昨夜は特に夢も見ず。天気予報では午後から雨ということだったのだけれど、なかなか降り出さなかったので、だいたい1日分の仕事ができた。
殷代の古代中国では、「媚女」という巫女がいて、この媚女が大勢、戦争の際に、軍隊の戦闘に立って、まず相手を呪ってから戦ったのだそうです。そして、負けた方の媚女は、まず一番最初に殺されてしまったらしいです。霊能力の強い、とされる女性の魂を、まず「食べる」べき、とされたのかもしれません。でも、彼女たちは、生きているときだって、王のために戦う、というか相手を呪っていたわけです、古代中国の皇帝制は、だいたい専制君主だから、媚女達は生きているときでも、王の道具としてその能力を使っていたといえます。だから、戦闘で殺した相手の魂は、個人としては、個人の自分を倒した人の霊力に加わるのかもしれませんけれども、国全体としたら、殺された人達の魂は、王の霊力を高めるための道具、となるのではないでしょうか。そうすると、媚女達は、例え相手を呪い殺したとしても、霊的な彼女たちの取り分は制限されてしまうのではないだろうか、と思うのです。そういう姿は、自ら水牛の悪魔と戦って、倒した悪魔の霊力を食ってしまうドゥルガー女神とは違って、ものすごく隷属的だと思うのです。それは、本来の母系を中心とした女性の姿ではもうない気がします。それなのに、美女達が持っている「霊力」だけが当てにされて他人(特に王)に使われることとなっているのです。「虎と水牛」トーテムの人達は、本来虎である女性が上位で、霊力も優れているはずなのに、その優れているはずの霊力が、いつの間にか、水牛(王)に仕えるための霊力とされてしまっています。要するに、虎と水牛の立場が逆転して、いつの間にか、母系から父系へと文化が移行していることがうかがえます。でも、女性の方が「霊力が高い」とされている名残で、都合の良いところだけが利用されているのです。このような社会の構図が、須佐之男命と親(そして村)の都合だけで、生首にされてしまう奇稲田姫の姿にも投影されているといえます。本来の生首を尊重する文化では、女性の方が上位で尊重されなければならない女神信仰だったのですから、女性だけが生け贄にされることそのものがおかしなこと、となります。
そして、殷という国は、初期の頃はいくつかの部族が王権を持ち回って、王の行う祭祀は交代で行う国だったのです。元々は十の部族から構成されていて、その名前は日本でもおなじみの、「甲、乙、丙、丁・・・」というものでした。そして、ゲイ神話のように、9つの部族が蹴落とされて、最終的に一つの家系だけが台頭したのです。それに加えて、初期の殷王朝は割と女性が尊重された国家でしたが、時代が下るにつれて、鬼神信仰が盛んになり、異民族をかり集めた大規模な生け贄が捧げられるようになりました。今までのことから考えたら、これらの犠牲者は、政治的には、もちろん殷の王権に邪魔な異民族の数を減らすために標的にされた、といえるのかも知れませんが、その一方で「媚女殺し」と同じで、王の霊力を高めるための道具という意味もあったのだと思います。そういう宗教的観点からみると、他に人を殺す理由がなくても、殺せば殺すほど王の霊力は高くなる、すなわち専制君主としての王の力は強くなる、ということになります。で、この場合も、国家の行事として生け贄を捧げているのであれば、実際に処刑している人ではなくて、王の霊力を高めることが目的とされたのだと思います。そして、そういうことが盛んになればなるほど、「鬼神信仰」が盛んになった、と言われています。では、この「鬼神信仰」とはなんなのでしょう? ということになります。
神のことを観念的な存在だとするならば、「良い神」も「悪い神」も観念的なものであって、良いことを好む人なら良い神を拝むし、悪いことを好む人なら悪い神を拝む、ということになると思います。要するに、神をよくするのも、悪くするのも、その人次第、ということになる。その場合「鬼神」とは、「悪い神」のことになるのだと思います。一方、神を生きた人だとするのなら、生きていて優れている人を「神」とするのは分かる。一種のリーダーのようなもの、ともいえます。でも、「鬼」というのは「死者」のことですから、死んだ人を「神」としても、どうなるのだろう? と思うのです。生きた人は、いろんな発明をしたり、みんなをまとめたりして、人々の役に立つかもしれませんが、死んだ人は霊的にはともかく、直接の役には立ってくれないと思うのです。八岐大蛇の神話でも、須佐之男命が大蛇を退治する準備を実際にするのは、死んだ奇稲田姫ではなくて、親のアシナヅチとテナヅチの方です。だから、神が「生きた人」がなるものだとすると、「鬼神」とは何? と思う。そうしたら、「もっと、単純明快でいいんだよ。陰陽の思想なんだから、女性が生者で陽であり穢れ無きものであるなら、男性は死者で陰であり穢れたものなのです。」と言われる気がするわけで@@。陰陽の思想、とは、中国の思想で森羅万象は対局する2つに分けられる、という思想です。母系の文化では、女性が陽で、穢れ無きもの、とされています。あれ? と思う。今、一般的に知られている「陰陽」の思想では、ヒキガエルの女神が月に住むように、女性は「陰」とされています。逆になってる。ということは、誰かが母系の文化を父兄の文化に変えるときに、陰陽の思想も逆にしちゃってる? と思う。そうすると、「その通り」と言われる気がするわけで@@。でも、逆になっていないものもある。だから、思想とか神話的に矛盾や混乱が生じてる、と言われる気がするわけで@@。
でも、そこからすると、「男性の神様」そのものが死者だし、鬼神だよねえ? と思う。そうすると、「原則としてはその通り」と言われる気がするわけで@@。そもそも、男性は水牛で、虎の女神の餌になって、女神を永遠のものにする象徴なんだから、死すべきものの象徴、汚れがあって、移りゆくものの象徴でもある。だから、母系のモソ族では、「穢れた仕事」とか「葬式」とかは、男の人の仕事にされる、と言われる気がするわけで@@。だから、媚女の例なんかは、女性が男性の王のために死ぬ存在とされてしまって、逆に女性の方が「穢れた仕事」をすることになっているから、殷の時代、少なくとも末期には、男神信仰が盛んになって、王はその祭祀者であり、母系から父系への文化の変遷は、完成していた、と見るべき、と言われる気がするわけで。それでも、いざというときに女性の霊力、すなわち女性の「目の力」が頼られるところだけ、母系の女神信仰の名残が、都合の良いように利用されているわけです。でも、殷そのものが、紀元前1000年頃に滅びた、中国でも「伝説的な古い国」です。だから、それ以後の中国の王朝の文化が軒並み父兄の文化であることは当然、となるわけですが、そもそも母系から父系への変化はいつ頃起こったのだろうか、と思う。
紀元前2500年~2400年の、インダス文明のモヘンジョ・ダロから発見された印象の中に、水牛の角を持った異形の男性が、あぐらを組んで瞑想している姿で描かれているものがあります。男性の周囲には、虎、サイ、水牛がかしづいており、その足下の地面の中には鹿が描かれています。この異形の「修行者」は、後のシヴァ神の原型である、と言われています。そして、瞑想しているにもかかわらず、彼は勃起しており、何か性的な力の象徴の持ち主であることもうかがえます。(後のシヴァにもそのような性格はみられます)ここで、注目すべきは、この水牛の角を持った異形の修行者が、中央に大きく描かれ、本来太母であったはずの虎が、彼にかしづいていることです。この修行者は、普通の水牛ではなく、「特殊な力を持った水牛」であって、女神を従えているのです。しかし、本来「水牛」は虎の女神の餌にして、夫となる立場ですから、夫の方が妻よりも上位に来る思想が、この頃には完成しつつあったことがうかがえます。しかも、彼の足下の地面の中には鹿がいますから、この「特殊な力を持った水牛」は、草食動物ではなくて、肉食獣のように獲物を食べる水牛であって、かつ鹿の命は特別に彼を支えるものであって、彼は鹿と同一のものである、ということになります。要するに、父系の神である異形の水牛神は、鹿を食べる肉食獣なのです。でも、本来鹿肉が好物なのは虎のはずです。ですから、この「特殊な力を持った水牛」とは、虎のようにふるまう水牛、といえます。
長江文明の稲作の遺跡の中でも、最古の城跡とされる湖南省の城頭山遺跡(紀元前4500年頃)からは、稲作に関連するとみられる遺跡が発掘され、人骨と焼いた鹿の骨が一緒に出土しています。鹿とは、インダス文明の印象より、「肉食の異形の水牛」の食べ物であり、かつ、それと同じもの、とされていたことが分かりますので、虎のように振る舞う「異形の男性の水牛」に対する信仰が、紀元前4500年前に、稲作の祭祀と併せて存在していたことが分かります。要するに、この時期に長江文明では、父系への移行がすでに開始されていた、とみるべきです。城頭山遺跡からは、サイや牛の骨も生け贄として発見されていますから、インダス文明の印象にわざわざ描かれた動物たちは、もうこの時代には、「肉食の異形の水牛」に習合されて、餌となるべき存在だったあのでしょう。それにしても、「城頭山」という名前も剣呑です。天に近い山に住む母系の神といえば、「虎の女神」のことです。城が建てられた山が、誰かの生首を土台にして建てられたもの、と仮定すれば、この「頭」というのは、虎の女神の頭なのではないのですか? と思う。それは、人でもあり、「異形の男性の水牛」が好む鹿のことでもあると思う。特に稲作に関して、女神一人を殺して、集落全体が繁栄すればそれで良い、という思想は、何も日本神話が書かれた時代に作られたものではない、ということが、ここからも分かります。
一方、稲作ではない文化ではどうなのでしょうか。紀元前3000年頃に古代メソポタミアで書かれた「イナンナの冥界下り(紀元前4000年~3000年頃)」という神話があります。天の女神であるイナンナが、理由は不明ですが冥界に下り、彼女の復活に夫であるドゥムジが大きく関わる、という物語です。これには2パターンあるわけですが、羊飼いのドゥムジと、天の女神であるイナンナが結婚して、直後にどちらかが死んで冥界に下る、というものです。イナンナの随獣は獅子ですので、イナンナはライオンの化身といえます。ドゥムジは羊飼いとされていますから、ドゥムジが羊であるとすると、ドゥムジが先に亡くなる場合は、典型的な母系の神話であって、後のキュベレーとアッティスの神話に通じる話になります。夫であるドゥムジを食い殺すのも、生き返らせるのも妻であるイナンナである、ということになるのです。でも、ドゥムジの名前が問題なのです。ドゥムジの名前の子音公正は「dm」ですから、これはユーノー女神、ひいてはチベットのターラー菩薩であるドゥーマと同じ子音となります。要するに、ドゥムジの名前は本来は、女神のもので、そのトーテムは女性であったのです。それが無理矢理男性に変更されていますので、ドゥムジは羊なのだけれども、普通の羊ではなくて、「肉食の異形の羊」となります。これはどういうことなのだろう? ということになります。
そうしたら、「それも単純な話」と言われる気がするわけで@@。普段の生活では「虎と水牛」は、母系の神であり、虎が上位で、水牛は餌です。でも、実際に虎が子供を生むためには、当然虎と交尾しなければなりません。だから、男は勃起して、女神とHしているときだけ、虎なんですよ。そうして、虎の姿になっているときだけ、彼は女神と同じ世界の住人、要するに「陽」の存在として認められるのです。逆にいえば、勃起してないときは、単なる餌で死者に過ぎないのです@@。だから、「勃起している水牛」とは「雄虎」のことであって、鹿が彼の餌とされるのです、と言われる気がするわけで@@。そういうこと? ということは、「結婚したドゥムジ」も、花嫁と同衾している時だけ、羊ではなくて、「獅子」になるんだ? と思う。そうして、勃起していない時にまで、すなわち死者であるときまで男が妻よりも威張ろうとすることを、「鬼神信仰」っていうんですよ、と言われる気がするわけで@@。イナンナが先に冥界に下る話は、本来死者であるはずの夫が、妻を殺してしまったことになります。要するに父系の神話となります。稲作のない古代メソポタミアでは、紀元前4000年~3000年の間に、母系から父系への変換点があり、それは男性の側が、羊を飼う遊牧民であったことが分かります。まあ、虎信仰を持つ羊飼いといったら、「羌族」ですので。彼らが羊飼いから、水稲耕作民へと本格的に転換する時期に、母系から父系への変換が行われて、それが各地へ伝播したのだろう、と思われます。歴史的には紀元前6000年~5000年くらいの間ではないか、と思う。
でも、それで、母系の文化ではネミの森の祭祀のごとく、「夫」とされたものが老いて力が衰えてしまうと、殺されてしまう理由が分かる。彼は、老いて勃起できなくなったらただの餌である。要するに、本物の種牛と同じで、役に立たなくなったら、肉になるしかない、とそういうことなのだと思う-;。で、その他大勢の異民族なんかは、普通に餌だから、太母の健康維持のためにどんどん食べられてしまう-;。そういう恐ろしい文化が父系に変更されて、陰陽が入れ替わった途端に、今度は夫を失った未亡人が、「用なし」として殺されるようになったのだと思う。稲作の開始が、紀元前8000年頃まで遡るのであれば、父系への変遷の開始点はその頃とも言えるのだろう、と思う。かくして、新興の父系の文化は、先行している母系の文化と戦い、征服し、習合し、離解し、を繰り返して、現在に至り、各地に類似しているけれども、どこか異なっている混沌とした神話を生み出している、とそういうことなのだと思う。
だから、「千と千尋」を見たでしょう。まず、千尋が「生きた人」として再生しないとならない。そうして、夫達と交わらないと、彼らもまた「生者」の側へは行けない。だから、神婚が成立するまでは、誰もが死者のまま、黄泉の国で働き続けなければならない。と6番目の子に言われる気がするわけで。それはまあ分かる。だいたい、「豊穣の虎の女神」の化身なんだから、その通りに餌を食べて、のんびりごろごろしてることが、「仕事」であって、それが「豊穣の女神の象徴」のあるべき姿なんでしょう? というか、それだけでも「なんじゃそりゃ?」と思う。別に優秀な人が、特に選ばれてやるようなことなの、それ? と思うわけですが-;。しかも、「嵐にしやがれ」の2時間スペシャルで、潤ちゃんがジャングルの中で生け贄にされそうになって縛られてる女の子を助ける、というのをやっていて。6番目の子が、生け贄にされそうな女神を助ける存在である、と言いたい、というのは分かる。でも、「あれ、あれ、あの縛りプレイをやりたいから覚えておいて」って言う??? と思うわけで@@。どうしても、6番目の子は妻神に対して、そういうことを言わないと気が済まないらしくて@@。蛇の兄さんは、ま○ことか、ち○ことか、おパンツのことしか言わないし;;。
でも、だから、月のユーノー女神の名前を貰って、外へ出るときは「月の女神」の仮面をかぶった太陽女神、でいないといけないらしいです。でないと、自分以外は死者で溢れているこの世界で、死者に取り囲まれて、自分の霊力を狙われてしまうから、ということらしくて。
そして、古事記の神話というのは、「こうなればいい」という呪術のようなもので、例えば八岐大蛇の神話は、奇稲田姫に「死んでしまえ」と言っている。でも、その一方で、黄泉の国に妻問いに行く大国主命の話もある。大国主命は、苦労の末に、須勢理姫を黄泉の国から連れ出すわけで。須勢理姫とは、子音からいって、インド・イラン神話の太母であるアスラ神群のアディティーのことだと思う。アディティーもまた「虎」のことである、というか、最初「ア」がつく方が「ドゥーマ」よりも古い言い方らしくて。これは「大国主命が黄泉の国から女神を連れ戻してくれればいい」ってそう言ってるってことですよ、と言われる気がするわけで。その名前を貰っているのは、私と7番目の兄さんだし。兄さんは、そもそもの最初からそのつもりだったの? と思う。7番目の兄さんは、「自分の理屈っぽい話が嫌いでなければ、自分の知っていることを寝物語で話してあげるよ。」と言ってくれる。というか、そういう普通そうなことを言ってくれるのは7番目の兄さんだけな気がするわけですが-;。でも、7番目の兄さんは、存在自体が全然普通の人ではないわけです。でも、蛇の兄さんもそういう人なはずなわけですが?? なんだか、変だー、と思うわけです。