本日の日誌

昨夜はまたなんだか夢を見て。夢の中で、会社を経営?だかして、潤ちゃんと光一君と一緒に働いている、という夢で。なんだか、6番目の子と、7番目の兄さんとは、いずれそんな感じになるのかなあ、と思う。

午前中は、なんだかしとしとポツポツと雨が降っていたので、作業はお休みして、メガネを買いに行く。以前にメガネを作ったのは4年も前で、もうレンズが傷だらけでボロボロになって、かすみがかかったようになって見えにくくなっていたので。おかげでずいぶん視界が明るくなって。

昼寝をしていたら、また夢を見て。なんだか、自分がまだ学生で、遊びに来た友達を、自分で飛行機を運転して送る、というような夢で。目が覚めて、やっぱり「羽衣」を買うように、ということなのかなあ、と思う。

早乙女の風習にあるような、「雷神に仕える日(火)の神」とは、どういうことなのでしょう、となります。日本の神話では、軍神である建御雷神と、田の神である八大雷神が、そもそも同じ「鹿の神」として扱われているように感じます。建御雷神といえば「鹿島の神」ですし、鹿がこの神の象徴といえます。一方、播磨国風土記の記載のように、女神が腹を割いて、その血で田んぼを作った、と言われる鹿が、早乙女ではなくて、人としても「雄」であれば、この雄鹿もまた稲を育てる「田の神」といえます。だから、細かな伝承や神話の断片を集めていくと、早乙女という若い娘こそが、「田の神(男性)に捧げられる日(火)の神である鹿」とも受け取れますが、その一方でこの「鹿」を男性とみると、「女神に殺される鹿」でも良いし、「建御雷神」でも良い、ということになります。要するに、「田にまつわる鹿」は、女性でも男性でも解釈可能であって、むしろその2つの伝承が組み合わされ、重ね合わされている状態、といえます。それを裏付けるように、早乙女は田んぼで非業の死を遂げますが、三作の伝説のように、男の子が殺されるバージョンも残されているからです。しかも、三作の伝承は興福寺に残るものですから、藤原氏の本来の地元が常陸国であることを考えると、三作が建御雷神に重ね合わされていることは明らかです。男の子が殺される場合のモデルは単純明快で、元はキュベレーとアッティス型の神話といえます。紀元前後に発生した原始キリスト教は、あっという間にユーラシア大陸全土に広まりましたから、エフェソス発のキュベレーとアッティス型の神話が古代の日本に入り込んできている、ということはあり得ることで、不思議なことではありません。でも、エフェソス発の原始キリスト教が入ってきている、ということは、ローマ発の原始キリスト教も入ってきている可能性が高い、ということです。そこで、「田の神と早乙女」を考察してみます。

そもそも、以前にも書きましたが、日の女神と、火の女神は関連性があっても、西欧では、ほとんどの場合「同じ神」とは認められません。それは男性形の雷神も同様であって、軍神としての雷神はたいてい最高神としての地位を与えられますが、農業の豊穣に関わる神の地位は低くなります。それは、西欧の階級社会において、遊牧民から発達した人々の神は軍神となり得ても、農業の豊穣をもたらす神では、そもそも「ない」からです。遊牧民は農耕を行わないので、農業における豊穣はそれほど重要視しません。その一方で、農耕民は農業の豊穣をもたらす神を大切にしますから、遊牧民系の騎馬民族が農耕民を征服した場合、当然軍神が上位に来て、農耕民の神は下位の神、下手をすると奴隷の神にされてしまうわけです。そもそもの、発生起源が異なるので、軍神系の雷神と、農耕民の神は、彼らの階級が異なる限り習合のしようがないのです。でも、キリスト教のような一神教は例外であって、1つの神が軍神でもあり、農耕の神でもあるのです。要するに、古代日本の雷神信仰そのものが、多神教的というよりは、一神的であって、原始キリスト教の影響がうかがえるものといえます。そして、男性形の雷神が上位にくる、ということはエフェソス発の信仰でなく、ローマ発の信仰、ということになります。ローマの主神である雷神はユーピテルですが、それに仕える「火(日)の女神」とはなんなのか、ということになります。それはもちろん「ウェスタ」ということになります。古代ローマにおけるウェスタに対する信仰や伝承は非常に独特と言えます。竈の火の女神であるウェスタは当然重要な神でもありますが、男性中心の古代ローマの思想では、女性は男性の所有物ですから、ウェスタも当然ユーピテルの所有物ということになります。古代ローマには「ウェスタの巫女」という制度があり、これは国家鎮守のためのウェスタの人ともし続けるのが役目の未婚の女性が務めるものでした。勤めを果たした後は、女性は結婚し、社会的にも尊敬されましたが、巫女である間は結婚できませんし、男性と通じたら、それだけで巫女失格とされて殺されることとなりました。また、ウェスタの巫女そのものが社会的地位が高く扱われ、いろんな場面で男性と同等の立場を得、罪人を赦免する権利等もありましたが、その代わりに、ローマという国家になにか一大事があったときには、巫女に責任があるとして、地面に埋められ、生け贄となることとされていました。伝承でも、ローマを建国したロームルスとレムルスの母親はウェスタの巫女であって、神の子を宿して二人を生むわけですが、そのために苦労をしたとか、殺された、とか言われています。だから、ロ-ムルスとレムルスの母親の伝承そのものが、「ローマのために犠牲になるウェスタ」の起源の伝承でもあり、そういうことを正当化するための伝承ともいえます。ローマ人の母となる者は、ローマのためにその身を捧げないといけない、ということです。これは、男系中心の印欧語族に端を発する「寡婦殉死」にその起源の一つがある制度といえます。でも、ローマのために犠牲になるのは、未婚の若い女性とされるのですから、単なる「寡婦殉死」とはいえません。そして、古代の西欧における多神教は、部族間の位置を現すことが多いわけですから、そういう点からみれば、ユーピテルを頂く人々が、母系のウェスタの部族を征服して、母系の習慣を手放すか、ローマ人の母となるかを選べ、と迫っていることになります。純粋な母系の人々は、「生涯未婚」であって、未婚のまま子供を生みます。ウェスタの制度は、未婚のまま母になることを「許さない」と言っているも同然ですし、そういう母系の文化の人々を奴隷も同然にみなして、ローマになにかあったら、ローマ人の代わりに生け贄になって貰う、という、そういう制度が古代ローマにおける「ウェスタの巫女」なのです。しかも、ウェスタのトーテムはロバです。古代の西欧におけるロバは、馬よりも古い時代の聖獣であって、ウェスタの信仰がそれだけ古いものであることを示してもいますが、ロバは西欧では「まぬけなもの」「頑固なもの」の代名詞でもあるのです。要するに、ウェスタのトーテムがロバであるということは、ウェスタの人々が「まぬけな馬鹿」と見下されている証拠、ともいえます。古代日本における鹿の神が「秋の鹿(間抜けな馬鹿)」と言われているのと、どう違うのか? ということになります。だから、結局、こういう女性を小馬鹿にした神話や伝承は、ローマから持ってきたものを、そのまんな流用しただけでしょ? と言いたくなるわけです。

でも、そこで、ぶつかる問題が一つあるのです。古代ローマにおけるウェスタは「竈の女神」であって、「太陽女神」ではないのです。では、太陽と全く関係ないのかというとそうではないのです。古代エジプトにはウアジェトというコブラの女神がいて、この神は火の神でもあるのです。なぜ、火の神なのかというと、コブラに噛まれた跡が、火で焼かれるように感じるかららしくて。で、ウアジェト女神はメソポタミアに移動するとウットゥというれっきとした太陽女神になるわけで、しまいには「ウットゥ」という言葉が固有名詞ではなくて、「太陽」をさす一般名詞として扱われるほど太陽そのものであったわけです。ウェスタは子音的にウァジェト、ウットゥに通じる女神ですから、古代ローマでは竈の中にちまちまと押し込められていたシンデレラであったかもしれませんが、地中海周辺地域全体からみれば、広く、良く知られた太陽女神でした。そういうウェスタに対する信仰や思想が、そのまま「田の神と火(日)の神である早乙女」の関係に移し替えられた、とすると、移し替えたのは単なるローマ人ではない、広く地中海周辺地域の神々や宗教を研究して良く知っている人が持ち込んだもの、といえます。そして、古代の日本では、そもそもは鹿は扶余のトーテムでもある神聖な動物ですから、そういうものを馬鹿にした「秋の鹿」に移し替えるためには、当然、鹿を神聖視していた人達のトップが許可を出して行ったこと、といえます。許可がなくてよそ者がそんなことをしたら、あっという間に弱小勢力のうちに潰されてしまうに決まっているからです。しかも、注目すべきは、雷神が鹿の軍神であると同時に、鹿の農耕神としても扱われている、ということです。古代ローマで、農業の豊穣をもたらすのは、サートゥルヌスですが、これは「奴隷の神」も同然ですので、ローマ人であったら、ユーピテルとサートゥルヌスを習合させるなんてことはしないし、表向き、便宜的にそうしても、その二つの区別は明確につけるはずです。でも、それらもまとめて「秋の鹿(まぬけ)」にまとめてしまっているところに、ローマ人に対する悪意も感じるわけで。だから、これらの神話の作成に関して、主導権を握っているのは、ローマ人なのか、それとも「稲作の祭祀」を牛耳っている王家なのか、ということになると、王家の方、となるわけです。なぜなら、ユーピテルのことですら小馬鹿にして、奴隷の神と習合させてしまっているからです。それは、あなたが今やってることとどこが違うの。相手が訴えられないことを知っていて、小馬鹿にして更に、相手を100%の悪者にしようとして、日々情け容赦なく、証拠固めをしてるでしょ。お母さんのように、「働いてくれた分だけは支払いたい」なんて、そういう優しいことは言わない悪巧みの得意な性格は、蛙の王家の気性そのものでしょうが、と言われる気がするわけでー;。最初に私達の方を小馬鹿にしてくれたのはむこうなんで。今だって、困ってるのは私達なんだし。「眼には眼を、歯には歯を」で何が悪いの? 私達だって働いた分は支払って貰いたいんだけど、と思うわけでー;。こう、と決めたら、信用できない相手なんか、利用するだけ利用して、自分たちの保身の役に立てて何が悪いのか、とどっかの王家の遠いご先祖様はそう言って、ユーピテルとサートゥルヌスを勝手に習合させてしまって、ユーピテルも奴隷の神にしてしまったらしいー;。自分で我ながら「自分だったら言いそうなことだ」と微妙に思うわけですが-;。

だけど、蛙の王家の人達は、余所の人達の神様を好き勝手に利用して、みんな「死人」にしてしまっていますけど、なんで、彼らだけがそういうことが可能なのですかねえ? と思う。だって彼らの神は、太陽女神で蛙黽(カエル、あぼう)でしょ? と思う。でも、そうすると、彼らは、そのことを隠してるでしょ。中国で蛙の女神といえば、月の女神のことです。で、古代エジプトのヘケトとか、有名な蛙の女神はすべからく「月の神」であって、太陽女神ではない。それは、要するに、ごくごく古い時代に、農耕と蛙の女神との祭祀が各地に伝播しだした初期の時代に、「蛙の太陽女神」を勝手に「蛙の月の女神」に変更してしまって、その神を隠してしまった、という証拠です。神話も伝承も祭祀もないし、蛙の王家の人々も自分たちの太陽女神のトーテムは鹿だ、なんて言っているから、蛙の太陽女神を呪おうと思っても呪えない。ヘバトとか、クババとか、古いメソポタミアの太陽女神達は名前からいえば、蛙黽の神が変化したものであることは明らかなのだけれども、彼女たちのトーテムはもはや蛙ではない。だから、蛙を呪っても神を呪えない、神は隠されて、どこにもいないことにされているから、と言われる気がするわけで@@。王家はそうやって、自分たちがよそから呪われたり、利用されたりしないように守っているわけです。太陽女神が鹿だっていうのは、表向きのことで、実際は自分たちでもそのことを馬鹿にしてるくらいなわけで@@。それで、死んだ神に死んだ神を食わせて、稲を作らせたり、五穀豊穣を願ったりするから、田や畑で取れたものは、全部「黄泉の国」の食べ物になってしまうわけでー;。で、自分たちは祭祀にかかわらず、「生者の食べ物」しか食べない、と-;。

だから、諏訪大社の残している「蛙狩神事」こそが正しい神事なんですよ。穀霊の神のトーテムは、蛙なんだから、太陽神が死にゆく年の始めに、その年始めてみつけた「生きた蛙」、すなわち神の一部である「生きたもの」を神に捧げて、神を生者の世界に生き返らせよう、という神事です。蛙はトーテムとして穢れていないから、「生者の側のもの」です。神の一部を神に返して、新たな年の穀霊を生者の側に復活させようとしているのです。あれは狩猟民の祭祀ではなくて、れっきとした農耕に関わる祭祀だし、呪いの新嘗祭があふれているこの国で、唯一というほどの「正しい祭祀」といえるのです、と言われる気がするわけで@@。では、それは日本中のお米を「黄泉の国の食べ物」に変えようとする呪術に対する、唯一の対抗呪術ですねえ? と思う。だから、そこに関するところだけは、祭祀に関わっても「死人」じゃないんだ? と思う。でも、それは同時にローマのサートゥルヌスを再生させる祭祀にもなるはず。だって、サートゥルヌスだって、子音のとおり、もとはヘケトと同じ系統の名前を持つ神で、隠されたトーテムは蛙のはずだし、サートゥルナーリアが冬至に併せて行われる、ということは彼は月神ではなく、太陽神であったはず、と思う。すなわち、それはローマの奴隷を「真に解放するための祭祀」にもなり得るはず。どうりで、サートゥルヌスの者たちの期待が寄せられるわけだ。彼らの神もまた、太陽神で「蛙」であることを知ってるからなんだー、と思ったのでした。

本日の日誌

昨夜はまたなんだか夢を見て。夢の中で、会社を経営?だかして、潤ちゃんと光一君と一緒に働いている、という夢で。なんだか、6番目の子と、7番目の兄さんとは、いずれそんな感じになるのかなあ、と思う。

午前中は、なんだかしとしとポツポツと雨が降っていたので、作業はお休みして、メガネを買いに行く。以前にメガネを作ったのは4年も前で、もうレンズが傷だらけでボロボロになって、かすみがかかったようになって見えにくくなっていたので。おかげでずいぶん視界が明るくなって。

昼寝をしていたら、また夢を見て。なんだか、自分がまだ学生で、遊びに来た友達を、自分で飛行機を運転して送る、というような夢で。目が覚めて、やっぱり「羽衣」を買うように、ということなのかなあ、と思う。

早乙女の風習にあるような、「雷神に仕える日(火)の神」とは、どういうことなのでしょう、となります。日本の神話では、軍神である建御雷神と、田の神である八大雷神が、そもそも同じ「鹿の神」として扱われているように感じます。建御雷神といえば「鹿島の神」ですし、鹿がこの神の象徴といえます。一方、播磨国風土記の記載のように、女神が腹を割いて、その血で田んぼを作った、と言われる鹿が、早乙女ではなくて、人としても「雄」であれば、この雄鹿もまた稲を育てる「田の神」といえます。だから、細かな伝承や神話の断片を集めていくと、早乙女という若い娘こそが、「田の神(男性)に捧げられる日(火)の神である鹿」とも受け取れますが、その一方でこの「鹿」を男性とみると、「女神に殺される鹿」でも良いし、「建御雷神」でも良い、ということになります。要するに、「田にまつわる鹿」は、女性でも男性でも解釈可能であって、むしろその2つの伝承が組み合わされ、重ね合わされている状態、といえます。それを裏付けるように、早乙女は田んぼで非業の死を遂げますが、三作の伝説のように、男の子が殺されるバージョンも残されているからです。しかも、三作の伝承は興福寺に残るものですから、藤原氏の本来の地元が常陸国であることを考えると、三作が建御雷神に重ね合わされていることは明らかです。男の子が殺される場合のモデルは単純明快で、元はキュベレーとアッティス型の神話といえます。紀元前後に発生した原始キリスト教は、あっという間にユーラシア大陸全土に広まりましたから、エフェソス発のキュベレーとアッティス型の神話が古代の日本に入り込んできている、ということはあり得ることで、不思議なことではありません。でも、エフェソス発の原始キリスト教が入ってきている、ということは、ローマ発の原始キリスト教も入ってきている可能性が高い、ということです。そこで、「田の神と早乙女」を考察してみます。

そもそも、以前にも書きましたが、日の女神と、火の女神は関連性があっても、西欧では、ほとんどの場合「同じ神」とは認められません。それは男性形の雷神も同様であって、軍神としての雷神はたいてい最高神としての地位を与えられますが、農業の豊穣に関わる神の地位は低くなります。それは、西欧の階級社会において、遊牧民から発達した人々の神は軍神となり得ても、農業の豊穣をもたらす神では、そもそも「ない」からです。遊牧民は農耕を行わないので、農業における豊穣はそれほど重要視しません。その一方で、農耕民は農業の豊穣をもたらす神を大切にしますから、遊牧民系の騎馬民族が農耕民を征服した場合、当然軍神が上位に来て、農耕民の神は下位の神、下手をすると奴隷の神にされてしまうわけです。そもそもの、発生起源が異なるので、軍神系の雷神と、農耕民の神は、彼らの階級が異なる限り習合のしようがないのです。でも、キリスト教のような一神教は例外であって、1つの神が軍神でもあり、農耕の神でもあるのです。要するに、古代日本の雷神信仰そのものが、多神教的というよりは、一神的であって、原始キリスト教の影響がうかがえるものといえます。そして、男性形の雷神が上位にくる、ということはエフェソス発の信仰でなく、ローマ発の信仰、ということになります。ローマの主神である雷神はユーピテルですが、それに仕える「火(日)の女神」とはなんなのか、ということになります。それはもちろん「ウェスタ」ということになります。古代ローマにおけるウェスタに対する信仰や伝承は非常に独特と言えます。竈の火の女神であるウェスタは当然重要な神でもありますが、男性中心の古代ローマの思想では、女性は男性の所有物ですから、ウェスタも当然ユーピテルの所有物ということになります。古代ローマには「ウェスタの巫女」という制度があり、これは国家鎮守のためのウェスタの人ともし続けるのが役目の未婚の女性が務めるものでした。勤めを果たした後は、女性は結婚し、社会的にも尊敬されましたが、巫女である間は結婚できませんし、男性と通じたら、それだけで巫女失格とされて殺されることとなりました。また、ウェスタの巫女そのものが社会的地位が高く扱われ、いろんな場面で男性と同等の立場を得、罪人を赦免する権利等もありましたが、その代わりに、ローマという国家になにか一大事があったときには、巫女に責任があるとして、地面に埋められ、生け贄となることとされていました。伝承でも、ローマを建国したロームルスとレムルスの母親はウェスタの巫女であって、神の子を宿して二人を生むわけですが、そのために苦労をしたとか、殺された、とか言われています。だから、ロ-ムルスとレムルスの母親の伝承そのものが、「ローマのために犠牲になるウェスタ」の起源の伝承でもあり、そういうことを正当化するための伝承ともいえます。ローマ人の母となる者は、ローマのためにその身を捧げないといけない、ということです。これは、男系中心の印欧語族に端を発する「寡婦殉死」にその起源の一つがある制度といえます。でも、ローマのために犠牲になるのは、未婚の若い女性とされるのですから、単なる「寡婦殉死」とはいえません。そして、古代の西欧における多神教は、部族間の位置を現すことが多いわけですから、そういう点からみれば、ユーピテルを頂く人々が、母系のウェスタの部族を征服して、母系の習慣を手放すか、ローマ人の母となるかを選べ、と迫っていることになります。純粋な母系の人々は、「生涯未婚」であって、未婚のまま子供を生みます。ウェスタの制度は、未婚のまま母になることを「許さない」と言っているも同然ですし、そういう母系の文化の人々を奴隷も同然にみなして、ローマになにかあったら、ローマ人の代わりに生け贄になって貰う、という、そういう制度が古代ローマにおける「ウェスタの巫女」なのです。しかも、ウェスタのトーテムはロバです。古代の西欧におけるロバは、馬よりも古い時代の聖獣であって、ウェスタの信仰がそれだけ古いものであることを示してもいますが、ロバは西欧では「まぬけなもの」「頑固なもの」の代名詞でもあるのです。要するに、ウェスタのトーテムがロバであるということは、ウェスタの人々が「まぬけな馬鹿」と見下されている証拠、ともいえます。古代日本における鹿の神が「秋の鹿(間抜けな馬鹿)」と言われているのと、どう違うのか? ということになります。だから、結局、こういう女性を小馬鹿にした神話や伝承は、ローマから持ってきたものを、そのまんな流用しただけでしょ? と言いたくなるわけです。

でも、そこで、ぶつかる問題が一つあるのです。古代ローマにおけるウェスタは「竈の女神」であって、「太陽女神」ではないのです。では、太陽と全く関係ないのかというとそうではないのです。古代エジプトにはウアジェトというコブラの女神がいて、この神は火の神でもあるのです。なぜ、火の神なのかというと、コブラに噛まれた跡が、火で焼かれるように感じるかららしくて。で、ウアジェト女神はメソポタミアに移動するとウットゥというれっきとした太陽女神になるわけで、しまいには「ウットゥ」という言葉が固有名詞ではなくて、「太陽」をさす一般名詞として扱われるほど太陽そのものであったわけです。ウェスタは子音的にウァジェト、ウットゥに通じる女神ですから、古代ローマでは竈の中にちまちまと押し込められていたシンデレラであったかもしれませんが、地中海周辺地域全体からみれば、広く、良く知られた太陽女神でした。そういうウェスタに対する信仰や思想が、そのまま「田の神と火(日)の神である早乙女」の関係に移し替えられた、とすると、移し替えたのは単なるローマ人ではない、広く地中海周辺地域の神々や宗教を研究して良く知っている人が持ち込んだもの、といえます。そして、古代の日本では、そもそもは鹿は扶余のトーテムでもある神聖な動物ですから、そういうものを馬鹿にした「秋の鹿」に移し替えるためには、当然、鹿を神聖視していた人達のトップが許可を出して行ったこと、といえます。許可がなくてよそ者がそんなことをしたら、あっという間に弱小勢力のうちに潰されてしまうに決まっているからです。しかも、注目すべきは、雷神が鹿の軍神であると同時に、鹿の農耕神としても扱われている、ということです。古代ローマで、農業の豊穣をもたらすのは、サートゥルヌスですが、これは「奴隷の神」も同然ですので、ローマ人であったら、ユーピテルとサートゥルヌスを習合させるなんてことはしないし、表向き、便宜的にそうしても、その二つの区別は明確につけるはずです。でも、それらもまとめて「秋の鹿(まぬけ)」にまとめてしまっているところに、ローマ人に対する悪意も感じるわけで。だから、これらの神話の作成に関して、主導権を握っているのは、ローマ人なのか、それとも「稲作の祭祀」を牛耳っている王家なのか、ということになると、王家の方、となるわけです。なぜなら、ユーピテルのことですら小馬鹿にして、奴隷の神と習合させてしまっているからです。それは、あなたが今やってることとどこが違うの。相手が訴えられないことを知っていて、小馬鹿にして更に、相手を100%の悪者にしようとして、日々情け容赦なく、証拠固めをしてるでしょ。お母さんのように、「働いてくれた分だけは支払いたい」なんて、そういう優しいことは言わない悪巧みの得意な性格は、蛙の王家の気性そのものでしょうが、と言われる気がするわけでー;。最初に私達の方を小馬鹿にしてくれたのはむこうなんで。今だって、困ってるのは私達なんだし。「眼には眼を、歯には歯を」で何が悪いの? 私達だって働いた分は支払って貰いたいんだけど、と思うわけでー;。こう、と決めたら、信用できない相手なんか、利用するだけ利用して、自分たちの保身の役に立てて何が悪いのか、とどっかの王家の遠いご先祖様はそう言って、ユーピテルとサートゥルヌスを勝手に習合させてしまって、ユーピテルも奴隷の神にしてしまったらしいー;。自分で我ながら「自分だったら言いそうなことだ」と微妙に思うわけですが-;。

だけど、蛙の王家の人達は、余所の人達の神様を好き勝手に利用して、みんな「死人」にしてしまっていますけど、なんで、彼らだけがそういうことが可能なのですかねえ? と思う。だって彼らの神は、太陽女神で蛙黽(カエル、あぼう)でしょ? と思う。でも、そうすると、彼らは、そのことを隠してるでしょ。中国で蛙の女神といえば、月の女神のことです。で、古代エジプトのヘケトとか、有名な蛙の女神はすべからく「月の神」であって、太陽女神ではない。それは、要するに、ごくごく古い時代に、農耕と蛙の女神との祭祀が各地に伝播しだした初期の時代に、「蛙の太陽女神」を勝手に「蛙の月の女神」に変更してしまって、その神を隠してしまった、という証拠です。神話も伝承も祭祀もないし、蛙の王家の人々も自分たちの太陽女神のトーテムは鹿だ、なんて言っているから、蛙の太陽女神を呪おうと思っても呪えない。ヘバトとか、クババとか、古いメソポタミアの太陽女神達は名前からいえば、蛙黽の神が変化したものであることは明らかなのだけれども、彼女たちのトーテムはもはや蛙ではない。だから、蛙を呪っても神を呪えない、神は隠されて、どこにもいないことにされているから、と言われる気がするわけで@@。王家はそうやって、自分たちがよそから呪われたり、利用されたりしないように守っているわけです。太陽女神が鹿だっていうのは、表向きのことで、実際は自分たちでもそのことを馬鹿にしてるくらいなわけで@@。それで、死んだ神に死んだ神を食わせて、稲を作らせたり、五穀豊穣を願ったりするから、田や畑で取れたものは、全部「黄泉の国」の食べ物になってしまうわけでー;。で、自分たちは祭祀にかかわらず、「生者の食べ物」しか食べない、と-;。

だから、諏訪大社の残している「蛙狩神事」こそが正しい神事なんですよ。穀霊の神のトーテムは、蛙なんだから、太陽神が死にゆく年の始めに、その年始めてみつけた「生きた蛙」、すなわち神の一部である「生きたもの」を神に捧げて、神を生者の世界に生き返らせよう、という神事です。蛙はトーテムとして穢れていないから、「生者の側のもの」です。神の一部を神に返して、新たな年の穀霊を生者の側に復活させようとしているのです。あれは狩猟民の祭祀ではなくて、れっきとした農耕に関わる祭祀だし、呪いの新嘗祭があふれているこの国で、唯一というほどの「正しい祭祀」といえるのです、と言われる気がするわけで@@。では、それは日本中のお米を「黄泉の国の食べ物」に変えようとする呪術に対する、唯一の対抗呪術ですねえ? と思う。だから、そこに関するところだけは、祭祀に関わっても「死人」じゃないんだ? と思う。でも、それは同時にローマのサートゥルヌスを再生させる祭祀にもなるはず。だって、サートゥルヌスだって、子音のとおり、もとはヘケトと同じ系統の名前を持つ神で、隠されたトーテムは蛙のはずだし、サートゥルナーリアが冬至に併せて行われる、ということは彼は月神ではなく、太陽神であったはず、と思う。すなわち、それはローマの奴隷を「真に解放するための祭祀」にもなり得るはず。どうりで、サートゥルヌスの者たちの期待が寄せられるわけだ。彼らの神もまた、太陽神で「蛙」であることを知ってるからなんだー、と思ったのでした。