本日の日誌

一昨日は特に夢も見ず。作業はだいたいいつもの通り。石がけっこうゴロゴロと出てきます。そして、昨夜はなんだか夢を見て。なんだか、まだ学生で、マラソンコースを決めて設計する役目、というかそんな感じで。点検をしたり、走っている人と一緒に走ったりする、という夢で。なんだか、私がそういう設計をする人なんだよ、と言われたのかなあ? と思う。

羌族の風習として、「戊の日には畑を耕してはならない。戊が土に属し、耕作すれば土を犯すことになると考えられているためである。」というものがあるそうです。犬が土に属する、とすると、女神信仰がある場合には、犬の属性は「女神」になりますが、蚩尤が「土」に割り当てられている場合は、男神かもしれません。そこのところははっきりしません。犬は牧羊犬にもなりますし、狩猟にも役に立ちます。西欧では、ここに馬が加わって、人と犬と馬が、神話的な「戦士」の形として一体化されて語られますのです、その原型の信仰がここにあるといえます。彼らは、犬に特別な神聖性を持たせているといえます。

また、中国の伝説に、修羊公という仙人がいます。ある王様が、仙術を学ぼうと思って、修羊公を招いたのですが、いつまでたっても仙術を教えてくれないので、「先生はいつお帰りになりますか?(とっとと帰れ、ということ)」と嫌みをいったところ、修羊公は石の羊の姿になって消えてしまい、その脇腹に「お別れを申し上げます」と書いてあったそうです。王様はその石の羊を大切にとっておいたのですけれども、それもいつの間にか消えてしまった、とのことで。この、「石の羊」は、羌族の「白い水晶の羊」を連想させます。でもなんで、人を騙して煙に巻くような仙人なんだろう、と思う。

また、昔刑法を定めた人が、羊を生け贄に捧げて、異変があった方を敗訴とする、という裁判法を定めたそうで。これは「羊神判」といったそうです。この刑法を定めた人も羌族の出であったそうで。中国周辺部のチベット・ビルマ系の少数民族は、シャーマンが神(精霊)と人々とをつなぐ存在、とされています。古代殷の王族が祭祀者であったことを考えると、古代中国の「王」というのは、人々の中から選ばれたリーダー、というよりもシャーマンが変化したもの、と言えそうです。これらのことから、羌族のシャーマンというのは、裁判の判決とか、一族内の政治方針を、「占う」ふりをして、「神のお告げ」のふりをして自由に決める権利があったのではないのか、と思われます。父系で家父長制の強い人々であるほど、家の中では父親がなんでも自由に決めてしまう。家の外の部族内のことは「天の羊の父」の言葉を伝えるシャーマンが勝手に決めてしまう、ということになります。そうして、つじつまが合わないような結果が出ても、適当に煙に巻かれてしまう、と-;。

ギリシャ神話に、「アルゴナウタイ」というものがあります。テッサリアーの王子イアーソーンは、叔父である王から疎まれて、ギリシャから遠く離れたコルキス(現在のジョージア)から、金羊毛を取って来るように命じられます。そこで、ギリシャ中から英雄を募って、アルゴー号という船に乗って出発した、という物語であって。金羊毛とは、神から授かった魔法の黄金の羊を、最終的に再び神に対する犠牲に捧げて、その皮をコルキスの王が樫の木に打ち付けたものであった、と言われています。「金羊」という言葉から、「太陽の化身の羊」であったことがうかがえます。これは何らかの呪術的な意図で、やはり「守護」を目的として行ったものなので、イアーソーンは、それを奪うことを求められたのだといえます。それと共に、この物語で「コルキス」とされた場所は「反羊」の思想を持っていた、あるいは「自分たちは「羊」よりも上位の人間である」と主張していた場所、といえます。羊を狩って護符にできるのは、羊よりも上位の部族、あるいは少なくとも同格の人々、といえるからです。イアーソーンは、コルキスの王女メーディアを味方につけ、彼女を妻にする、という約束で、金羊毛を盗み出すことに成功します。でも、このメーディアというのがけっこうな魔女であったので、逃げる途中で、一緒に連れてきた幼い弟を殺して、追っ手をまいてしまいます。そして、テッサリアーへ戻ってくると、メーディアは王の娘達の前で、老いた雄羊を切り刻んで鍋で煮て、若返らせて取り出した、という魔術を見せます。父親を若返らそうと思った娘達は、父王を同様にして鍋で煮ましたが、王はそのまま死んでしまいました。妻のおかげでイアーソーンは王位につけましたが、こういう妻に嫌気がさして、離婚し、新たな妻と結婚しようとします。起こったメーディアは、花嫁を殺して失踪してしまったのでした。

これはギリシャ神話の中でも、かなり陰惨さを感じさせる神話ですが、「豊穣の釜」で供物を煮て、結果を得る、というのは「饕餮を用いた祭祀」を彷彿とさせます。そして、メーディアというのは、メドゥーサと同じ子音で、その起源は古代エジプトのメヒト女神といえますから、母系の大母、あるいは大母の化身の女王、というべき存在で、弟は、彼女の利益になるために捧げられた犠牲、といえます。要するに、物語の中の「コルキス」は、母系の国で、女王が祭祀を行い、男兄弟の生殺与奪の権限も女王にあった国、ということになります。そこでは、太陽といえども、羊もまた「餌」であり「犠牲」の一つに過ぎないのです。でも、イアーソーンは父系の人ですから、そういう母系の習慣とは衝突してしまう。しかも、アルゴナウタイそのものが、英雄を集めて母系の国へ、父系の人々が略奪に行く、という話です。(しかも計略によって宝物を手に入れています。)そして、物語の最後は、メーディアノ失踪で終わるので、金羊毛がどうなったのかははっきり分かっていません。樫の木から解放されたので、元の天に戻って太陽の運行を続けたのかもしれません。そうすると、これは、イアーソーンがコルキスから、太陽も、太陽の祭祀者も奪った、という物語にもなります。要するに「金羊毛」とは「それを身につけたメーディアのことそのもの」であるともいえます。羊は獅子である彼女に捧げられた犠牲でした。ということで、メーディアと金羊毛の行方はどうなったのでしょう? 夫の仕打ちに嫌気が差して、天岩戸の中にこもってしまったのでしょうか? ということになります。ということは、これは、ティターノマキアーと同様、父系の人々が、母系の太陽信仰の人達を襲って略奪した物語、ということになり、これもまた古代中国で行われた「たく鹿の戦い」が投影された物語、ということになります。そうすると、母系の人々の敵は「羊の太陽」ってことにもなるのではないでしょうか。メーディアは「羊の皮を被った獅子の太陽女神」だったのでした。

ということは、「天上世界でスサノオに乱暴狼藉を働かれて、天岩戸の中にこもってしまった天照大神」の物語も、アルゴナウタイと同じ起源の物語であると分かります。彼女は、「鹿の皮を被った虎の太陽女神」といえます。須佐之男命が、彼女の領域に入り込んで暴れたので、天照大神は失踪してしまったのでした。泣きわめくのが得意な須佐之男命が、父系の雷神のことを指すのであれば、これもまた「たく鹿の戦い」が投影された物語、といえます。ということで、奇妙なことに、アルゴナウタイの物語の続きは、日本神話の中にあるといえることになってしまうのです。でも、「四面楚歌」の言葉にあるように、周り中が「楚の歌」ばかりだからといって、絶望したり、その中に出ていってはいけないわけです。というか、私は項羽でない、と思うわけですが-;。その人より、もうちょっと頭は悪くない、と思うわけで-;。だいたい、四面楚歌の話って、中学の国語の教科書に載っていた気がするわけで。誰のためにこの話載せたのでしょうか? 私の為?? とかって今なら思うところなのですが。

で、今朝、テレビ番組を録画のセットをしようと思って、なにげなくテレビをつけたら、「ZIP」をやっていて、新曲を披露する、とかってことで、キンプリの兄さん達が映っていて。「生放送ですよ」と言われるきがするわけで@@。すごいタイミングだー、というか、そもそもテレビをつけよう、という気になったのも、偶然ではないだろう、と思う。そうしたら、兄さん達に「あまり難しく考えないで、相手は「羊の王」なんだから、王の本拠地の羊の肉を饕餮で煮て食えばいいんですよ。」と言われる気がするわけで@@。そうすると、相手を支配できるだけでなく、「羊の皮を被ったメーディア」に変身できる気がするわけで。でも、いろいろと調べてみたら、けっこう手に入れるのが、大変でもないけれども、少々手がかかりそうであって。そこのところの羊の肉は、ごく一部の店と、東京方面に卸されてるのみである。でも、普通、「特産品」って、その土地の人なら誰でも気軽に普通に食べるような、そういうもののことを言うんじゃないの? と思う。でも、なぜかそこの肉は、流通量はごく少ないのに、特産品扱いされていて、町中に「羊の絵」があふれてる。なんだか、歪んでない? と思う。ともかく、その肉は「王侯の食べ物ですよ」と言われる気がするわけで。結局口にできるのは、王が同格と認めた者か、一時的にその力を分け与えたい者のみ、ということにしてる、ということのようで。誰かが勝手に饕餮で煮たりしないように管理されているものらしくてー;。まあ、面倒でもそのうちに手に入れられれば、と思うのでした。

で、もっと「お犬様」と「石の羊」について書きたかったわけですが、夜になって、いろいろとニュースがあって。なんだか、鹿児島の動物園で、飼育員がホワイトタイガーに襲われて死亡したらしくて。誰か、十字に関係する人が白虎に食い殺されそう、とかあるのですかね? と思う。というか、嫌みだよねえ? と微妙に思う。

それから、有名な画家の絵で、女の子が赤い風船を持っている図の絵が、オークションにかけられて、落札された直後に裁断されてしまったそうで。なんというか、女の子が持っている赤い風船は「太陽」の象徴のように思えたわけで。誰か、そういうものを「他人の手に渡すくらいならバラバラにしてしまいたい」と思う人でもいるんだろうか? と、これまた微妙に思う。

ということで、「天岩戸」の話から、当たり前のように「四面楚歌」が出てくるあたり、理知的で軍略家だよね、と兄さん達に言われる気がするわけで。情緒的に動揺を誘うようなネタには、あんまり心を動かされない、ということでー;。廉君のことを「さすがに仕事が早い」と、褒め称える人が今日も多かった気がするわけで。キンプリの兄さん達もすごいな、と思う。でも、最後の「ZERO」で、日記を書くのに夢中になりすぎて、ちょっと失敗してしまってー;。次からは、気をつけます<(_ _)>、ということで;。古代ローマの人々は、まるで自分たちのことをあまり知られたくないかのように、ほとんど独自の神話を残さなかった。それとは対照的に、古代ギリシャの人々は体系だった神話を山ほど残しているわけで。そして、ギリシャ神話は、世界でも類を見ない有名な神話群であって。彼らは何故、これだけの神話を残そうと思ったのだろうか、とそれをなんとなく不思議に思うのでした。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はだいたいいつもの通り。ちょっと色々とあったわけですが、なんとか通路にあった大きなコンクリートガラも出すことができた、ということで。

何でも貪欲に食べてしまう、という「饕餮(とうてつ)」が、「天の父なる神」である「雷神」だとすると、これは西欧の印欧語族の主神であるゼウス、ユーピテル、トール、テシュブといった神々と同じ子音を持つ同語源の神であり、性質もほぼ同じ、ということになります。西欧の神々は「頭だけの神」なんてことはありませんから、元は五体満足な神とされていて、その妻は「月の女神」あるいは「地母神」でした(陰陽的には、「月の神」も「大地の神」も同じ物だからです)。ギリシャ神話にはティーターノマキアーというエピソードがあります。ギリシャ神話において、天上の神々の王権がウーラノス、クロノス、ゼウスと移り変わることは有名です。ティターンはクロノスの兄弟の巨人達で、ゼウスが父であるクロノスに戦いを挑んだ時に、クロノスの側につきました。長い戦いの後に勝利をつかんだゼウスは、不死身であったティターンを、大地の底のそのまたそこにあるタルタロスという深淵に封印しました、という話です。この「タルタロス」も子音から見て語源は「饕餮」であると思われます。でも、「大地」に属する饕餮ですから、「殺された蚩尤」のことでもあると思われます。あるいは、饕餮は玉とか、青銅器の鍋とか、大地から掘り出されたものに掘られましたから、「大地から産出された太陽(饕餮)の化身」とも言えると思う。そういうことを併せて考えると、「タルタロスの深淵」とは「饕餮の掘られた鼎」であって、そこに敗れたティターンが放り込まれた、ということは、みんな鍋に犠牲として入れられ、煮られて、食われ、勝者であるゼウスの霊性の肥やしになってしまった、ということですよねえ? と思う。「タルタロス」とは大地から掘り出されたゼウスの化身である金属のことなのです。

ということは、ティターノマキアーというのは、ゼウスとその仲間がティターン(巨人)を倒して、殺して生け贄にした神話、ということで、饕餮(黄帝)が、蚩尤を倒して、殺して生け贄にした神話、と非常に大きな相関関係があることになります。要するに、ティターノマキアーはギリシャ神話であって、だいたい紀元前1500年くらいから確率されてきた、と思われるのですが、そこで語られている内容は、紀元前3000年頃にまで遡る、黄河文明による長江文明の侵略の戦いのこと、ということになります。ただし、そこで倒される相手は、西欧の神話らしく、クロノス(すなわち「熊」)ということになって、雷帝ゼウスを擁する人々と、熊トーテムの人達との間に争いがあったこともうかがえます。ティターノマキアーと同様の神話は、ギリシャ神話の前身といえるヒッタイト神話にもみられますので、西欧における起源は紀元前1700年くらいまで遡るのかもしれません。メソポタミアにおける「天の牡牛」を倒した、とされるギルガメシュ叙事詩のことまで考慮すれば、紀元前2000年頃まで遡れるかもしれません。古代ローマ人は、神話に関しては、大部分をギリシャ神話に依存していますので、ティターノマキアーが、西欧における一番詳細な「タク鹿の戦い(黄帝が蚩尤を打ち破ったとされる戦い)」といえます。

しかも、ティターノマキアーは、ギリシャ人の主神ゼウスが主役ですから、彼らの先祖は、「タク鹿の戦い」で、黄河文明側にいて、かつ、饕餮(黄帝)を、自分たちの祖神と考えていた人達、ということになります。饕餮の体は「牛か羊」とされています。すなわち、饕餮を崇めていた人達は、牛トーテムか羊トーテム、ということになります。牛トーテムは、水牛トーテムから変化したもの、ということで分かります。では、羊の方は? ということになります。古代中国で、羊トーテムといえば羌族です。そして、龍山文化のことから、牧畜も発展してきていますので、牛や羊の牧畜を営む人達が、「タク鹿の戦い」に大きく関わっていたし、彼らが印欧語族の先祖と通婚して、祭祀のやり方や牧畜を教え、その子孫が西欧に移動して、ヒッタイト、ギリシャ・ローマ文明を形成したのだと考えられます。だから、その子孫達は、住む場所が変わっても、先祖の偉大な業績を記憶していたのでした。

羌族は「西羌の本は、三苗より出る、羌姓の別(支流)なり。」と後漢書にあるそうです。三苗とは、中国神話に登場する悪神で、長江流域に本拠地があった、と考えられていました。現在の羌族は、中国西部に住んでいて、チベット・ビルマ語族の言葉を話しますが、古代においては中国各地に住み、他の部族とも交流していたと考えられています。彼らの生活は「チャン族はおもに農業に従事し、牧畜業も兼ねる。また伝統的な「アニミズム」が信仰されており、宗教生活におけるタブーも存在する。たとえば子供が生まれると、鬼を連れてくる恐れがあるので、面識のない人が部屋に入ることをもっとも忌む。そのために入口に赤い旗をかけて見知らぬ人の立ち入りを禁止する。もし家畜の豚,羊,牛などが子供を産むと、産まれた家畜の数と同数の棒を敷居に束ねておく。それは見知らぬ人の立ち入りを忌むことを示す。もし見知らぬ人が入ると、母親の家畜の乳が出なくなると考えている。子供たちは魔よけのために普段、銅の鏡をかけ、帽子にホラ貝をつける。また、見知らぬ人がこれらの物にも触ってはならない。台所の鉄の五徳を脚で踏んではならない。さもないと、天神を怒らせることになるためである。許(シュイ:シャーマン)を招いて病人のために鬼祓いをしてもらう場合、他人は室内に入ってはならないため、その家の門前にしばしば麦わらで作った人形や馬などを目印として置いておく。戊の日には畑を耕してはならない。戊が土に属し、耕作すれば土を犯すことになると考えられているためである。以上のように「アニミズム」の宗教がチャン族の生活に極めて重要な影響をもたらしている。(Wikipediaより)」なのだそうです。また「彼らの宗教は多神教であるため、数多くの神が存在する。その中でも彼らがもっとも崇拝してきたのは「天神(太陽神)」である。天神は万物を主宰し、人間と家畜に禍福を及ぼす神であると考えられた。この天神を主神として山の神,火の神,羊の神,水の神,土地の神と続き、全部で10数種類もの神が存在するが、「万物有霊」の考えから「着物の角」から「体の垢」、「吐息」にいたるまで、ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている。このように形あるものから形のないものまで崇拝するのであるが、形のない神々に対しては「白石神」といって石英をその神々に見立てて崇拝する。これは彼らの「白石伝説」に基づく考えなのであるが、伝説では強敵の戈基(ガァチィ)人を神の啓示によって倒したチャン族は戦勝を記念して神を祀ろうとしたが、神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。この「白石伝説」はチャン族の儀式で必ずシャーマンによって唱えられ、彼らの神話として語り継がれてきた。チャン族の宗教で欠かせないのがシャーマン(巫師)である。シャーマンはチャン族の言葉で「許(シュイ)」と呼ばれ、生産にも従事している宗教職能者であり、神と通交し、悪魔とも接触するので、人々が祀る神々以外に彼自身の保護神を持っている。彼は民族の歴史や伝説に通じ、さまざまな神話物語と故実の由来などを暗誦しており、各種の記録されていない呪文を唱えることができ、神通力を発揮する法器をもっていた。そのため人々は彼が自然を自在に操る才能を備え、風雨を呼ぶことができ、家畜と作物を繁殖させ、運命の吉凶を変える能力をもっていると信じた。シャーマンはさらに医者でもあり、どのような病気も治療できるとされた。それゆえにシャーマンは長年にわたってチャン族の社会生活で重要な地位を占め、人々の精神上の指導者というべき存在であった。(Wikipediaより)」ということだそうです。

彼らのシャーマンは男性です。要するに、祭祀は男性が行っています。「天神(太陽神)」とは男性神のことなのでしょう。そして、彼らは男系の人々です。形のない神々に対しては「白石神」といって石英(水晶)をその神々に見立てて崇拝する、とあります。これは現在では下級神に対する扱いですが、重要な戦いの時の「お告げ」の神の象徴である、男系の天神の文化で「お告げ」をするのは、「天の父なる神」であるのでえ、本来は水晶は太陽を示すものだったのだと思います。要するに、彼らの太陽神は、一見すると「白い羊」であるように思えます。饕餮の体が「羊」であったとすると、彼らの「白羊」こそが饕餮といえます。でも、饕餮が地において「水晶」の化身であることは隠されています。何故でしょう? 彼らの前身の信仰である、西王母が「白虎」だからではないでしょうか? 要するに、白虎とは「水晶の虎」のことであり、「水晶」といえば「白虎」というくらい有名だったので、彼らは本当の本来の姿を隠すために、太陽神から「水晶」の要素を外してしまったのではないか、と思います。そして、大母が「下級神」に変更されると、彼女の象徴の「水晶」も下級神の象徴にされてしまったのでした。また、彼らは台所の「鉄の五徳」も「天神の化身」と考えているようですので、鍋ではなくて五徳(これも金属)を、饕餮の化身と考えていることが分かります。これも、黄河文明との共通点です。

また、産後の穢れを払う守護として、「赤い旗」や「棒」を用いています。「棒」は男性原理の象徴であり、また「赤い色は蚩尤を示すともされ、赤旗を「蚩尤旗」と言う(Wikipediaより)」だそうですから、彼らは「蚩尤」を「護符」として使っていると思われます。子供達は、魔除けの「銅の鏡」を身につける、とされていますが、これは首狩り族が首を護符にした名残と思われます。蚩尤は「獣身で銅の頭に鉄の額を持つ」とされていますから、彼らが護符にしているのは蚩尤の頭そのもの、といえます。これらのことを総合して考えると、現在の羌族とは、「殺した蚩尤を護符として使役している黄帝の子孫である」といえそうです。でしたら、彼らの本来のトーテムは水牛か牛であるはずなのに、それがかなり早い時期に「羊」に変更されてしまっていると思われるのです。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はだいたいいつもの通り。ちょっと色々とあったわけですが、なんとか通路にあった大きなコンクリートガラも出すことができた、ということで。

何でも貪欲に食べてしまう、という「饕餮(とうてつ)」が、「天の父なる神」である「雷神」だとすると、これは西欧の印欧語族の主神であるゼウス、ユーピテル、トール、テシュブといった神々と同じ子音を持つ同語源の神であり、性質もほぼ同じ、ということになります。西欧の神々は「頭だけの神」なんてことはありませんから、元は五体満足な神とされていて、その妻は「月の女神」あるいは「地母神」でした(陰陽的には、「月の神」も「大地の神」も同じ物だからです)。ギリシャ神話にはティーターノマキアーというエピソードがあります。ギリシャ神話において、天上の神々の王権がウーラノス、クロノス、ゼウスと移り変わることは有名です。ティターンはクロノスの兄弟の巨人達で、ゼウスが父であるクロノスに戦いを挑んだ時に、クロノスの側につきました。長い戦いの後に勝利をつかんだゼウスは、不死身であったティターンを、大地の底のそのまたそこにあるタルタロスという深淵に封印しました、という話です。この「タルタロス」も子音から見て語源は「饕餮」であると思われます。でも、「大地」に属する饕餮ですから、「殺された蚩尤」のことでもあると思われます。あるいは、饕餮は玉とか、青銅器の鍋とか、大地から掘り出されたものに掘られましたから、「大地から産出された太陽(饕餮)の化身」とも言えると思う。そういうことを併せて考えると、「タルタロスの深淵」とは「饕餮の掘られた鼎」であって、そこに敗れたティターンが放り込まれた、ということは、みんな鍋に犠牲として入れられ、煮られて、食われ、勝者であるゼウスの霊性の肥やしになってしまった、ということですよねえ? と思う。「タルタロス」とは大地から掘り出されたゼウスの化身である金属のことなのです。

ということは、ティターノマキアーというのは、ゼウスとその仲間がティターン(巨人)を倒して、殺して生け贄にした神話、ということで、饕餮(黄帝)が、蚩尤を倒して、殺して生け贄にした神話、と非常に大きな相関関係があることになります。要するに、ティターノマキアーはギリシャ神話であって、だいたい紀元前1500年くらいから確率されてきた、と思われるのですが、そこで語られている内容は、紀元前3000年頃にまで遡る、黄河文明による長江文明の侵略の戦いのこと、ということになります。ただし、そこで倒される相手は、西欧の神話らしく、クロノス(すなわち「熊」)ということになって、雷帝ゼウスを擁する人々と、熊トーテムの人達との間に争いがあったこともうかがえます。ティターノマキアーと同様の神話は、ギリシャ神話の前身といえるヒッタイト神話にもみられますので、西欧における起源は紀元前1700年くらいまで遡るのかもしれません。メソポタミアにおける「天の牡牛」を倒した、とされるギルガメシュ叙事詩のことまで考慮すれば、紀元前2000年頃まで遡れるかもしれません。古代ローマ人は、神話に関しては、大部分をギリシャ神話に依存していますので、ティターノマキアーが、西欧における一番詳細な「タク鹿の戦い(黄帝が蚩尤を打ち破ったとされる戦い)」といえます。

しかも、ティターノマキアーは、ギリシャ人の主神ゼウスが主役ですから、彼らの先祖は、「タク鹿の戦い」で、黄河文明側にいて、かつ、饕餮(黄帝)を、自分たちの祖神と考えていた人達、ということになります。饕餮の体は「牛か羊」とされています。すなわち、饕餮を崇めていた人達は、牛トーテムか羊トーテム、ということになります。牛トーテムは、水牛トーテムから変化したもの、ということで分かります。では、羊の方は? ということになります。古代中国で、羊トーテムといえば羌族です。そして、龍山文化のことから、牧畜も発展してきていますので、牛や羊の牧畜を営む人達が、「タク鹿の戦い」に大きく関わっていたし、彼らが印欧語族の先祖と通婚して、祭祀のやり方や牧畜を教え、その子孫が西欧に移動して、ヒッタイト、ギリシャ・ローマ文明を形成したのだと考えられます。だから、その子孫達は、住む場所が変わっても、先祖の偉大な業績を記憶していたのでした。

羌族は「西羌の本は、三苗より出る、羌姓の別(支流)なり。」と後漢書にあるそうです。三苗とは、中国神話に登場する悪神で、長江流域に本拠地があった、と考えられていました。現在の羌族は、中国西部に住んでいて、チベット・ビルマ語族の言葉を話しますが、古代においては中国各地に住み、他の部族とも交流していたと考えられています。彼らの生活は「チャン族はおもに農業に従事し、牧畜業も兼ねる。また伝統的な「アニミズム」が信仰されており、宗教生活におけるタブーも存在する。たとえば子供が生まれると、鬼を連れてくる恐れがあるので、面識のない人が部屋に入ることをもっとも忌む。そのために入口に赤い旗をかけて見知らぬ人の立ち入りを禁止する。もし家畜の豚,羊,牛などが子供を産むと、産まれた家畜の数と同数の棒を敷居に束ねておく。それは見知らぬ人の立ち入りを忌むことを示す。もし見知らぬ人が入ると、母親の家畜の乳が出なくなると考えている。子供たちは魔よけのために普段、銅の鏡をかけ、帽子にホラ貝をつける。また、見知らぬ人がこれらの物にも触ってはならない。台所の鉄の五徳を脚で踏んではならない。さもないと、天神を怒らせることになるためである。許(シュイ:シャーマン)を招いて病人のために鬼祓いをしてもらう場合、他人は室内に入ってはならないため、その家の門前にしばしば麦わらで作った人形や馬などを目印として置いておく。戊の日には畑を耕してはならない。戊が土に属し、耕作すれば土を犯すことになると考えられているためである。以上のように「アニミズム」の宗教がチャン族の生活に極めて重要な影響をもたらしている。(Wikipediaより)」なのだそうです。また「彼らの宗教は多神教であるため、数多くの神が存在する。その中でも彼らがもっとも崇拝してきたのは「天神(太陽神)」である。天神は万物を主宰し、人間と家畜に禍福を及ぼす神であると考えられた。この天神を主神として山の神,火の神,羊の神,水の神,土地の神と続き、全部で10数種類もの神が存在するが、「万物有霊」の考えから「着物の角」から「体の垢」、「吐息」にいたるまで、ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている。このように形あるものから形のないものまで崇拝するのであるが、形のない神々に対しては「白石神」といって石英をその神々に見立てて崇拝する。これは彼らの「白石伝説」に基づく考えなのであるが、伝説では強敵の戈基(ガァチィ)人を神の啓示によって倒したチャン族は戦勝を記念して神を祀ろうとしたが、神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。この「白石伝説」はチャン族の儀式で必ずシャーマンによって唱えられ、彼らの神話として語り継がれてきた。チャン族の宗教で欠かせないのがシャーマン(巫師)である。シャーマンはチャン族の言葉で「許(シュイ)」と呼ばれ、生産にも従事している宗教職能者であり、神と通交し、悪魔とも接触するので、人々が祀る神々以外に彼自身の保護神を持っている。彼は民族の歴史や伝説に通じ、さまざまな神話物語と故実の由来などを暗誦しており、各種の記録されていない呪文を唱えることができ、神通力を発揮する法器をもっていた。そのため人々は彼が自然を自在に操る才能を備え、風雨を呼ぶことができ、家畜と作物を繁殖させ、運命の吉凶を変える能力をもっていると信じた。シャーマンはさらに医者でもあり、どのような病気も治療できるとされた。それゆえにシャーマンは長年にわたってチャン族の社会生活で重要な地位を占め、人々の精神上の指導者というべき存在であった。(Wikipediaより)」ということだそうです。

彼らのシャーマンは男性です。要するに、祭祀は男性が行っています。「天神(太陽神)」とは男性神のことなのでしょう。そして、彼らは男系の人々です。形のない神々に対しては「白石神」といって石英(水晶)をその神々に見立てて崇拝する、とあります。これは現在では下級神に対する扱いですが、重要な戦いの時の「お告げ」の神の象徴である、男系の天神の文化で「お告げ」をするのは、「天の父なる神」であるのでえ、本来は水晶は太陽を示すものだったのだと思います。要するに、彼らの太陽神は、一見すると「白い羊」であるように思えます。饕餮の体が「羊」であったとすると、彼らの「白羊」こそが饕餮といえます。でも、饕餮が地において「水晶」の化身であることは隠されています。何故でしょう? 彼らの前身の信仰である、西王母が「白虎」だからではないでしょうか? 要するに、白虎とは「水晶の虎」のことであり、「水晶」といえば「白虎」というくらい有名だったので、彼らは本当の本来の姿を隠すために、太陽神から「水晶」の要素を外してしまったのではないか、と思います。そして、大母が「下級神」に変更されると、彼女の象徴の「水晶」も下級神の象徴にされてしまったのでした。また、彼らは台所の「鉄の五徳」も「天神の化身」と考えているようですので、鍋ではなくて五徳(これも金属)を、饕餮の化身と考えていることが分かります。これも、黄河文明との共通点です。

また、産後の穢れを払う守護として、「赤い旗」や「棒」を用いています。「棒」は男性原理の象徴であり、また「赤い色は蚩尤を示すともされ、赤旗を「蚩尤旗」と言う(Wikipediaより)」だそうですから、彼らは「蚩尤」を「護符」として使っていると思われます。子供達は、魔除けの「銅の鏡」を身につける、とされていますが、これは首狩り族が首を護符にした名残と思われます。蚩尤は「獣身で銅の頭に鉄の額を持つ」とされていますから、彼らが護符にしているのは蚩尤の頭そのもの、といえます。これらのことを総合して考えると、現在の羌族とは、「殺した蚩尤を護符として使役している黄帝の子孫である」といえそうです。でしたら、彼らの本来のトーテムは水牛か牛であるはずなのに、それがかなり早い時期に「羊」に変更されてしまっていると思われるのです。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はそこそこであって。やはり、今掘っているところは、石がたくさん出ます。

長江下流域まで水稲耕作が行き渡った頃、北の黄河中流域では仰韶(ぎょうしょう)文化(紀元前5000年から紀元前3000年)が起こりました。黄河文明では古くから豚が家畜化されていましたが、この頃から黄河文明でも長江文明でも、羊が飼われるようになったと思われます。彼らはまだ粟を多く栽培していましたが、麦や米を生産している村もありました。そこから、他の地域との交流もうかがえます。仰韶文化は、基本的には母系制でしたが、社会の階層化の兆しがみられ、父系化の傾向がありました。男性は主に外で働き、女性は家の中で働いたそうです。女性は頭に骨性の簪を飾り、首のない遺体が埋葬されていたそうですから、明らかに「首狩り」の習慣がありました。この時代の集落は環濠で囲まれており、外敵への警戒が常にあったことを伺わせます。

仰韶文化の遺跡から、「彩陶人面魚文鉢」と呼ばれる鉢が出土しています。これは鉢に「人面魚」と「魚」が描かれたものと言われていますが、私から見れば描かれているものは、オタマジャクシと魚であると思う。元々の首狩りの人達の思想からいえば、蛙は農業の豊穣をもたらすときの「太陽女神」の象徴であり、魚は男性の象徴でした。鉢や皿は、土を焼いたものですので、そこに蛙や魚が描かれる、ということは、彼らの属性が、陰陽の陰、天に対する地、生に対する死であったことが分かります。先行していた裴李崗文化 (はいりこうぶんか、紀元前7000年~紀元前5000年)では「父」という概念が登場していますが、ここでは明確に女神の属性が「地」、いわゆる「地母神」かつ「月の女神」に変更されていることが分かります。ですから、少なくとも、母系制の社会であっても、集落の長とか、祭祀長は男性が務める社会になっていたのかもしれないと思います。そして、「長」以外は、女性も男性も「陰」の存在である、となっているように思われます。要するに、階級制が、長江流域のみならず、ここでも萌芽しているのです。

仰韶文化の次の時代に来るのが龍山文化(紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)で、これが殷の前身になります。この時代から都市が出現し、青銅器がみられるようになりました。動物の骨を使用した占いが行われるようになり、社会は階層化して父権制に移行した、と思われます。この頃、長江下流域では良渚文化(紀元前3500年ころから紀元前2200年)が出現しました。こちらでも社会の階層化は進み、殉死がみられるようになります。黄河文明よりも更に北の遼河文明の影響を受けた猪竜の玉が発見され、広範囲の人々の移動と交流があったことが分かります。この時代、祭祀に用いられた玉そうに、奇怪な神人の面が登場します。

越地长歌·良渚玉琮王

大きく目を見開いた男性の神人の額に更に小さな人面が見られます。個人的には、これが後の饕餮(とうてつ)と蚩尤(しゆう)なのではないのか、と思うのです。

蚩尤は、炎帝神農の子孫で、黄帝と戦って倒された、と言われています。蚩尤の血で楓は赤くなった、と言われていますから、秋の紅葉は蚩尤の化身といえます。この点は、アッティスが死んで松の木に再生された神話との類似点が認められます。

Chi_You

一方の饕餮(とうてつ)とは、体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ怪物、と言われています。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。一説によると、蚩尤の頭だとされる、とのことです。古代中国では、王は神の意志を人々に伝える存在とされていました。そのための祭祀に使われる道具に、饕餮の面が彫られたのです。何でも貪欲に食べてしまうので、饕餮は鼎(鍋)の文様にされることになったそうです。

Liu_Ding_part

饕餮と蚩尤の神話は、これだけでは不完全なものだと思います。おそらく、世界各地の神話と比較するに、殺された蚩尤の体はバラバラにされて、頭は天に、体からは大地や万物が生まれた、とする神話が元にあったのではないか、と思われます。蚩尤は、炎帝神農の子孫、言い換えれば長江文明の神でしたが、それを打ち倒して殺したのは黄河文明の神である黄帝でした。ここから、父権制の黄河文明が、母系制の長江文明を征服支配した歴史があることがうかがえます。黄帝が蚩尤を殺した、ということは、その首を切り落として、蚩尤の首を黄帝のアクセサリーとして利用することができたし、その霊魂は黄帝のものになった、ということになります。饕餮が黄帝のことを指すのであれば、饕餮が蚩尤を食べて、その首を手に入れたことになります。食べられた首は饕餮と共に天に昇って、「天の神」となりました。なぜなら、饕餮は黄河文明の「天の父なる神」だからです。その子孫の皇帝は、先祖の神に生け贄を捧げて、託宣を仰ぐようになりました。殷の釜の神事は、おそらく饕餮の面が彫られた釜に生け贄の肉を捧げて煮て、何らかの音を出して、それを「天の父の意思を現す声」として、皇帝が述べていたのではないのか、と思います。要するに「天の父の意思」と言って、皇帝たちが好き勝手にやっていた、ということになる。皇帝たちは、死ぬと、天に登って父神と習合する、とされました。そうして、子孫達に託宣を与え続けていたのです。人々から何でも貪欲に巻き上げて食べてしまう皇帝とその先祖の神、ということになります。

長江文明は、元々母系の文化ですから、蚩尤は長江文明の「王」、すなわち、その上位にくる妻の「皇」を支える存在でした。母系の文化が、父系の文化に征服されれば、王は殺され、女王も共に殺されるか、強制的に政略結婚の道具とされて、父系の人々に利用されるか、ということになるでしょう。殺されなくても、幽閉のような状態になると推察されます。でも、支配される人々はそれでは納得しないでしょうから、女王は「どこかに隠れた」ことにして、王が女王の意思を人々に伝える、ということにしたと思われます。この新たに立てられた王は、蚩尤の代理、ということで蚩尤の代わりに話すことになります。蚩尤の面は良渚文化の玉に刻まれました。でも、蚩尤を操っているのは、蚩尤を食べた饕餮ですから、蚩尤の顔の上に、もう一つ、饕餮の面が刻まれました。これは、要するに黄河文明の王が、長江文明の王を操って、人々を支配する、ということです。負けた長江文明の王は、女王ではなく、黄帝の子孫の言いなりにならなければならなくなりました。

こうして、切られた蚩尤の頭と饕餮が習合したものが「天の神」、殺された蚩尤の体が「地の神」という奇怪な神話が生まれました。「地の神」から生まれたものは、全てが陰で、穢れたもので、死人です。生者で、陽の存在の者は、饕餮とその子孫の皇帝だけになりました。

最古の陰陽の思想では、天に陽である女性、地に陰である男性がいて、天地が交合して万物が生まれる、となっていました。でも、黄河文明が長江文明を征服したおかげで、天に陽である男性、地に陰である男性、がいることになって、天地の交合神話が成立できなくなってしまいました。男と男が交合しても子孫は生まれないからです。そこで、高位の女性は「月」として、天の神の一部に属するものとされました。黄河文明も元々は母系の社会で女性の地位は高かったのです。ですので、ここから「月の大母」と「黄帝」が君臨する思想が生まれました。一方、黄河文明の古い形式である、「黄帝」と「地母神」の形式を残す部族もあったのでしょう。こういう変化を受けて、西王母の属性も「月の女神」とか「地母神」あるいは「星の神」といったようなものに変更されました。こうして、「太陽女神」というものは存在しなくなったので、生きた人間であるところの太陽女神は、きっと殺されてしまったのだと思いますし、表向き立てられることはなくなりました。

でも、神話では、饕餮は黄帝と同じもの、とは述べられていません。それは何故でしょうか? ということになります。だいたい、「天の父神の託宣」といっても、神様が直接人々に語るわけではありません。そもそも、「天」というものがしゃべるわけでもない。でも、「天」で音を出すものがあります。それは「雷」です。おそらく、皇帝の祭祀の際には、何らかの音を出して、それを「雷」=「饕餮(蚩尤)の託宣」と述べていたのではないか、と思います。でも、黄帝は豊穣の神であって、天全体の神、あるいは太陽神とみなされるべきものです。ですから、豊穣相の時は黄帝、雷神相の時は饕餮、とされたものが、後には全く別々のものとされることになったのではないでしょうか。でも、饕餮が起源と思われる、西方の雷神系主神は、みな豊穣の神でもあり、主神でもあり、雷神でもあるわけですから、そこから見ると、饕餮と黄帝は同じもの、となるのです。古代日本では、恨みを持って亡くなった人は、蚩尤になぞらえて、「祟り神である雷神」となる、と考えられていました。

そして、黄河文明も長江文明も、起源は「虎と水牛」が組み合わさった神を奉じていた人々ですから、彼らの「男神」とは、どちらの側も元は「水牛の神」であって、同じものなのです。それが、いったん、母系制と父系制に分かれて、後に再編成された結果、天にも地にも男神しかいない、という歪んだ文化が生まれてしまったのでした。男は元々は陰の存在であって、陽である女王が殺されてしまいましたから、以来、太陽は隠れて、この世は暗闇の世界になってしまったのです。でも、夜の世界にも月の女神は存在していたのでした。そして、元々女王を支える「二人の王」の代わりに、「頭だけの饕餮、と、体だけの蚩尤」が君臨する鬼神の世界ができあがったのです。

話を急いで進めれば、殷の王家はこの「饕餮と蚩尤」を神として祀っていました。殷は滅ぼされましたが、「封神演義」と言われるように、後の王朝は殷の王家を「神」として、その祭祀を否定せずに受け継ぎました。だから、後の王朝も全て「黄帝の子孫」とされているのです。要するに斉の王家も鬼神を信仰していました。でも、彼らは元々女王を擁する首狩り族の末裔だから、一族の中に「太陽女神」の素質がある女の子が生まれることもあります。そういうときは隠しておいて、王の都合の良いように一生利用するか、利用できなきゃ文字通り「隠す=殺す」ということに決めたらしくて。要するに、山の中の連中の本当の神は「饕餮と蚩尤」で、もっと突き詰めていえば「饕餮」だけなのだと思う。でも、古代の皇帝たちがそうであったように、饕餮も託宣の神として利用されているだけ、といえます。だから、王達は饕餮を首しか無い化け物の存在にしているのだといえます。五体が満足に揃ったら、王達が饕餮に支配されてしまうかもしれないからです。

「もののけ姫」という映画があります。その中でシシ神という、鹿の化け物のような神が登場します。シシ神は生と死を司る神であって、他者の支配を受けません。シシ神の首を跳ねると、神は万物を飲み込む悪鬼へと変貌します。主人公のアシタカとサンは、神に切り落とされた首を戻して、万事を元に戻そうとします。神に首を戻すと、神の怒りは収まり静まります。世界は平穏を取り戻しますが、元のようには戻りません。シシ神、というのは、結局、蚩尤のことですよねえ? と思う。頭を切り落とされると彼は、何でも飲み込んでしまう饕餮に変化する。頭を戻すと、シシ神は消えてしまいます。

また、「千と千尋の神隠し」という映画があります。千尋という少女は、黄泉の国へ迷い込んで、そこでこき使われます。現世が黄泉の国であるとしたら、その中でも更に「黄泉の国」といえるのは、死者と病人が溢れる「病院」のことなのだと思う。千尋はそこで、カオナシというものと出会います。このカオナシは、普段はおとなしくて、ろくに言葉をしゃべりません。でも、いったん物を食べ出すと、貪欲にどんどん食べ出して、しまいには千尋まで食べる、と言い出します。そして、千尋を食べるのと引き換えに「望みの物を言え」と言いますが、千尋はもはや「病院」の世界で望むものは何もなかったので、食べられずにすみました。そして、カオナシが食べたものを吐き出させて、彼を銭婆のところへ連れていきます。「千と千尋」は、公開当時の状況からみても、内容からも、今でも涙なくして見れません。しかし、今にして思うに、「カオナシ」もまた、「蚩尤と饕餮」であると思う。蚩尤の時は、おとなしくて何を考えているのかよく分からないし、ろくにしゃべれません。なぜなら彼には、ものを考えたり話をする「頭」がないからです。頭がないから「カオナシ」なのだと思う。でも、饕餮に変貌すると、凶暴になって何でも食べるようになり、人を食い殺すこともする。そして、「頭」という存在であるので言葉を話すようになる。でも、それと引き換えに吐き出すのは、土塊のようななんの価値もないものばかり、ということで。

そして、黄河文明では、鶴と亀が特別な存在、とされましたが、それは鳥は「天と地という別々の世界を行き来する物」であるし、亀は冬眠するので「地と地の底とを行き来するもの」とされるから、と言われる気がするわけで。古い時代には、亀は女神の象徴であったと思うのです。でも、黄河文明が長江文明を支配して以後は、亀は蚩尤の象徴、ということで男神の象徴に変更されました。要するに「鶴と亀」とは「饕餮(黄帝)と蚩尤」ということになります。江戸時代あたりに作られた、と思われる童歌に「かごめかごめ」というものがあります。「かごめ」とは「鹿児女」のことだと思う。要するに鹿の太陽女神のことです。「かごの中の鳥」とは「太陽」のことだと思う。その鳥が「いつ出てくるのか」とは、「いつ夜が明けて昼間が来るのか」ということなのだと思う。黄河文明が長江文明を征服して以来、太陽女神は殺されてしまって、「昼」が来ない世界になってしまったからです。「夜明けの晩」とは、夜明けと晩が一緒にある状態、すなわち早朝と夕方が一時にきてるから、やはり「昼間が存在しない状態」であると思う。そういう時に、「鶴と亀が滑って」、いきなり「うしろの正面だあれ?」となるわけで。これはどういう意味なのだろう? と思う。そうすると、「鶴と亀が滑る」というのは、彼らが何かを「し損じる」ということです。「饕餮と蚩尤が太陽女神を食い殺しそこねて、卒業になったときに、卒業写真で女神の『うしろの正面』にいたのは誰と誰か?」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで@@。一方は、おとなしいのだけれども、頭がついていて自分の考えがちゃんとあるのかどうかも分からないような唐変木、もう一方は意味不明なことを怒鳴るだけで話もまともにできない見栄っ張りだけれども、五体が不満足であるかのように、まともなHもできない変な人。要するに、その二人が「蚩尤と饕餮」なんだ? 二人を一つにしないと、まるでまともな人間にならないかのようになってる、と始めて気がつくわけで。

それで、始めて「呪い」とか「神話」というものを気味悪く思うようになるわけで。まるで、古代の神話の中から出てきたかのようなその二人は、私の知っている現実の生きた人間だから。どうしたら、人がそんな風になるのだろう? と思う。2番目の子の人格障害的な傾向は、私も気がついていて、昔はアルコールの影響をものすごく強く疑ってた。でも、今にして思えば、彼の人格は、元々の気性に加えて躾とか、教育とか、そういう成長過程の間に人工的に手を加えて、意図的に作り出したものだとしか思えない。二人共がそうなのであれば、いったいどうやったらそんな人造人間みたいなのができるんだろう? と思う。蛙の王家は、そういうことのノウハウをものすごく心得ていて、実践を伴った経験の蓄積があるのだと思う。中国における母系文化の征服後の5000年の歴史の中にそういうノウハウが蓄積されてきたのか、と思うと、それが非常に気味悪く感じるわけで。(でも、要するに2番目の子が首席になりそこねたのは、「主神」になりそこねた、ってことなんだよねえ? と思うわけですが@@。)

そして、卒業後は彼に一度も会ってない、というか、そもそも国試の際にも向こうはみんなと違う会場で受けていたわけで。それもなんで? と思う。そうすると、それは私に負けたから、向こうが「隠れた」ということ、と言われる気がするわけで@@。でも、そういうことなら、「もののけ姫」は死んだシシ神は諦めて、新たな五体満足の男神を立てなさい、ってそういうことですねえ、と思う。「千と千尋」はもっと複雑であるけれども、カオナシは最後に銭婆に預けられる。銭婆とは、私の銭ゲバな精神科の師匠のことであるらしいので。要するに、その二人には何かしてやれることがあるなら、まともな精神科領域の治療を受けさせることぐらいしかない、とそういう宣告であると思うし、師匠や心ある人達はみんなそう思ってるのだと思う;。でも、饕餮とは結局は鍋や釜の神、なので、歴代の皇帝たちが穢れた供物で煮て穢してきたその鍋で、私はちゃんとした肉を煮て食べなさい、そうして、「饕餮を正しく支配しているのは自分である」と示しなさい、と言われる気がするわけで。

そしてそして、赤ずきんちゃん自身は、狼の腹の中を掘り返してカルシファー(石)と、ハウル(土)を分離中、ということで。宮崎監督は、あの二人だって、まともに育てたら、普通に社会の役に立つ大人に育っただろうに、子供をあんな風に育てる、ということそのものが、そもそも正しいことなのだろうか、「罪を憎んで、人を憎まず」ということを考えて欲しい、とたぶん私にそう言われるであろう、と思う。でも、なにかの損害をどこかに問うとしたら、それは「罪とか罰」とかそういう概念ではなくて、具体的に生きた人間に求めなきゃならないんで、ということになるわけでー;。そこの兼ね合いが難しい気がするのですが-;。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はそこそこであって。やはり、今掘っているところは、石がたくさん出ます。

長江下流域まで水稲耕作が行き渡った頃、北の黄河中流域では仰韶(ぎょうしょう)文化(紀元前5000年から紀元前3000年)が起こりました。黄河文明では古くから豚が家畜化されていましたが、この頃から黄河文明でも長江文明でも、羊が飼われるようになったと思われます。彼らはまだ粟を多く栽培していましたが、麦や米を生産している村もありました。そこから、他の地域との交流もうかがえます。仰韶文化は、基本的には母系制でしたが、社会の階層化の兆しがみられ、父系化の傾向がありました。男性は主に外で働き、女性は家の中で働いたそうです。女性は頭に骨性の簪を飾り、首のない遺体が埋葬されていたそうですから、明らかに「首狩り」の習慣がありました。この時代の集落は環濠で囲まれており、外敵への警戒が常にあったことを伺わせます。

仰韶文化の遺跡から、「彩陶人面魚文鉢」と呼ばれる鉢が出土しています。これは鉢に「人面魚」と「魚」が描かれたものと言われていますが、私から見れば描かれているものは、オタマジャクシと魚であると思う。元々の首狩りの人達の思想からいえば、蛙は農業の豊穣をもたらすときの「太陽女神」の象徴であり、魚は男性の象徴でした。鉢や皿は、土を焼いたものですので、そこに蛙や魚が描かれる、ということは、彼らの属性が、陰陽の陰、天に対する地、生に対する死であったことが分かります。先行していた裴李崗文化 (はいりこうぶんか、紀元前7000年~紀元前5000年)では「父」という概念が登場していますが、ここでは明確に女神の属性が「地」、いわゆる「地母神」かつ「月の女神」に変更されていることが分かります。ですから、少なくとも、母系制の社会であっても、集落の長とか、祭祀長は男性が務める社会になっていたのかもしれないと思います。そして、「長」以外は、女性も男性も「陰」の存在である、となっているように思われます。要するに、階級制が、長江流域のみならず、ここでも萌芽しているのです。

仰韶文化の次の時代に来るのが龍山文化(紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)で、これが殷の前身になります。この時代から都市が出現し、青銅器がみられるようになりました。動物の骨を使用した占いが行われるようになり、社会は階層化して父権制に移行した、と思われます。この頃、長江下流域では良渚文化(紀元前3500年ころから紀元前2200年)が出現しました。こちらでも社会の階層化は進み、殉死がみられるようになります。黄河文明よりも更に北の遼河文明の影響を受けた猪竜の玉が発見され、広範囲の人々の移動と交流があったことが分かります。この時代、祭祀に用いられた玉そうに、奇怪な神人の面が登場します。

越地长歌·良渚玉琮王

大きく目を見開いた男性の神人の額に更に小さな人面が見られます。個人的には、これが後の饕餮(とうてつ)と蚩尤(しゆう)なのではないのか、と思うのです。

蚩尤は、炎帝神農の子孫で、黄帝と戦って倒された、と言われています。蚩尤の血で楓は赤くなった、と言われていますから、秋の紅葉は蚩尤の化身といえます。この点は、アッティスが死んで松の木に再生された神話との類似点が認められます。

Chi_You

一方の饕餮(とうてつ)とは、体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ怪物、と言われています。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。一説によると、蚩尤の頭だとされる、とのことです。古代中国では、王は神の意志を人々に伝える存在とされていました。そのための祭祀に使われる道具に、饕餮の面が彫られたのです。何でも貪欲に食べてしまうので、饕餮は鼎(鍋)の文様にされることになったそうです。

Liu_Ding_part

饕餮と蚩尤の神話は、これだけでは不完全なものだと思います。おそらく、世界各地の神話と比較するに、殺された蚩尤の体はバラバラにされて、頭は天に、体からは大地や万物が生まれた、とする神話が元にあったのではないか、と思われます。蚩尤は、炎帝神農の子孫、言い換えれば長江文明の神でしたが、それを打ち倒して殺したのは黄河文明の神である黄帝でした。ここから、父権制の黄河文明が、母系制の長江文明を征服支配した歴史があることがうかがえます。黄帝が蚩尤を殺した、ということは、その首を切り落として、蚩尤の首を黄帝のアクセサリーとして利用することができたし、その霊魂は黄帝のものになった、ということになります。饕餮が黄帝のことを指すのであれば、饕餮が蚩尤を食べて、その首を手に入れたことになります。食べられた首は饕餮と共に天に昇って、「天の神」となりました。なぜなら、饕餮は黄河文明の「天の父なる神」だからです。その子孫の皇帝は、先祖の神に生け贄を捧げて、託宣を仰ぐようになりました。殷の釜の神事は、おそらく饕餮の面が彫られた釜に生け贄の肉を捧げて煮て、何らかの音を出して、それを「天の父の意思を現す声」として、皇帝が述べていたのではないのか、と思います。要するに「天の父の意思」と言って、皇帝たちが好き勝手にやっていた、ということになる。皇帝たちは、死ぬと、天に登って父神と習合する、とされました。そうして、子孫達に託宣を与え続けていたのです。人々から何でも貪欲に巻き上げて食べてしまう皇帝とその先祖の神、ということになります。

長江文明は、元々母系の文化ですから、蚩尤は長江文明の「王」、すなわち、その上位にくる妻の「皇」を支える存在でした。母系の文化が、父系の文化に征服されれば、王は殺され、女王も共に殺されるか、強制的に政略結婚の道具とされて、父系の人々に利用されるか、ということになるでしょう。殺されなくても、幽閉のような状態になると推察されます。でも、支配される人々はそれでは納得しないでしょうから、女王は「どこかに隠れた」ことにして、王が女王の意思を人々に伝える、ということにしたと思われます。この新たに立てられた王は、蚩尤の代理、ということで蚩尤の代わりに話すことになります。蚩尤の面は良渚文化の玉に刻まれました。でも、蚩尤を操っているのは、蚩尤を食べた饕餮ですから、蚩尤の顔の上に、もう一つ、饕餮の面が刻まれました。これは、要するに黄河文明の王が、長江文明の王を操って、人々を支配する、ということです。負けた長江文明の王は、女王ではなく、黄帝の子孫の言いなりにならなければならなくなりました。

こうして、切られた蚩尤の頭と饕餮が習合したものが「天の神」、殺された蚩尤の体が「地の神」という奇怪な神話が生まれました。「地の神」から生まれたものは、全てが陰で、穢れたもので、死人です。生者で、陽の存在の者は、饕餮とその子孫の皇帝だけになりました。

最古の陰陽の思想では、天に陽である女性、地に陰である男性がいて、天地が交合して万物が生まれる、となっていました。でも、黄河文明が長江文明を征服したおかげで、天に陽である男性、地に陰である男性、がいることになって、天地の交合神話が成立できなくなってしまいました。男と男が交合しても子孫は生まれないからです。そこで、高位の女性は「月」として、天の神の一部に属するものとされました。黄河文明も元々は母系の社会で女性の地位は高かったのです。ですので、ここから「月の大母」と「黄帝」が君臨する思想が生まれました。一方、黄河文明の古い形式である、「黄帝」と「地母神」の形式を残す部族もあったのでしょう。こういう変化を受けて、西王母の属性も「月の女神」とか「地母神」あるいは「星の神」といったようなものに変更されました。こうして、「太陽女神」というものは存在しなくなったので、生きた人間であるところの太陽女神は、きっと殺されてしまったのだと思いますし、表向き立てられることはなくなりました。

でも、神話では、饕餮は黄帝と同じもの、とは述べられていません。それは何故でしょうか? ということになります。だいたい、「天の父神の託宣」といっても、神様が直接人々に語るわけではありません。そもそも、「天」というものがしゃべるわけでもない。でも、「天」で音を出すものがあります。それは「雷」です。おそらく、皇帝の祭祀の際には、何らかの音を出して、それを「雷」=「饕餮(蚩尤)の託宣」と述べていたのではないか、と思います。でも、黄帝は豊穣の神であって、天全体の神、あるいは太陽神とみなされるべきものです。ですから、豊穣相の時は黄帝、雷神相の時は饕餮、とされたものが、後には全く別々のものとされることになったのではないでしょうか。でも、饕餮が起源と思われる、西方の雷神系主神は、みな豊穣の神でもあり、主神でもあり、雷神でもあるわけですから、そこから見ると、饕餮と黄帝は同じもの、となるのです。古代日本では、恨みを持って亡くなった人は、蚩尤になぞらえて、「祟り神である雷神」となる、と考えられていました。

そして、黄河文明も長江文明も、起源は「虎と水牛」が組み合わさった神を奉じていた人々ですから、彼らの「男神」とは、どちらの側も元は「水牛の神」であって、同じものなのです。それが、いったん、母系制と父系制に分かれて、後に再編成された結果、天にも地にも男神しかいない、という歪んだ文化が生まれてしまったのでした。男は元々は陰の存在であって、陽である女王が殺されてしまいましたから、以来、太陽は隠れて、この世は暗闇の世界になってしまったのです。でも、夜の世界にも月の女神は存在していたのでした。そして、元々女王を支える「二人の王」の代わりに、「頭だけの饕餮、と、体だけの蚩尤」が君臨する鬼神の世界ができあがったのです。

話を急いで進めれば、殷の王家はこの「饕餮と蚩尤」を神として祀っていました。殷は滅ぼされましたが、「封神演義」と言われるように、後の王朝は殷の王家を「神」として、その祭祀を否定せずに受け継ぎました。だから、後の王朝も全て「黄帝の子孫」とされているのです。要するに斉の王家も鬼神を信仰していました。でも、彼らは元々女王を擁する首狩り族の末裔だから、一族の中に「太陽女神」の素質がある女の子が生まれることもあります。そういうときは隠しておいて、王の都合の良いように一生利用するか、利用できなきゃ文字通り「隠す=殺す」ということに決めたらしくて。要するに、山の中の連中の本当の神は「饕餮と蚩尤」で、もっと突き詰めていえば「饕餮」だけなのだと思う。でも、古代の皇帝たちがそうであったように、饕餮も託宣の神として利用されているだけ、といえます。だから、王達は饕餮を首しか無い化け物の存在にしているのだといえます。五体が満足に揃ったら、王達が饕餮に支配されてしまうかもしれないからです。

「もののけ姫」という映画があります。その中でシシ神という、鹿の化け物のような神が登場します。シシ神は生と死を司る神であって、他者の支配を受けません。シシ神の首を跳ねると、神は万物を飲み込む悪鬼へと変貌します。主人公のアシタカとサンは、神に切り落とされた首を戻して、万事を元に戻そうとします。神に首を戻すと、神の怒りは収まり静まります。世界は平穏を取り戻しますが、元のようには戻りません。シシ神、というのは、結局、蚩尤のことですよねえ? と思う。頭を切り落とされると彼は、何でも飲み込んでしまう饕餮に変化する。頭を戻すと、シシ神は消えてしまいます。

また、「千と千尋の神隠し」という映画があります。千尋という少女は、黄泉の国へ迷い込んで、そこでこき使われます。現世が黄泉の国であるとしたら、その中でも更に「黄泉の国」といえるのは、死者と病人が溢れる「病院」のことなのだと思う。千尋はそこで、カオナシというものと出会います。このカオナシは、普段はおとなしくて、ろくに言葉をしゃべりません。でも、いったん物を食べ出すと、貪欲にどんどん食べ出して、しまいには千尋まで食べる、と言い出します。そして、千尋を食べるのと引き換えに「望みの物を言え」と言いますが、千尋はもはや「病院」の世界で望むものは何もなかったので、食べられずにすみました。そして、カオナシが食べたものを吐き出させて、彼を銭婆のところへ連れていきます。「千と千尋」は、公開当時の状況からみても、内容からも、今でも涙なくして見れません。しかし、今にして思うに、「カオナシ」もまた、「蚩尤と饕餮」であると思う。蚩尤の時は、おとなしくて何を考えているのかよく分からないし、ろくにしゃべれません。なぜなら彼には、ものを考えたり話をする「頭」がないからです。頭がないから「カオナシ」なのだと思う。でも、饕餮に変貌すると、凶暴になって何でも食べるようになり、人を食い殺すこともする。そして、「頭」という存在であるので言葉を話すようになる。でも、それと引き換えに吐き出すのは、土塊のようななんの価値もないものばかり、ということで。

そして、黄河文明では、鶴と亀が特別な存在、とされましたが、それは鳥は「天と地という別々の世界を行き来する物」であるし、亀は冬眠するので「地と地の底とを行き来するもの」とされるから、と言われる気がするわけで。古い時代には、亀は女神の象徴であったと思うのです。でも、黄河文明が長江文明を支配して以後は、亀は蚩尤の象徴、ということで男神の象徴に変更されました。要するに「鶴と亀」とは「饕餮(黄帝)と蚩尤」ということになります。江戸時代あたりに作られた、と思われる童歌に「かごめかごめ」というものがあります。「かごめ」とは「鹿児女」のことだと思う。要するに鹿の太陽女神のことです。「かごの中の鳥」とは「太陽」のことだと思う。その鳥が「いつ出てくるのか」とは、「いつ夜が明けて昼間が来るのか」ということなのだと思う。黄河文明が長江文明を征服して以来、太陽女神は殺されてしまって、「昼」が来ない世界になってしまったからです。「夜明けの晩」とは、夜明けと晩が一緒にある状態、すなわち早朝と夕方が一時にきてるから、やはり「昼間が存在しない状態」であると思う。そういう時に、「鶴と亀が滑って」、いきなり「うしろの正面だあれ?」となるわけで。これはどういう意味なのだろう? と思う。そうすると、「鶴と亀が滑る」というのは、彼らが何かを「し損じる」ということです。「饕餮と蚩尤が太陽女神を食い殺しそこねて、卒業になったときに、卒業写真で女神の『うしろの正面』にいたのは誰と誰か?」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで@@。一方は、おとなしいのだけれども、頭がついていて自分の考えがちゃんとあるのかどうかも分からないような唐変木、もう一方は意味不明なことを怒鳴るだけで話もまともにできない見栄っ張りだけれども、五体が不満足であるかのように、まともなHもできない変な人。要するに、その二人が「蚩尤と饕餮」なんだ? 二人を一つにしないと、まるでまともな人間にならないかのようになってる、と始めて気がつくわけで。

それで、始めて「呪い」とか「神話」というものを気味悪く思うようになるわけで。まるで、古代の神話の中から出てきたかのようなその二人は、私の知っている現実の生きた人間だから。どうしたら、人がそんな風になるのだろう? と思う。2番目の子の人格障害的な傾向は、私も気がついていて、昔はアルコールの影響をものすごく強く疑ってた。でも、今にして思えば、彼の人格は、元々の気性に加えて躾とか、教育とか、そういう成長過程の間に人工的に手を加えて、意図的に作り出したものだとしか思えない。二人共がそうなのであれば、いったいどうやったらそんな人造人間みたいなのができるんだろう? と思う。蛙の王家は、そういうことのノウハウをものすごく心得ていて、実践を伴った経験の蓄積があるのだと思う。中国における母系文化の征服後の5000年の歴史の中にそういうノウハウが蓄積されてきたのか、と思うと、それが非常に気味悪く感じるわけで。(でも、要するに2番目の子が首席になりそこねたのは、「主神」になりそこねた、ってことなんだよねえ? と思うわけですが@@。)

そして、卒業後は彼に一度も会ってない、というか、そもそも国試の際にも向こうはみんなと違う会場で受けていたわけで。それもなんで? と思う。そうすると、それは私に負けたから、向こうが「隠れた」ということ、と言われる気がするわけで@@。でも、そういうことなら、「もののけ姫」は死んだシシ神は諦めて、新たな五体満足の男神を立てなさい、ってそういうことですねえ、と思う。「千と千尋」はもっと複雑であるけれども、カオナシは最後に銭婆に預けられる。銭婆とは、私の銭ゲバな精神科の師匠のことであるらしいので。要するに、その二人には何かしてやれることがあるなら、まともな精神科領域の治療を受けさせることぐらいしかない、とそういう宣告であると思うし、師匠や心ある人達はみんなそう思ってるのだと思う;。でも、饕餮とは結局は鍋や釜の神、なので、歴代の皇帝たちが穢れた供物で煮て穢してきたその鍋で、私はちゃんとした肉を煮て食べなさい、そうして、「饕餮を正しく支配しているのは自分である」と示しなさい、と言われる気がするわけで。

そしてそして、赤ずきんちゃん自身は、狼の腹の中を掘り返してカルシファー(石)と、ハウル(土)を分離中、ということで。宮崎監督は、あの二人だって、まともに育てたら、普通に社会の役に立つ大人に育っただろうに、子供をあんな風に育てる、ということそのものが、そもそも正しいことなのだろうか、「罪を憎んで、人を憎まず」ということを考えて欲しい、とたぶん私にそう言われるであろう、と思う。でも、なにかの損害をどこかに問うとしたら、それは「罪とか罰」とかそういう概念ではなくて、具体的に生きた人間に求めなきゃならないんで、ということになるわけでー;。そこの兼ね合いが難しい気がするのですが-;。