本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業の方はだいたいいつもの通りであって。ゴミがたくさん出てきます。

で、思ったわけですが、なんで建設会社は、「工事の進行状況」を知ることを意図的に拒否してるのだろう? と思って。そうしたら、それは「建築請負契約の債務消失」を狙ってるんじゃないの? と言われる気がするわけで@@。なんというか、一般的に「債務を認めない」でいると、時効を援用して債務の時効取得を主張できるらしいです。でも、現場の状況を報告されたら、「債務を認めた」ことになっちゃうらしくてー;。でも、書類とか鍵の引き渡しもしていないのだから、それは向こうが把握している「債務」に入るでしょうが、工事の状況だけ「知らないこと」にしてどうするのか? と思う。どのみち、消滅時効を援用するとしても、訴訟を向こうから起こさなければならなくなる。しかも、時効にかかって債務がなくなっている、というのであれば、工事に必要な書類や鍵を握っている理由がなくなるわけで、それこそ窃盗でしょ、時効にかかる頃には、残代金なんて損害賠償額で吹き飛んでるし、と思う。(債務が消失すると、債権も消失するし-;)なんだか、もう回収の見込みがないので、時効を援用して逃げたいらしいー;。でも、建設会社が逃げたとしても、設計監理士は取り残されるよ?? 責任追及が全部そっちへ行くよ?? と思う@@。でもまあ、時効を援用するには訴訟を起こさないとならないし、詐欺未遂罪の時効の方が長いし-;。これは借金とかと違うので、意図的に「そこにある債務を認めない」となれば、それは悪意で犯罪になるし、それを目的としておかしなことを要求すれば、詐欺未遂罪なんだが@@。犯罪悪徳弁護士も「お仕事」がなげやりになるわけだーー、と思うわけで。公訴時効を主張したら、その時点で詐欺未遂罪を問われるわけだ-;。

で、「アマテラスの原像」の方ですが、マハーバーラタの次は、ナルト叙事詩ということで。カフカスのオセット族の伝説である。ナルト叙事詩に登場する荒ぶる精霊ワステュルジ(Uastyrdji)は、乱暴者で、3本足の馬に乗り、獰猛な犬を従えて、空を駆け回る。海神ドン・ベッテュルの娘ゼラセに懸想していたが、全く相手にされなかったことをいつまでも根に持っていて、ゼラセの死後、墓に侵入し、不思議な鞭で打ってゼラセの死体を美しく再生させ、これと交わり、さらに自分の馬、あるいは犬にも犯させた。この結果、娘サタナ、名馬ドゥルドゥル、犬シラムが生まれたとされる。ということで、ワステュルジという名前は基本的に、テシュブ、ゼウス、ユーピテルと同系統の名前で、そこに「Uas」がついた形といえます。ゼラセの方は、「d」で始まる女神である。要するに、これはローマ式「ユーノー&ユーピテル」と同じ組み合わせの名前であって、そこからサタナという美女であり、魔女が生まれるわけです。サタナというのは、ヒッタイト時代には太陽女神であったものの名前で、アテーナーとか、古代エジプトのアテン神と同じ子音であり、起源は蛙のヘケト女神であると思う。ただし、サタナの性質から見ると、「太陽のヘケト」ではなくて「冥界のヘケト」の気質が強いといえる。ナルトの世界は、印欧語族の世界らしく階級社会である。その内訳は、戦士階級、祭祀階級、庶民階級である。で、このサタナというのが、けっこうな魔女で、好きな人と結婚するのに、邪魔な先妻を死に追いやる。自分が年を取ると夫に若い妻を迎えるように薦めておきながら、いざそうなると自分は魔法で若返って夫を第2夫人に近寄らせない、という具合である。で、何故か作者はこのサタナが、アナーヒタ女神的である、と言いたいらしい-;。まあ、大雑把にいえばそうかもしれないけれども、大雑把過ぎる、と思う-;。サタナは、元は太陽女神であったものが、陰の属性に近くなった女神の崩れであって、そういうところはアナーヒタ女神と共通していると思う。年老いたのに、若い娘を犠牲にする形で若返るのは、冬至に老いて、犠牲を得てまた若返る「太陽」の性質そのものである、と思う。そして、興味深いのは、サタナが死においやった先妻はエルダ、すなわち「d」の名前である、ということ。すなわち、ナルト達の伝説でが、女神はすでに全員「陰」の存在なのだけれども、特にサタナが「陽」の側に近く、「d」とつく女神達は「黄泉」の存在だ、ということである。これは、メソポタミアのティアマト神話と同じで、死すべきは「d」のつく女神なのである。すなわち、ローマにおけるユーノー女神は、カフカスでは「黄泉」に近い女神とされている、ということになる。だから、カフカスの伝説は、スキタイの神話の末裔であっても、メソポタミアの神話の影響を強く受けている、といえます。サタナは死んだゼラセから生まれた大地そのもの、といえる。

だから、もっと大雑把にいえば、サタナ=アナーヒタ=アマテラスで良いのかもしれないけれども、ゼラセがユーノーであるなら、イザナミも「(i)d」で始まる「d」の女神でユーノーのことなんじゃないの? ということになります。夫のイザナギは、「(i)d」で始まるので、「偉大なる(i)d」ということになる。また、イザナギの持つ剣から建御雷神が生まれていますから、イザナギ=建御雷神とすれば、結局日本神話における系譜とは、ユーピテルとユーノーを始祖として、その娘がアマテラス(アナーヒタ)ということになるんじゃないの? と思う。ローマにおけるユーノー女神は「天の女神」なのに、日本神話ではメソポタミア式に「黄泉」の存在とされている。そして、同じ子音を持つ女神に、宗像氏の「イチキシマ女神」がいるわけです。彼女も「(i)t」で始まる女神で、天孫降臨の際に、ニニギに従って下りてきた女神と言われている。すなわち、天津神の中では「陰」に近い女神といえます。しかも、ゼラセやティアマトと同じく「海の女神」だし。

そこで、一つの「仮説」が生まれるわけです。日本の神話では、アマテラスも、建御雷神も「鹿」のトーテムが付加されて、「シカトする皇大神社」に祀られている。では、イザナミあるいはイチキシマ女神であるところの、ユーノー女神にも同じ「操作」がなされているとしたら?? ということになる。というわけで、「シカトする皇大神社」に祀られている神のリストが頭に浮かぶわけで。それは、主祭神アマテラス、配神に建御雷神、カグツチ、八幡神、イチキシマ女神である。あんな山の中になんで海の女神を祀ってあるの? と思う。というか、このリストが読める書物は、たぶんただ1種類しかないわけで。しかも、その下にあるお寺の中には「旭観音」というものが、丁重に祀ってあるし、本尊は薬師如来である。要するに、ゴミ捨て場のゴミなら適当に拾っても誰も文句言わないかもしれないけれども、本尊だの寺宝だのは「そこからは動かせない」ということになる。黄泉の国に何重にも閉じ込められた「旭」であり「九頭竜」であり、「日光」にも「月光」にもなれるユーノー女神をそこから動かすには、大枚はたいて「羽衣」を買わなければならない、そして彼女の「もう一つの名前」である「ヴァルナ」の権利をある程度手に入れなければいけない、と言われる気がするわけで。でも、その名前は私には向かない名前、と言われる気がするので、結局「大枚」というものが必要とされる、というオチがつくわけですが-;。というわけで、古い時代の印欧語族の主神であるヴァルナと、どちらかというと先住民の女神? 的なドゥルガー・ユーノーとどんな関係があるのか? ということになるのですが。それは、同じものであり、異なるものであり、「対を形成するもの」であるわけです。

古代メソポタミア文明はユーフラテス川とチグリス川のふもとに栄えました。ユーフラテス川とは、シュメール語で「ブラヌナあるはブラヌン」という言葉から発生したもの、チグリス川はシュメール語で「イディギナ」という「虎」を意味する言葉から派生したもの、ということで。英語で虎のことを「Tiger」といいますが、その語源が「イディギナ」であるわけです。シュメール語での「ブラヌナあるいはブラヌン」は、インド方面で同じ子音のヴァルナ、ブラウマン、ヴィシュヌ等に変化したものと思われます。イディギナの方は、北欧でイドゥン、古代エジプトでテフヌト、ローマでユーノー、インドでドゥルガー、チベットでドゥーマと変化しました、要するに、「ユーフラテス・チグリス」併せて「ヴァルナ・虎」という意味になるのです。でも、「ヴァルナ」って何? となる。ヴァルナの古い時代の神官は、極端に色白で、性的不能者でなければならないとされているそうです。要するに「ユーフラテス・チグリス」の語源は、中国語で言うところの「白天(バイテン)」あるいは「白帝(バイテン)」ということになります。「白天」とは「昼間」という意味です。「天」という言葉が、そのまま余所の国では「虎」の意味で使われている。だから、本来は「虎」は「天」で「昼(太陽)」で、「女神」だったのです、となるのですが。印欧語族の契約神であるヴァルナ・ミトラの「ミトラ」も「テフヌト」の変化した名前ですから、要は「ユーフラテス・チグリス」も「ヴァルナ・ミトラ」も、元は同じ「昼間」という名前といえます。でも、中国外に出ると、だんだんそういう意味が薄れて、「ヴァルナ」が「始まり」、ミトラが「終わり」という意味を持つようになってきます。要するに二つ併せて「初めと終わり」だし、契約神としては「契約を開始する神と終わらせる神」になる、ということで。二つ併せて、契約を履行する神、といえます。でも、私は契約を始めるのはうまくない、終わらせるときは破壊的威力を発揮する、ということらしくてー;。「初め」の名前は取りにくい、と言われる気がするわけでー;。でも、これで千と千尋の「川の神」である「ハク」が、何故「ハク(白)」なのかが、分かるわけで。彼が「ヴァルナ」ということになる。まあ、でも問題は「t」の字が着く「千尋」の方なので-;。

というわけで、イザナギはユーピテル、イザナミはユーノー、アマテラスはアナーヒタ女神でも良いし、「蛙」の名を持つサタナでも良い、ということになる。「アマテラスの原像」は日本神話の考察になると、政治的に意図的にグダグダさせまくりなので、全然面白くなくなるわけですがー;。でも、いろんなことを教えてくれたわけです。「シカトする皇大神社」には、ユーピテルと子神の八幡神と、アマテラス・ユーノー・ウェスタが祀られている。事実上、3人が押し込められてる。そして、自分の今までの人生を考えると、その3人の現実での「近さ」にも、いつも「呪い」のようなものを感じずにはいられないのです-;。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「VS嵐」では、なんだかみんな妙なことを言っていて。妙な手紙が来て直後のテレビだったので、「頑張る」って6番目の子が言っていて。だいたい、そろそろ何か言ってくる頃なんじゃないのかなあ、と思っていて。下手なことを言えば、詐欺で民訴どころか、刑事告訴されることは分かってる相手方であるので、ああいう言い方しかできない、というかやらないんだろうなあ、と思う。でも、万が一、ということがあるので、資料の整理とか、訴訟の手続きの確認とかもしておかなきゃあ、と思ったのでした。

作業の方はいつもの通りであって。どうも、今掘っているところの深い方には、腐った木みたいなのが入っていたようで。今日もコンクリートの破片がたくさん出てきたのでした。

夜は「少年倶楽部」を見る。昨日の潤ちゃん、今日の廉くんで、だいぶ気持ちも落ち着いた気がします。

で、夜も長くなってきて、空いている時間が増えてきたので、親が私が買った本を読みたい、と言ってきて。民話とか神話は、まずは多くの基礎資料を読んでみると、各地で互いに似通った話がいくつもあるのが分かるわけで。登場人物の名前も似通っていたり、全然違ったりするわけで。それが、何故煮ているのか、異なっている部分の差異の原因はどこにあるのか、例えば地理的な要因なのか、歴史的な時間の流れの差に起因するのか、特定のエピソードが、現実に起こった歴史的事実と結びつけられて最初のものとは異なった設定の話に変更されているのか(こういうことはものすごく多いのですが)、とかいろいろあるわけで。まずは、楽しく読んでみることが一番だと思うのです。でも、親にはモソの姉さん達のドキュメンタリーを読んで貰って、母系の人達の価値観や生活とはどういうものなのかを知ってもらうべき、と言われる気がします。そのうちに読んで貰えれば、と思う。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「VS嵐」では、なんだかみんな妙なことを言っていて。妙な手紙が来て直後のテレビだったので、「頑張る」って6番目の子が言っていて。だいたい、そろそろ何か言ってくる頃なんじゃないのかなあ、と思っていて。下手なことを言えば、詐欺で民訴どころか、刑事告訴されることは分かってる相手方であるので、ああいう言い方しかできない、というかやらないんだろうなあ、と思う。でも、万が一、ということがあるので、資料の整理とか、訴訟の手続きの確認とかもしておかなきゃあ、と思ったのでした。

作業の方はいつもの通りであって。どうも、今掘っているところの深い方には、腐った木みたいなのが入っていたようで。今日もコンクリートの破片がたくさん出てきたのでした。

夜は「少年倶楽部」を見る。昨日の潤ちゃん、今日の廉くんで、だいぶ気持ちも落ち着いた気がします。

で、夜も長くなってきて、空いている時間が増えてきたので、親が私が買った本を読みたい、と言ってきて。民話とか神話は、まずは多くの基礎資料を読んでみると、各地で互いに似通った話がいくつもあるのが分かるわけで。登場人物の名前も似通っていたり、全然違ったりするわけで。それが、何故煮ているのか、異なっている部分の差異の原因はどこにあるのか、例えば地理的な要因なのか、歴史的な時間の流れの差に起因するのか、特定のエピソードが、現実に起こった歴史的事実と結びつけられて最初のものとは異なった設定の話に変更されているのか(こういうことはものすごく多いのですが)、とかいろいろあるわけで。まずは、楽しく読んでみることが一番だと思うのです。でも、親にはモソの姉さん達のドキュメンタリーを読んで貰って、母系の人達の価値観や生活とはどういうものなのかを知ってもらうべき、と言われる気がします。そのうちに読んで貰えれば、と思う。

本日の日誌

昨夜は何だか夢を見て。小瀧さんちののんちゃんが出てくる夢だったような?? 作業の方は、だいたいいつもの通りであって。午後は雨が降ってできなかったのでした。

でもって、「何かしょぼい文章きたーーー」ということがあって。工務店の代理人弁護士を名乗る人から、「訴訟で問題を解決するので、いろいろな報告文書を送ってくるのをやめろ」とかって言ってきているわけで。そもそも「訴状が届くのに何ヶ月かかるのか??」という突っ込みがいくわけですがー;。時効の中断を目的とした文章の送付を遠慮しろとか、債務者から言われる筋合いがそもそもないんだが??@@ と思うわけで。なんだか、もう、回収の見込みがないので、文字数も郵便代もケチりたい。土建屋の従兄弟の名前も、設計監理士の名前も出したくない、代理人弁護士も関わりたくない、という匂いがプンプンするわけでー;。土建屋の従兄弟は、「自分の名前が出されたくないーー」と言ってくる気がするわけでー;。これもまた「詐欺で損害賠償を請求するよ」って、訴訟を起こされたら、そう言わなきゃあ、と思うのでした。(でもその機会がそもそもあるかどうかが?? なわけですが。というか、多分ないんだろうな。時効の中断を目的として契約内容の履行の請求をしているのに、それを妨害したらそれも「不法行為」になるわけだし。)なんだろう、そんなにお金をケチりたければ、普通郵便かFAXにすれば良いのに?? となんとなく思うわけですが-;。

で、こういうことがよくよくわかっていて送ってくる理由は、羊の王様の肉を食べちゃったりとか、学習に必要な文献を買ったりしているからだ、と思うわけで。今日、「中国の神話」という本を買ったわけです。これは、中学生の頃に図書館にあった気がするわけで。(でなければ、高校の時に市立図書館で読んだのかもだけれど。)ヨーロッパの神話も、インドの神話も読んだけれども、中国の神話は読んでいなくて。当時はあまり興味を感じなかったわけですが。今見ると、前書きに、苗族の人達の写真が載っている、ナシ族の東巴文字が載っている、という具合であって。苗族は、「雷神と戦った」という伝承を持つ人々で、実際そういう歴史をお持ちなのだと思う。ナシ族は、母系の文化の色濃い人々で、特に中でもモソ族と呼ばれる姉さん達は、曹家の女性と協力して、自分たちの生活がどういうものであるのかを届けてくれたのだし。そういうものを見て、私はなんで、学生時代にもっと真面目にこの本を読まなかったんだろう? と思ったのですが。これからどうしても夜が長い期間が増えるので、少しずつ勉強できていったら、と思うわけです。

それから、今日は他にも不思議なことがあって。「石の羊」の民話が載っている古本を買ったのですが、それにお手紙が添えられていて。読んだら、「広告文になかった汚れがあるので、切手で割引させて頂きます。」とあって。別にそれほど気にしないのにー、と思う。500円ちょっとの本を買って、140円も割引いて貰うのは申し訳ない、と思ったのですが。不思議なことに、送られてきた切手は戌年のお正月の懸賞の切手であって。なんでわざわざ戌年のものを送ってきたんだろう? と思う。そうしたら「切手」というのは、文字通り「切り落とした手」のことなので。それは「切り落とした犬の手」の意味だから、それを使って自分のために役立てなさい、ということなんじゃないの、と言われる気がするわけで。要するに、限定モノだから、ってとっておくのではなくて、積極的に使ってしまわなければいけないものなんだねえ? と思う。というわけで、親に渡しておいたわけで。

そして、そもそも某知り合いの酒屋に「○に大」の字がベタベタと貼ってあるでしょ。「大」に「神」と書いてなんと読むの? と6番目の子に言われる気がするわけで@@。「大神=狼」ってこと?? と思う。では昔あった「大文字一揆」の「大」も「大神」ってこと?? と思う。なんというか、みんな自分の正体は隠してる、隠してるけれども、どこかに本性を現してる、ってそういうこと?? と思う。でもって、羌族は「下級の神々」の象徴を水晶としている、とのことで、「水晶とは、基本的には酷使できる下級の神々のこと」と言われる気がするわけで。でも、狼も「白い狼」だし、羊も「白い羊」だし、関係なくはないよね? と思う。

「アマテラスの原像」もけっこう楽しく読んでいるわけで。第1章は「マハーバーラタ」が、父権的かつ排他的な印欧語族の文化の中での物語なのに、何故その中に「一妻多夫」が登場するのか、ということを書いてあって。それは、ドラウパティー姫の5人の夫である王子達が、インド・イラン系の人々の古い身分関係を象徴しており、姫はそのどの身分に対しても「大母」として関わっているため、という説明なのかなあ、と思う。彼らの基本的な身分秩序とは、祭祀者である王、戦士階級、庶民階級、と分かれるわけで、これはインド・イラン系の古い秩序でも、西欧の古い秩序でもほぼ同様です。ギリシャでは、身分秩序が、貴族、庶民、外国人、奴隷、となっており、「神官」の位置づけが曖昧ですが、決して低くはなかったと思う。貴族階級は、戦士階級のことであり、その下の庶民階級は、一般的な庶民(祖神は貴族階級と同様の人々)、外国人(祖神が異なる人々)、奴隷(おそらく祖神が異なる上に、戦争における敗者等であった人達)ということになります。普通の庶民階級の人々は貴族階級に準じる権利を持ち、その一方で外国人や奴隷が庶民階級以上の人々と同様の権利を得るには、一定の定めが必要でした。「マハーバーラタ」の中の5王子は、「庶民階級」に相当する下の二人が、上の兄達に従順であることが理想とされる一方、兄さん達の仕事が忙しいときには兄の仕事の代理を務めたりしていますから、庶民以上の身分秩序はそれほどガチガチなものではなく、ある程度は流動的であったことが示唆されます。この5人の王子は「パーンダヴァ兄弟」と呼ばれています。この名前も興味深いのですが、ドラウパティー姫が、彼らと対になる「大母」の象徴であるとすると、「マハーバーラタ」の世界秩序は、スパルタのように男性と男性が結婚する、という極端に男系的なものではなくて、男性と女性が対になる世界観が維持されつつ、男性の方に父系の秩序、女性の方に母系の秩序が投影されている折衷的なものといえます。黄河文明でいうと、仰韶文化から龍山文化に移行するあたりの文化の思想と一致するといえそうです。

また、古い時代のヴァルナの祭祀は、その役を性的不能者が行わなければならない、とされていたようです。後の時代のイラン側の神話であるゾロアスターでは、アナーヒタ女神がヴァルナの娘でもあり、妻でもある、とされていますので、イラン側では時代が下るにつれて、ヴァルナの男性としての機能が復活されるようになったのだと思われますが、古い時代はヴァルナは「去勢した神」であったようです。これはギリシャ神話でヴァルナに相当するウラノスが戦いの際に「男根を切り落とされた」とされることと相関します。彼らは共通して男根を失わなければならない理由が何かあったのです。ギリシャ神話において、ウラノスが男根を失った理由は、男神が「天」で、女神が「地」であった場合、彼らが睦まじくして万物が誕生する、ということは天と地が交合する、ということになります。男女の交わりの混沌とした祭祀から世界から誕生するわけですが、天地がいつまでも結びついていて混沌としていると地上に住まう者が迷惑します。そのため、ギリシャ神話では、ウラノスの去勢は「天と地」を切り離して混沌を排除するもの、の象徴として語られている、と説明されます。でも、それはちょっとおかしくないですか? ということになります。男性が去勢されてしまったら、夫婦の間からは、それ以後新しい命が生まれなくなります。もし女性が「天」であり、男性が「地」であったとしたら、「天と地の結合が解かれる」とはどういうことなのか? となります。それは、要するに「萎える」ということになります。すなわち、男性が「地」であれば、自然現象では「高い山」とか「樹木」が天と交わる「男性の象徴」となります。すなわち、ウラノスやヴァルナが「去勢」されねばならなかったのは、天と地の役割をある時点で強引に入れ替えてしまったために、そうせざるをえなかった、ということなのではないでしょうか? 一方、同じインドの神話でも、男女の交わりと豊穣を結びつけて重要視するシヴァとパールヴァティーの思想では、今でも男性の側が「地」として現されるように思います。要するに、「マハーバーラタ」における父系のアーリア的文化にふさわしからぬ「一妻多夫」の存在は、物語の起源が、印欧語族の先祖そのものが母系から父系に移行する過渡期にあったから、とすることができると思うのです。時代が下ると、より父系の文化が強くなるので、女性が複数の夫を持つことは、恥ずべきこととされるようになり、「マハーバーラタ」の設定との間に文化的矛盾が生じてくることになったのでしょう。

また、「マハーバーラタ」の中には「寡婦殉死」の描写が出てきます。これは文字通りに解釈すれば、「妻としての女性は夫が亡くなったら殉死しなければならない」ということになります。マハーバーラタに登場する5人の王子は、祭祀者と戦士階級を象徴する上3人の母はクンティーといい、庶民階級を象徴する下の二人の母は別の女性とされています。おそらく、こちらの女性の方が「身分が低い」とされていたのでしょう。5兄弟の父親が亡くなった時に、身分の低い妻は、夫の供をして殉死しました。しかしクンティーの方は殉死せず、残された5王子を育てて、彼らの後見をしながら王の残した国を守ることになります。印欧語族の「寡婦殉死」というものはけっこう曖昧で、北欧では「王が亡くなった時に、奴隷の女性が供をすると、あの世で王の妻になれる」と言われていました。トラキアでは、「夫から一番愛された妻」が供をすることになっていました。身分が高く、妻を何人も持てる男性であれば、「供をする妻」をあらかじめ用意可能であったともいえます。「マハーバーラタ」の寡婦殉死も厳密なものではなく、トラキア的なものであった、といえます。そして、あまりはっきりとは書かれていませんが、母親の身分が子供の身分に投影されるのは、母系の文化の影響と考えられます。しかも、殉死しない方の妻の「クンティー」という名は、「熊」を意味しますので、印欧語族のごく古い時代の血族に「母系の熊トーテムの人々」が入り込んで混血習合しており、そちらの側での文化では「寡婦殉死」は否定されている、ということがうかがえます。そもそも「クンティー」という名前が、アナト、アナーヒタと同じ子音を持つ、同語源の言葉といえます。

そして、北欧神話では、太陽は女神であり、月は男神でした。北欧の神話ではこの傾向が強いのですが、これが南欧に移動すると、同じ名前であっても太陽は男性形となります。

一方、日本には古い時代から、犬神憑きという呪法が存在しました。邪法とされて、平安時代に禁令が出されたりしているそうですから、起源はかなり古いといえます。その方法は残酷なもので、犬を首まで地面に埋めて、目の前に餌を置き、飢えさせて死ぬ直前に首を跳ねる、というものでした。そうすると、餌を食べたい頭部は餌に食いついて死に、それを焼いて祀ると、願いが叶う、とされたそうです。そして、犬神に憑かれると、情緒不安定な人間になり、犬のように吠え、ものすごい大食漢になる、とされていたそうです。現代的には楽しい呪法ではありませんが、「狩った首を護符とする」という点は、首狩り族の習慣と一致します。また、「なんでも食べてしまう」という点は、饕餮的な性質ともいえますし、北欧神話の狼とも一致した性質です。そして、首を跳ねられて、鬼神に変化するところは蚩尤の性質と言えます。一方、犬の肉を食べると精がつく、とか多産に結びつく、とか犬を食べる文化ではそう言われます。要するに「犬神(狼)信仰」とは、豊穣や多産をもたらすときは「地」の属性で「女性」であり、男性形の「地」としても大切にされているところは蚩尤的であり、首だけの存在になると、人の願いを叶えてくれるけれども、祟り神でもある、ということは饕餮的である、と思うのです。なんだか、まるで、ゲームのルールや星占いの結果のように、「こういう場合はこう」と決められすぎている気がするのです。そして、彼らの役割は、北欧神話の狼のように、太陽と月を捕まえることでした。なんだか、「太陽と月」を捕まえたい誰かが、そういうルールを作って、「犬」の階級に定めた人々に実行させているのだろうか、とそんな気がするわけです。だから、「犬を連れた人(=犬が自分の象徴であると主張する人々)」が周りをうろうろするのかなあ、と思ったのでした。

本日の日誌

昨夜は何だか夢を見て。小瀧さんちののんちゃんが出てくる夢だったような?? 作業の方は、だいたいいつもの通りであって。午後は雨が降ってできなかったのでした。

でもって、「何かしょぼい文章きたーーー」ということがあって。工務店の代理人弁護士を名乗る人から、「訴訟で問題を解決するので、いろいろな報告文書を送ってくるのをやめろ」とかって言ってきているわけで。そもそも「訴状が届くのに何ヶ月かかるのか??」という突っ込みがいくわけですがー;。時効の中断を目的とした文章の送付を遠慮しろとか、債務者から言われる筋合いがそもそもないんだが??@@ と思うわけで。なんだか、もう、回収の見込みがないので、文字数も郵便代もケチりたい。土建屋の従兄弟の名前も、設計監理士の名前も出したくない、代理人弁護士も関わりたくない、という匂いがプンプンするわけでー;。土建屋の従兄弟は、「自分の名前が出されたくないーー」と言ってくる気がするわけでー;。これもまた「詐欺で損害賠償を請求するよ」って、訴訟を起こされたら、そう言わなきゃあ、と思うのでした。(でもその機会がそもそもあるかどうかが?? なわけですが。というか、多分ないんだろうな。時効の中断を目的として契約内容の履行の請求をしているのに、それを妨害したらそれも「不法行為」になるわけだし。)なんだろう、そんなにお金をケチりたければ、普通郵便かFAXにすれば良いのに?? となんとなく思うわけですが-;。

で、こういうことがよくよくわかっていて送ってくる理由は、羊の王様の肉を食べちゃったりとか、学習に必要な文献を買ったりしているからだ、と思うわけで。今日、「中国の神話」という本を買ったわけです。これは、中学生の頃に図書館にあった気がするわけで。(でなければ、高校の時に市立図書館で読んだのかもだけれど。)ヨーロッパの神話も、インドの神話も読んだけれども、中国の神話は読んでいなくて。当時はあまり興味を感じなかったわけですが。今見ると、前書きに、苗族の人達の写真が載っている、ナシ族の東巴文字が載っている、という具合であって。苗族は、「雷神と戦った」という伝承を持つ人々で、実際そういう歴史をお持ちなのだと思う。ナシ族は、母系の文化の色濃い人々で、特に中でもモソ族と呼ばれる姉さん達は、曹家の女性と協力して、自分たちの生活がどういうものであるのかを届けてくれたのだし。そういうものを見て、私はなんで、学生時代にもっと真面目にこの本を読まなかったんだろう? と思ったのですが。これからどうしても夜が長い期間が増えるので、少しずつ勉強できていったら、と思うわけです。

それから、今日は他にも不思議なことがあって。「石の羊」の民話が載っている古本を買ったのですが、それにお手紙が添えられていて。読んだら、「広告文になかった汚れがあるので、切手で割引させて頂きます。」とあって。別にそれほど気にしないのにー、と思う。500円ちょっとの本を買って、140円も割引いて貰うのは申し訳ない、と思ったのですが。不思議なことに、送られてきた切手は戌年のお正月の懸賞の切手であって。なんでわざわざ戌年のものを送ってきたんだろう? と思う。そうしたら「切手」というのは、文字通り「切り落とした手」のことなので。それは「切り落とした犬の手」の意味だから、それを使って自分のために役立てなさい、ということなんじゃないの、と言われる気がするわけで。要するに、限定モノだから、ってとっておくのではなくて、積極的に使ってしまわなければいけないものなんだねえ? と思う。というわけで、親に渡しておいたわけで。

そして、そもそも某知り合いの酒屋に「○に大」の字がベタベタと貼ってあるでしょ。「大」に「神」と書いてなんと読むの? と6番目の子に言われる気がするわけで@@。「大神=狼」ってこと?? と思う。では昔あった「大文字一揆」の「大」も「大神」ってこと?? と思う。なんというか、みんな自分の正体は隠してる、隠してるけれども、どこかに本性を現してる、ってそういうこと?? と思う。でもって、羌族は「下級の神々」の象徴を水晶としている、とのことで、「水晶とは、基本的には酷使できる下級の神々のこと」と言われる気がするわけで。でも、狼も「白い狼」だし、羊も「白い羊」だし、関係なくはないよね? と思う。

「アマテラスの原像」もけっこう楽しく読んでいるわけで。第1章は「マハーバーラタ」が、父権的かつ排他的な印欧語族の文化の中での物語なのに、何故その中に「一妻多夫」が登場するのか、ということを書いてあって。それは、ドラウパティー姫の5人の夫である王子達が、インド・イラン系の人々の古い身分関係を象徴しており、姫はそのどの身分に対しても「大母」として関わっているため、という説明なのかなあ、と思う。彼らの基本的な身分秩序とは、祭祀者である王、戦士階級、庶民階級、と分かれるわけで、これはインド・イラン系の古い秩序でも、西欧の古い秩序でもほぼ同様です。ギリシャでは、身分秩序が、貴族、庶民、外国人、奴隷、となっており、「神官」の位置づけが曖昧ですが、決して低くはなかったと思う。貴族階級は、戦士階級のことであり、その下の庶民階級は、一般的な庶民(祖神は貴族階級と同様の人々)、外国人(祖神が異なる人々)、奴隷(おそらく祖神が異なる上に、戦争における敗者等であった人達)ということになります。普通の庶民階級の人々は貴族階級に準じる権利を持ち、その一方で外国人や奴隷が庶民階級以上の人々と同様の権利を得るには、一定の定めが必要でした。「マハーバーラタ」の中の5王子は、「庶民階級」に相当する下の二人が、上の兄達に従順であることが理想とされる一方、兄さん達の仕事が忙しいときには兄の仕事の代理を務めたりしていますから、庶民以上の身分秩序はそれほどガチガチなものではなく、ある程度は流動的であったことが示唆されます。この5人の王子は「パーンダヴァ兄弟」と呼ばれています。この名前も興味深いのですが、ドラウパティー姫が、彼らと対になる「大母」の象徴であるとすると、「マハーバーラタ」の世界秩序は、スパルタのように男性と男性が結婚する、という極端に男系的なものではなくて、男性と女性が対になる世界観が維持されつつ、男性の方に父系の秩序、女性の方に母系の秩序が投影されている折衷的なものといえます。黄河文明でいうと、仰韶文化から龍山文化に移行するあたりの文化の思想と一致するといえそうです。

また、古い時代のヴァルナの祭祀は、その役を性的不能者が行わなければならない、とされていたようです。後の時代のイラン側の神話であるゾロアスターでは、アナーヒタ女神がヴァルナの娘でもあり、妻でもある、とされていますので、イラン側では時代が下るにつれて、ヴァルナの男性としての機能が復活されるようになったのだと思われますが、古い時代はヴァルナは「去勢した神」であったようです。これはギリシャ神話でヴァルナに相当するウラノスが戦いの際に「男根を切り落とされた」とされることと相関します。彼らは共通して男根を失わなければならない理由が何かあったのです。ギリシャ神話において、ウラノスが男根を失った理由は、男神が「天」で、女神が「地」であった場合、彼らが睦まじくして万物が誕生する、ということは天と地が交合する、ということになります。男女の交わりの混沌とした祭祀から世界から誕生するわけですが、天地がいつまでも結びついていて混沌としていると地上に住まう者が迷惑します。そのため、ギリシャ神話では、ウラノスの去勢は「天と地」を切り離して混沌を排除するもの、の象徴として語られている、と説明されます。でも、それはちょっとおかしくないですか? ということになります。男性が去勢されてしまったら、夫婦の間からは、それ以後新しい命が生まれなくなります。もし女性が「天」であり、男性が「地」であったとしたら、「天と地の結合が解かれる」とはどういうことなのか? となります。それは、要するに「萎える」ということになります。すなわち、男性が「地」であれば、自然現象では「高い山」とか「樹木」が天と交わる「男性の象徴」となります。すなわち、ウラノスやヴァルナが「去勢」されねばならなかったのは、天と地の役割をある時点で強引に入れ替えてしまったために、そうせざるをえなかった、ということなのではないでしょうか? 一方、同じインドの神話でも、男女の交わりと豊穣を結びつけて重要視するシヴァとパールヴァティーの思想では、今でも男性の側が「地」として現されるように思います。要するに、「マハーバーラタ」における父系のアーリア的文化にふさわしからぬ「一妻多夫」の存在は、物語の起源が、印欧語族の先祖そのものが母系から父系に移行する過渡期にあったから、とすることができると思うのです。時代が下ると、より父系の文化が強くなるので、女性が複数の夫を持つことは、恥ずべきこととされるようになり、「マハーバーラタ」の設定との間に文化的矛盾が生じてくることになったのでしょう。

また、「マハーバーラタ」の中には「寡婦殉死」の描写が出てきます。これは文字通りに解釈すれば、「妻としての女性は夫が亡くなったら殉死しなければならない」ということになります。マハーバーラタに登場する5人の王子は、祭祀者と戦士階級を象徴する上3人の母はクンティーといい、庶民階級を象徴する下の二人の母は別の女性とされています。おそらく、こちらの女性の方が「身分が低い」とされていたのでしょう。5兄弟の父親が亡くなった時に、身分の低い妻は、夫の供をして殉死しました。しかしクンティーの方は殉死せず、残された5王子を育てて、彼らの後見をしながら王の残した国を守ることになります。印欧語族の「寡婦殉死」というものはけっこう曖昧で、北欧では「王が亡くなった時に、奴隷の女性が供をすると、あの世で王の妻になれる」と言われていました。トラキアでは、「夫から一番愛された妻」が供をすることになっていました。身分が高く、妻を何人も持てる男性であれば、「供をする妻」をあらかじめ用意可能であったともいえます。「マハーバーラタ」の寡婦殉死も厳密なものではなく、トラキア的なものであった、といえます。そして、あまりはっきりとは書かれていませんが、母親の身分が子供の身分に投影されるのは、母系の文化の影響と考えられます。しかも、殉死しない方の妻の「クンティー」という名は、「熊」を意味しますので、印欧語族のごく古い時代の血族に「母系の熊トーテムの人々」が入り込んで混血習合しており、そちらの側での文化では「寡婦殉死」は否定されている、ということがうかがえます。そもそも「クンティー」という名前が、アナト、アナーヒタと同じ子音を持つ、同語源の言葉といえます。

そして、北欧神話では、太陽は女神であり、月は男神でした。北欧の神話ではこの傾向が強いのですが、これが南欧に移動すると、同じ名前であっても太陽は男性形となります。

一方、日本には古い時代から、犬神憑きという呪法が存在しました。邪法とされて、平安時代に禁令が出されたりしているそうですから、起源はかなり古いといえます。その方法は残酷なもので、犬を首まで地面に埋めて、目の前に餌を置き、飢えさせて死ぬ直前に首を跳ねる、というものでした。そうすると、餌を食べたい頭部は餌に食いついて死に、それを焼いて祀ると、願いが叶う、とされたそうです。そして、犬神に憑かれると、情緒不安定な人間になり、犬のように吠え、ものすごい大食漢になる、とされていたそうです。現代的には楽しい呪法ではありませんが、「狩った首を護符とする」という点は、首狩り族の習慣と一致します。また、「なんでも食べてしまう」という点は、饕餮的な性質ともいえますし、北欧神話の狼とも一致した性質です。そして、首を跳ねられて、鬼神に変化するところは蚩尤の性質と言えます。一方、犬の肉を食べると精がつく、とか多産に結びつく、とか犬を食べる文化ではそう言われます。要するに「犬神(狼)信仰」とは、豊穣や多産をもたらすときは「地」の属性で「女性」であり、男性形の「地」としても大切にされているところは蚩尤的であり、首だけの存在になると、人の願いを叶えてくれるけれども、祟り神でもある、ということは饕餮的である、と思うのです。なんだか、まるで、ゲームのルールや星占いの結果のように、「こういう場合はこう」と決められすぎている気がするのです。そして、彼らの役割は、北欧神話の狼のように、太陽と月を捕まえることでした。なんだか、「太陽と月」を捕まえたい誰かが、そういうルールを作って、「犬」の階級に定めた人々に実行させているのだろうか、とそんな気がするわけです。だから、「犬を連れた人(=犬が自分の象徴であると主張する人々)」が周りをうろうろするのかなあ、と思ったのでした。