本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。昨夜は台風のせいで大雨が降って。今日は晴れたので、水汲みがたいへんな一日でした。

「嵐にしやがれ」のスペシャルでは気になることがいくつかあって。潤ちゃんが、ぼたもちとおはぎのことを、「同じものなのに、名前が違うので、気になって調べた」と言っていて。なにか、同じものなのに、名前の違うものを調べるように、と言われているのかなあ、と思う。例えば、「天」のことを「てん」と呼んだり、「あま」と呼んだりするような。それから、廉君が「朝の帯番組をやりたい」と言っていて、枡さんと「ZIP」の模擬をしていたわけですが、オープニングの模擬をしてるのに、何故かエンディングの真似ばかりしていて。「はじめ」と「終わり」に何か注意なのかなあ、と思う。後は、大野君の船のコーナーで、黒くて長いヌタウナギのことを、「小学生のち○こみたい」と言っていて。それは、私の顔を見ると、ま○ことか、ち○ことか、おパンツのこととか、小学生の男の子みたいなことしか言わない誰かさんのことを言ってるんだろうなあ、と思ったわけでー;。あとは、潤ちゃんのコーナーで、アクション対決で、だいたいいつも悪者に困らされている女の人を助ける、という役なのは、「悪者に困らされている女の人を助けるために戦っているんだよ」ということを言いたいんだろうな、とかそういうことに気がつくわけで。でも、縛りプレイ? とか思うわけで-;。こっちはこっちで、「性の快楽を教えてあげる」とか言う気がするわけで。それって、結局は、蛇の兄さんの言ってることと同じなんじゃないの??? と思うわけですが-;。

それにしても、頂点に虎の女神がいて、その下に「夫」である王、あるいは王達? である水牛虎がいて、その下に水牛の餌ということは、水牛に仕える鹿がいる、ということは、社会でいうと、「階級制」ということになりますよねえ? と思う。一番下の庶民とか奴隷の階級のトーテムが「鹿」ということになる。そうすると、もう祖神が何か、とか関係なくて、その人のトーテムは階級によって決まってくることになる。そして、階級というものがなかった頃は、女性と男性は一対の対をなす「陰陽」で、だいたい世界は陽と陰のバランスが取れていたはずなのに、階級が決まってくると、神様一人が「陽」であって、穢れた「夫」とそれ以下の階級の人達は全て「陰」になるなんて、バランスが悪すぎる、と思うわけです。そうすると、世の中は、陰の側の「生きた死者」ばかりになってしまうわけで。でも、そういう社会構造の思想は、小乗仏教によく現れている、と言われる気がするわけです。小乗は、一番頂点に神々の世界があって、出家して神々に仕える人達は、修行して神々に結縁したりして、そこに近づこうとしてる。で、僧の周囲にいる人達は、お布施をしたりして、僧の生活を支えることで、霊的に上位の僧に結縁し、間接的に更に上位の神々に結縁しようとしている、と言われる気がするわけです。だから、仏教は、現実的な貧困の解消とかには役立たない。仏教の本来の目的は、より上位の霊的な存在と結縁して、自分の霊性を高めるためのもので、目的とするものは来世だから、と言われる気がするわけで。「それでいいの?」となんとなくそんな気がするわけですが。でも、仏教以前のバラモン教の時代は、現在のカースト制に通じる制度がもう存在していて、神々に仕えるのは特定の家柄の人、と決められていました。でも、そういう神官階級が世襲化すると、神の権威だけをかさにきて、腐敗したり、威張ったり、現実の政治に介入したりする人たちが増えてくるので。神官階級の出以外の人でも、志があれば、出家して神に仕える人になることができる、と身分制を取り払ったのが仏教なので。階級が流動化する、ということは、それ以前に比べて、人々が自由に行動できるようになった、ということ、と言われる気がするわけで。うーむ、と思う。まあ、ともかく、最上位の階級にくる存在が肉食獣であって、最下位の階級に来るのが草食動物なのね? と思う。で、こういう構図が四方に伝播すると、例えば元の思想では、「王」の階級が「牛ときどき虎」であったのが、逆に上位の女神の方が「虎ときどき牛」という構図になって、「雌牛」のときは妻であったり、母であったりするようになっている気がするわけです。「王」とその下の鹿の階級の関係は、「牛ときどき鹿の王」という形になる。

で、イタリアとか、それからスパルタもそうですが、南欧の強固な男系社会、というのは、女の人もけっこう強いわけです。東洋の男系社会は、女性の地位そのものが戦前の日本のごとく、かなり低い気がするわけで。それは何故だろう? と思う。そうすると、西欧は「熊トーテム」も強固であって、熊トーテムは、女性が非常に強いから、と言われる気がするわけです。熊は、冬眠している間に子供を生むので、昔は「いつ子供を生むのか分からない神秘的な存在」とされていました。しかも、冬の間姿をほとんど見ないのに、春になると現れて、かつ子供を連れている。それで、昔の人は熊に性別があるとは考えていなかったので、熊は単為生殖すると考えられていました。神様が、男はいらなくて、子供を生むので、人間の女性も本当は男がいなくて子供を産むのが理想の姿でした。そうすると、男は邪魔な存在でしかないので、熊トーテムの人達の中では、女性が特に強い、と言われる気がするわけで。その他に肉食獣のトーテムとして狼というものもある。古代ローマの主要3神は、しまいにはユーノー女神(虎)、ミネルヴァ女神(熊)、ユーピテル(牡牛)でした。しかも、ローマを建国した双子は狼の乳を飲んで育った、と言われていますから、狼も重要なトーテムでした。牡牛の王が中心の父系の思想と、女性上位の熊トーテムの人々が混血習合して国を作った結果、夫系の国家だけれども、女性もけっこう強い国が形成されたわけです。

西欧における、牡牛トーテムの夫系の思想と熊トーテムの母系の思想の混合の初期は、古代メソポタミアにおける、二つの「イナンナのドゥムジ」の神話に現れます。この2つは、同じ「イナンナとドゥムジの結婚」を扱った話なのですが、母系優位の部族と、父系優位の部族とでは、冥界に下る方が異なっていました。イナンナそのものは、その名前の通り元は、「熊」の女神であったのです。ドゥムジは「羊飼い」とされていますから、一見すると彼のトーテムは羊です。でも、草食動物は「下位の階級」の象徴ですから、彼は表向き「羊」と名乗っているだけで、本当はもっと上位の肉食獣をその仮面の下に隠しているはずなのです。ドゥムジが冥界に下る話では、上位に来るのは熊の大母といえます。イナンナが虐げられて、冥界に下る話では、一応女神の方は、「夫よりも下位に下げられた虎の女神」となります。この2つの神話は、やがて融合して各地に伝播することになります。

今朝は「嵐にしやがれ」のスペシャルを見ていて。相変わらず廉君の「目の力」は落ち着いているなー、と思って見ていたのでした。そして、「始まりと終わり」のことを、いろいろと考えていて。そうしたら、シヴァが「獣の王」と言われる意味を急に知りたくなって。で、調べたら、シヴァは「黄金の角を持つ鹿」の姿で森で遊んだ、という伝承があるそうで。おそらく、その姿で、他の獣(草食獣)を支配する神とされていたのでしょう。でも、「鹿を治める特別な鹿の王」ということは、本当はその姿は「鹿を食べる水牛虎」なはずです。シヴァと、その妻ドゥルガー(あるいはカーリー)の図像は、「地面に横たわって妻に踏みつけるシヴァ」の図で表されます。これは、ドゥルガーが「戦の女神」であるので、勝利に酔って踊ったら、その衝撃で大地が壊れそうになったので、夫が横になってその衝撃を支えた、と神話では言われています。でも、これは後付けの説明であると思う。

ドゥルガー(ドゥーマ)とシヴァの形は、西方に伝播して、主に古代エジプトでは「獅子と牡牛」の形を取るようになりました。古代エジプトの獅子頭女神の一番古い名前はテフヌトと言ったのだと思います。子音からみて、「ドゥーマ」から変化したものだと思う。その前半部分の「テフ」が外れて、ヌト、メヒト、ネイトといった女神群が誕生しました。一方、テフヌトはカルタゴでタニト、対岸のローマではユーノーという名前に変化しましたが、みな子音の構成は同じです。そして、古代エジプトの女神達は、「牡牛の神の妻」ということで、ときには「雌牛」の姿でも現されるようになりました。ネイト女神の場合は、軍神の時は獅子の姿、母神のときは雌牛という感じに変化したのです。私だったら、「同じ名前(同じ子音)の女神が虎から獅子に変わった」というところですが、潤ちゃんからみれば「みな同じ大母なのに、場所によって違う名前になってる」ということなのかもしれないと思う。そして、女性が「上」に来る、「ドゥルガーとシヴァ」の構図は古代エジプトでは「ヌトとゲブ」の構図に変化します。ゲブはセブとも言いますので、ゲブはシヴァのことでもある、ということに疑いはありません。

そして、対岸のローマを見るわけですが、最初ローマにおけるユーノーの立ち位置が良く分かりませんでした。ユーノーはローマの中で最上位の「天の女神」であり、ユーピテルの妻とされていますが、ユーピテルの妻とされていたのはけっこう後世になってからでした。もし彼女が「母系の大母」としてローマに入ったのであれば、最初は固定的な夫は存在しなかった、と思われます。なぜなら、その場合、彼女は一妻多夫の女神、となるからです。そして、インドにおけるシヴァが「金の角を持つ鹿」だと知った瞬間に、「それは金枝のことじゃないの?」と気がついたわけです。アリキアのネミの森のディアーヌの樹に宿るヤドリギの神であるウィルビウスは、「金の枝」とされていました。彼はローマ皇帝の権力の象徴とされていましたが、実際にその役を務めるのは逃亡奴隷であって、奴隷は「金の枝」を折ると、先代の神と戦ってこれを殺し、新しい「森の王」、すなわちディアーヌの夫、となることができました。ローマは父系の国家ですが、ネミの森の祭祀は、夫を次々と若い夫に取り替える「永遠のディアーヌの祭祀」、すなわち母系の女神の祭祀そのものです。ローマにおけるディアーヌ女神のトーテムは狼とされています。すなわち、金枝であり、「森の王」である鹿のウィルビウスは、若く活力に溢れる勃起した状態であるときだけ、女神の夫として「狼」(真の森の王)の姿になれるわけです。

この狼が、森の女王である赤ずきんちゃんとおばあさんを食べて殺してしまうと、母系の神話が、父系の神話に変換された、ということになるのですが、ローマではそこまでの父系化は進みませんでした。そして、ディアーヌ女神は、ローマを建国したロームルスとレムルスの双子の兄弟を養育した雌狼とされています。要するに、ディアーヌ女神が「ローマの母」といっても過言ではないのに、ローマの主要三神の一つにはユーノーがいて、ディアーヌではない、ということになっているわけで。じゃあ、ディアーヌを差し置いて上位に来るユーノーは、ローマにおいて、どういう立ち位置に来るのだろう? と、私は思ったわけです。でも、よく考えたらユーノーとディアーヌ女神の子音構成も同じです。ということは、その2つも「同じもの」なんじゃないの? ということになる。そして、金枝のウィルビウスの妻も本当はユーノーであったはずです。でも、なぜディアーヌに置き換えられているのか? それは、「ローマの母」の地位を狼トーテムの人達に分けたからではないか、と思います。そのため、獅子女神のユーノーは、狼のディアーヌと、獅子のユーノーに分割された。そして、ディアーヌ女神(狼)は「ローマの母」であるけれども下位の女神、ユーノー女神(獅子)は「ローマの最高位の女神」とされたのだと思います。だから、結局地位の高い方はユーノーだよね? そして、結局「ローマの母」はユーノーってことだよね? と思うわけですが、そこのところを狼トーテムに変更してごまかしているわけです。そして、余談ですが、ウィルビウスという名前は、ギリシャ・トラキア方面ではオルフェウスという名前になるのだと思います。妻を食い殺すような凶暴な神を嫌った古代ギリシャ人達は、オルフェウスのことは「亡くなった妻を黄泉の国に迎えに行ったけれども果たせなかった神」に変えてしまいました。しかも、後にオルフェウスもマイナデスに食い殺されて死んでしまいます。だから、ギリシャ人、トラキア人は、ローマ人と違って、オルフェウスのことを「王権の象徴」とはみなさず、むしろ「死すべき者」とみなしていたことが分かります。ギリシャのトラキアも父系の国ではありましたが、オルフェウスに対する冷遇さが、ギリシャ・トラキアの母系信仰の強さを物語っているのです。

このように、「生きるウィルビウスと、死ぬべきオルフェウス」に分けられた「金の角の鹿の王」の存在は、北欧で更に新しい神話に変化しました。北欧神話における「金の角の鹿の王(ヤドリギ)」は、バルドルという名になります。バルドルは不死の神であって、傷つけられないし、死ぬこともない存在でした。ただし、バルドルが不死の存在となったときに、ヤドリギだけは若すぎて「バルドルを傷つけない」という約束ができなかったのです。神々はその後、バルドルのことを面白がって、バルドルにいろんなものを投げつける、という遊びをしていました。しかし、ヤドリギのことを知ったロキという神が、バルドルの兄弟で盲目のために遊戯の輪から外れていた神ヘズをたぶらかし、ヤドリギ(ミスティルテイン)を投げさせました。これによりバルドルは命を落としてしまったのです。そして、バルドルの妻の名はナンナと言いました。要するに、メソポタミアのシュメール神話のイナンナに相当する神です。つまり、イナンナの夫であったドゥムジは、北欧神話ではバルドルとヘズという兄弟、という存在に分けられて、一方は死すべきもの、一方は生きるべきもの、とされることになったのです。要するに2種類あったシュメールのドゥムジは、「兄弟」という形にまとめられて、それぞれ別の運命を進むこととなったのです。そして、彼らが「殺し合う」ということは、母系の羊トーテムの人々と、父系の羊トーテムの人々との間に、争いがあったことを伺わせています。(北欧神話では、この後ラグナロク(最終戦争)があって、その後、ヘズもバルドルも生き返った、ということになっています。でも、「最終戦争」なんて言うのはキリスト教ぐらいですから、2神が生き返る、という話は後から、それこそ意図的に付け加えられたものであると私は思うので、ここでは触れません。それが蚩尤と饕餮の復活を暗示している証拠、と言われても、それもまた少し別の話になるのです。というか、「蚩尤と饕餮」はれっきとして鬼神なので、復活なんかしない方が世のため、人のためなんじゃん? と単純にウルトラマンとか仮面ライダーを見て育った世代はそう思うわけですが-;。)

ともかく、北欧神話は民間伝承化して、騎士の物語へと変化しました。「サクソ・グラマティクスが著した歴史書『デンマーク人の事績』において、バルドルはオーティヌス(オーディン)の息子である半神の戦士・バルデルス(またはバルデル)として登場し、性格も勇猛に描かれている。その肉体はどんな武器も貫けないが、森に住む神サチュルンであるミミングが持つ剣ならば傷つけることができるとされる。バルデルスはまた、3匹の蛇の毒を混ぜた特殊な食料を食べて力を得ている。ホテルス(ヘズ)の乳兄妹のナンナをめぐってホテルスと争い、オーティヌスやトールの助力の甲斐なくホテルスとの海戦で敗れる。その後も幾度かの対決でバルデルスが優位に立つが、ナンナがホテルスと結婚すると、彼女の幻影に悩まされて病気になり、歩行ができなくなり馬車で移動するようになる。ホテルスにスウェーデンとデンマークを支配されたため、デンマークを回復すべく双方の軍勢をぶつけ合う。そのさなか、洞窟に住む3人の乙女たちから勝利の帯を与えられたホテルスによって剣で脇腹を刺される。自分の死を覚悟しつつバルデルはホテルスとの争いを続けたが、傷の痛みが増して3日後に落命する。死体はデンマーク人によって大きな塚に葬られる。(Wikipediaより)」となったのです。ここでは、女神と結婚できた方が生きるし、できなかった方が死ぬ、となっています。神の恩寵を得た方が勝者となるのです。熊トーテムや狼トーテムの力が強い西欧では、父系であっても、「戦士は弱い立場の女性や子供や老人を守る者」という「騎士道精神」が発達しましたので、民間伝承の中では、大母は死ぬことを許されませんでした。そのため大母が死ぬ、という話は消えて、彼女と結婚できた方が生きて、できなかった方が死ぬ、ということになったのです。これは、母系の「王」が、妻である大母と結婚している時だけ「生きて」いて、結婚できなければ「生きた死人」である、という母系の階級思想にも繋がる話です。

でもって、ここまで調べて「あれ?」と思うわけで。どっかで似たような話を聞いたことがあるぞ? と思う。かつて、イギリス人のチョーサーという人が、14世紀に民間伝承を集めて説話集を書きました。その中に「騎士の話」というのがあって、その内容は「セーセウス公によって捕虜としてアテネに連れて来られたアルシータとパラムンはテーベの王族で従兄弟同士だった。最初は励まし合っていた二人だが、牢獄の窓から偶然見た美女エメリー(セーセウスの妃イポリタの妹)にともに恋をし、不和になる。アルシータは国外追放になるがアテネに戻り、パラムンは脱獄。偶然再会して争っているところをセーセウス公に見つかり、100対100の大がかりな決闘を提案される。そして、戦闘がはじまるが??。(Wikipediaより)」とものです。エメリーというのは、名前からしても、イナンナのことですよねえ? と思う。結論から言うと、パラムンはエムリーと結婚してめでたしめでたし、結婚できなかったアルシータは死ぬ、とそういう話です。要するに、「デンマーク人の事績」のイングランド版です。17世紀にはウィリアム・シェイクスピアとジョン・フレッチャーが、この話を元にして、共作の戯曲『二人の貴公子』を書いた、ということで。この「二人の貴公子」をミュージカルにして、今、絶賛上演中だよね? 主役の二人の男子のうちの一人が光ちゃんなんじゃん??@@ と思うわけで。絶対、偶然じゃないでしょ、それ。と始めて思うわけで。あんまり、兄さん達の個別の具体的な「お仕事」にはそれほど深くは興味を持たないわけで。持ったところで、見に行けるわけではなし?? だし、と思っているからなわけですが。チョーサーは、読んでみたい、と思ったことはあったけれども、読んだことはなかったーーー、と思う。

双子が争って、片方が死ぬ話なら、「テーバイの七将攻め」が思い浮かぶのですけれども、と言ったら、7番目の兄さんに「ああ、色気のない方のやつね。」と言われる気がするわけでー;。七将攻めは色気はないけど、「神の恩寵を得た方が勝つ」という点は一致してるでしょうがーー、と思う。そして、そういうことからいえば、同じくシェークスピアの「ハムレット」も同系統の話ですよねえ? と思う。でも、そうしたら、「ハムレットは縁起悪すぎるでしょ、3人とも死んで、しかも誰も生き返らない」と言われる気がするわけでー;。7番目の兄さんには、「赤ずきんちゃんには、2つのパターンがある。赤ずきんちゃんとおばあさんが狼に食べられて、そのままの話と、ペローの童話のように狩人に助けて貰って、狼の腹の中から出して貰うパターンと。「狼の腹の中」とは「黄泉の国」のことです。赤ずきんを助け出した狩人のことを忘れないでね。」と言われる気がするわけで。さあ、今のところ、狼の腹の中の掃除で忙しい気がするわけですがー;。赤ずきんちゃんっていうのは、「イナンナの冥界下り」が民間伝承化したものだって今知ったよ、赤ずきんちゃんってイナンナのことだったんだーーー、と思うわけですが。でも、たいていの兄さん達は、廉君のことを「さすがに仕事が早い」と言って褒め称える気がするわけで。要するに西欧の「羊トーテム」には2種類あって、その区別がつくようにならないといけない、ってそういうことですよねえ? と思う。その2つは、兄弟のように似ているけれども、別のものなわけだ。そして、「父系の羊トーテム」の方が、親戚一同の方、ということで。一族郎党のやらかしてきたことが、世界中で語り草になっているんだなあ、と思ったわけなのですが-;。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。昨夜は台風のせいで大雨が降って。今日は晴れたので、水汲みがたいへんな一日でした。

「嵐にしやがれ」のスペシャルでは気になることがいくつかあって。潤ちゃんが、ぼたもちとおはぎのことを、「同じものなのに、名前が違うので、気になって調べた」と言っていて。なにか、同じものなのに、名前の違うものを調べるように、と言われているのかなあ、と思う。例えば、「天」のことを「てん」と呼んだり、「あま」と呼んだりするような。それから、廉君が「朝の帯番組をやりたい」と言っていて、枡さんと「ZIP」の模擬をしていたわけですが、オープニングの模擬をしてるのに、何故かエンディングの真似ばかりしていて。「はじめ」と「終わり」に何か注意なのかなあ、と思う。後は、大野君の船のコーナーで、黒くて長いヌタウナギのことを、「小学生のち○こみたい」と言っていて。それは、私の顔を見ると、ま○ことか、ち○ことか、おパンツのこととか、小学生の男の子みたいなことしか言わない誰かさんのことを言ってるんだろうなあ、と思ったわけでー;。あとは、潤ちゃんのコーナーで、アクション対決で、だいたいいつも悪者に困らされている女の人を助ける、という役なのは、「悪者に困らされている女の人を助けるために戦っているんだよ」ということを言いたいんだろうな、とかそういうことに気がつくわけで。でも、縛りプレイ? とか思うわけで-;。こっちはこっちで、「性の快楽を教えてあげる」とか言う気がするわけで。それって、結局は、蛇の兄さんの言ってることと同じなんじゃないの??? と思うわけですが-;。

それにしても、頂点に虎の女神がいて、その下に「夫」である王、あるいは王達? である水牛虎がいて、その下に水牛の餌ということは、水牛に仕える鹿がいる、ということは、社会でいうと、「階級制」ということになりますよねえ? と思う。一番下の庶民とか奴隷の階級のトーテムが「鹿」ということになる。そうすると、もう祖神が何か、とか関係なくて、その人のトーテムは階級によって決まってくることになる。そして、階級というものがなかった頃は、女性と男性は一対の対をなす「陰陽」で、だいたい世界は陽と陰のバランスが取れていたはずなのに、階級が決まってくると、神様一人が「陽」であって、穢れた「夫」とそれ以下の階級の人達は全て「陰」になるなんて、バランスが悪すぎる、と思うわけです。そうすると、世の中は、陰の側の「生きた死者」ばかりになってしまうわけで。でも、そういう社会構造の思想は、小乗仏教によく現れている、と言われる気がするわけです。小乗は、一番頂点に神々の世界があって、出家して神々に仕える人達は、修行して神々に結縁したりして、そこに近づこうとしてる。で、僧の周囲にいる人達は、お布施をしたりして、僧の生活を支えることで、霊的に上位の僧に結縁し、間接的に更に上位の神々に結縁しようとしている、と言われる気がするわけです。だから、仏教は、現実的な貧困の解消とかには役立たない。仏教の本来の目的は、より上位の霊的な存在と結縁して、自分の霊性を高めるためのもので、目的とするものは来世だから、と言われる気がするわけで。「それでいいの?」となんとなくそんな気がするわけですが。でも、仏教以前のバラモン教の時代は、現在のカースト制に通じる制度がもう存在していて、神々に仕えるのは特定の家柄の人、と決められていました。でも、そういう神官階級が世襲化すると、神の権威だけをかさにきて、腐敗したり、威張ったり、現実の政治に介入したりする人たちが増えてくるので。神官階級の出以外の人でも、志があれば、出家して神に仕える人になることができる、と身分制を取り払ったのが仏教なので。階級が流動化する、ということは、それ以前に比べて、人々が自由に行動できるようになった、ということ、と言われる気がするわけで。うーむ、と思う。まあ、ともかく、最上位の階級にくる存在が肉食獣であって、最下位の階級に来るのが草食動物なのね? と思う。で、こういう構図が四方に伝播すると、例えば元の思想では、「王」の階級が「牛ときどき虎」であったのが、逆に上位の女神の方が「虎ときどき牛」という構図になって、「雌牛」のときは妻であったり、母であったりするようになっている気がするわけです。「王」とその下の鹿の階級の関係は、「牛ときどき鹿の王」という形になる。

で、イタリアとか、それからスパルタもそうですが、南欧の強固な男系社会、というのは、女の人もけっこう強いわけです。東洋の男系社会は、女性の地位そのものが戦前の日本のごとく、かなり低い気がするわけで。それは何故だろう? と思う。そうすると、西欧は「熊トーテム」も強固であって、熊トーテムは、女性が非常に強いから、と言われる気がするわけです。熊は、冬眠している間に子供を生むので、昔は「いつ子供を生むのか分からない神秘的な存在」とされていました。しかも、冬の間姿をほとんど見ないのに、春になると現れて、かつ子供を連れている。それで、昔の人は熊に性別があるとは考えていなかったので、熊は単為生殖すると考えられていました。神様が、男はいらなくて、子供を生むので、人間の女性も本当は男がいなくて子供を産むのが理想の姿でした。そうすると、男は邪魔な存在でしかないので、熊トーテムの人達の中では、女性が特に強い、と言われる気がするわけで。その他に肉食獣のトーテムとして狼というものもある。古代ローマの主要3神は、しまいにはユーノー女神(虎)、ミネルヴァ女神(熊)、ユーピテル(牡牛)でした。しかも、ローマを建国した双子は狼の乳を飲んで育った、と言われていますから、狼も重要なトーテムでした。牡牛の王が中心の父系の思想と、女性上位の熊トーテムの人々が混血習合して国を作った結果、夫系の国家だけれども、女性もけっこう強い国が形成されたわけです。

西欧における、牡牛トーテムの夫系の思想と熊トーテムの母系の思想の混合の初期は、古代メソポタミアにおける、二つの「イナンナのドゥムジ」の神話に現れます。この2つは、同じ「イナンナとドゥムジの結婚」を扱った話なのですが、母系優位の部族と、父系優位の部族とでは、冥界に下る方が異なっていました。イナンナそのものは、その名前の通り元は、「熊」の女神であったのです。ドゥムジは「羊飼い」とされていますから、一見すると彼のトーテムは羊です。でも、草食動物は「下位の階級」の象徴ですから、彼は表向き「羊」と名乗っているだけで、本当はもっと上位の肉食獣をその仮面の下に隠しているはずなのです。ドゥムジが冥界に下る話では、上位に来るのは熊の大母といえます。イナンナが虐げられて、冥界に下る話では、一応女神の方は、「夫よりも下位に下げられた虎の女神」となります。この2つの神話は、やがて融合して各地に伝播することになります。

今朝は「嵐にしやがれ」のスペシャルを見ていて。相変わらず廉君の「目の力」は落ち着いているなー、と思って見ていたのでした。そして、「始まりと終わり」のことを、いろいろと考えていて。そうしたら、シヴァが「獣の王」と言われる意味を急に知りたくなって。で、調べたら、シヴァは「黄金の角を持つ鹿」の姿で森で遊んだ、という伝承があるそうで。おそらく、その姿で、他の獣(草食獣)を支配する神とされていたのでしょう。でも、「鹿を治める特別な鹿の王」ということは、本当はその姿は「鹿を食べる水牛虎」なはずです。シヴァと、その妻ドゥルガー(あるいはカーリー)の図像は、「地面に横たわって妻に踏みつけるシヴァ」の図で表されます。これは、ドゥルガーが「戦の女神」であるので、勝利に酔って踊ったら、その衝撃で大地が壊れそうになったので、夫が横になってその衝撃を支えた、と神話では言われています。でも、これは後付けの説明であると思う。

ドゥルガー(ドゥーマ)とシヴァの形は、西方に伝播して、主に古代エジプトでは「獅子と牡牛」の形を取るようになりました。古代エジプトの獅子頭女神の一番古い名前はテフヌトと言ったのだと思います。子音からみて、「ドゥーマ」から変化したものだと思う。その前半部分の「テフ」が外れて、ヌト、メヒト、ネイトといった女神群が誕生しました。一方、テフヌトはカルタゴでタニト、対岸のローマではユーノーという名前に変化しましたが、みな子音の構成は同じです。そして、古代エジプトの女神達は、「牡牛の神の妻」ということで、ときには「雌牛」の姿でも現されるようになりました。ネイト女神の場合は、軍神の時は獅子の姿、母神のときは雌牛という感じに変化したのです。私だったら、「同じ名前(同じ子音)の女神が虎から獅子に変わった」というところですが、潤ちゃんからみれば「みな同じ大母なのに、場所によって違う名前になってる」ということなのかもしれないと思う。そして、女性が「上」に来る、「ドゥルガーとシヴァ」の構図は古代エジプトでは「ヌトとゲブ」の構図に変化します。ゲブはセブとも言いますので、ゲブはシヴァのことでもある、ということに疑いはありません。

そして、対岸のローマを見るわけですが、最初ローマにおけるユーノーの立ち位置が良く分かりませんでした。ユーノーはローマの中で最上位の「天の女神」であり、ユーピテルの妻とされていますが、ユーピテルの妻とされていたのはけっこう後世になってからでした。もし彼女が「母系の大母」としてローマに入ったのであれば、最初は固定的な夫は存在しなかった、と思われます。なぜなら、その場合、彼女は一妻多夫の女神、となるからです。そして、インドにおけるシヴァが「金の角を持つ鹿」だと知った瞬間に、「それは金枝のことじゃないの?」と気がついたわけです。アリキアのネミの森のディアーヌの樹に宿るヤドリギの神であるウィルビウスは、「金の枝」とされていました。彼はローマ皇帝の権力の象徴とされていましたが、実際にその役を務めるのは逃亡奴隷であって、奴隷は「金の枝」を折ると、先代の神と戦ってこれを殺し、新しい「森の王」、すなわちディアーヌの夫、となることができました。ローマは父系の国家ですが、ネミの森の祭祀は、夫を次々と若い夫に取り替える「永遠のディアーヌの祭祀」、すなわち母系の女神の祭祀そのものです。ローマにおけるディアーヌ女神のトーテムは狼とされています。すなわち、金枝であり、「森の王」である鹿のウィルビウスは、若く活力に溢れる勃起した状態であるときだけ、女神の夫として「狼」(真の森の王)の姿になれるわけです。

この狼が、森の女王である赤ずきんちゃんとおばあさんを食べて殺してしまうと、母系の神話が、父系の神話に変換された、ということになるのですが、ローマではそこまでの父系化は進みませんでした。そして、ディアーヌ女神は、ローマを建国したロームルスとレムルスの双子の兄弟を養育した雌狼とされています。要するに、ディアーヌ女神が「ローマの母」といっても過言ではないのに、ローマの主要三神の一つにはユーノーがいて、ディアーヌではない、ということになっているわけで。じゃあ、ディアーヌを差し置いて上位に来るユーノーは、ローマにおいて、どういう立ち位置に来るのだろう? と、私は思ったわけです。でも、よく考えたらユーノーとディアーヌ女神の子音構成も同じです。ということは、その2つも「同じもの」なんじゃないの? ということになる。そして、金枝のウィルビウスの妻も本当はユーノーであったはずです。でも、なぜディアーヌに置き換えられているのか? それは、「ローマの母」の地位を狼トーテムの人達に分けたからではないか、と思います。そのため、獅子女神のユーノーは、狼のディアーヌと、獅子のユーノーに分割された。そして、ディアーヌ女神(狼)は「ローマの母」であるけれども下位の女神、ユーノー女神(獅子)は「ローマの最高位の女神」とされたのだと思います。だから、結局地位の高い方はユーノーだよね? そして、結局「ローマの母」はユーノーってことだよね? と思うわけですが、そこのところを狼トーテムに変更してごまかしているわけです。そして、余談ですが、ウィルビウスという名前は、ギリシャ・トラキア方面ではオルフェウスという名前になるのだと思います。妻を食い殺すような凶暴な神を嫌った古代ギリシャ人達は、オルフェウスのことは「亡くなった妻を黄泉の国に迎えに行ったけれども果たせなかった神」に変えてしまいました。しかも、後にオルフェウスもマイナデスに食い殺されて死んでしまいます。だから、ギリシャ人、トラキア人は、ローマ人と違って、オルフェウスのことを「王権の象徴」とはみなさず、むしろ「死すべき者」とみなしていたことが分かります。ギリシャのトラキアも父系の国ではありましたが、オルフェウスに対する冷遇さが、ギリシャ・トラキアの母系信仰の強さを物語っているのです。

このように、「生きるウィルビウスと、死ぬべきオルフェウス」に分けられた「金の角の鹿の王」の存在は、北欧で更に新しい神話に変化しました。北欧神話における「金の角の鹿の王(ヤドリギ)」は、バルドルという名になります。バルドルは不死の神であって、傷つけられないし、死ぬこともない存在でした。ただし、バルドルが不死の存在となったときに、ヤドリギだけは若すぎて「バルドルを傷つけない」という約束ができなかったのです。神々はその後、バルドルのことを面白がって、バルドルにいろんなものを投げつける、という遊びをしていました。しかし、ヤドリギのことを知ったロキという神が、バルドルの兄弟で盲目のために遊戯の輪から外れていた神ヘズをたぶらかし、ヤドリギ(ミスティルテイン)を投げさせました。これによりバルドルは命を落としてしまったのです。そして、バルドルの妻の名はナンナと言いました。要するに、メソポタミアのシュメール神話のイナンナに相当する神です。つまり、イナンナの夫であったドゥムジは、北欧神話ではバルドルとヘズという兄弟、という存在に分けられて、一方は死すべきもの、一方は生きるべきもの、とされることになったのです。要するに2種類あったシュメールのドゥムジは、「兄弟」という形にまとめられて、それぞれ別の運命を進むこととなったのです。そして、彼らが「殺し合う」ということは、母系の羊トーテムの人々と、父系の羊トーテムの人々との間に、争いがあったことを伺わせています。(北欧神話では、この後ラグナロク(最終戦争)があって、その後、ヘズもバルドルも生き返った、ということになっています。でも、「最終戦争」なんて言うのはキリスト教ぐらいですから、2神が生き返る、という話は後から、それこそ意図的に付け加えられたものであると私は思うので、ここでは触れません。それが蚩尤と饕餮の復活を暗示している証拠、と言われても、それもまた少し別の話になるのです。というか、「蚩尤と饕餮」はれっきとして鬼神なので、復活なんかしない方が世のため、人のためなんじゃん? と単純にウルトラマンとか仮面ライダーを見て育った世代はそう思うわけですが-;。)

ともかく、北欧神話は民間伝承化して、騎士の物語へと変化しました。「サクソ・グラマティクスが著した歴史書『デンマーク人の事績』において、バルドルはオーティヌス(オーディン)の息子である半神の戦士・バルデルス(またはバルデル)として登場し、性格も勇猛に描かれている。その肉体はどんな武器も貫けないが、森に住む神サチュルンであるミミングが持つ剣ならば傷つけることができるとされる。バルデルスはまた、3匹の蛇の毒を混ぜた特殊な食料を食べて力を得ている。ホテルス(ヘズ)の乳兄妹のナンナをめぐってホテルスと争い、オーティヌスやトールの助力の甲斐なくホテルスとの海戦で敗れる。その後も幾度かの対決でバルデルスが優位に立つが、ナンナがホテルスと結婚すると、彼女の幻影に悩まされて病気になり、歩行ができなくなり馬車で移動するようになる。ホテルスにスウェーデンとデンマークを支配されたため、デンマークを回復すべく双方の軍勢をぶつけ合う。そのさなか、洞窟に住む3人の乙女たちから勝利の帯を与えられたホテルスによって剣で脇腹を刺される。自分の死を覚悟しつつバルデルはホテルスとの争いを続けたが、傷の痛みが増して3日後に落命する。死体はデンマーク人によって大きな塚に葬られる。(Wikipediaより)」となったのです。ここでは、女神と結婚できた方が生きるし、できなかった方が死ぬ、となっています。神の恩寵を得た方が勝者となるのです。熊トーテムや狼トーテムの力が強い西欧では、父系であっても、「戦士は弱い立場の女性や子供や老人を守る者」という「騎士道精神」が発達しましたので、民間伝承の中では、大母は死ぬことを許されませんでした。そのため大母が死ぬ、という話は消えて、彼女と結婚できた方が生きて、できなかった方が死ぬ、ということになったのです。これは、母系の「王」が、妻である大母と結婚している時だけ「生きて」いて、結婚できなければ「生きた死人」である、という母系の階級思想にも繋がる話です。

でもって、ここまで調べて「あれ?」と思うわけで。どっかで似たような話を聞いたことがあるぞ? と思う。かつて、イギリス人のチョーサーという人が、14世紀に民間伝承を集めて説話集を書きました。その中に「騎士の話」というのがあって、その内容は「セーセウス公によって捕虜としてアテネに連れて来られたアルシータとパラムンはテーベの王族で従兄弟同士だった。最初は励まし合っていた二人だが、牢獄の窓から偶然見た美女エメリー(セーセウスの妃イポリタの妹)にともに恋をし、不和になる。アルシータは国外追放になるがアテネに戻り、パラムンは脱獄。偶然再会して争っているところをセーセウス公に見つかり、100対100の大がかりな決闘を提案される。そして、戦闘がはじまるが??。(Wikipediaより)」とものです。エメリーというのは、名前からしても、イナンナのことですよねえ? と思う。結論から言うと、パラムンはエムリーと結婚してめでたしめでたし、結婚できなかったアルシータは死ぬ、とそういう話です。要するに、「デンマーク人の事績」のイングランド版です。17世紀にはウィリアム・シェイクスピアとジョン・フレッチャーが、この話を元にして、共作の戯曲『二人の貴公子』を書いた、ということで。この「二人の貴公子」をミュージカルにして、今、絶賛上演中だよね? 主役の二人の男子のうちの一人が光ちゃんなんじゃん??@@ と思うわけで。絶対、偶然じゃないでしょ、それ。と始めて思うわけで。あんまり、兄さん達の個別の具体的な「お仕事」にはそれほど深くは興味を持たないわけで。持ったところで、見に行けるわけではなし?? だし、と思っているからなわけですが。チョーサーは、読んでみたい、と思ったことはあったけれども、読んだことはなかったーーー、と思う。

双子が争って、片方が死ぬ話なら、「テーバイの七将攻め」が思い浮かぶのですけれども、と言ったら、7番目の兄さんに「ああ、色気のない方のやつね。」と言われる気がするわけでー;。七将攻めは色気はないけど、「神の恩寵を得た方が勝つ」という点は一致してるでしょうがーー、と思う。そして、そういうことからいえば、同じくシェークスピアの「ハムレット」も同系統の話ですよねえ? と思う。でも、そうしたら、「ハムレットは縁起悪すぎるでしょ、3人とも死んで、しかも誰も生き返らない」と言われる気がするわけでー;。7番目の兄さんには、「赤ずきんちゃんには、2つのパターンがある。赤ずきんちゃんとおばあさんが狼に食べられて、そのままの話と、ペローの童話のように狩人に助けて貰って、狼の腹の中から出して貰うパターンと。「狼の腹の中」とは「黄泉の国」のことです。赤ずきんを助け出した狩人のことを忘れないでね。」と言われる気がするわけで。さあ、今のところ、狼の腹の中の掃除で忙しい気がするわけですがー;。赤ずきんちゃんっていうのは、「イナンナの冥界下り」が民間伝承化したものだって今知ったよ、赤ずきんちゃんってイナンナのことだったんだーーー、と思うわけですが。でも、たいていの兄さん達は、廉君のことを「さすがに仕事が早い」と言って褒め称える気がするわけで。要するに西欧の「羊トーテム」には2種類あって、その区別がつくようにならないといけない、ってそういうことですよねえ? と思う。その2つは、兄弟のように似ているけれども、別のものなわけだ。そして、「父系の羊トーテム」の方が、親戚一同の方、ということで。一族郎党のやらかしてきたことが、世界中で語り草になっているんだなあ、と思ったわけなのですが-;。