本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。今日は朝から晴れていたわけですが、石やゴミが多いところを掘ったので、作業はなかなか進まなくて。アスファルトの塊も相変わらず出てくるのです。っそいて、石が多い砂質だから、崩れやすくて-;。

それにしても、良く分からないのは、例えば西方では、王は若々しさや猛々しさ、豊穣性の象徴でなければならないので、老いると死なねばならない、とか凶作の年にはその責任を取って死なねばならない、という文化がありました。それと共に、戦争などがあると、敗者は当然、殺されたり、奴隷にされたことと思います。奴隷には言論の自由もなく、好きに生きることもできませんから、彼らのことを「生きた死人」と呼ぶのは分かります。人が自由に生きるものであるならば、奴隷とは「人として自由に生きている」とは言えないからです。でも、では何故全体から見ると、奴隷も王も死なねばならないのかが分からないのです。王というものが、「権力」を持つ者であれば、凶作の時にも、その権力で誰よりも長く生きられるのではないの? とそんな気もするからです。

それに、「死人を使役する」という意味も良く分からない。例えば、イエス・キリストは系統だった自分の「教え」とか「書物」を残して亡くなったわけではないので、彼の死後、弟子達は「イエスがああ言った」とか「こう言った」というような書物を残しました。でも、そういうものは、本当にイエスがい言ったことかどうかは分からない。弟子が、自分が言いたいことを、イエスの言ったことにして書物に書いている、ということはあると思います。そうやって、イエスを利用していることはあると思う。でも、それは間接的に「イエスの言ったこと」を利用しているだけであって、イエスを直接働かせているわけではありません。死者は生きている奴隷とは違いますから、直接働かせることはできないわけです。でも、神話や民話的には、誰かが黄泉の国へ行って、ああした、とかこうした、とかいう話はいくらでも出てきますし、そこからまた生きて戻ってくる、という話もいくらでもあります。その人は、黄泉の国へ行く、ということは「死んでいる」ということですから、それ以上に働こうにも、楽しようにも、何もやりようがないのでは? と思うのですが、神話や民話ではそうではありません。

そして、「女神信仰」という観点から見れば、例えば古代エジプトのネイト、テフヌト、セクメトといった獅子の女神達は、その最盛期においては、その属性の多くは、夜の女神であったり、月の女神であったりしました。でも、エジプト文明のごく初期の紀元前3100年頃まで遡ると、獅子の女神は、太陽光線(蛙の手)を持つ太陽女神として現されます。要するに彼らは、3000年の間に、太陽神から月神へと作り替えられ、元々持っていた太陽光線(蛙の手)は、軍神としての弓矢に変換されました。それでも、古代エジプトでは本来の女神信仰の形が良く保持され、女神が「天」、男神が「地」である、という構図も一部に残されました。彼らの本来の姿は、猛獣である獅子が女神であり、妻であり、太陽であり、天そのものです。その一方、夫は牛であり、女神の獲物であり、食料であり、月であり、大地とされます。彼らが1対となって、世界は構成されるのです。

こういうことがある中で、外へ出たら、太陽女神のままではいけない。西欧の多くの「天の女神達」のように、月の中に隠れて、月の女神のようにならなければいけない、と言われる気がするわけで。だから、ユーノーの名前を取るように、と言われる気がするわけです。ユーノーはローマの主神であるユーピテルの妻とされる女神です。天の女神ですが、月の女神でもあります。でも、そういえば、月は天上に存在するものなのに、なんで「月の神」が「地母神」でもあるのだろう? と思う。そして、ユーノー女神は、「月の女神」ですが、「天の女神」ともされていますので、やや性質が一致しないゆがんだ女神、といえます。でも、ともかく名前というものにも、「魔力」というものは宿るものであるので、私は名前が同じその女神の名前はもらえる、と言われる気がするわけで。でも、そもそもユーノー女神とは何者? と思うのです。他に、あまり類似した女神を見ない気がしていたわけで。

そうしたら、「それはもう勉強したでしょ。ユーノーはローマの対岸のカルタゴの女神であるタニトと同じものでしょ?」と言われる気がするわけで。そういえばそうだ、というか、それではユーノー女神は、タニト、ネイトと同じ神で、隠されたトーテムは獅子であって、「初子を自分の生け贄に捧げよ」と述べてガツガツ焼いて食べていた女神ですよねえ? と思う。要するに捧げられた犠牲は、ライオンの餌で、ユーノー女神もまた「太陽を隠した月の女神」ですよねえ? と思う。そうすると、それだけではない。古代エジプトにおけるネイトは、母性の象徴でもあって。ネイトは定まった夫を持たずに母親となる、典型的な「母系社会の女神」です。母性の強いライオンの性質が、ユーノー女神の「出産と家庭生活を守る女性のための女神」という性質に投影されているわけです。そして、エジプトにおける古い時代のキリスト教、すなわち現在のコプト教の「十字」とは、その初期の頃は「タニトの印」とほぼ同じものが使用されていましたし、現在でも矢を模したかのような「十字」がそこでは使われています。そして、コプト教では母性を象徴する聖母信仰もとても強いのです。要するに、コプトの人々が、キリスト教の中に隠している神とは何ですか? それは、ローマではユーピテル、ギリシャではゼウス・サバジオス、ロシアではペールーンと言われる気がするのですが? と思うと、コプトの人々が隠しているのは、その十字に象徴されるネイトでしょ、と言われる気がするわけで@@。

でも、母系の女神の元が、猛獣であるのなら、羌族の神である西王母は何なのだろう? と思うわけです。彼らは鹿の太陽女神は、「食べ物」くらいにしか思っていません。だいたい、草食動物は肉食動物に「食べられるもの」だから、草食動物のトーテムでは「永遠の神」は表現できないわけです。西欧の太母は、キュベレーのように、若い男を夫、すなわち餌にしては、それを食らって自分だけは永遠に生きる猛獣の神でした。では、自分のとこの神様は本来何なのだろう? と思うのです。そうすると、西王母の使いは白虎なんだから、彼女は虎の女神でしょ、と言われる気がするわけで。言われてみればそうだと思う。でも、それだけでは漠然としている気がするわけです。で、羌族は、ともかくチベット系の民族ですので、チベットにおける虎の位置づけを調べてみました。そうしたら、虎は人々に活力を与える聖なる動物、と考えられていて、僧は虎の皮の敷物の上で瞑想したりしている、とありました。虎が特に聖別される動物であることは分かる。そして、西王母が女神である、ということは、チベットで古くから信仰されていた女神が虎である、ということになるはずです。今のチベットは仏教圏ですが、チベット密教は他の地位の仏教とはやや異なる特殊なものでもあります。それで、チベット仏教で、母性や女性性が強調されるものを調べてみましたら、多羅菩薩(ターラー菩薩)というものがありました。この神は地元ではドゥーマと言われています。ドゥーマとは、子音から見ればユーノーと同じ神と言えます。要するに、西欧のユーノーは猛獣でありライオンですが、東洋の多羅菩薩は猛獣であり虎であり、その起源は名前からみて、ほぼ同じもの、といえます。そして、チベットはインドに近い地域ですから、インドにも多羅菩薩に相当する女神はいるはず、と思って調べてみました。そうしたら、「虎に乗るドゥルガー」という女神が出てきたわけで@@。

ドゥルガーとは、ヒンドゥーでは、シヴァの妃の軍神としての相であって、元はベンガル地方の神で、水牛の悪魔を倒した女神、と言われています。要するに、女神は虎で、その獲物は水牛ということになります。それがけっこう問題であって、ヒンドゥーでは、「牛」は聖なる動物、とされますが、「水牛」は悪魔に属するもの、とされて牛とは区別されるのです。そして、水牛をトーテム、すなわち水牛を犠牲とする人々は、インドよりも東のアジアに住んでおり、祭祀の際には今でもものすごい勢いで水牛を犠牲に捧げるのです。そして、「ライオンと牛」という組み合わせは、西欧では印欧語族の間に広く浸透していて、特に「天の父なる牡牛信仰」は印欧語族の共通した信仰であって、ローマのユーピテルも、ギリシャのゼウス・サバジオスも「牛」なのです。印欧語族はインド方面にも展開していますから、牛を聖なるものと考えるヒンドゥーの思想は、印欧語族由来のもの、といえます。でも、「水牛」をトーテムとする人々は、インド方面に侵入した印欧語族から見れば、先住民族ですので、「虎と水牛」を信仰している人達は、元々印欧語族ではない人達、ということになります。ドゥルガーが水牛の悪魔を倒した、という神話は、印欧語族中心のヒンドゥー化の中で作られたもので、本来はドゥルガーと水牛の神は夫婦であったことは疑いもありません。でも、ドゥルガーはやばいでしょ。血に飢えた彼女は、今でも大量の水牛を生け贄として要求する女神です。ということは、かつて大量の人の生け贄を求めた神でもある、ということになります。というか、ドゥルガーは自分が狩った敵の生首を腰飾りにして身につけるような「首狩り」の女神なので。彼女を信仰している人達は、人食い虎であり、首狩り族ということになります@@。要するに、その発生起源は中国とインドの間の山岳地帯から生じた、典型的な「首狩り族」です。だいたい、ベンガル地方と言えば、20世紀初頭まで実際に人の首を狩ってる「首狩り族」が生活していたところでもあるわけで。彼らも今では首狩りの儀式は行いませんが、水牛の供犠はやはり続けているわけです。要はその人達と、ごくごく遠い親戚ってことじゃん、と思う@@。

というわけで、そもそも「羌族」という言葉が欺瞞的だ、と思う。その人達の草食動物としての本当のトーテムは「水牛」であって「羊」ではないじゃん。「羊」は、彼らの「虎+水牛」の神の単なる餌に過ぎない、といえます。しかも、稲作を始めると、羊に変えていたトーテムを更に、鹿とか蛙に変更しているわけです。そして、あげくの果てに、その王族は、虎も水牛も存在しない日本にやってきているわけだから、日本人に紛れ込んで、日本人のふりをしていたら、彼らの隠されたトーテムが「虎と水牛」であることは、それこそ誰にも知りようがありません。だいたい、周りの日本人は、虎も水牛もどんなものなのか知らないわけですし。

というわけで、総本家がひた隠しにしている、彼らの「起源」ともいえる正体がようやく分かったのでした。だから、私がユーノーの名前を取ることは、ドゥーマ(多羅菩薩)とドゥルガーの名前を取ること、となります。でも、それが私が本来「なるべきもの」でもあったはず。そして、多羅菩薩に関連する神々の分布は広く、エトルリアのティニア、ケルトのタラニス、と続きますので。ユーノー女神の同類項は、印欧語族である、ない、の枠を超えて、非常に広く分布しているんだ、とようやく気がつけたわけなのです。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。今日は朝から晴れていたわけですが、石やゴミが多いところを掘ったので、作業はなかなか進まなくて。アスファルトの塊も相変わらず出てくるのです。っそいて、石が多い砂質だから、崩れやすくて-;。

それにしても、良く分からないのは、例えば西方では、王は若々しさや猛々しさ、豊穣性の象徴でなければならないので、老いると死なねばならない、とか凶作の年にはその責任を取って死なねばならない、という文化がありました。それと共に、戦争などがあると、敗者は当然、殺されたり、奴隷にされたことと思います。奴隷には言論の自由もなく、好きに生きることもできませんから、彼らのことを「生きた死人」と呼ぶのは分かります。人が自由に生きるものであるならば、奴隷とは「人として自由に生きている」とは言えないからです。でも、では何故全体から見ると、奴隷も王も死なねばならないのかが分からないのです。王というものが、「権力」を持つ者であれば、凶作の時にも、その権力で誰よりも長く生きられるのではないの? とそんな気もするからです。

それに、「死人を使役する」という意味も良く分からない。例えば、イエス・キリストは系統だった自分の「教え」とか「書物」を残して亡くなったわけではないので、彼の死後、弟子達は「イエスがああ言った」とか「こう言った」というような書物を残しました。でも、そういうものは、本当にイエスがい言ったことかどうかは分からない。弟子が、自分が言いたいことを、イエスの言ったことにして書物に書いている、ということはあると思います。そうやって、イエスを利用していることはあると思う。でも、それは間接的に「イエスの言ったこと」を利用しているだけであって、イエスを直接働かせているわけではありません。死者は生きている奴隷とは違いますから、直接働かせることはできないわけです。でも、神話や民話的には、誰かが黄泉の国へ行って、ああした、とかこうした、とかいう話はいくらでも出てきますし、そこからまた生きて戻ってくる、という話もいくらでもあります。その人は、黄泉の国へ行く、ということは「死んでいる」ということですから、それ以上に働こうにも、楽しようにも、何もやりようがないのでは? と思うのですが、神話や民話ではそうではありません。

そして、「女神信仰」という観点から見れば、例えば古代エジプトのネイト、テフヌト、セクメトといった獅子の女神達は、その最盛期においては、その属性の多くは、夜の女神であったり、月の女神であったりしました。でも、エジプト文明のごく初期の紀元前3100年頃まで遡ると、獅子の女神は、太陽光線(蛙の手)を持つ太陽女神として現されます。要するに彼らは、3000年の間に、太陽神から月神へと作り替えられ、元々持っていた太陽光線(蛙の手)は、軍神としての弓矢に変換されました。それでも、古代エジプトでは本来の女神信仰の形が良く保持され、女神が「天」、男神が「地」である、という構図も一部に残されました。彼らの本来の姿は、猛獣である獅子が女神であり、妻であり、太陽であり、天そのものです。その一方、夫は牛であり、女神の獲物であり、食料であり、月であり、大地とされます。彼らが1対となって、世界は構成されるのです。

こういうことがある中で、外へ出たら、太陽女神のままではいけない。西欧の多くの「天の女神達」のように、月の中に隠れて、月の女神のようにならなければいけない、と言われる気がするわけで。だから、ユーノーの名前を取るように、と言われる気がするわけです。ユーノーはローマの主神であるユーピテルの妻とされる女神です。天の女神ですが、月の女神でもあります。でも、そういえば、月は天上に存在するものなのに、なんで「月の神」が「地母神」でもあるのだろう? と思う。そして、ユーノー女神は、「月の女神」ですが、「天の女神」ともされていますので、やや性質が一致しないゆがんだ女神、といえます。でも、ともかく名前というものにも、「魔力」というものは宿るものであるので、私は名前が同じその女神の名前はもらえる、と言われる気がするわけで。でも、そもそもユーノー女神とは何者? と思うのです。他に、あまり類似した女神を見ない気がしていたわけで。

そうしたら、「それはもう勉強したでしょ。ユーノーはローマの対岸のカルタゴの女神であるタニトと同じものでしょ?」と言われる気がするわけで。そういえばそうだ、というか、それではユーノー女神は、タニト、ネイトと同じ神で、隠されたトーテムは獅子であって、「初子を自分の生け贄に捧げよ」と述べてガツガツ焼いて食べていた女神ですよねえ? と思う。要するに捧げられた犠牲は、ライオンの餌で、ユーノー女神もまた「太陽を隠した月の女神」ですよねえ? と思う。そうすると、それだけではない。古代エジプトにおけるネイトは、母性の象徴でもあって。ネイトは定まった夫を持たずに母親となる、典型的な「母系社会の女神」です。母性の強いライオンの性質が、ユーノー女神の「出産と家庭生活を守る女性のための女神」という性質に投影されているわけです。そして、エジプトにおける古い時代のキリスト教、すなわち現在のコプト教の「十字」とは、その初期の頃は「タニトの印」とほぼ同じものが使用されていましたし、現在でも矢を模したかのような「十字」がそこでは使われています。そして、コプト教では母性を象徴する聖母信仰もとても強いのです。要するに、コプトの人々が、キリスト教の中に隠している神とは何ですか? それは、ローマではユーピテル、ギリシャではゼウス・サバジオス、ロシアではペールーンと言われる気がするのですが? と思うと、コプトの人々が隠しているのは、その十字に象徴されるネイトでしょ、と言われる気がするわけで@@。

でも、母系の女神の元が、猛獣であるのなら、羌族の神である西王母は何なのだろう? と思うわけです。彼らは鹿の太陽女神は、「食べ物」くらいにしか思っていません。だいたい、草食動物は肉食動物に「食べられるもの」だから、草食動物のトーテムでは「永遠の神」は表現できないわけです。西欧の太母は、キュベレーのように、若い男を夫、すなわち餌にしては、それを食らって自分だけは永遠に生きる猛獣の神でした。では、自分のとこの神様は本来何なのだろう? と思うのです。そうすると、西王母の使いは白虎なんだから、彼女は虎の女神でしょ、と言われる気がするわけで。言われてみればそうだと思う。でも、それだけでは漠然としている気がするわけです。で、羌族は、ともかくチベット系の民族ですので、チベットにおける虎の位置づけを調べてみました。そうしたら、虎は人々に活力を与える聖なる動物、と考えられていて、僧は虎の皮の敷物の上で瞑想したりしている、とありました。虎が特に聖別される動物であることは分かる。そして、西王母が女神である、ということは、チベットで古くから信仰されていた女神が虎である、ということになるはずです。今のチベットは仏教圏ですが、チベット密教は他の地位の仏教とはやや異なる特殊なものでもあります。それで、チベット仏教で、母性や女性性が強調されるものを調べてみましたら、多羅菩薩(ターラー菩薩)というものがありました。この神は地元ではドゥーマと言われています。ドゥーマとは、子音から見ればユーノーと同じ神と言えます。要するに、西欧のユーノーは猛獣でありライオンですが、東洋の多羅菩薩は猛獣であり虎であり、その起源は名前からみて、ほぼ同じもの、といえます。そして、チベットはインドに近い地域ですから、インドにも多羅菩薩に相当する女神はいるはず、と思って調べてみました。そうしたら、「虎に乗るドゥルガー」という女神が出てきたわけで@@。

ドゥルガーとは、ヒンドゥーでは、シヴァの妃の軍神としての相であって、元はベンガル地方の神で、水牛の悪魔を倒した女神、と言われています。要するに、女神は虎で、その獲物は水牛ということになります。それがけっこう問題であって、ヒンドゥーでは、「牛」は聖なる動物、とされますが、「水牛」は悪魔に属するもの、とされて牛とは区別されるのです。そして、水牛をトーテム、すなわち水牛を犠牲とする人々は、インドよりも東のアジアに住んでおり、祭祀の際には今でもものすごい勢いで水牛を犠牲に捧げるのです。そして、「ライオンと牛」という組み合わせは、西欧では印欧語族の間に広く浸透していて、特に「天の父なる牡牛信仰」は印欧語族の共通した信仰であって、ローマのユーピテルも、ギリシャのゼウス・サバジオスも「牛」なのです。印欧語族はインド方面にも展開していますから、牛を聖なるものと考えるヒンドゥーの思想は、印欧語族由来のもの、といえます。でも、「水牛」をトーテムとする人々は、インド方面に侵入した印欧語族から見れば、先住民族ですので、「虎と水牛」を信仰している人達は、元々印欧語族ではない人達、ということになります。ドゥルガーが水牛の悪魔を倒した、という神話は、印欧語族中心のヒンドゥー化の中で作られたもので、本来はドゥルガーと水牛の神は夫婦であったことは疑いもありません。でも、ドゥルガーはやばいでしょ。血に飢えた彼女は、今でも大量の水牛を生け贄として要求する女神です。ということは、かつて大量の人の生け贄を求めた神でもある、ということになります。というか、ドゥルガーは自分が狩った敵の生首を腰飾りにして身につけるような「首狩り」の女神なので。彼女を信仰している人達は、人食い虎であり、首狩り族ということになります@@。要するに、その発生起源は中国とインドの間の山岳地帯から生じた、典型的な「首狩り族」です。だいたい、ベンガル地方と言えば、20世紀初頭まで実際に人の首を狩ってる「首狩り族」が生活していたところでもあるわけで。彼らも今では首狩りの儀式は行いませんが、水牛の供犠はやはり続けているわけです。要はその人達と、ごくごく遠い親戚ってことじゃん、と思う@@。

というわけで、そもそも「羌族」という言葉が欺瞞的だ、と思う。その人達の草食動物としての本当のトーテムは「水牛」であって「羊」ではないじゃん。「羊」は、彼らの「虎+水牛」の神の単なる餌に過ぎない、といえます。しかも、稲作を始めると、羊に変えていたトーテムを更に、鹿とか蛙に変更しているわけです。そして、あげくの果てに、その王族は、虎も水牛も存在しない日本にやってきているわけだから、日本人に紛れ込んで、日本人のふりをしていたら、彼らの隠されたトーテムが「虎と水牛」であることは、それこそ誰にも知りようがありません。だいたい、周りの日本人は、虎も水牛もどんなものなのか知らないわけですし。

というわけで、総本家がひた隠しにしている、彼らの「起源」ともいえる正体がようやく分かったのでした。だから、私がユーノーの名前を取ることは、ドゥーマ(多羅菩薩)とドゥルガーの名前を取ること、となります。でも、それが私が本来「なるべきもの」でもあったはず。そして、多羅菩薩に関連する神々の分布は広く、エトルリアのティニア、ケルトのタラニス、と続きますので。ユーノー女神の同類項は、印欧語族である、ない、の枠を超えて、非常に広く分布しているんだ、とようやく気がつけたわけなのです。