本日の日誌

一昨日は特に夢も見ず。昨日は午後になって天が降ったので、作業は午前中のみ。シロアリの木からは、まだシロアリが出て、中でかじる音なんかもするので、少しづつ始末をしていました。

今朝方は夢を見て。なんだか、自分が就職して仕事をしていて、何か作る仕事を分担していて。たいした作業ではなかったわけですが、終わったらみんな集められて、「今回の仕事の功労者はこの人」と言われて潤ちゃんが紹介される夢で。目が覚めて、6番目の子が頑張っているのは知っているけれども、なんで今になって、こんな夢を見たのだろう? と思って。で、そういえば昨日音楽家の兄さんに大量の書類を送ったな、と思い出して。なんだか、もうみんなで回し読みしていそうな気がするわけでー;。ともかく、騒ぎが起きてから「訴訟で勝つにはどうしたら良いか、しか考えて行動していないでしょ。」と言われる気がするわけで。前回の裁判では、ゴタゴタといろいろ書いた中に、「真実が何であるのか知りたい」とかって書いていたけど、今回はそれはないのか。あの文言はどこまで本気だったのか、と聞かれる気がするわけで。だって、前回は何が真実なのかさっぱり分かっていなかったから、それは本音でもあるし、そうでもして粘らないと、きちんと主張もさせてもらえなかったからですよう、と思う。だいたい、裁判長と書記官の行動も完全に変であったし。でも、今回は真実は何なのかはある程度分かっているわけで。でも、「ゴミが埋められているのは呪詛です」って言って、受け付けてくれる裁判所なんてないでしょ、真実とは別に、問題が起きたら、勝ちにいくことのみに集中するのは当たり前、と思うわけで。だいたい、そういう流れを敵も味方も意図して作っているでしょ? 誰が作ってるの? 国主代理なんじゃないの? とそもそも思うわけですが。でも、あの罵詈雑言だらけの文章を弁護士が読んだら、普通は相手はものすごく怒ってると思うでしょ、と言われる気がするわけでー;。あの程度のことが「ほんの挨拶代わり」だと思ってるのは私と土建屋の又従兄弟くらいらしくて-;。そっちの一族郎党の中では、あの程度が挨拶代わりなんですけど? と思う。しかも、「建設会社の方から訴えられるような案件じゃないでしょ。無権代理だろうが、なんだろうが、相当のことをしない限りやったもん勝ちでしょ?」というような内容の文章を読んで、法曹関係者はみんな泣いたらしい-;。弁護士を詐欺の当事者で法廷に引きずり出す、って脅してるし、長野県の担当者の言葉尻を捕まえて、行政訴訟の対象に認定してるし、いやがっている人は多いらしくて-;。なんだかんだ言って、ちゃんと工事しない方が悪いんだし、それを後押ししてる市や県はもっと悪いでしょ、と思う。でも、私としては、できるだけ大騒ぎを起こさないように気を遣っているわけで、だいたい「訴訟を起こす」って騒いだのは、詐欺弁護士の方なんだけど? と思う。その可能性があるなら「勝ち」に行くしかないでしょ、負ける喧嘩なんかしてもつまらないし、と思うだけです。

作業の方は、相変わらずそこそこであって。今日掘ったところからは、アスファルトの塊がたくさん出たのでした。シロアリの木の方は、朝方までクロアリさんたちのシロアリ搬出の作業が続いていたわけですが、午後になってようやく下火になってきた気がします。

鹿の神様の続きですが、太陽の「太」という字は、鹿のことですから、はっきりと太陽のことをトーテムは「鹿」である、と言わなくても、分かる人には太陽とは鹿の神様である、と分かります。でも、天照大神のことを鹿だという記述はどこにもありません。鹿と稲作の関連については、播磨国風土記に女神が鹿の腹を割いて、そこに籾を蒔いたという記述がありますが、そもそも天照大神は高天原に住んでいて人界には降りてきませんから、神が直接稲を蒔く、ということはありません。播磨風土記の女神は、いわゆる国津神というか、直接稲を蒔く女神であって、地母神的な女神であり、早乙女の起源としては播磨風土記の女神のような存在の方が相応しいといえます。でも、天照大神は太陽神ですので、稲作と関連がないわけではありません。記紀神話的には、稲は殺された大気都比売神(古事記、須佐之男命に殺される)あるいは保食神(日本書紀、月夜見尊に殺される)から生じた、とあります。天照大神はそれを取って、人界に下るニニギに渡し、ニニギが籾を蒔いて稲を作った、とありますから、神話的にはこれが稲作の起源になります。神話的には、大気都比売神あるいは保食神といった女神の方が、「死体から稲を生じた」ということで、播磨国風土記の鹿に相当する神といえます。これは広く世界的に分布するハイヌウェレ型神話の一つとも説明されます。そして、「同じ鹿の神」ということで、天照大神、大気都比売神、保食神を「同じ神」と考えると、いずれも「人々に稲を授けた神」とすることが可能であると思います。天照大神は「死す神」とはされていませんが、人間から見れば異界にしか存在しない神、ともいえます。最初から「死んだも同然」の神、といえば言えなくもありません。大嘗祭や新嘗祭といった「秋の収穫の祭り」では、新米を神々に捧げて食べて貰いますから、天照大神から授かった米の一部を、米は神の一部であるから、神にも返す、という儀式と言えます。この場合、天照大神と米は一体のものですから、そういう点からも、天照大神、大気都比売神、保食神を「同じ神」として捉えられる思想、といえると思います。善光寺では年越しの祈年祭に配る餅のことを「からこ」といいます。これも「鹿の児(かのこ)」のことなのではないかなあ、と思う。鹿が穀霊であり、女神であり、神饌である餅の化身ともいえます。

一方、早乙女の行事では、早乙女が田の神に奉仕する存在である、とされています。かつては、田植えの際に「田の神」を田んぼに迎えて、その前で田植えをするし、神に食事を運んだりするのが早乙女、とされていたようです。でも、それだけでなく、早乙女は伝承では「罪もないのに武家に殺される」存在でもある。稲の育成には、雨も欠かせないことから、火雷大神(八大雷神)も稲作の神、雨乞いの神として祀られるとのことです。要するに、田植えの時期に田んぼにやってくる「田の神」「水の神」とは、八大雷神のことではないか、と思うのです。しかし、この神は農耕ではなく、軍神であるときには建御雷神とされる。だから、早乙女は建御雷神に捧げられる犠牲ともされる、要するに軍神(武家)に殺される早乙女でもある、ということなのだと思います。早乙女を鹿神の化身とすれば、建御雷神は鹿神を使役する神であると同時に、殺す神でもあるといえる。しかも、八大雷神は記紀神話では、黄泉の国で死んだイザナミから生まれた神ですから、「死んでいる神」となります。これがメソポタミアの神話であったら、イザナミは雷神を身代わりにして再生する、という神話になるでしょうが、記紀神話ではどちらも「死んだままの神」です。

一方、「火の神」であるカグツチのことですが、この神の名前は明らかに「鹿」を連想させますが、これもやはり「鹿の神」であるとはどこにも記述がありません。しかもカグツチは女神ともされていません。ただ、秋葉神社の「秋葉」が「紅葉」であるとすれば、「鹿と紅葉」の組み合わせとして、カグツチもまた鹿である、ということになります。性別のことを言い出すと、天照大神も実は性別のはっきりしない神であり、伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が男性用の衣装であることから、平安時代にはすでに男性神である、という説が登場していました。ただし、記紀に天照大神が武装した際にわざわざ「男装した」という記述があったり、機織りを仕事としていること、女神と受け取れる記載があることから、「女神」とされているのです。でも、例え男性神でなかったとしても、時に男装したりして、天照大神は男性神としての要素が含まれた女神であるといえます。これは、西欧の神話であれば、キュベレーのように「両性具有」の神として扱うこともできると思います。特に、神のトーテムが鹿であった場合、一般に「角がある鹿」は雄ですので、例え女神であっても、鹿の姿を取るときには男性となる、ということなのだと思う。そうすると、天照大神のトーテムが鹿であった場合、時には天照大神が「男性」として表現されるのも妥当となるのです。その逆に、カグツチは、平素は秋の葉に象徴される鹿(男性)の神であっても、鹿でないときには女性である、ということがあり得ると思います。キュベレーとアッティスの祭祀においては、このような思想から神に仕える男性の神官は、自ら男根を切り落として去勢した、すなわち、男性から女性へと変化した、と言われています。鹿でないときは、彼らは女性であることが正しい姿なのです。そして、「鹿児島」の地名から、この鹿の神は、「火山の神」であることがうかがえます。そして、「太陽」という言葉から、「太陽女神」でもある。火と火山、そして太陽信仰はそれぞれに関連があるものです。(雷神信仰も関連があります。)でも、西欧の例を見ても、太陽神と火の神、火山の神が「同じ女神である」という例はほとんどありません。ヒッタイトでは、「天の太陽神」「地の太陽神」という概念があり、「天の太陽」とは何を意味するのかが誰にでも分かると思います。では「地の太陽」は何か、ということになりますが、ヘバトと同系列の名前を持つキプロスの太母アプロディーテは海の泡から生まれた、とありますので、おそらく彼女の本態は火山とか海底火山であったと思われます。そう考えると「地の太陽」とは、火山のことではないのか、と思われます。「地の太陽女神」は火山の奥底に住む冥界神と考えられているのではないかと思う。でも、こういう「地の太陽」に相当する女神は、普通は「太陽神」とは呼ばず「地母神」として現されます。ヘバトの後裔といえるキュベレーも「大地母神」と呼ばれ、「天の太陽神」としての性質は非常に薄れているのです。でも、日本では火の神と日の神は、特に宮中において「同一視」されます。宮中の賢所では、久遠の忌火が焚かれ、賢所とは、そもそも天照大神を祀るところです。祭祀に用いる食事を煮炊きする火も、この「忌火」と同じものと考えられているはず。ということは、天照大神が火の神でもあり竈の神でもあり、火山の神でもある、ということになりますし、そのトーテムが「秋鹿」と考えられている、ということになります。しかし、カグツチは死したる穢れた神ですから、それで煮炊きしたものは「黄泉の国の食物」であって、穢れたものとなるはずです。田の神である死した八大雷神に、死したるカグツチが作った「黄泉の国」の食物を捧げても、神は再生しません。なぜなら、黄泉の国の食物を食べた者は、生者として再生できないからです。そうするちと、呪いの神在祭だけでなく、大嘗祭でも、どこの新嘗祭でも、人々は「神饌」と称して、「黄泉の国の食物」を食べ続けていることになる。どこもかしこも神も人も「生きた死体」だらけ、ということになります。

それはともかく、早乙女の祭祀は、「田の神である雷神に奉仕する火の女神」という性質があることが分かります。この「火の女神」は鹿の化身でもありますから、彼女の役割は、雷神の乗り物であったり、使いであったり、多岐にわたる、といえます。一般的なハイヌウェレ型神話でが、芋の女神ハイヌウェレは月の女神の化身でもありますし、須佐之男に殺される女神の名が大気都比売神(おおげつひめ)ですから、おそらく地理的に考えて日本古来の芋に関する神話は「殺される月の女神」に関するものだったのではないか、と思います。地方によっては、里芋は月の神様の子供であって、お月見には芋を供えるという風習もあるようです。そのハイヌウェレ型神話の上に、「雷神に殺される火(日)の神」という話が、意図的に重ね合わされて、「早乙女」という祭祀はできあがっているのです。芋類を生み出した女神が「若い娘」であったから、それになぞらえるために、穀霊である「田植えの女」が若い娘、すなわち早乙女に意図的に変更されているのです。

それにしても、「火の神」とか、特に「竈の神」というのは、古来よりどの地域でも神聖視されるもので、それは昔は煮炊きするための火をおこすのも大変であったし、それを適切に火事を起こさないように守っていくのも重要なことだからです。いったん火が完全に消えてしまったら、また最初から火をおこさないといけないからです。そして、太陽女神、火の神、火山の神の大習合状態が、日本の神話といえます。ここにハイヌウェレ型の地母神や、織り姫のような機織りの女神も習合されていますから、天照大神とは、単なる「太陽女神」ではなく、時に「月の女神」の性質までもを内包した単一の大習合女神といえます。完全に人為的に合成した合成神です。そして、それに呼応するように、記紀神話にははっきりと「月の女神」として記された女神はいません。しかし「かぐや姫」の伝承があるくらいですから、「月の乙女」の民間伝承や民間での月の女神に対する信仰は必ずあったはずなのです。これだけの大規模な、各種女神の習合状態は、古代ヒッタイトにおけるヘバト女神以来、というよりも、それを上回る状態、といえます。しかも、西洋から遙か遠く離れたこんな東の果ての島国に、政治的に「神々を習合させる」という思想を持ってきた人達がいる、といえることになります。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日はお手紙を出しに行ったりする。作業の方は、ぼちぼちであって。まだ、ときどきあちこちでシロアリが歩いているのを見かけます-;。

現代では、日本において「鹿の神様」といえば、鹿島神宮の建御雷神の代名詞のように扱われています。そして、三作の伝承にもありますが、建御雷神に関する鹿は、とても大切にされていて、生け贄にされる対象ではありません。しかも、建御雷神は軍神ですから、稲作の豊穣の祭祀に直接関わる立場ではありません。

建御雷神と鹿の関係については、鹿島神宮に伝わる「白鹿に乗って現れる神」の他にも、古事記にも記述があります。『古事記』にける葦原中国平定の段に、天穂日命(あめのほひ)・天稚彦(あめわかひこ)に次ぐ三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際に、伊都之尾羽張神(いつのおはばりしん)もしくは、その神の子の建御雷之男神が推薦されることになります。 天尾羽張神は天安河の水を逆にせき上げて道を塞いでおり、他の神はそこへ行くことができないので、天迦久神が使者として遣わされた、とあります。伊都之尾羽張神は「この御使いには私よりも、私の子供の建御雷之男神を遣わすのがよろしいでしょう」と答えたため、建御雷之男神は天鳥船神と共に葦原中国へ派遣されることになった、とのことです。伊都之尾羽張神とは、剣の神であり、これは、イザナギが所有する神剣(十束剣)の別名とされています。この剣で、イザナギは妻イザナミが黄泉へ行く原因となったカグツチを斬り殺したのです。この時に、剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱が建御雷神とされています。そして、彼らが地上を支配するための使者に立った天迦久神(アメノカクシン)の迦久は鹿児(かこ)の意味で、鹿の神といわれています。 鹿児島という地名がありますから、「鹿児(かこ)」という言葉はその次に何か言葉が続くときが、「こ」の音が濁音になることが分かります。

男性、特に武人にとって、「剣」という自分の武器は、自分と一心同体のものでもあると言えると思います。要するに、剣神・伊都之尾羽張神はイザナギの分身ともいえる。イザナギが軻遇突智(カグツチ)を斬り殺した血から建御雷神が生まれたのですから、建御雷神はカグツチの生まれ変わりの一つ、といえます。一方、焼死したイザナミは黄泉の国へと下ります。イザナギは妻が恋しくて黄泉の国を尋ねますが、そこで妻の体に蛆が沸き、体に八雷神が生じているのを見て、イザナギは逃げ出してしまいます。ところで、「鹿児(かこ)」が鹿のことなら、カグツチの「カグ」はどうなんでしょうか? と思うわけです。鹿児島の桜島は、かつて鹿児島と言ったそうです。それが、県名の由来なのでしょう。ということは、「鹿」には暗に「火山」という意味が神話的に込められていると思われます。カグツチは「火の神」です。そして、カグツチを祀る神社を「秋葉神社」といいます。「秋の葉」とは、紅葉のことなのではないでしょうか? 紅葉の色は火の色に通じるからです。要するに、紅葉に象徴される鹿とは、カグツチのことなんじゃないの? その転生体が建御雷神、ということで、建御雷神が鹿も同然、ということになっているのではないのか、と思うわけです。秋葉神社は、火の神転じて、火防の神とされています。赤い色をした消防車は、まさに秋葉神社のカグツチの化身といえます。(だから、「消防」が味方なのですかね? 私がカグツチだから? と、ようやくここで思うわけです。ここまでたどり着くのが長かったわけです。)

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日はお手紙を出しに行ったりする。作業の方は、ぼちぼちであって。まだ、ときどきあちこちでシロアリが歩いているのを見かけます-;。

現代では、日本において「鹿の神様」といえば、鹿島神宮の建御雷神の代名詞のように扱われています。そして、三作の伝承にもありますが、建御雷神に関する鹿は、とても大切にされていて、生け贄にされる対象ではありません。しかも、建御雷神は軍神ですから、稲作の豊穣の祭祀に直接関わる立場ではありません。

建御雷神と鹿の関係については、鹿島神宮に伝わる「白鹿に乗って現れる神」の他にも、古事記にも記述があります。『古事記』にける葦原中国平定の段に、天穂日命(あめのほひ)・天稚彦(あめわかひこ)に次ぐ三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際に、伊都之尾羽張神(いつのおはばりしん)もしくは、その神の子の建御雷之男神が推薦されることになります。 天尾羽張神は天安河の水を逆にせき上げて道を塞いでおり、他の神はそこへ行くことができないので、天迦久神が使者として遣わされた、とあります。伊都之尾羽張神は「この御使いには私よりも、私の子供の建御雷之男神を遣わすのがよろしいでしょう」と答えたため、建御雷之男神は天鳥船神と共に葦原中国へ派遣されることになった、とのことです。伊都之尾羽張神とは、剣の神であり、これは、イザナギが所有する神剣(十束剣)の別名とされています。この剣で、イザナギは妻イザナミが黄泉へ行く原因となったカグツチを斬り殺したのです。この時に、剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱が建御雷神とされています。そして、彼らが地上を支配するための使者に立った天迦久神(アメノカクシン)の迦久は鹿児(かこ)の意味で、鹿の神といわれています。 鹿児島という地名がありますから、「鹿児(かこ)」という言葉はその次に何か言葉が続くときが、「こ」の音が濁音になることが分かります。

男性、特に武人にとって、「剣」という自分の武器は、自分と一心同体のものでもあると言えると思います。要するに、剣神・伊都之尾羽張神はイザナギの分身ともいえる。イザナギが軻遇突智(カグツチ)を斬り殺した血から建御雷神が生まれたのですから、建御雷神はカグツチの生まれ変わりの一つ、といえます。一方、焼死したイザナミは黄泉の国へと下ります。イザナギは妻が恋しくて黄泉の国を尋ねますが、そこで妻の体に蛆が沸き、体に八雷神が生じているのを見て、イザナギは逃げ出してしまいます。ところで、「鹿児(かこ)」が鹿のことなら、カグツチの「カグ」はどうなんでしょうか? と思うわけです。鹿児島の桜島は、かつて鹿児島と言ったそうです。それが、県名の由来なのでしょう。ということは、「鹿」には暗に「火山」という意味が神話的に込められていると思われます。カグツチは「火の神」です。そして、カグツチを祀る神社を「秋葉神社」といいます。「秋の葉」とは、紅葉のことなのではないでしょうか? 紅葉の色は火の色に通じるからです。要するに、紅葉に象徴される鹿とは、カグツチのことなんじゃないの? その転生体が建御雷神、ということで、建御雷神が鹿も同然、ということになっているのではないのか、と思うわけです。秋葉神社は、火の神転じて、火防の神とされています。赤い色をした消防車は、まさに秋葉神社のカグツチの化身といえます。(だから、「消防」が味方なのですかね? 私がカグツチだから? と、ようやくここで思うわけです。ここまでたどり着くのが長かったわけです。)

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日は薄曇りで作業のしやすい日だったのでした。シロアリの残党がまだどこかに残っているらしくて、少しずつ眼に見えるところに出てきてはうろついています。そういうものも、少しずつ引きずり出しています。

そして昨夜は「ウルトラFES」の後「NEWS ZERO」を見る。今日は、「ウルトラFES」の録画を少し見た後、久しぶりにKAT-TUNのDVDを見る。どちらを見ても、季節柄「せっせと手紙を書かなきゃ。」という気分になる。今回もなんとか頑張って、定時に出すことができそうです。

で、鹿と神話の話の続き。そもそも鹿を神聖視することを始めたのは古代中国でした。6500年前の長江文明の遺跡からは、鹿と抱き合わせで埋められた人骨が発見されており、稲作に関する生け贄の祭祀の跡ではないか、と言われています。鹿は中国全土で神聖視され、その骨を焼いて占いをしたりしていました。それを「太占」といいます。そして、日輪のことを「太陽」と呼びます。「太」は鹿のことですから、天照大神とは、元々中国由来の鹿の太陽女神であったと考えられます。一方、鹿を神聖視する思想は、中央アジアの遊牧民を伝播して西方に伝わりました。特に鹿トーテムへの傾倒が強かったのが、スキタイと呼ばれる人達でした。彼らの古墳からは、大麻とか阿片が発見されています。そこから察するに、彼らは祭祀において、酒だけでなく麻薬も使っていたのだと考えられます。「鹿の神がもたらすものは狂気である」という西欧の思想は、おそらく麻薬を使用したスキタイの祭祀の様子から取り入れられたものなのではないか、と思われます。そして、その祭祀には生け贄の人間を犠牲獣に見立てて狩って殺す、というような残虐な要素が含まれていました。また、キュベレーとアッティスの祭祀のように、男性の信者の男根を切り落として、去勢した者が神に仕える、とか猟奇的な側面もありました。こういうことが、鹿の神に由来されることとされたのですが、その一方でその狂乱のエネルギーは反ローマ思想を持つ人達中心に取り入れられ、紀元前800年頃には、西欧流の鹿信仰が顕著になり始めたのだと思います。これがローマにおける「東方密議」の原点になります。西欧でも古くから鹿は神聖視される動物の一つでしたが、ローマの支配と、スキタイの存在が、紀元前1000年くらいからの西欧における鹿神信仰の立ち位置を決めたのだと思います。

興福寺にある菩提院大御堂というところには「十三鐘」という鐘があって、「三作石子詰伝説」という伝説があるそうです。これは「三作」という子どもが文鎮を鹿に当て、誤って鹿を死なせてしまい、鹿を死なせた者を死罪とする掟を破ったことで、死んだ鹿と一緒に穴に埋められたという伝説で、三作を埋めたという塚が実際にあるそうです。三作は十三歳であったので、それにちなんで「十三鐘」という鐘を作ったとか。そして、息子の死を悲しんだ母親が供養のために植えたのが紅葉の木、と言われているのです。江戸時代に、近松門左衛門がこの伝説を元に浄瑠璃「十三鐘」を書きました。

鹿の肉を「もみじ」と言いますし、花札の十月の絵札は、紅葉にそっぽを向く鹿ですので、どうしてこういう絵柄になったのか、ということには2つの説があって、一つが上記の伝説らしいです。そしてもう一つは有名な、百人一首の猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」という和歌が元になった、という説です。そして、「秋の鹿」には、「秋の鹿は笛に寄る」ということわざがあって、これは秋に鹿は発情期になるので、牝鹿の無い声に似た笛を弾くと牡鹿が簡単に寄ってきて捕まってしまうので、これは「恋に溺れて身を滅ぼすこと」とか「弱みにつけこまれて危険な目にあうこと」のたとえなのだそうです。だから、「秋の鹿」にはあまり、賢くない、というか「間抜け」という意味も暗にあるのです。

三作の伝説は、一応江戸時代の話、という設定になっていますが、近松の時代にすでに伝説であったことから、もっと古い時代の話が元になっていると思われます。人間と鹿を抱き合わせで埋めているところが、長江文明の、おそらく稲作に関する祭祀の形式と類似していますので、元々は古代の日本でも稲作に関して、同様の祭祀があったのではないか、ということをうかがわせる伝説だと、私は思っています。そして、鹿と少年が一体のものとして語られています。ただ、古代の中国ではあまり「生け贄」というものに性差を求めた、とかって聞いたことがありませんので、「若い男性が犠牲になる」という点は西方のキュベレーとアッティスの伝承との類似性を伺わせます。キュベレーはアッティスを常緑樹である松の木に生まれ変わらせました。この時代のアナトリアの男性神は「松」を手にしていることが多いので、常緑樹である松に聖性や永遠性を人々が見いだしていたことが分かります。三作の伝説では、三作の生まれ変わりは紅葉の木、といえますが、紅葉は「散りゆくもの」「はかないもの」の例えでもある気がします。しかも、紅葉の赤い色は血の色に例えられたり、やや不吉なものの気がします。

鹿と血と稲作の関連に関しては、播磨国(今の兵庫県)風土記に記述があります。それによると、女神が生きた鹿を捕らえて、その腹を割き、その地に種を蒔いたら、一晩で苗ができた、という話や、鹿の血を使って田んぼを作るので、川の水を使わない、とかそういう伝承があるそうです。ようするに、鹿の血が稲作に役に立つ、と考えられていたことが分かります。これも長江文明の祭祀と一致する考えです。ただし、ここでは鹿が雄なのか雌なのかははっきりしません。

また、特に西日本だと思うのですが、「早乙女塚」という塚にまつわる伝承があるようです。これは、だいたい、稲を植えた早乙女が、何かの拍子に武士の怒りに触れて、理不尽に殺されてしまう、という伝承です。早乙女とは、稲を受ける若い女性のことで、もちろん若い女性だけが田植えをするわけではないのでしょうが、稲の豊穣に関して、若い娘の豊穣性の霊力を求める祭祀の一種であると思う。だから、古代には若い娘に田植えをして貰うだけでなく、田んぼの豊穣のために若い娘を生け贄に捧げる、ということがあったのかもしれない、と思います。これは、若い娘と鹿と「同じもの」と考えれば、播磨風土記の鹿の伝承と早乙女塚の伝承は、一致し「同じもの」と言えると思います。また、不思議なことに、中国では稲の豊穣性を求めるために、「子供をたくさん産んだ女性」に田植えをして貰う、という習慣があるそうです。要するに、「子供をたくさん産んだ女性」が穀霊の母親ともなって、多くの実をならせるように、という祭祀の一種といえます。普通、このような祭祀は、古くからあればあるほど、稲作の伝播と共に拡がるはずですから、本当は日本の田植えでも、ある程度年配の子だくさんの女性が田植えをしなければならないはずなのです。でも、それが早乙女、すなわち若い娘に変更されてしまっています。それが全国規模であるわけですから、誰か田植えの祭祀に関して権力を持っているものが、「意図的」に変更しているのです。いったい、どういう意味合いがあって変更させられているのか、ということになります。長江文明の稲作文明は、古くは母系の文化ですし、母系の文化は年を経て、特に子だくさんの女性は、出産や家庭に関する経験が豊富であるとして、尊敬されます。そういう経験と豊穣性を備えた女性が、田植えの祭祀から外され、経験の乏しい若い娘が、田植えの祭祀を受け持つこと、そして時には生け贄にされること。それは、それだけで長江文明の時代よりも、女性の地位や立場がこの国で低下していることを示します。経験豊富な女性は、もう尊敬の対象ではないのです。そして、三作の伝承とは対照的に、早乙女の場合、犠牲となるのは女性に限定されます。伝承の中には、夫の身代わりになって妻が殺されてしまう、という話もあるようです。そうすると、この場合の早乙女は春の象徴のような存在でありながら、「恋に溺れて身を滅ぼす」というような「秋の鹿」に象徴されるような存在ともいえます。うちの親は、「秋鹿さんのお祭りは春にやる」と言っていましたし、こういう複雑な意味を持たせれば、春に早乙女の祭祀あるいは、早乙女(秋鹿)を犠牲にする祭祀をするということになって、春に「秋の鹿」の祭りをする、ということに矛盾がなくなるのです。でも、普通に単純に考えて、一番分かりやすい祭祀の形態は「田んぼの豊穣が欲しいから犠牲を捧げる」ということだと思いますので、そこにわざわざ「秋の鹿」などという意味合いを持たせることが、意図的なのです。意図がなければ、普通に「田の神に捧げる犠牲」で済むのです。どうして、こんな「凝った」ことをしたのかは、検証しないといけないと思います。なぜなら、例えば寡婦殉死の制度があるような男系の文化でも、普通は若い娘は殺さないからです。特に古代においては、若い娘の数が減ることは氏族全体にとっての致命傷にもなりかねません。それなのに、なんで、「稲作の祭祀を司る、元母系の文化を持つ権力のある人々」は、敢えてそういう制度を作ったのか、どこからそういう制度のヒントを得たのか、ということになります。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日は薄曇りで作業のしやすい日だったのでした。シロアリの残党がまだどこかに残っているらしくて、少しずつ眼に見えるところに出てきてはうろついています。そういうものも、少しずつ引きずり出しています。

そして昨夜は「ウルトラFES」の後「NEWS ZERO」を見る。今日は、「ウルトラFES」の録画を少し見た後、久しぶりにKAT-TUNのDVDを見る。どちらを見ても、季節柄「せっせと手紙を書かなきゃ。」という気分になる。今回もなんとか頑張って、定時に出すことができそうです。

で、鹿と神話の話の続き。そもそも鹿を神聖視することを始めたのは古代中国でした。6500年前の長江文明の遺跡からは、鹿と抱き合わせで埋められた人骨が発見されており、稲作に関する生け贄の祭祀の跡ではないか、と言われています。鹿は中国全土で神聖視され、その骨を焼いて占いをしたりしていました。それを「太占」といいます。そして、日輪のことを「太陽」と呼びます。「太」は鹿のことですから、天照大神とは、元々中国由来の鹿の太陽女神であったと考えられます。一方、鹿を神聖視する思想は、中央アジアの遊牧民を伝播して西方に伝わりました。特に鹿トーテムへの傾倒が強かったのが、スキタイと呼ばれる人達でした。彼らの古墳からは、大麻とか阿片が発見されています。そこから察するに、彼らは祭祀において、酒だけでなく麻薬も使っていたのだと考えられます。「鹿の神がもたらすものは狂気である」という西欧の思想は、おそらく麻薬を使用したスキタイの祭祀の様子から取り入れられたものなのではないか、と思われます。そして、その祭祀には生け贄の人間を犠牲獣に見立てて狩って殺す、というような残虐な要素が含まれていました。また、キュベレーとアッティスの祭祀のように、男性の信者の男根を切り落として、去勢した者が神に仕える、とか猟奇的な側面もありました。こういうことが、鹿の神に由来されることとされたのですが、その一方でその狂乱のエネルギーは反ローマ思想を持つ人達中心に取り入れられ、紀元前800年頃には、西欧流の鹿信仰が顕著になり始めたのだと思います。これがローマにおける「東方密議」の原点になります。西欧でも古くから鹿は神聖視される動物の一つでしたが、ローマの支配と、スキタイの存在が、紀元前1000年くらいからの西欧における鹿神信仰の立ち位置を決めたのだと思います。

興福寺にある菩提院大御堂というところには「十三鐘」という鐘があって、「三作石子詰伝説」という伝説があるそうです。これは「三作」という子どもが文鎮を鹿に当て、誤って鹿を死なせてしまい、鹿を死なせた者を死罪とする掟を破ったことで、死んだ鹿と一緒に穴に埋められたという伝説で、三作を埋めたという塚が実際にあるそうです。三作は十三歳であったので、それにちなんで「十三鐘」という鐘を作ったとか。そして、息子の死を悲しんだ母親が供養のために植えたのが紅葉の木、と言われているのです。江戸時代に、近松門左衛門がこの伝説を元に浄瑠璃「十三鐘」を書きました。

鹿の肉を「もみじ」と言いますし、花札の十月の絵札は、紅葉にそっぽを向く鹿ですので、どうしてこういう絵柄になったのか、ということには2つの説があって、一つが上記の伝説らしいです。そしてもう一つは有名な、百人一首の猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」という和歌が元になった、という説です。そして、「秋の鹿」には、「秋の鹿は笛に寄る」ということわざがあって、これは秋に鹿は発情期になるので、牝鹿の無い声に似た笛を弾くと牡鹿が簡単に寄ってきて捕まってしまうので、これは「恋に溺れて身を滅ぼすこと」とか「弱みにつけこまれて危険な目にあうこと」のたとえなのだそうです。だから、「秋の鹿」にはあまり、賢くない、というか「間抜け」という意味も暗にあるのです。

三作の伝説は、一応江戸時代の話、という設定になっていますが、近松の時代にすでに伝説であったことから、もっと古い時代の話が元になっていると思われます。人間と鹿を抱き合わせで埋めているところが、長江文明の、おそらく稲作に関する祭祀の形式と類似していますので、元々は古代の日本でも稲作に関して、同様の祭祀があったのではないか、ということをうかがわせる伝説だと、私は思っています。そして、鹿と少年が一体のものとして語られています。ただ、古代の中国ではあまり「生け贄」というものに性差を求めた、とかって聞いたことがありませんので、「若い男性が犠牲になる」という点は西方のキュベレーとアッティスの伝承との類似性を伺わせます。キュベレーはアッティスを常緑樹である松の木に生まれ変わらせました。この時代のアナトリアの男性神は「松」を手にしていることが多いので、常緑樹である松に聖性や永遠性を人々が見いだしていたことが分かります。三作の伝説では、三作の生まれ変わりは紅葉の木、といえますが、紅葉は「散りゆくもの」「はかないもの」の例えでもある気がします。しかも、紅葉の赤い色は血の色に例えられたり、やや不吉なものの気がします。

鹿と血と稲作の関連に関しては、播磨国(今の兵庫県)風土記に記述があります。それによると、女神が生きた鹿を捕らえて、その腹を割き、その地に種を蒔いたら、一晩で苗ができた、という話や、鹿の血を使って田んぼを作るので、川の水を使わない、とかそういう伝承があるそうです。ようするに、鹿の血が稲作に役に立つ、と考えられていたことが分かります。これも長江文明の祭祀と一致する考えです。ただし、ここでは鹿が雄なのか雌なのかははっきりしません。

また、特に西日本だと思うのですが、「早乙女塚」という塚にまつわる伝承があるようです。これは、だいたい、稲を植えた早乙女が、何かの拍子に武士の怒りに触れて、理不尽に殺されてしまう、という伝承です。早乙女とは、稲を受ける若い女性のことで、もちろん若い女性だけが田植えをするわけではないのでしょうが、稲の豊穣に関して、若い娘の豊穣性の霊力を求める祭祀の一種であると思う。だから、古代には若い娘に田植えをして貰うだけでなく、田んぼの豊穣のために若い娘を生け贄に捧げる、ということがあったのかもしれない、と思います。これは、若い娘と鹿と「同じもの」と考えれば、播磨風土記の鹿の伝承と早乙女塚の伝承は、一致し「同じもの」と言えると思います。また、不思議なことに、中国では稲の豊穣性を求めるために、「子供をたくさん産んだ女性」に田植えをして貰う、という習慣があるそうです。要するに、「子供をたくさん産んだ女性」が穀霊の母親ともなって、多くの実をならせるように、という祭祀の一種といえます。普通、このような祭祀は、古くからあればあるほど、稲作の伝播と共に拡がるはずですから、本当は日本の田植えでも、ある程度年配の子だくさんの女性が田植えをしなければならないはずなのです。でも、それが早乙女、すなわち若い娘に変更されてしまっています。それが全国規模であるわけですから、誰か田植えの祭祀に関して権力を持っているものが、「意図的」に変更しているのです。いったい、どういう意味合いがあって変更させられているのか、ということになります。長江文明の稲作文明は、古くは母系の文化ですし、母系の文化は年を経て、特に子だくさんの女性は、出産や家庭に関する経験が豊富であるとして、尊敬されます。そういう経験と豊穣性を備えた女性が、田植えの祭祀から外され、経験の乏しい若い娘が、田植えの祭祀を受け持つこと、そして時には生け贄にされること。それは、それだけで長江文明の時代よりも、女性の地位や立場がこの国で低下していることを示します。経験豊富な女性は、もう尊敬の対象ではないのです。そして、三作の伝承とは対照的に、早乙女の場合、犠牲となるのは女性に限定されます。伝承の中には、夫の身代わりになって妻が殺されてしまう、という話もあるようです。そうすると、この場合の早乙女は春の象徴のような存在でありながら、「恋に溺れて身を滅ぼす」というような「秋の鹿」に象徴されるような存在ともいえます。うちの親は、「秋鹿さんのお祭りは春にやる」と言っていましたし、こういう複雑な意味を持たせれば、春に早乙女の祭祀あるいは、早乙女(秋鹿)を犠牲にする祭祀をするということになって、春に「秋の鹿」の祭りをする、ということに矛盾がなくなるのです。でも、普通に単純に考えて、一番分かりやすい祭祀の形態は「田んぼの豊穣が欲しいから犠牲を捧げる」ということだと思いますので、そこにわざわざ「秋の鹿」などという意味合いを持たせることが、意図的なのです。意図がなければ、普通に「田の神に捧げる犠牲」で済むのです。どうして、こんな「凝った」ことをしたのかは、検証しないといけないと思います。なぜなら、例えば寡婦殉死の制度があるような男系の文化でも、普通は若い娘は殺さないからです。特に古代においては、若い娘の数が減ることは氏族全体にとっての致命傷にもなりかねません。それなのに、なんで、「稲作の祭祀を司る、元母系の文化を持つ権力のある人々」は、敢えてそういう制度を作ったのか、どこからそういう制度のヒントを得たのか、ということになります。