本日の日誌

昨夜は何だか夢を見て。小瀧さんちののんちゃんが出てくる夢だったような?? 作業の方は、だいたいいつもの通りであって。午後は雨が降ってできなかったのでした。

でもって、「何かしょぼい文章きたーーー」ということがあって。工務店の代理人弁護士を名乗る人から、「訴訟で問題を解決するので、いろいろな報告文書を送ってくるのをやめろ」とかって言ってきているわけで。そもそも「訴状が届くのに何ヶ月かかるのか??」という突っ込みがいくわけですがー;。時効の中断を目的とした文章の送付を遠慮しろとか、債務者から言われる筋合いがそもそもないんだが??@@ と思うわけで。なんだか、もう、回収の見込みがないので、文字数も郵便代もケチりたい。土建屋の従兄弟の名前も、設計監理士の名前も出したくない、代理人弁護士も関わりたくない、という匂いがプンプンするわけでー;。土建屋の従兄弟は、「自分の名前が出されたくないーー」と言ってくる気がするわけでー;。これもまた「詐欺で損害賠償を請求するよ」って、訴訟を起こされたら、そう言わなきゃあ、と思うのでした。(でもその機会がそもそもあるかどうかが?? なわけですが。というか、多分ないんだろうな。時効の中断を目的として契約内容の履行の請求をしているのに、それを妨害したらそれも「不法行為」になるわけだし。)なんだろう、そんなにお金をケチりたければ、普通郵便かFAXにすれば良いのに?? となんとなく思うわけですが-;。

で、こういうことがよくよくわかっていて送ってくる理由は、羊の王様の肉を食べちゃったりとか、学習に必要な文献を買ったりしているからだ、と思うわけで。今日、「中国の神話」という本を買ったわけです。これは、中学生の頃に図書館にあった気がするわけで。(でなければ、高校の時に市立図書館で読んだのかもだけれど。)ヨーロッパの神話も、インドの神話も読んだけれども、中国の神話は読んでいなくて。当時はあまり興味を感じなかったわけですが。今見ると、前書きに、苗族の人達の写真が載っている、ナシ族の東巴文字が載っている、という具合であって。苗族は、「雷神と戦った」という伝承を持つ人々で、実際そういう歴史をお持ちなのだと思う。ナシ族は、母系の文化の色濃い人々で、特に中でもモソ族と呼ばれる姉さん達は、曹家の女性と協力して、自分たちの生活がどういうものであるのかを届けてくれたのだし。そういうものを見て、私はなんで、学生時代にもっと真面目にこの本を読まなかったんだろう? と思ったのですが。これからどうしても夜が長い期間が増えるので、少しずつ勉強できていったら、と思うわけです。

それから、今日は他にも不思議なことがあって。「石の羊」の民話が載っている古本を買ったのですが、それにお手紙が添えられていて。読んだら、「広告文になかった汚れがあるので、切手で割引させて頂きます。」とあって。別にそれほど気にしないのにー、と思う。500円ちょっとの本を買って、140円も割引いて貰うのは申し訳ない、と思ったのですが。不思議なことに、送られてきた切手は戌年のお正月の懸賞の切手であって。なんでわざわざ戌年のものを送ってきたんだろう? と思う。そうしたら「切手」というのは、文字通り「切り落とした手」のことなので。それは「切り落とした犬の手」の意味だから、それを使って自分のために役立てなさい、ということなんじゃないの、と言われる気がするわけで。要するに、限定モノだから、ってとっておくのではなくて、積極的に使ってしまわなければいけないものなんだねえ? と思う。というわけで、親に渡しておいたわけで。

そして、そもそも某知り合いの酒屋に「○に大」の字がベタベタと貼ってあるでしょ。「大」に「神」と書いてなんと読むの? と6番目の子に言われる気がするわけで@@。「大神=狼」ってこと?? と思う。では昔あった「大文字一揆」の「大」も「大神」ってこと?? と思う。なんというか、みんな自分の正体は隠してる、隠してるけれども、どこかに本性を現してる、ってそういうこと?? と思う。でもって、羌族は「下級の神々」の象徴を水晶としている、とのことで、「水晶とは、基本的には酷使できる下級の神々のこと」と言われる気がするわけで。でも、狼も「白い狼」だし、羊も「白い羊」だし、関係なくはないよね? と思う。

「アマテラスの原像」もけっこう楽しく読んでいるわけで。第1章は「マハーバーラタ」が、父権的かつ排他的な印欧語族の文化の中での物語なのに、何故その中に「一妻多夫」が登場するのか、ということを書いてあって。それは、ドラウパティー姫の5人の夫である王子達が、インド・イラン系の人々の古い身分関係を象徴しており、姫はそのどの身分に対しても「大母」として関わっているため、という説明なのかなあ、と思う。彼らの基本的な身分秩序とは、祭祀者である王、戦士階級、庶民階級、と分かれるわけで、これはインド・イラン系の古い秩序でも、西欧の古い秩序でもほぼ同様です。ギリシャでは、身分秩序が、貴族、庶民、外国人、奴隷、となっており、「神官」の位置づけが曖昧ですが、決して低くはなかったと思う。貴族階級は、戦士階級のことであり、その下の庶民階級は、一般的な庶民(祖神は貴族階級と同様の人々)、外国人(祖神が異なる人々)、奴隷(おそらく祖神が異なる上に、戦争における敗者等であった人達)ということになります。普通の庶民階級の人々は貴族階級に準じる権利を持ち、その一方で外国人や奴隷が庶民階級以上の人々と同様の権利を得るには、一定の定めが必要でした。「マハーバーラタ」の中の5王子は、「庶民階級」に相当する下の二人が、上の兄達に従順であることが理想とされる一方、兄さん達の仕事が忙しいときには兄の仕事の代理を務めたりしていますから、庶民以上の身分秩序はそれほどガチガチなものではなく、ある程度は流動的であったことが示唆されます。この5人の王子は「パーンダヴァ兄弟」と呼ばれています。この名前も興味深いのですが、ドラウパティー姫が、彼らと対になる「大母」の象徴であるとすると、「マハーバーラタ」の世界秩序は、スパルタのように男性と男性が結婚する、という極端に男系的なものではなくて、男性と女性が対になる世界観が維持されつつ、男性の方に父系の秩序、女性の方に母系の秩序が投影されている折衷的なものといえます。黄河文明でいうと、仰韶文化から龍山文化に移行するあたりの文化の思想と一致するといえそうです。

また、古い時代のヴァルナの祭祀は、その役を性的不能者が行わなければならない、とされていたようです。後の時代のイラン側の神話であるゾロアスターでは、アナーヒタ女神がヴァルナの娘でもあり、妻でもある、とされていますので、イラン側では時代が下るにつれて、ヴァルナの男性としての機能が復活されるようになったのだと思われますが、古い時代はヴァルナは「去勢した神」であったようです。これはギリシャ神話でヴァルナに相当するウラノスが戦いの際に「男根を切り落とされた」とされることと相関します。彼らは共通して男根を失わなければならない理由が何かあったのです。ギリシャ神話において、ウラノスが男根を失った理由は、男神が「天」で、女神が「地」であった場合、彼らが睦まじくして万物が誕生する、ということは天と地が交合する、ということになります。男女の交わりの混沌とした祭祀から世界から誕生するわけですが、天地がいつまでも結びついていて混沌としていると地上に住まう者が迷惑します。そのため、ギリシャ神話では、ウラノスの去勢は「天と地」を切り離して混沌を排除するもの、の象徴として語られている、と説明されます。でも、それはちょっとおかしくないですか? ということになります。男性が去勢されてしまったら、夫婦の間からは、それ以後新しい命が生まれなくなります。もし女性が「天」であり、男性が「地」であったとしたら、「天と地の結合が解かれる」とはどういうことなのか? となります。それは、要するに「萎える」ということになります。すなわち、男性が「地」であれば、自然現象では「高い山」とか「樹木」が天と交わる「男性の象徴」となります。すなわち、ウラノスやヴァルナが「去勢」されねばならなかったのは、天と地の役割をある時点で強引に入れ替えてしまったために、そうせざるをえなかった、ということなのではないでしょうか? 一方、同じインドの神話でも、男女の交わりと豊穣を結びつけて重要視するシヴァとパールヴァティーの思想では、今でも男性の側が「地」として現されるように思います。要するに、「マハーバーラタ」における父系のアーリア的文化にふさわしからぬ「一妻多夫」の存在は、物語の起源が、印欧語族の先祖そのものが母系から父系に移行する過渡期にあったから、とすることができると思うのです。時代が下ると、より父系の文化が強くなるので、女性が複数の夫を持つことは、恥ずべきこととされるようになり、「マハーバーラタ」の設定との間に文化的矛盾が生じてくることになったのでしょう。

また、「マハーバーラタ」の中には「寡婦殉死」の描写が出てきます。これは文字通りに解釈すれば、「妻としての女性は夫が亡くなったら殉死しなければならない」ということになります。マハーバーラタに登場する5人の王子は、祭祀者と戦士階級を象徴する上3人の母はクンティーといい、庶民階級を象徴する下の二人の母は別の女性とされています。おそらく、こちらの女性の方が「身分が低い」とされていたのでしょう。5兄弟の父親が亡くなった時に、身分の低い妻は、夫の供をして殉死しました。しかしクンティーの方は殉死せず、残された5王子を育てて、彼らの後見をしながら王の残した国を守ることになります。印欧語族の「寡婦殉死」というものはけっこう曖昧で、北欧では「王が亡くなった時に、奴隷の女性が供をすると、あの世で王の妻になれる」と言われていました。トラキアでは、「夫から一番愛された妻」が供をすることになっていました。身分が高く、妻を何人も持てる男性であれば、「供をする妻」をあらかじめ用意可能であったともいえます。「マハーバーラタ」の寡婦殉死も厳密なものではなく、トラキア的なものであった、といえます。そして、あまりはっきりとは書かれていませんが、母親の身分が子供の身分に投影されるのは、母系の文化の影響と考えられます。しかも、殉死しない方の妻の「クンティー」という名は、「熊」を意味しますので、印欧語族のごく古い時代の血族に「母系の熊トーテムの人々」が入り込んで混血習合しており、そちらの側での文化では「寡婦殉死」は否定されている、ということがうかがえます。そもそも「クンティー」という名前が、アナト、アナーヒタと同じ子音を持つ、同語源の言葉といえます。

そして、北欧神話では、太陽は女神であり、月は男神でした。北欧の神話ではこの傾向が強いのですが、これが南欧に移動すると、同じ名前であっても太陽は男性形となります。

一方、日本には古い時代から、犬神憑きという呪法が存在しました。邪法とされて、平安時代に禁令が出されたりしているそうですから、起源はかなり古いといえます。その方法は残酷なもので、犬を首まで地面に埋めて、目の前に餌を置き、飢えさせて死ぬ直前に首を跳ねる、というものでした。そうすると、餌を食べたい頭部は餌に食いついて死に、それを焼いて祀ると、願いが叶う、とされたそうです。そして、犬神に憑かれると、情緒不安定な人間になり、犬のように吠え、ものすごい大食漢になる、とされていたそうです。現代的には楽しい呪法ではありませんが、「狩った首を護符とする」という点は、首狩り族の習慣と一致します。また、「なんでも食べてしまう」という点は、饕餮的な性質ともいえますし、北欧神話の狼とも一致した性質です。そして、首を跳ねられて、鬼神に変化するところは蚩尤の性質と言えます。一方、犬の肉を食べると精がつく、とか多産に結びつく、とか犬を食べる文化ではそう言われます。要するに「犬神(狼)信仰」とは、豊穣や多産をもたらすときは「地」の属性で「女性」であり、男性形の「地」としても大切にされているところは蚩尤的であり、首だけの存在になると、人の願いを叶えてくれるけれども、祟り神でもある、ということは饕餮的である、と思うのです。なんだか、まるで、ゲームのルールや星占いの結果のように、「こういう場合はこう」と決められすぎている気がするのです。そして、彼らの役割は、北欧神話の狼のように、太陽と月を捕まえることでした。なんだか、「太陽と月」を捕まえたい誰かが、そういうルールを作って、「犬」の階級に定めた人々に実行させているのだろうか、とそんな気がするわけです。だから、「犬を連れた人(=犬が自分の象徴であると主張する人々)」が周りをうろうろするのかなあ、と思ったのでした。

本日の日誌

昨夜は何だか夢を見て。小瀧さんちののんちゃんが出てくる夢だったような?? 作業の方は、だいたいいつもの通りであって。午後は雨が降ってできなかったのでした。

でもって、「何かしょぼい文章きたーーー」ということがあって。工務店の代理人弁護士を名乗る人から、「訴訟で問題を解決するので、いろいろな報告文書を送ってくるのをやめろ」とかって言ってきているわけで。そもそも「訴状が届くのに何ヶ月かかるのか??」という突っ込みがいくわけですがー;。時効の中断を目的とした文章の送付を遠慮しろとか、債務者から言われる筋合いがそもそもないんだが??@@ と思うわけで。なんだか、もう、回収の見込みがないので、文字数も郵便代もケチりたい。土建屋の従兄弟の名前も、設計監理士の名前も出したくない、代理人弁護士も関わりたくない、という匂いがプンプンするわけでー;。土建屋の従兄弟は、「自分の名前が出されたくないーー」と言ってくる気がするわけでー;。これもまた「詐欺で損害賠償を請求するよ」って、訴訟を起こされたら、そう言わなきゃあ、と思うのでした。(でもその機会がそもそもあるかどうかが?? なわけですが。というか、多分ないんだろうな。時効の中断を目的として契約内容の履行の請求をしているのに、それを妨害したらそれも「不法行為」になるわけだし。)なんだろう、そんなにお金をケチりたければ、普通郵便かFAXにすれば良いのに?? となんとなく思うわけですが-;。

で、こういうことがよくよくわかっていて送ってくる理由は、羊の王様の肉を食べちゃったりとか、学習に必要な文献を買ったりしているからだ、と思うわけで。今日、「中国の神話」という本を買ったわけです。これは、中学生の頃に図書館にあった気がするわけで。(でなければ、高校の時に市立図書館で読んだのかもだけれど。)ヨーロッパの神話も、インドの神話も読んだけれども、中国の神話は読んでいなくて。当時はあまり興味を感じなかったわけですが。今見ると、前書きに、苗族の人達の写真が載っている、ナシ族の東巴文字が載っている、という具合であって。苗族は、「雷神と戦った」という伝承を持つ人々で、実際そういう歴史をお持ちなのだと思う。ナシ族は、母系の文化の色濃い人々で、特に中でもモソ族と呼ばれる姉さん達は、曹家の女性と協力して、自分たちの生活がどういうものであるのかを届けてくれたのだし。そういうものを見て、私はなんで、学生時代にもっと真面目にこの本を読まなかったんだろう? と思ったのですが。これからどうしても夜が長い期間が増えるので、少しずつ勉強できていったら、と思うわけです。

それから、今日は他にも不思議なことがあって。「石の羊」の民話が載っている古本を買ったのですが、それにお手紙が添えられていて。読んだら、「広告文になかった汚れがあるので、切手で割引させて頂きます。」とあって。別にそれほど気にしないのにー、と思う。500円ちょっとの本を買って、140円も割引いて貰うのは申し訳ない、と思ったのですが。不思議なことに、送られてきた切手は戌年のお正月の懸賞の切手であって。なんでわざわざ戌年のものを送ってきたんだろう? と思う。そうしたら「切手」というのは、文字通り「切り落とした手」のことなので。それは「切り落とした犬の手」の意味だから、それを使って自分のために役立てなさい、ということなんじゃないの、と言われる気がするわけで。要するに、限定モノだから、ってとっておくのではなくて、積極的に使ってしまわなければいけないものなんだねえ? と思う。というわけで、親に渡しておいたわけで。

そして、そもそも某知り合いの酒屋に「○に大」の字がベタベタと貼ってあるでしょ。「大」に「神」と書いてなんと読むの? と6番目の子に言われる気がするわけで@@。「大神=狼」ってこと?? と思う。では昔あった「大文字一揆」の「大」も「大神」ってこと?? と思う。なんというか、みんな自分の正体は隠してる、隠してるけれども、どこかに本性を現してる、ってそういうこと?? と思う。でもって、羌族は「下級の神々」の象徴を水晶としている、とのことで、「水晶とは、基本的には酷使できる下級の神々のこと」と言われる気がするわけで。でも、狼も「白い狼」だし、羊も「白い羊」だし、関係なくはないよね? と思う。

「アマテラスの原像」もけっこう楽しく読んでいるわけで。第1章は「マハーバーラタ」が、父権的かつ排他的な印欧語族の文化の中での物語なのに、何故その中に「一妻多夫」が登場するのか、ということを書いてあって。それは、ドラウパティー姫の5人の夫である王子達が、インド・イラン系の人々の古い身分関係を象徴しており、姫はそのどの身分に対しても「大母」として関わっているため、という説明なのかなあ、と思う。彼らの基本的な身分秩序とは、祭祀者である王、戦士階級、庶民階級、と分かれるわけで、これはインド・イラン系の古い秩序でも、西欧の古い秩序でもほぼ同様です。ギリシャでは、身分秩序が、貴族、庶民、外国人、奴隷、となっており、「神官」の位置づけが曖昧ですが、決して低くはなかったと思う。貴族階級は、戦士階級のことであり、その下の庶民階級は、一般的な庶民(祖神は貴族階級と同様の人々)、外国人(祖神が異なる人々)、奴隷(おそらく祖神が異なる上に、戦争における敗者等であった人達)ということになります。普通の庶民階級の人々は貴族階級に準じる権利を持ち、その一方で外国人や奴隷が庶民階級以上の人々と同様の権利を得るには、一定の定めが必要でした。「マハーバーラタ」の中の5王子は、「庶民階級」に相当する下の二人が、上の兄達に従順であることが理想とされる一方、兄さん達の仕事が忙しいときには兄の仕事の代理を務めたりしていますから、庶民以上の身分秩序はそれほどガチガチなものではなく、ある程度は流動的であったことが示唆されます。この5人の王子は「パーンダヴァ兄弟」と呼ばれています。この名前も興味深いのですが、ドラウパティー姫が、彼らと対になる「大母」の象徴であるとすると、「マハーバーラタ」の世界秩序は、スパルタのように男性と男性が結婚する、という極端に男系的なものではなくて、男性と女性が対になる世界観が維持されつつ、男性の方に父系の秩序、女性の方に母系の秩序が投影されている折衷的なものといえます。黄河文明でいうと、仰韶文化から龍山文化に移行するあたりの文化の思想と一致するといえそうです。

また、古い時代のヴァルナの祭祀は、その役を性的不能者が行わなければならない、とされていたようです。後の時代のイラン側の神話であるゾロアスターでは、アナーヒタ女神がヴァルナの娘でもあり、妻でもある、とされていますので、イラン側では時代が下るにつれて、ヴァルナの男性としての機能が復活されるようになったのだと思われますが、古い時代はヴァルナは「去勢した神」であったようです。これはギリシャ神話でヴァルナに相当するウラノスが戦いの際に「男根を切り落とされた」とされることと相関します。彼らは共通して男根を失わなければならない理由が何かあったのです。ギリシャ神話において、ウラノスが男根を失った理由は、男神が「天」で、女神が「地」であった場合、彼らが睦まじくして万物が誕生する、ということは天と地が交合する、ということになります。男女の交わりの混沌とした祭祀から世界から誕生するわけですが、天地がいつまでも結びついていて混沌としていると地上に住まう者が迷惑します。そのため、ギリシャ神話では、ウラノスの去勢は「天と地」を切り離して混沌を排除するもの、の象徴として語られている、と説明されます。でも、それはちょっとおかしくないですか? ということになります。男性が去勢されてしまったら、夫婦の間からは、それ以後新しい命が生まれなくなります。もし女性が「天」であり、男性が「地」であったとしたら、「天と地の結合が解かれる」とはどういうことなのか? となります。それは、要するに「萎える」ということになります。すなわち、男性が「地」であれば、自然現象では「高い山」とか「樹木」が天と交わる「男性の象徴」となります。すなわち、ウラノスやヴァルナが「去勢」されねばならなかったのは、天と地の役割をある時点で強引に入れ替えてしまったために、そうせざるをえなかった、ということなのではないでしょうか? 一方、同じインドの神話でも、男女の交わりと豊穣を結びつけて重要視するシヴァとパールヴァティーの思想では、今でも男性の側が「地」として現されるように思います。要するに、「マハーバーラタ」における父系のアーリア的文化にふさわしからぬ「一妻多夫」の存在は、物語の起源が、印欧語族の先祖そのものが母系から父系に移行する過渡期にあったから、とすることができると思うのです。時代が下ると、より父系の文化が強くなるので、女性が複数の夫を持つことは、恥ずべきこととされるようになり、「マハーバーラタ」の設定との間に文化的矛盾が生じてくることになったのでしょう。

また、「マハーバーラタ」の中には「寡婦殉死」の描写が出てきます。これは文字通りに解釈すれば、「妻としての女性は夫が亡くなったら殉死しなければならない」ということになります。マハーバーラタに登場する5人の王子は、祭祀者と戦士階級を象徴する上3人の母はクンティーといい、庶民階級を象徴する下の二人の母は別の女性とされています。おそらく、こちらの女性の方が「身分が低い」とされていたのでしょう。5兄弟の父親が亡くなった時に、身分の低い妻は、夫の供をして殉死しました。しかしクンティーの方は殉死せず、残された5王子を育てて、彼らの後見をしながら王の残した国を守ることになります。印欧語族の「寡婦殉死」というものはけっこう曖昧で、北欧では「王が亡くなった時に、奴隷の女性が供をすると、あの世で王の妻になれる」と言われていました。トラキアでは、「夫から一番愛された妻」が供をすることになっていました。身分が高く、妻を何人も持てる男性であれば、「供をする妻」をあらかじめ用意可能であったともいえます。「マハーバーラタ」の寡婦殉死も厳密なものではなく、トラキア的なものであった、といえます。そして、あまりはっきりとは書かれていませんが、母親の身分が子供の身分に投影されるのは、母系の文化の影響と考えられます。しかも、殉死しない方の妻の「クンティー」という名は、「熊」を意味しますので、印欧語族のごく古い時代の血族に「母系の熊トーテムの人々」が入り込んで混血習合しており、そちらの側での文化では「寡婦殉死」は否定されている、ということがうかがえます。そもそも「クンティー」という名前が、アナト、アナーヒタと同じ子音を持つ、同語源の言葉といえます。

そして、北欧神話では、太陽は女神であり、月は男神でした。北欧の神話ではこの傾向が強いのですが、これが南欧に移動すると、同じ名前であっても太陽は男性形となります。

一方、日本には古い時代から、犬神憑きという呪法が存在しました。邪法とされて、平安時代に禁令が出されたりしているそうですから、起源はかなり古いといえます。その方法は残酷なもので、犬を首まで地面に埋めて、目の前に餌を置き、飢えさせて死ぬ直前に首を跳ねる、というものでした。そうすると、餌を食べたい頭部は餌に食いついて死に、それを焼いて祀ると、願いが叶う、とされたそうです。そして、犬神に憑かれると、情緒不安定な人間になり、犬のように吠え、ものすごい大食漢になる、とされていたそうです。現代的には楽しい呪法ではありませんが、「狩った首を護符とする」という点は、首狩り族の習慣と一致します。また、「なんでも食べてしまう」という点は、饕餮的な性質ともいえますし、北欧神話の狼とも一致した性質です。そして、首を跳ねられて、鬼神に変化するところは蚩尤の性質と言えます。一方、犬の肉を食べると精がつく、とか多産に結びつく、とか犬を食べる文化ではそう言われます。要するに「犬神(狼)信仰」とは、豊穣や多産をもたらすときは「地」の属性で「女性」であり、男性形の「地」としても大切にされているところは蚩尤的であり、首だけの存在になると、人の願いを叶えてくれるけれども、祟り神でもある、ということは饕餮的である、と思うのです。なんだか、まるで、ゲームのルールや星占いの結果のように、「こういう場合はこう」と決められすぎている気がするのです。そして、彼らの役割は、北欧神話の狼のように、太陽と月を捕まえることでした。なんだか、「太陽と月」を捕まえたい誰かが、そういうルールを作って、「犬」の階級に定めた人々に実行させているのだろうか、とそんな気がするわけです。だから、「犬を連れた人(=犬が自分の象徴であると主張する人々)」が周りをうろうろするのかなあ、と思ったのでした。