに移動している、って私に分かりにくくなるからなのだと思う。要するに、黄河文明側の黄帝の子孫は、良渚文化が拡がるにつれて圧迫され、中央アジアに流出している。長江文明側の子孫で、良渚文化に迎合しない人達は中国の南端に追いやられて、東南アジア方面にも流出している、ってそういうことね、と思う。長江文明側の子孫は犬の英雄先祖の伝承を残したけれども、黄河文明の側の英雄は正義と平和のために戦い続けて、家庭生活にあんまり恵まれなかった英雄譚を山ほど残している、ということらしくて。「兄さん、なんだか女運には恵まれてなかったのね;」と思う。

で、郵便を出しに行って、帰って来てお昼に「ブンブブーン」を見ていたら、某イングランドのおばあちゃんが、ブスブス怒って「ケサル大王伝」まで行き着いたら、すぐに「アイヴァンホー」を思いつくのが普通、って言ってくるわけで@@。アイヴァンホーって言ったら、身分の高いロウイーナ姫と結婚しようと頑張るウィルフレッドが、一生懸命働いて、異民族の娘のレベッカが悪い男に食い物にされるのを命を賭けて助け出して、まさに、「近代の黄帝譚の最高傑作じゃないの、婚約者に対して「女運に恵まれてない」とか嫁入り前の小娘が生意気なこと言ってるんじゃない」と怒られる気がするわけで@@。はい? というか、おばあちゃんは「アイヴァンホー」が好きなんですね? 要するにねえ? と思う。あんまり怒らせて国際問題に発展するとまずいので、早急に注文する-;。

で、FNS歌謡祭を夜に見ていたら、相変わらずのミュージカル特集であって。「レ・ミゼラブル」とかやっていて。これも昔は持ってた。捨てちゃったけど。で、ぼーっと見ていたら、登場人物の中に「エポニーヌ」という女の子がいた。「レ・ミゼラブル」の後半は、フランス革命とその狭間で揺り動かされるマリユスとコゼットの恋物語である。マリユスはお金持ちのお坊ちゃまで、コゼットは養父のジャン・バル・ジャンに大切に育てられた賢い女の子だけれども、結局はただの孤児である。エポニーヌは、コゼットの幼なじみで、貧乏で教育も躾もうけていない下層階級の娘である。でも、純粋なところがあってマリユスのことを本気で好きになるけれども、相手にして貰えない。革命に参加したマリユスは、銃に撃たれて殺されそうになるけれども、エポニーヌが彼を庇って代わりに死んでしまう。重傷を負ったマリユス君はジャン・バル・ジャンに助けられて、結局コゼットとめでたく結婚できる。そして革命も成就する。ぎくっと思うけれども、「エポニーヌ」とは「エポナ」のことである。要するに、エポナを生け贄に捧げて、マリユスとコゼットの愛は成就する、そしてフランス革命も成就する、ってそういう話だよねえ、これ? と思う。だから、これは「敵の物語」なんだ、「生け贄を肯定しているから」と気がつく。西欧の文学とは、こうやって敵と味方に分かれて発展してきたんだなあ、と思う。だから、味方の物語を選んで家にいれないといけないらしい。そして、そういうものを読んで、「生け贄反対」の精神を自然と学ばなければいけないものらしい。

で、FNSを見て、寝る前にふっと「ジプシー民話集」という本が目に付いたので、読んでみたくなった。第1話は、「牛飼いの若者が真面目に勇敢に働いて、竜の生け贄にされそうになっていたお嬢さんを助けて結婚する」という話だった。これは、オズボーン・ブーツとオーディンのユミル退治が分離する前の物語だし、女性が一人に纏められてしまっているけれども、中央アジア由来の英雄譚の流れを組む話である。

私だったら、「貧しいけれども、勇敢な羊飼いの若者が狼や猛獣から主人の羊をよく守ったので、働きが認められて婿に迎えられた。今度は隣の家の娘が、人食いの竜の「妻」という名目の生け贄にされることになったので、娘を気の毒に思った若者は、竜と戦って竜を倒し、こちらの娘とも結婚した。竜の体は硬くて、役にたったので、若者はこれを家の材料にしたり、境界の柵にしたりして、人々のために使った。若者は第一夫人の家と第二夫人の家を行ったり来たりして、どちらの家も子供に恵まれたが、第二夫人の実家の者は身分の低い若者のことを嫌っていた。そこで、孫が大きくなると、孫息子をそそのかして父親を殺させた。孫息子は、「自分こそが父親の正当な跡継ぎだ」と言って、第一夫人のところにいる兄達の財産も奪って、兄達を追い出してしまい、一帯の王となって君臨した。」という物語を書くと思う。

この物語の中に、オズボーン・ブーツも、オーディンのユミル退治も、槃瓠も、ゲイも牽牛織女も黄帝も全部収まる。アイヴァンホーなんてメロドラマでしょ、って言ったらものすごく怒られたわけですがー;。でも、「七夕の王子様」に選ばれてなんだか嬉しそうな4番目の子と、あんまり嬉しそうじゃない7番目の兄さんを見てると、「今生でも女運があんまりよろしくないかもー;」と思うあたくしがいるわけですがー;。こういう性格でごめん、と思う。でも、まあ、お勉強はできる範囲で頑張りたいと思うわけです-;。

本日の日誌

本日は、お外組は普通に外仕事をして。私は書類を書いて。午後、3時頃にけっこう激しい夕立が来て。で、書類はだいたいできあがったので、後は印刷して纏めるだけ、ということで。

後は、買った本が数冊届いて。「へロドトス」を勧められて買ったわけです。ヘロドトスといえば、世界最古の歴史書である「歴史」です。真面目に読んだら、勉強になるだろうな、と思う。でも、うちの父親に「これを買って欲しい」というのは無理だろうな、と思って-;。ヘロドトスどころか、聖徳太子がどこの誰なのかも分かってないのに? と思う-;。

ケルトの民話とかを読むと、アザラシと人が結婚する話が目立つわけです。というか、あちこちで、羽衣とか天人女房とか、鳥の羽を盗んで妻にする話が多いわけですが、ケルトでは何故か鳥と似ても似つかぬアザラシが、妻になっていることが多くて。なんでなんだろう? と思う。で、ちょうど今、カイトリーの「妖精の誕生」という本を読んでいて。西洋における、フェアリー(妖精)という言葉はけっして大昔からのものではなくて、精霊的な存在は昔からあったけれども、それらが「妖精」と呼ばれるようになった過程を、各地の民話を折り混ぜながら考察していて。それによると、「フェアリー」という言葉の起源は、古代ペルシャの「ペリ」という言葉にあるらしいです。「ペリ」というのは、いわゆる「天人」のことです。男性形も女性形もあるけれども、「天人女房」的な物語があったらしくて。天の良き精霊のことです。「王書」という本の中に、ロスタムという英雄の奥さんであるタハミーネという女性が「ペリのように美しい」と書かれているらしくて。

でも、古代ペルシャっていったら、古代インドとは兄弟のようなものですから、インドの側にも似たような話があるはず、と思う。というか、インドでは天人のことをアプサラスというらしくて。その意味は、「水の中で動くもの、雲の海に生きるもの」ということらしくて。なんで「天人」が「水の中で動くもの」なの? と思うと、「それは古代の印欧語族が天とは大きな水瓶のようなものだと考えていたから」と言われる気がするわけで@@。「雨」という時も、空の腹が破れて水が降ってくる様を現してるから、その考え方の起源は古代中国にある、と言われる気がするわけで。

一方、古代メソポタミアの一番古い時代には、大地の奥底にあるとされた淡水の海のことをアプスーと呼び、川はそこから流れ出してくる、と考えられていました。そして、神々もそこに住むと考えられていた。要するに、古代の漁撈民は、大きな海のような聖域があって、そこに神々が住むと考えていたし、魚とか亀とかウミヘビとかそこからやってくる、と考えていました。アプスーは聖域全体を指すし、神々のすみかも指します。要するにいわゆる「竜宮」のことです。でも、内陸に住む古代の中国人と印欧語族の先祖は「天も水の塊である」と考えました。だから、アプスーは「天の国」に変化してしまった。天人達は「天の湖」の住人であり、白鳥とかの水鳥がそこと地上を行き来していると考えたのです。だから、アプサラスとは、古くは海の姫である人魚姫とか乙姫のことで良いのだけれども、古代中国で天の姫である織姫とか天女に変更されて、それが印欧語族の拡散と共に各地に伝播しました。だから、人後姫とかアザラシの女房とかは、アプスーが「水の住人」であったころの姿をそのまま残しているのです。アプスーが「天女」に変更されると、今度は「天の住人」に変化しますが、それは広い意味で「中国文化圏」の思想といえます。

だから、フェアリーの語源が、ペリであるなら、それはアプサラスとも同語源であり、古代メソポタミアのアプスーまで遡るもので、古代ギリシャの太陽神アポローンとも同語源なのです。「天人女房」の原型は、アプスーが「天人」になる以前にまで遡るので、アザラシとかの水生生物が妻になる話と、天人女房の2種類に、「全く同じような」話があるのです。「羽衣」と「浦島太郎」は元は同じ話であったものです。と言われる気がするわけで@@。

でも、私が思うに、「牽牛織女」のように、単なる「浦島太郎」ではなくて、「天人女房」の中には、明らかに、特に妻側の実家が夫のことを歓迎していない、というパターンが東洋を中心にありますよねえ? と思う。それは何で? と思う。そうしたら、それは「誰か特定の若者が、身分の高い女性に婿入りして、妻の実家側の人々から猛反対された」という「事実」が、古くからの「浦島太郎伝説」に付加されたものでしょ、と言われる気がするわけで。人間のお姫様に婿入りして苦労した犬の婿さんのことなのですかねえ、それ? と思う。西欧の方の民話とかでは、結婚は最後は「めでたしめでたし」で終わることが多いけれども、東洋ではその逆が多いわけで。なんだか、複雑そうな話があった感じ、と思うわけですが。でも、自分が舅になったときに、自分がやられたのと同じ事を婿さんにやったら駄目なんじゃん?? 6番目の子とか、と思うわけで-;。ということで、「フェアリー」という言葉の起源は「アプスー」にあるらしいです。天女というのは、人魚姫か亀の乙姫かアザラシのことであるらしいですー;。

本日の日誌

本日は、お外組は普通に外仕事をして。私は書類を書いて。午後、3時頃にけっこう激しい夕立が来て。で、書類はだいたいできあがったので、後は印刷して纏めるだけ、ということで。

後は、買った本が数冊届いて。「へロドトス」を勧められて買ったわけです。ヘロドトスといえば、世界最古の歴史書である「歴史」です。真面目に読んだら、勉強になるだろうな、と思う。でも、うちの父親に「これを買って欲しい」というのは無理だろうな、と思って-;。ヘロドトスどころか、聖徳太子がどこの誰なのかも分かってないのに? と思う-;。

ケルトの民話とかを読むと、アザラシと人が結婚する話が目立つわけです。というか、あちこちで、羽衣とか天人女房とか、鳥の羽を盗んで妻にする話が多いわけですが、ケルトでは何故か鳥と似ても似つかぬアザラシが、妻になっていることが多くて。なんでなんだろう? と思う。で、ちょうど今、カイトリーの「妖精の誕生」という本を読んでいて。西洋における、フェアリー(妖精)という言葉はけっして大昔からのものではなくて、精霊的な存在は昔からあったけれども、それらが「妖精」と呼ばれるようになった過程を、各地の民話を折り混ぜながら考察していて。それによると、「フェアリー」という言葉の起源は、古代ペルシャの「ペリ」という言葉にあるらしいです。「ペリ」というのは、いわゆる「天人」のことです。男性形も女性形もあるけれども、「天人女房」的な物語があったらしくて。天の良き精霊のことです。「王書」という本の中に、ロスタムという英雄の奥さんであるタハミーネという女性が「ペリのように美しい」と書かれているらしくて。

でも、古代ペルシャっていったら、古代インドとは兄弟のようなものですから、インドの側にも似たような話があるはず、と思う。というか、インドでは天人のことをアプサラスというらしくて。その意味は、「水の中で動くもの、雲の海に生きるもの」ということらしくて。なんで「天人」が「水の中で動くもの」なの? と思うと、「それは古代の印欧語族が天とは大きな水瓶のようなものだと考えていたから」と言われる気がするわけで@@。「雨」という時も、空の腹が破れて水が降ってくる様を現してるから、その考え方の起源は古代中国にある、と言われる気がするわけで。

一方、古代メソポタミアの一番古い時代には、大地の奥底にあるとされた淡水の海のことをアプスーと呼び、川はそこから流れ出してくる、と考えられていました。そして、神々もそこに住むと考えられていた。要するに、古代の漁撈民は、大きな海のような聖域があって、そこに神々が住むと考えていたし、魚とか亀とかウミヘビとかそこからやってくる、と考えていました。アプスーは聖域全体を指すし、神々のすみかも指します。要するにいわゆる「竜宮」のことです。でも、内陸に住む古代の中国人と印欧語族の先祖は「天も水の塊である」と考えました。だから、アプスーは「天の国」に変化してしまった。天人達は「天の湖」の住人であり、白鳥とかの水鳥がそこと地上を行き来していると考えたのです。だから、アプサラスとは、古くは海の姫である人魚姫とか乙姫のことで良いのだけれども、古代中国で天の姫である織姫とか天女に変更されて、それが印欧語族の拡散と共に各地に伝播しました。だから、人後姫とかアザラシの女房とかは、アプスーが「水の住人」であったころの姿をそのまま残しているのです。アプスーが「天女」に変更されると、今度は「天の住人」に変化しますが、それは広い意味で「中国文化圏」の思想といえます。

だから、フェアリーの語源が、ペリであるなら、それはアプサラスとも同語源であり、古代メソポタミアのアプスーまで遡るもので、古代ギリシャの太陽神アポローンとも同語源なのです。「天人女房」の原型は、アプスーが「天人」になる以前にまで遡るので、アザラシとかの水生生物が妻になる話と、天人女房の2種類に、「全く同じような」話があるのです。「羽衣」と「浦島太郎」は元は同じ話であったものです。と言われる気がするわけで@@。

でも、私が思うに、「牽牛織女」のように、単なる「浦島太郎」ではなくて、「天人女房」の中には、明らかに、特に妻側の実家が夫のことを歓迎していない、というパターンが東洋を中心にありますよねえ? と思う。それは何で? と思う。そうしたら、それは「誰か特定の若者が、身分の高い女性に婿入りして、妻の実家側の人々から猛反対された」という「事実」が、古くからの「浦島太郎伝説」に付加されたものでしょ、と言われる気がするわけで。人間のお姫様に婿入りして苦労した犬の婿さんのことなのですかねえ、それ? と思う。西欧の方の民話とかでは、結婚は最後は「めでたしめでたし」で終わることが多いけれども、東洋ではその逆が多いわけで。なんだか、複雑そうな話があった感じ、と思うわけですが。でも、自分が舅になったときに、自分がやられたのと同じ事を婿さんにやったら駄目なんじゃん?? 6番目の子とか、と思うわけで-;。ということで、「フェアリー」という言葉の起源は「アプスー」にあるらしいです。天女というのは、人魚姫か亀の乙姫かアザラシのことであるらしいですー;。