本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はそこそこであって。今日は、コンクリートガラがたくさん出た気がします。

蚩尤(しゆう)とは、「中国神話に登場する神である。『路史』では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされる。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる。 古代中国の帝であった黄帝から王座を奪うという野望を持っており神農氏の世の末期(帝楡罔の代)に、乱を起こして、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風・雨・煙・霧などを巻き起こして黄帝と?鹿の野に戦った(?鹿の戦い)。濃霧を起こして視界を悪くしたり魑魅魍魎たちを駆使して黄帝の軍勢を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示して霧を突破し、妖怪たちのおそれる龍の鳴き声に似た音を角笛などを使って響かせてひるませ、軍を押し進めて遂にこれを捕え殺したといわれている。『山海経』大荒北経に記されている黄帝による蚩尤との交戦の描写には具体的な龍としては応竜が黄帝に加勢しており、蚩尤を殺したとされている。最後に捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。(Wikipediaより)」ということです。「牛の頭」というのを「水牛の頭」と置き換えると、チベット高原由来の母系の水稲耕作文化においては、太陽女神の「夫」に相当する神といえます。また、「古代中国の鼎(かなえ)に文様として描かれている怪物のような顔は饕餮(とうてつ)を示したものとされることが多いが、この顔は蚩尤のものであるとする伝承も存在している。黄帝によって討たれた蚩尤の首をあらわしているとされる。(Wikipediaより)」とのことでもあります。

鼎に関する記述は、ともかく切り落とした「饕餮(蚩尤)」の首を、黄帝の権力強化の道具として使っていることが分かります。敗者の首を勝者の霊力強化のために使用できる、というのは首狩り族の文化ですので、黄帝とその子孫の起源は、首狩り族にあることが分かります。一方、負けて殺された蚩尤が、長江文明由来の「水牛の神」であったことを思うと、滅ぼされた方も首狩り族だ、ということが分かります。要するに、同族同士の勢力争い、といえます。

古代中国には、主に3つの古代文明がありましたが、水稲耕作が始まったのは、長江流域の長江文明でした。紀元前12000年頃の遺跡からは、栽培された稲が発見されています。長江下流域の河姆渡(かぼと)文化(紀元前5000年? - 紀元前4000年?)は、下流域では最古の稲作の文化で、狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われていました。鹿と人間が水稲耕作に関する祭祀で、同時に埋められていた城頭山遺跡は、河姆渡文化と同じ時期の、長江中流域の遺跡で、水田の跡があり、中国最古の城でした。要するに、この時期から、長江流域には城を必要とするような侵入者があったのではないか、と思われます。河姆渡文化からは、太陽に2羽の鳥が寄り添う図が描かれた象牙の器が発見されています。また、人頭をかたどった器が発見されていますので、首狩りの名残と思われます。また、河姆渡文化では、人間の赤ん坊を魚と一緒に煮て食べた形跡があります。占いは、おそらく動物の骨を使って行っていた、と考えられますが、それほど盛んではありませんでした。要するに、紀元前5000~4000年頃には、長江の下流域にまで水稲耕作の文化が行き渡り、太陽女神と2人の王、そしてその下に位置する庶民(鹿)という階級社会が萌芽していたと思われます。彼らはチベット高原に由来する、母系の首狩り族の末裔で、首狩りの名残が残っていたり、食人の習慣がありました。おそらく、彼らの大母は虎の女神である西王母であって、長江そのものが、西王母の吐き出す「天の水」と考えられていました。

一方の黄河文明は、起源的には長江文明と同じくらい古いものでした。この文明は、古い時代には粟の工作と豚などの牧畜を行っていました。紀元前6600年頃の賈湖(かこ)遺跡からは賈湖契刻文字という、甲骨文字の全身となる文字が、「甲骨」の文字通り亀の甲羅に刻まれた形で発見されてます。この文明では甲骨による占いが盛んでした。賈湖遺跡からは、鶴の骨で作った笛も発見されていますから、鶴や亀を特別な縁起ものとみなす文化の起源は、ここにあるといえます。賈湖契刻文字には、「父」という漢字の起源となる文字が含まれていますので、黄河文明では、この頃から「父」という概念が誕生していたことが分かります。純粋な母系社会では「父」というものは存在しませんから、父系の文化の萌芽といえます。ただし、賈湖遺跡を含む、裴李崗文化 (はいりこうぶんか)は、平等な社会で、母系であると考えられていました。

賈湖契刻文字というのは、このようなものでした。

Jiahu_writing 私は以前に、これは「太陽の目が戦う人を見ている」とか、そういう意味なのかなあ? と思っていました。そうしたら、7番目の兄さんに、「自分だったら『天の父曰く』と読む。」と言われる気がするわけで@@。そっか、最初の「目」とその下の足みたいなものを併せて「天」と読むのか、と気がついて。「天の父」とは、「天の父神」のことだと思います。亀甲の占いは、「天の父のお告げ」とか、そういう意味のことなのかなあ、と始めて思う。でも、本来の母系の文化では、天にいるのは母神のはずです。ということは、賈湖契刻文字が刻まれた紀元前6600年頃には、古代中国の思想における陰陽の入れ替え、天の神と地の神の入れ替えが、もう生じていたのではないのか、と思うのです。でも、入れ替わった最初の頃は、まだ母系社会のままであり、社会は平等でした。これが、長い時間をかけて、変化していくことになるのです。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業はそこそこであって。今日は、コンクリートガラがたくさん出た気がします。

蚩尤(しゆう)とは、「中国神話に登場する神である。『路史』では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされる。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる。 古代中国の帝であった黄帝から王座を奪うという野望を持っており神農氏の世の末期(帝楡罔の代)に、乱を起こして、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風・雨・煙・霧などを巻き起こして黄帝と?鹿の野に戦った(?鹿の戦い)。濃霧を起こして視界を悪くしたり魑魅魍魎たちを駆使して黄帝の軍勢を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示して霧を突破し、妖怪たちのおそれる龍の鳴き声に似た音を角笛などを使って響かせてひるませ、軍を押し進めて遂にこれを捕え殺したといわれている。『山海経』大荒北経に記されている黄帝による蚩尤との交戦の描写には具体的な龍としては応竜が黄帝に加勢しており、蚩尤を殺したとされている。最後に捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。(Wikipediaより)」ということです。「牛の頭」というのを「水牛の頭」と置き換えると、チベット高原由来の母系の水稲耕作文化においては、太陽女神の「夫」に相当する神といえます。また、「古代中国の鼎(かなえ)に文様として描かれている怪物のような顔は饕餮(とうてつ)を示したものとされることが多いが、この顔は蚩尤のものであるとする伝承も存在している。黄帝によって討たれた蚩尤の首をあらわしているとされる。(Wikipediaより)」とのことでもあります。

鼎に関する記述は、ともかく切り落とした「饕餮(蚩尤)」の首を、黄帝の権力強化の道具として使っていることが分かります。敗者の首を勝者の霊力強化のために使用できる、というのは首狩り族の文化ですので、黄帝とその子孫の起源は、首狩り族にあることが分かります。一方、負けて殺された蚩尤が、長江文明由来の「水牛の神」であったことを思うと、滅ぼされた方も首狩り族だ、ということが分かります。要するに、同族同士の勢力争い、といえます。

古代中国には、主に3つの古代文明がありましたが、水稲耕作が始まったのは、長江流域の長江文明でした。紀元前12000年頃の遺跡からは、栽培された稲が発見されています。長江下流域の河姆渡(かぼと)文化(紀元前5000年? - 紀元前4000年?)は、下流域では最古の稲作の文化で、狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われていました。鹿と人間が水稲耕作に関する祭祀で、同時に埋められていた城頭山遺跡は、河姆渡文化と同じ時期の、長江中流域の遺跡で、水田の跡があり、中国最古の城でした。要するに、この時期から、長江流域には城を必要とするような侵入者があったのではないか、と思われます。河姆渡文化からは、太陽に2羽の鳥が寄り添う図が描かれた象牙の器が発見されています。また、人頭をかたどった器が発見されていますので、首狩りの名残と思われます。また、河姆渡文化では、人間の赤ん坊を魚と一緒に煮て食べた形跡があります。占いは、おそらく動物の骨を使って行っていた、と考えられますが、それほど盛んではありませんでした。要するに、紀元前5000~4000年頃には、長江の下流域にまで水稲耕作の文化が行き渡り、太陽女神と2人の王、そしてその下に位置する庶民(鹿)という階級社会が萌芽していたと思われます。彼らはチベット高原に由来する、母系の首狩り族の末裔で、首狩りの名残が残っていたり、食人の習慣がありました。おそらく、彼らの大母は虎の女神である西王母であって、長江そのものが、西王母の吐き出す「天の水」と考えられていました。

一方の黄河文明は、起源的には長江文明と同じくらい古いものでした。この文明は、古い時代には粟の工作と豚などの牧畜を行っていました。紀元前6600年頃の賈湖(かこ)遺跡からは賈湖契刻文字という、甲骨文字の全身となる文字が、「甲骨」の文字通り亀の甲羅に刻まれた形で発見されてます。この文明では甲骨による占いが盛んでした。賈湖遺跡からは、鶴の骨で作った笛も発見されていますから、鶴や亀を特別な縁起ものとみなす文化の起源は、ここにあるといえます。賈湖契刻文字には、「父」という漢字の起源となる文字が含まれていますので、黄河文明では、この頃から「父」という概念が誕生していたことが分かります。純粋な母系社会では「父」というものは存在しませんから、父系の文化の萌芽といえます。ただし、賈湖遺跡を含む、裴李崗文化 (はいりこうぶんか)は、平等な社会で、母系であると考えられていました。

賈湖契刻文字というのは、このようなものでした。

Jiahu_writing 私は以前に、これは「太陽の目が戦う人を見ている」とか、そういう意味なのかなあ? と思っていました。そうしたら、7番目の兄さんに、「自分だったら『天の父曰く』と読む。」と言われる気がするわけで@@。そっか、最初の「目」とその下の足みたいなものを併せて「天」と読むのか、と気がついて。「天の父」とは、「天の父神」のことだと思います。亀甲の占いは、「天の父のお告げ」とか、そういう意味のことなのかなあ、と始めて思う。でも、本来の母系の文化では、天にいるのは母神のはずです。ということは、賈湖契刻文字が刻まれた紀元前6600年頃には、古代中国の思想における陰陽の入れ替え、天の神と地の神の入れ替えが、もう生じていたのではないのか、と思うのです。でも、入れ替わった最初の頃は、まだ母系社会のままであり、社会は平等でした。これが、長い時間をかけて、変化していくことになるのです。