一昨日は特に夢も見ず。昨日は午後になって天が降ったので、作業は午前中のみ。シロアリの木からは、まだシロアリが出て、中でかじる音なんかもするので、少しづつ始末をしていました。
今朝方は夢を見て。なんだか、自分が就職して仕事をしていて、何か作る仕事を分担していて。たいした作業ではなかったわけですが、終わったらみんな集められて、「今回の仕事の功労者はこの人」と言われて潤ちゃんが紹介される夢で。目が覚めて、6番目の子が頑張っているのは知っているけれども、なんで今になって、こんな夢を見たのだろう? と思って。で、そういえば昨日音楽家の兄さんに大量の書類を送ったな、と思い出して。なんだか、もうみんなで回し読みしていそうな気がするわけでー;。ともかく、騒ぎが起きてから「訴訟で勝つにはどうしたら良いか、しか考えて行動していないでしょ。」と言われる気がするわけで。前回の裁判では、ゴタゴタといろいろ書いた中に、「真実が何であるのか知りたい」とかって書いていたけど、今回はそれはないのか。あの文言はどこまで本気だったのか、と聞かれる気がするわけで。だって、前回は何が真実なのかさっぱり分かっていなかったから、それは本音でもあるし、そうでもして粘らないと、きちんと主張もさせてもらえなかったからですよう、と思う。だいたい、裁判長と書記官の行動も完全に変であったし。でも、今回は真実は何なのかはある程度分かっているわけで。でも、「ゴミが埋められているのは呪詛です」って言って、受け付けてくれる裁判所なんてないでしょ、真実とは別に、問題が起きたら、勝ちにいくことのみに集中するのは当たり前、と思うわけで。だいたい、そういう流れを敵も味方も意図して作っているでしょ? 誰が作ってるの? 国主代理なんじゃないの? とそもそも思うわけですが。でも、あの罵詈雑言だらけの文章を弁護士が読んだら、普通は相手はものすごく怒ってると思うでしょ、と言われる気がするわけでー;。あの程度のことが「ほんの挨拶代わり」だと思ってるのは私と土建屋の又従兄弟くらいらしくて-;。そっちの一族郎党の中では、あの程度が挨拶代わりなんですけど? と思う。しかも、「建設会社の方から訴えられるような案件じゃないでしょ。無権代理だろうが、なんだろうが、相当のことをしない限りやったもん勝ちでしょ?」というような内容の文章を読んで、法曹関係者はみんな泣いたらしい-;。弁護士を詐欺の当事者で法廷に引きずり出す、って脅してるし、長野県の担当者の言葉尻を捕まえて、行政訴訟の対象に認定してるし、いやがっている人は多いらしくて-;。なんだかんだ言って、ちゃんと工事しない方が悪いんだし、それを後押ししてる市や県はもっと悪いでしょ、と思う。でも、私としては、できるだけ大騒ぎを起こさないように気を遣っているわけで、だいたい「訴訟を起こす」って騒いだのは、詐欺弁護士の方なんだけど? と思う。その可能性があるなら「勝ち」に行くしかないでしょ、負ける喧嘩なんかしてもつまらないし、と思うだけです。
作業の方は、相変わらずそこそこであって。今日掘ったところからは、アスファルトの塊がたくさん出たのでした。シロアリの木の方は、朝方までクロアリさんたちのシロアリ搬出の作業が続いていたわけですが、午後になってようやく下火になってきた気がします。
鹿の神様の続きですが、太陽の「太」という字は、鹿のことですから、はっきりと太陽のことをトーテムは「鹿」である、と言わなくても、分かる人には太陽とは鹿の神様である、と分かります。でも、天照大神のことを鹿だという記述はどこにもありません。鹿と稲作の関連については、播磨国風土記に女神が鹿の腹を割いて、そこに籾を蒔いたという記述がありますが、そもそも天照大神は高天原に住んでいて人界には降りてきませんから、神が直接稲を蒔く、ということはありません。播磨風土記の女神は、いわゆる国津神というか、直接稲を蒔く女神であって、地母神的な女神であり、早乙女の起源としては播磨風土記の女神のような存在の方が相応しいといえます。でも、天照大神は太陽神ですので、稲作と関連がないわけではありません。記紀神話的には、稲は殺された大気都比売神(古事記、須佐之男命に殺される)あるいは保食神(日本書紀、月夜見尊に殺される)から生じた、とあります。天照大神はそれを取って、人界に下るニニギに渡し、ニニギが籾を蒔いて稲を作った、とありますから、神話的にはこれが稲作の起源になります。神話的には、大気都比売神あるいは保食神といった女神の方が、「死体から稲を生じた」ということで、播磨国風土記の鹿に相当する神といえます。これは広く世界的に分布するハイヌウェレ型神話の一つとも説明されます。そして、「同じ鹿の神」ということで、天照大神、大気都比売神、保食神を「同じ神」と考えると、いずれも「人々に稲を授けた神」とすることが可能であると思います。天照大神は「死す神」とはされていませんが、人間から見れば異界にしか存在しない神、ともいえます。最初から「死んだも同然」の神、といえば言えなくもありません。大嘗祭や新嘗祭といった「秋の収穫の祭り」では、新米を神々に捧げて食べて貰いますから、天照大神から授かった米の一部を、米は神の一部であるから、神にも返す、という儀式と言えます。この場合、天照大神と米は一体のものですから、そういう点からも、天照大神、大気都比売神、保食神を「同じ神」として捉えられる思想、といえると思います。善光寺では年越しの祈年祭に配る餅のことを「からこ」といいます。これも「鹿の児(かのこ)」のことなのではないかなあ、と思う。鹿が穀霊であり、女神であり、神饌である餅の化身ともいえます。
一方、早乙女の行事では、早乙女が田の神に奉仕する存在である、とされています。かつては、田植えの際に「田の神」を田んぼに迎えて、その前で田植えをするし、神に食事を運んだりするのが早乙女、とされていたようです。でも、それだけでなく、早乙女は伝承では「罪もないのに武家に殺される」存在でもある。稲の育成には、雨も欠かせないことから、火雷大神(八大雷神)も稲作の神、雨乞いの神として祀られるとのことです。要するに、田植えの時期に田んぼにやってくる「田の神」「水の神」とは、八大雷神のことではないか、と思うのです。しかし、この神は農耕ではなく、軍神であるときには建御雷神とされる。だから、早乙女は建御雷神に捧げられる犠牲ともされる、要するに軍神(武家)に殺される早乙女でもある、ということなのだと思います。早乙女を鹿神の化身とすれば、建御雷神は鹿神を使役する神であると同時に、殺す神でもあるといえる。しかも、八大雷神は記紀神話では、黄泉の国で死んだイザナミから生まれた神ですから、「死んでいる神」となります。これがメソポタミアの神話であったら、イザナミは雷神を身代わりにして再生する、という神話になるでしょうが、記紀神話ではどちらも「死んだままの神」です。
一方、「火の神」であるカグツチのことですが、この神の名前は明らかに「鹿」を連想させますが、これもやはり「鹿の神」であるとはどこにも記述がありません。しかもカグツチは女神ともされていません。ただ、秋葉神社の「秋葉」が「紅葉」であるとすれば、「鹿と紅葉」の組み合わせとして、カグツチもまた鹿である、ということになります。性別のことを言い出すと、天照大神も実は性別のはっきりしない神であり、伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が男性用の衣装であることから、平安時代にはすでに男性神である、という説が登場していました。ただし、記紀に天照大神が武装した際にわざわざ「男装した」という記述があったり、機織りを仕事としていること、女神と受け取れる記載があることから、「女神」とされているのです。でも、例え男性神でなかったとしても、時に男装したりして、天照大神は男性神としての要素が含まれた女神であるといえます。これは、西欧の神話であれば、キュベレーのように「両性具有」の神として扱うこともできると思います。特に、神のトーテムが鹿であった場合、一般に「角がある鹿」は雄ですので、例え女神であっても、鹿の姿を取るときには男性となる、ということなのだと思う。そうすると、天照大神のトーテムが鹿であった場合、時には天照大神が「男性」として表現されるのも妥当となるのです。その逆に、カグツチは、平素は秋の葉に象徴される鹿(男性)の神であっても、鹿でないときには女性である、ということがあり得ると思います。キュベレーとアッティスの祭祀においては、このような思想から神に仕える男性の神官は、自ら男根を切り落として去勢した、すなわち、男性から女性へと変化した、と言われています。鹿でないときは、彼らは女性であることが正しい姿なのです。そして、「鹿児島」の地名から、この鹿の神は、「火山の神」であることがうかがえます。そして、「太陽」という言葉から、「太陽女神」でもある。火と火山、そして太陽信仰はそれぞれに関連があるものです。(雷神信仰も関連があります。)でも、西欧の例を見ても、太陽神と火の神、火山の神が「同じ女神である」という例はほとんどありません。ヒッタイトでは、「天の太陽神」「地の太陽神」という概念があり、「天の太陽」とは何を意味するのかが誰にでも分かると思います。では「地の太陽」は何か、ということになりますが、ヘバトと同系列の名前を持つキプロスの太母アプロディーテは海の泡から生まれた、とありますので、おそらく彼女の本態は火山とか海底火山であったと思われます。そう考えると「地の太陽」とは、火山のことではないのか、と思われます。「地の太陽女神」は火山の奥底に住む冥界神と考えられているのではないかと思う。でも、こういう「地の太陽」に相当する女神は、普通は「太陽神」とは呼ばず「地母神」として現されます。ヘバトの後裔といえるキュベレーも「大地母神」と呼ばれ、「天の太陽神」としての性質は非常に薄れているのです。でも、日本では火の神と日の神は、特に宮中において「同一視」されます。宮中の賢所では、久遠の忌火が焚かれ、賢所とは、そもそも天照大神を祀るところです。祭祀に用いる食事を煮炊きする火も、この「忌火」と同じものと考えられているはず。ということは、天照大神が火の神でもあり竈の神でもあり、火山の神でもある、ということになりますし、そのトーテムが「秋鹿」と考えられている、ということになります。しかし、カグツチは死したる穢れた神ですから、それで煮炊きしたものは「黄泉の国の食物」であって、穢れたものとなるはずです。田の神である死した八大雷神に、死したるカグツチが作った「黄泉の国」の食物を捧げても、神は再生しません。なぜなら、黄泉の国の食物を食べた者は、生者として再生できないからです。そうするちと、呪いの神在祭だけでなく、大嘗祭でも、どこの新嘗祭でも、人々は「神饌」と称して、「黄泉の国の食物」を食べ続けていることになる。どこもかしこも神も人も「生きた死体」だらけ、ということになります。
それはともかく、早乙女の祭祀は、「田の神である雷神に奉仕する火の女神」という性質があることが分かります。この「火の女神」は鹿の化身でもありますから、彼女の役割は、雷神の乗り物であったり、使いであったり、多岐にわたる、といえます。一般的なハイヌウェレ型神話でが、芋の女神ハイヌウェレは月の女神の化身でもありますし、須佐之男に殺される女神の名が大気都比売神(おおげつひめ)ですから、おそらく地理的に考えて日本古来の芋に関する神話は「殺される月の女神」に関するものだったのではないか、と思います。地方によっては、里芋は月の神様の子供であって、お月見には芋を供えるという風習もあるようです。そのハイヌウェレ型神話の上に、「雷神に殺される火(日)の神」という話が、意図的に重ね合わされて、「早乙女」という祭祀はできあがっているのです。芋類を生み出した女神が「若い娘」であったから、それになぞらえるために、穀霊である「田植えの女」が若い娘、すなわち早乙女に意図的に変更されているのです。
それにしても、「火の神」とか、特に「竈の神」というのは、古来よりどの地域でも神聖視されるもので、それは昔は煮炊きするための火をおこすのも大変であったし、それを適切に火事を起こさないように守っていくのも重要なことだからです。いったん火が完全に消えてしまったら、また最初から火をおこさないといけないからです。そして、太陽女神、火の神、火山の神の大習合状態が、日本の神話といえます。ここにハイヌウェレ型の地母神や、織り姫のような機織りの女神も習合されていますから、天照大神とは、単なる「太陽女神」ではなく、時に「月の女神」の性質までもを内包した単一の大習合女神といえます。完全に人為的に合成した合成神です。そして、それに呼応するように、記紀神話にははっきりと「月の女神」として記された女神はいません。しかし「かぐや姫」の伝承があるくらいですから、「月の乙女」の民間伝承や民間での月の女神に対する信仰は必ずあったはずなのです。これだけの大規模な、各種女神の習合状態は、古代ヒッタイトにおけるヘバト女神以来、というよりも、それを上回る状態、といえます。しかも、西洋から遙か遠く離れたこんな東の果ての島国に、政治的に「神々を習合させる」という思想を持ってきた人達がいる、といえることになります。