本日の日誌

本日も無事にノルマをこなして。兄さん達は、裁判に負けてもあんまりお金に困る状況ではないので、むしろ、「大量の日記を証拠に出せ」って言われたことに私が怒ってそう、と思ってるらしくて-;。朝、7番目の兄さんの動画とか見てると、「怒れ、怒れ」と言われる気がするわけで。「怒れ、って言われてる気がする。」って呟いたら、兄さんに、「やっぱり、目の力が強くて洗脳が効かないね。」と笑われるわけでー;。いろいろと送った文章を見て、兄さん達は、「妻神はけっこう気が強い」と思ったらしいです。だいたい、敵の言ってることがあんまりなんで、日記を出さなくても勝てる案件なんじゃないの? と思うわけですが。「自分達が日記を読みたいから送ってね。」とわざわざ音楽家の兄さんにも言われる気がするわけで。もう、次の予約が入ってるし、と思う。

先週の「しやがれ」で、「ホヤ」の項で、潤ちゃんが答えを知ってるのに、ヒントをわざと出して他の人に教えてあげる、とか。海老の項で、「列を作って歩く」まで言わないと正解じゃない、って言われていて。ちゃんと主張を最後までするように、とか、答えを知ってるのにヒントを出してくれるって、あの二人組のこととか、言いたいことは分かるわけですがー;。裁判官と敵方の弁護士に妙なヒントを出して貰いながらやる裁判ほど、気味が悪いものはない、生理的にそもそも受け付けない、とか思うわけで-;。でも、兄さん達を愛してるから頑張る、とか思うわけで。安達守が何が言いたいのかは分かってるし、一番肝心なことは教えて貰ったことも分かっているわけですが。単に、面白くないだけですー;。でも、日記1日分につき、2万円だと思って頑張れ、と言われるので頑張ります(苦笑)。

お外組は、微妙なお天気の中、晴れている時にけっこう作業をしたらしくて。で、昨日けっこうヘリが飛んだりしていたのですが、今日になって、家の裏手に、今まで見たことのない材木が3本見つかって。一応、写真には撮っておきました。昨日、隣家が騒がしかったのですが、今日になったらこれだー、と思って。今日も少しうるさかったです。

で、そもそも、狩猟民の宗教的思想は、自分達は狩りをする「虎」であって、周辺の部族は「獲物の草食動物」であって、虎が獲物を狩るように、他人の首を狩るのが、一人前のステイタス、というのがそもそもの「宗教」の考え方だと思うわけです。そして、狩りの獲物は自分達で食べたり、神に捧げたりする。これは、宗教と言うより、トーテム信仰といえる。ただし、他人を狩ることは人間の歴史としては、「首狩り」に象徴されるように、次第に「肉を食べる」ことからは離れて「霊を食べて首だけ利用する」みたいな形になっていきます。少なくとも、歴史的にはそんな感じである。でも、これは更に古い時代の食人の名残でもあると思う。そして、これが社会性を帯びれば、階級制の始まりであり、差別の始まりでもある、ということは分かる。

そして、農耕が開始されても、この思想は維持されるわけですが、農耕に重要なのは耕地の豊穣であるので、「天の神様(虎)」の役割は、適切な日照と風雨をもたらすこと、であるけれども、農耕に重要な草食獣の神の重要性も増します。これが、牛がいないところはともかくとして、一般的には牛が重要になっていきます。農作業に必要な牛です。そうすると、「天の神」の夫として重要なのも「牛」になってくる。牛は、草を食べますので、「植物」に相当する「神」は、大地を開墾して統べる神である、牛の神に犠牲として捧げられます。これが、いわゆるタンムーズとかアドニスとかアッティスとかいう神々になります。要するに、「虎>牛>植物」という階層というか、階級ができる。一方、あんまり牛とかいない地域では、「猛獣の神>夫神>植物神」という階級ができますが、「猛獣の神」は唯一の「天の女神」であって、「夫神」はその代理人で、その他大勢、特に女性は植物神(大地の女神)という構造ができます。高位の男性は、「唯一の天の女神の夫」であるが故に、人として権力を持つのです。でも、奥さん以外の女の人は、価値のない普通の女の人、ということになります。少なくとも、「未開」の原始的な男系社会の思想はこんな感じであって、ハイヌウェレの神話はこういう思想の上に成り立っています。そして、あんまり広範な範囲での社会性が必要とされなかった、辺境の島々なんかでは、農耕に移行した後も、食人の長く残りました。女神を殺してバラバラにして(芋にして)食べてしまう、というハイヌウェレの神話は、実際に植物神に見立てた女性を殺して食べてしまう、という祭祀と密接に結びついていたのです。これが、もうちょっと社会性のある地域で、焼き畑を行うところだと、犠牲は焼き殺されることになりました。そして、あんまり男尊女卑の思想が発達しなかったところでは、犠牲にも性差はあまりありませんでした。

というわけで、なんだかんだ言って、他部族との交流が盛んであった人達は、広い範囲での社会性が発達して、狩猟民であっても、食人の習慣は有史以前にはすたれ、首狩りの風習だけが残りました。でも、彼らが農耕民へと移行すると、人の生首ではなく、土器で人の首型のものを作って代替するような習慣も生まれ、時間をかけて首狩りの風習そのものも廃れていくこととなります。一方、こういう「先進的」な農耕民と、「未開な」農耕民が習合した結果、人が人を食べるのではなく、「人の初子を神に捧げる」という習慣が生まれます。地中海周辺地域ではこういう思想が盛んで、初子は神である「牡牛」に捧げられて焼き殺されました。牡牛は、大地に豊穣をもたらす、農耕の神の象徴です。そして、天の女神の夫であって、天と地の媒介者でもある。彼らの一部に、ハイヌウェレ型の伝統を強く残して、「初子を食べてしまう」人達がいました。しかも、その人達は「猿の脳みそ」とかも生で食べてました。「初子を食べる」ということは、「長男を跡取りとする」という男系の文化とは正面から衝突します。

長江文明の内でも、嬰児殺しを行っていた河姆渡の文化は、やがて黄河文明の勢力下に置かれ、母系から父系へと変化します。征服者達は、父系の文化を長江下流域の稲作地帯に持ち込みましたが、その一方で嬰児食いと猿食いの習慣を自分達の側にも取り込みました。その結果、祭祀として行われていた嬰児食いは、祭祀としての意味を失い、支配者の欲を満たすための食事の一種に成り下がってしまった。支配者にとっては、被支配者は家畜の一種に過ぎません。労働力として利用し、食料として利用し、囲い込み、牧場の中に飼ってるだけ、なわけです。なぜなら、黄河文明とは、遊牧民と農耕民の混血の文化であって、農耕民のトーテムは「虎と牛」ですが、遊牧民のトーテムは「狼と羊」だからです。遊牧民が農耕民を支配しているのですから、その最上位のトーテムは狼になります。要するに、長江下流域に発生した男系の「良渚文化」とは、狼を最上位のトーテムとし、虎も牛も羊も「家畜に過ぎない」という文化でした。そして、時代が下ると直接的な食人の習慣は薄れますが、その代わりに、下位のトーテムの人々を「家畜」として囲い込み、利用し、搾取する政治的な手法ばかりが発達することになります。その象徴が、王を守護する「饕餮」、生け贄の肉を煮る鼎の象徴である「饕餮」なのです。饕餮は、王である狼の獲物としての首でもあり、食べ物でもある。でも、多くの狼をトーテムに持たない人々にとっては、神です。饕餮を、「王の奴隷」の象徴とする、ということは、饕餮をトーテムとする人々は「王の奴隷である」と宣言したことと同じです。古代中国の王権は、このようにして「王権の象徴である饕餮」を代々受け継いできました。そして、斉の王家は歴史に分かってるように、かなり時代が下っても嬰児食いを行っていましたし、どうせ猿も食べてたと思います。猿を食べて、凶暴な猿みたいになってるのがうちの一族郎党だって、思われてそうであるー;。

でも、兄さん達は犬を飼ってる人が多いけど、何故? と思う。そうしたら、「羌族なんだから、狼トーテムでしょ。」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで。ハイヌウェレ型の文化の人達と交わって、節操なく嬰児食い、猿食いをして、堕落した狂気を発症してる連中が悪い、と7番目の兄さんは思ってそうである。それは、本来は「祭祀」に関わるもので、制限されているものでもあったのに、節操をなくしてしまったのは、いろんな「ご先祖様たち」ということで-;。でも、なんで猫を飼っちゃいけないんですか? と聞いたら、「猫は単独で狩りをするものだから駄目」と言われる気がするわけで。狼は集団で狩りをする、集団で戦うことは単なる「狩り」ではなくて「戦争」の始めでもあるけれども、集団で戦うことは大事なこと、と言われる気がするわけで。要するに、狼トーテムそのものが悪い、ということではなくて、赤ん坊を食べたり、猿の脳みそを生で喰ったりしてるのがよろしくないってことですねえ? と思う。

4番目の子は、私のFAXとか大量に読んで、「思ってた以上に気が強くて、根本的には7番目の兄さんとそっくりな気性だ。3500年くらいの時間を経ただけじゃ、遺伝子なんでそうそう変異するもんじゃない。」と思ったらしいです-;。7番目の兄さんは嬉しいでしょうねえ、と思う-;。面倒くさいことは嫌いだし、どうも主張も下手くそですが-;。愛があるから頑張りたいと思います-;。

本日の日誌

本日も無事にノルマをこなして。兄さん達は、裁判に負けてもあんまりお金に困る状況ではないので、むしろ、「大量の日記を証拠に出せ」って言われたことに私が怒ってそう、と思ってるらしくて-;。朝、7番目の兄さんの動画とか見てると、「怒れ、怒れ」と言われる気がするわけで。「怒れ、って言われてる気がする。」って呟いたら、兄さんに、「やっぱり、目の力が強くて洗脳が効かないね。」と笑われるわけでー;。いろいろと送った文章を見て、兄さん達は、「妻神はけっこう気が強い」と思ったらしいです。だいたい、敵の言ってることがあんまりなんで、日記を出さなくても勝てる案件なんじゃないの? と思うわけですが。「自分達が日記を読みたいから送ってね。」とわざわざ音楽家の兄さんにも言われる気がするわけで。もう、次の予約が入ってるし、と思う。

先週の「しやがれ」で、「ホヤ」の項で、潤ちゃんが答えを知ってるのに、ヒントをわざと出して他の人に教えてあげる、とか。海老の項で、「列を作って歩く」まで言わないと正解じゃない、って言われていて。ちゃんと主張を最後までするように、とか、答えを知ってるのにヒントを出してくれるって、あの二人組のこととか、言いたいことは分かるわけですがー;。裁判官と敵方の弁護士に妙なヒントを出して貰いながらやる裁判ほど、気味が悪いものはない、生理的にそもそも受け付けない、とか思うわけで-;。でも、兄さん達を愛してるから頑張る、とか思うわけで。安達守が何が言いたいのかは分かってるし、一番肝心なことは教えて貰ったことも分かっているわけですが。単に、面白くないだけですー;。でも、日記1日分につき、2万円だと思って頑張れ、と言われるので頑張ります(苦笑)。

お外組は、微妙なお天気の中、晴れている時にけっこう作業をしたらしくて。で、昨日けっこうヘリが飛んだりしていたのですが、今日になって、家の裏手に、今まで見たことのない材木が3本見つかって。一応、写真には撮っておきました。昨日、隣家が騒がしかったのですが、今日になったらこれだー、と思って。今日も少しうるさかったです。

で、そもそも、狩猟民の宗教的思想は、自分達は狩りをする「虎」であって、周辺の部族は「獲物の草食動物」であって、虎が獲物を狩るように、他人の首を狩るのが、一人前のステイタス、というのがそもそもの「宗教」の考え方だと思うわけです。そして、狩りの獲物は自分達で食べたり、神に捧げたりする。これは、宗教と言うより、トーテム信仰といえる。ただし、他人を狩ることは人間の歴史としては、「首狩り」に象徴されるように、次第に「肉を食べる」ことからは離れて「霊を食べて首だけ利用する」みたいな形になっていきます。少なくとも、歴史的にはそんな感じである。でも、これは更に古い時代の食人の名残でもあると思う。そして、これが社会性を帯びれば、階級制の始まりであり、差別の始まりでもある、ということは分かる。

そして、農耕が開始されても、この思想は維持されるわけですが、農耕に重要なのは耕地の豊穣であるので、「天の神様(虎)」の役割は、適切な日照と風雨をもたらすこと、であるけれども、農耕に重要な草食獣の神の重要性も増します。これが、牛がいないところはともかくとして、一般的には牛が重要になっていきます。農作業に必要な牛です。そうすると、「天の神」の夫として重要なのも「牛」になってくる。牛は、草を食べますので、「植物」に相当する「神」は、大地を開墾して統べる神である、牛の神に犠牲として捧げられます。これが、いわゆるタンムーズとかアドニスとかアッティスとかいう神々になります。要するに、「虎>牛>植物」という階層というか、階級ができる。一方、あんまり牛とかいない地域では、「猛獣の神>夫神>植物神」という階級ができますが、「猛獣の神」は唯一の「天の女神」であって、「夫神」はその代理人で、その他大勢、特に女性は植物神(大地の女神)という構造ができます。高位の男性は、「唯一の天の女神の夫」であるが故に、人として権力を持つのです。でも、奥さん以外の女の人は、価値のない普通の女の人、ということになります。少なくとも、「未開」の原始的な男系社会の思想はこんな感じであって、ハイヌウェレの神話はこういう思想の上に成り立っています。そして、あんまり広範な範囲での社会性が必要とされなかった、辺境の島々なんかでは、農耕に移行した後も、食人の長く残りました。女神を殺してバラバラにして(芋にして)食べてしまう、というハイヌウェレの神話は、実際に植物神に見立てた女性を殺して食べてしまう、という祭祀と密接に結びついていたのです。これが、もうちょっと社会性のある地域で、焼き畑を行うところだと、犠牲は焼き殺されることになりました。そして、あんまり男尊女卑の思想が発達しなかったところでは、犠牲にも性差はあまりありませんでした。

というわけで、なんだかんだ言って、他部族との交流が盛んであった人達は、広い範囲での社会性が発達して、狩猟民であっても、食人の習慣は有史以前にはすたれ、首狩りの風習だけが残りました。でも、彼らが農耕民へと移行すると、人の生首ではなく、土器で人の首型のものを作って代替するような習慣も生まれ、時間をかけて首狩りの風習そのものも廃れていくこととなります。一方、こういう「先進的」な農耕民と、「未開な」農耕民が習合した結果、人が人を食べるのではなく、「人の初子を神に捧げる」という習慣が生まれます。地中海周辺地域ではこういう思想が盛んで、初子は神である「牡牛」に捧げられて焼き殺されました。牡牛は、大地に豊穣をもたらす、農耕の神の象徴です。そして、天の女神の夫であって、天と地の媒介者でもある。彼らの一部に、ハイヌウェレ型の伝統を強く残して、「初子を食べてしまう」人達がいました。しかも、その人達は「猿の脳みそ」とかも生で食べてました。「初子を食べる」ということは、「長男を跡取りとする」という男系の文化とは正面から衝突します。

長江文明の内でも、嬰児殺しを行っていた河姆渡の文化は、やがて黄河文明の勢力下に置かれ、母系から父系へと変化します。征服者達は、父系の文化を長江下流域の稲作地帯に持ち込みましたが、その一方で嬰児食いと猿食いの習慣を自分達の側にも取り込みました。その結果、祭祀として行われていた嬰児食いは、祭祀としての意味を失い、支配者の欲を満たすための食事の一種に成り下がってしまった。支配者にとっては、被支配者は家畜の一種に過ぎません。労働力として利用し、食料として利用し、囲い込み、牧場の中に飼ってるだけ、なわけです。なぜなら、黄河文明とは、遊牧民と農耕民の混血の文化であって、農耕民のトーテムは「虎と牛」ですが、遊牧民のトーテムは「狼と羊」だからです。遊牧民が農耕民を支配しているのですから、その最上位のトーテムは狼になります。要するに、長江下流域に発生した男系の「良渚文化」とは、狼を最上位のトーテムとし、虎も牛も羊も「家畜に過ぎない」という文化でした。そして、時代が下ると直接的な食人の習慣は薄れますが、その代わりに、下位のトーテムの人々を「家畜」として囲い込み、利用し、搾取する政治的な手法ばかりが発達することになります。その象徴が、王を守護する「饕餮」、生け贄の肉を煮る鼎の象徴である「饕餮」なのです。饕餮は、王である狼の獲物としての首でもあり、食べ物でもある。でも、多くの狼をトーテムに持たない人々にとっては、神です。饕餮を、「王の奴隷」の象徴とする、ということは、饕餮をトーテムとする人々は「王の奴隷である」と宣言したことと同じです。古代中国の王権は、このようにして「王権の象徴である饕餮」を代々受け継いできました。そして、斉の王家は歴史に分かってるように、かなり時代が下っても嬰児食いを行っていましたし、どうせ猿も食べてたと思います。猿を食べて、凶暴な猿みたいになってるのがうちの一族郎党だって、思われてそうであるー;。

でも、兄さん達は犬を飼ってる人が多いけど、何故? と思う。そうしたら、「羌族なんだから、狼トーテムでしょ。」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで。ハイヌウェレ型の文化の人達と交わって、節操なく嬰児食い、猿食いをして、堕落した狂気を発症してる連中が悪い、と7番目の兄さんは思ってそうである。それは、本来は「祭祀」に関わるもので、制限されているものでもあったのに、節操をなくしてしまったのは、いろんな「ご先祖様たち」ということで-;。でも、なんで猫を飼っちゃいけないんですか? と聞いたら、「猫は単独で狩りをするものだから駄目」と言われる気がするわけで。狼は集団で狩りをする、集団で戦うことは単なる「狩り」ではなくて「戦争」の始めでもあるけれども、集団で戦うことは大事なこと、と言われる気がするわけで。要するに、狼トーテムそのものが悪い、ということではなくて、赤ん坊を食べたり、猿の脳みそを生で喰ったりしてるのがよろしくないってことですねえ? と思う。

4番目の子は、私のFAXとか大量に読んで、「思ってた以上に気が強くて、根本的には7番目の兄さんとそっくりな気性だ。3500年くらいの時間を経ただけじゃ、遺伝子なんでそうそう変異するもんじゃない。」と思ったらしいです-;。7番目の兄さんは嬉しいでしょうねえ、と思う-;。面倒くさいことは嫌いだし、どうも主張も下手くそですが-;。愛があるから頑張りたいと思います-;。

本日の日誌

本日は、夕方頃に、やけに暗いな、と思ったら夕立が来て。お外組の仕事は午前中が中心であって。今日もアスファルトの塊が出たそうです。

私の方は、今日もなんとかノルマをこなして。神話とか民話の研究もちょっとして。そんな一日だったのでした。

本日の日誌

本日は、夕方頃に、やけに暗いな、と思ったら夕立が来て。お外組の仕事は午前中が中心であって。今日もアスファルトの塊が出たそうです。

私の方は、今日もなんとかノルマをこなして。神話とか民話の研究もちょっとして。そんな一日だったのでした。

本日の日誌

本日も、お昼寝の時間に夕立が来て。雨が降っている以外は、お外組の人達は毎日作業をしているわけです。

私の方は、今日もなんとかノルマはこなして。

後は、古い文明をちょこちょこと調べつつ。古い時代の農耕儀礼には、必ず「人の生け贄」というものがつきまとうわけで。芋の女神ハイヌウェレとか、小麦のタンムーズとか。何故、人々は「神」と崇めるものを殺すのだろう? と思う。そうすると、「殺されるのは下位の神だから」と言われる気がするわけで。タンムーズは妻であるイナンナ女神の復活のために殺されます。古代メソポタミアの時代には、すでに、1つの命を生き返らせるには1つの犠牲が必要、みたいな思想があったわけで。ハイヌウェレでは上位の神はあからさまにははっきりしませんが、日本の場合だと、オオゲツヒメは須佐之男に殺されるわけだから、須佐之男の方が上位の神であるわけで。要するに、そこにあるのは弱肉強食の思想であって。植物の神様は、草食動物の神様に食べられる、草食動物の神様は肉食動物の神様に食べられる、となっているらしいです。で、人が狩猟民であった時代にはライオンとか虎とかの猛獣が、人々の理想の神であり、太陽神であったわけで。太陽神は、草食動物である月の神を食べる。月の神は、大地の神の化身である植物を食べる。人々の食料が、農耕によるようになっても、宗教的な思想は狩猟民のものを変化させたものだから、穀物を食べる時代になると、人間は肉食動物と草食動物の双方の「化身」として植物神を食べる。でも、植物の生育には地面が大事なので、人々が「母神」と崇めるものは、「天の太陽神」ではなくて、「地母神」に変更される、と言われる気がするわけで。人々が狩猟民であった時代には、天然の雨水をもたらす太陽神の方が重要であったので、人々は太陽を母神として崇めた、と言われる気がするわけで。

要するに、太陽神は肉食獣であるので、草食動物である月を食べる。草食動物である月は植物である地母神を食べる。農耕を行わない支配階級にはこういう単純な構図で済むけれども、被支配者である農民達にとっては、地母神は彼らの神でもあり、食物でもある、ということになる。だから、彼らは神を食らう、と言われる気がするわけで@@。でも、階級社会の中での農民は、元々被支配者ではなくて、戦争に負けたから、被支配者になってるだけなわけです。だから、彼らも狩猟民であった時代には、「天の太陽神」を持ってたはずなのですが、それは農耕の発生における必然によって、あるいは支配者の強制によって、「大地の神」に変更されている。

支配されて農耕民になった人々には、「神」を食べることは許されない。よって、彼らの祭祀の多くは狭小化して、取れた作物を神に捧げる、という表面上は穏やかなものに変化します。でも、「初物を神に捧げる」という思想は、元々「初子を神に捧げる」としていたことの名残です。昔は、そうやって始めて生まれた子供は、植物神の化身(あるいは魚神の化身)とみなされて、殺され、食べられ肥料あるいは餌にされていた。
一方、自発的に農耕民に移行した人々には、狩猟民が人を狩って食人の祭祀を行っていた時代の思想が、そのまま農耕に移行し、「人食いの太陽神」と「大地の神」が一体化した思想を形成してる。よって、食人の祭祀を行うときに、「食べる人」は肉食獣でもあり草食動物の化身でもある。「食べられる人」は草食動物の化身でもあり、植物の化身でもある。犠牲が苦しめば苦しむほど良いとされるのは、最上位の「神」が虎やライオンであって、これはネコ科の猛獣が獲物を苦しめてじゃらすことによるものである。そして、焼き畑を行うところでは、犠牲は植物の化身であるので焼き殺される。

でも、時代が下って、「儀式の神聖さ」の異議が失われてきて、俗化すると、「悪魔に生け贄を捧げて金を得る」という考えに変わったりして、生け贄と農耕の豊穣との関連も薄れてくる、ということらしくて。剣呑な話だ、と思うわけですが。