本日の日誌

本日は、一応書証の見直しをして、証拠説明書の印刷をして。

で、中古で「日本の民話」全集を買ったわけです。全26巻で、1700円+送料というお値段であって。最新の新装版が1冊2200円で売っているので、2冊分にも足りないお値段で、全巻買えるので、お値打ち品で買ったわけで。しかも、斎宮の宮に「買え、買え」と言われるので買ったわけで。本の状態は、全体としては悪くございません。古い本だから、微妙にかび臭いけど、おそらく、読んでもいない、手のつけられていない巻もたくさんある感じであって。そもそも、読まれた気配のあるのは数冊であって、気配のあるものには、前の持ち主がいろいろと書き込んだ跡もあって。それで安かったんだなー、と思う。前の持ち主は、人文系の研究者ででもあったのか、それとも、民話とかを元にして脚本とか書く人だったのか? と思うわけですが。たぶん、こういう古い本は、「遺品整理」とか、老後に向けての「断捨離」とかで市場に出たんだろうなあ、と思うわけです。昭和49年出版の初版本だし。先日買った、「世界の民話」全集は、昭和51年の初版本だし。これらに先だって、「世界の神話」シリーズの入門書も買った。古い家には、「日本古典文学全集」の第1期配本がある、ということで。

「これだけあれば、世界に住む人々が、何を考えて生きているのか理解するのに困らないでしょ。」

と言われる気がするわけで。だいたい、昭和49年出版とか、昭和51年出版とか、最初から我が家に「買わせる」目的の本の数々でしょ、それ、と思うわけで。家に入るまで半世紀以上かかった。斎宮の宮や、その周辺の人々は、「天皇家の題が変わるまで果たせなかった。」と思ってるらしくて。代替わりしたら、あっという間に入りましたねえ? と思う。カビ臭さは、せっせとファブでごまかしておりますー;。まあ、少しずつ読んでいきたいと思います。

で、「信濃の民話」は第10巻、ということで、意味深な巻数なのですが。甲賀三郎の物語とか、泉小太郎とか、早太郎とか、雉も鳴かずば、とか、良く知っているところはだいたい網羅しているわけで。で、冒頭には、「ダイダラボッチ」の伝承が載っていて。ダイダラボッチでも、「太田坊」でもいいわけですが。要するに、それは「饕餮」の一番古い姿であると思う。かつては、彼も自由気ままに動き回れる神であったのに。

熊本の駅には、首だけの「くまもん」のオブジェがあるらしいです。権堂にも、首だけの「勢獅子」のオブジェがこれみよがしに飾ってある。「饕餮」も首だけの神だし、しかも、「皇帝」しか祀ることの許されない「祟り神」である。「くまもん」も「勢獅子」も「饕餮」も、「クマルビ」も、「クンバン」も、その延長の「スサノオ」もみんな「同じもの」だ。常に、露骨に「首だけ」になるような呪いをかけ続けられているのは、彼のせいではないけれども、何故、その姿は、それほどまでにゆがめられているのだろうか、と思う。淡路島は遠いけれども、須佐も遠い-;。まあ、今は今できることをやるしかないわけです。本持ちにはなったわけですがー;。

本日の日誌

本日は、一応書証の見直しをして、証拠説明書の印刷をして。

で、中古で「日本の民話」全集を買ったわけです。全26巻で、1700円+送料というお値段であって。最新の新装版が1冊2200円で売っているので、2冊分にも足りないお値段で、全巻買えるので、お値打ち品で買ったわけで。しかも、斎宮の宮に「買え、買え」と言われるので買ったわけで。本の状態は、全体としては悪くございません。古い本だから、微妙にかび臭いけど、おそらく、読んでもいない、手のつけられていない巻もたくさんある感じであって。そもそも、読まれた気配のあるのは数冊であって、気配のあるものには、前の持ち主がいろいろと書き込んだ跡もあって。それで安かったんだなー、と思う。前の持ち主は、人文系の研究者ででもあったのか、それとも、民話とかを元にして脚本とか書く人だったのか? と思うわけですが。たぶん、こういう古い本は、「遺品整理」とか、老後に向けての「断捨離」とかで市場に出たんだろうなあ、と思うわけです。昭和49年出版の初版本だし。先日買った、「世界の民話」全集は、昭和51年の初版本だし。これらに先だって、「世界の神話」シリーズの入門書も買った。古い家には、「日本古典文学全集」の第1期配本がある、ということで。

「これだけあれば、世界に住む人々が、何を考えて生きているのか理解するのに困らないでしょ。」

と言われる気がするわけで。だいたい、昭和49年出版とか、昭和51年出版とか、最初から我が家に「買わせる」目的の本の数々でしょ、それ、と思うわけで。家に入るまで半世紀以上かかった。斎宮の宮や、その周辺の人々は、「天皇家の題が変わるまで果たせなかった。」と思ってるらしくて。代替わりしたら、あっという間に入りましたねえ? と思う。カビ臭さは、せっせとファブでごまかしておりますー;。まあ、少しずつ読んでいきたいと思います。

で、「信濃の民話」は第10巻、ということで、意味深な巻数なのですが。甲賀三郎の物語とか、泉小太郎とか、早太郎とか、雉も鳴かずば、とか、良く知っているところはだいたい網羅しているわけで。で、冒頭には、「ダイダラボッチ」の伝承が載っていて。ダイダラボッチでも、「太田坊」でもいいわけですが。要するに、それは「饕餮」の一番古い姿であると思う。かつては、彼も自由気ままに動き回れる神であったのに。

熊本の駅には、首だけの「くまもん」のオブジェがあるらしいです。権堂にも、首だけの「勢獅子」のオブジェがこれみよがしに飾ってある。「饕餮」も首だけの神だし、しかも、「皇帝」しか祀ることの許されない「祟り神」である。「くまもん」も「勢獅子」も「饕餮」も、「クマルビ」も、「クンバン」も、その延長の「スサノオ」もみんな「同じもの」だ。常に、露骨に「首だけ」になるような呪いをかけ続けられているのは、彼のせいではないけれども、何故、その姿は、それほどまでにゆがめられているのだろうか、と思う。淡路島は遠いけれども、須佐も遠い-;。まあ、今は今できることをやるしかないわけです。本持ちにはなったわけですがー;。