昨夜は特に夢も見ず。本日は薄曇りで作業のしやすい日だったのでした。シロアリの残党がまだどこかに残っているらしくて、少しずつ眼に見えるところに出てきてはうろついています。そういうものも、少しずつ引きずり出しています。
そして昨夜は「ウルトラFES」の後「NEWS ZERO」を見る。今日は、「ウルトラFES」の録画を少し見た後、久しぶりにKAT-TUNのDVDを見る。どちらを見ても、季節柄「せっせと手紙を書かなきゃ。」という気分になる。今回もなんとか頑張って、定時に出すことができそうです。
で、鹿と神話の話の続き。そもそも鹿を神聖視することを始めたのは古代中国でした。6500年前の長江文明の遺跡からは、鹿と抱き合わせで埋められた人骨が発見されており、稲作に関する生け贄の祭祀の跡ではないか、と言われています。鹿は中国全土で神聖視され、その骨を焼いて占いをしたりしていました。それを「太占」といいます。そして、日輪のことを「太陽」と呼びます。「太」は鹿のことですから、天照大神とは、元々中国由来の鹿の太陽女神であったと考えられます。一方、鹿を神聖視する思想は、中央アジアの遊牧民を伝播して西方に伝わりました。特に鹿トーテムへの傾倒が強かったのが、スキタイと呼ばれる人達でした。彼らの古墳からは、大麻とか阿片が発見されています。そこから察するに、彼らは祭祀において、酒だけでなく麻薬も使っていたのだと考えられます。「鹿の神がもたらすものは狂気である」という西欧の思想は、おそらく麻薬を使用したスキタイの祭祀の様子から取り入れられたものなのではないか、と思われます。そして、その祭祀には生け贄の人間を犠牲獣に見立てて狩って殺す、というような残虐な要素が含まれていました。また、キュベレーとアッティスの祭祀のように、男性の信者の男根を切り落として、去勢した者が神に仕える、とか猟奇的な側面もありました。こういうことが、鹿の神に由来されることとされたのですが、その一方でその狂乱のエネルギーは反ローマ思想を持つ人達中心に取り入れられ、紀元前800年頃には、西欧流の鹿信仰が顕著になり始めたのだと思います。これがローマにおける「東方密議」の原点になります。西欧でも古くから鹿は神聖視される動物の一つでしたが、ローマの支配と、スキタイの存在が、紀元前1000年くらいからの西欧における鹿神信仰の立ち位置を決めたのだと思います。
興福寺にある菩提院大御堂というところには「十三鐘」という鐘があって、「三作石子詰伝説」という伝説があるそうです。これは「三作」という子どもが文鎮を鹿に当て、誤って鹿を死なせてしまい、鹿を死なせた者を死罪とする掟を破ったことで、死んだ鹿と一緒に穴に埋められたという伝説で、三作を埋めたという塚が実際にあるそうです。三作は十三歳であったので、それにちなんで「十三鐘」という鐘を作ったとか。そして、息子の死を悲しんだ母親が供養のために植えたのが紅葉の木、と言われているのです。江戸時代に、近松門左衛門がこの伝説を元に浄瑠璃「十三鐘」を書きました。
鹿の肉を「もみじ」と言いますし、花札の十月の絵札は、紅葉にそっぽを向く鹿ですので、どうしてこういう絵柄になったのか、ということには2つの説があって、一つが上記の伝説らしいです。そしてもう一つは有名な、百人一首の猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」という和歌が元になった、という説です。そして、「秋の鹿」には、「秋の鹿は笛に寄る」ということわざがあって、これは秋に鹿は発情期になるので、牝鹿の無い声に似た笛を弾くと牡鹿が簡単に寄ってきて捕まってしまうので、これは「恋に溺れて身を滅ぼすこと」とか「弱みにつけこまれて危険な目にあうこと」のたとえなのだそうです。だから、「秋の鹿」にはあまり、賢くない、というか「間抜け」という意味も暗にあるのです。
三作の伝説は、一応江戸時代の話、という設定になっていますが、近松の時代にすでに伝説であったことから、もっと古い時代の話が元になっていると思われます。人間と鹿を抱き合わせで埋めているところが、長江文明の、おそらく稲作に関する祭祀の形式と類似していますので、元々は古代の日本でも稲作に関して、同様の祭祀があったのではないか、ということをうかがわせる伝説だと、私は思っています。そして、鹿と少年が一体のものとして語られています。ただ、古代の中国ではあまり「生け贄」というものに性差を求めた、とかって聞いたことがありませんので、「若い男性が犠牲になる」という点は西方のキュベレーとアッティスの伝承との類似性を伺わせます。キュベレーはアッティスを常緑樹である松の木に生まれ変わらせました。この時代のアナトリアの男性神は「松」を手にしていることが多いので、常緑樹である松に聖性や永遠性を人々が見いだしていたことが分かります。三作の伝説では、三作の生まれ変わりは紅葉の木、といえますが、紅葉は「散りゆくもの」「はかないもの」の例えでもある気がします。しかも、紅葉の赤い色は血の色に例えられたり、やや不吉なものの気がします。
鹿と血と稲作の関連に関しては、播磨国(今の兵庫県)風土記に記述があります。それによると、女神が生きた鹿を捕らえて、その腹を割き、その地に種を蒔いたら、一晩で苗ができた、という話や、鹿の血を使って田んぼを作るので、川の水を使わない、とかそういう伝承があるそうです。ようするに、鹿の血が稲作に役に立つ、と考えられていたことが分かります。これも長江文明の祭祀と一致する考えです。ただし、ここでは鹿が雄なのか雌なのかははっきりしません。
また、特に西日本だと思うのですが、「早乙女塚」という塚にまつわる伝承があるようです。これは、だいたい、稲を植えた早乙女が、何かの拍子に武士の怒りに触れて、理不尽に殺されてしまう、という伝承です。早乙女とは、稲を受ける若い女性のことで、もちろん若い女性だけが田植えをするわけではないのでしょうが、稲の豊穣に関して、若い娘の豊穣性の霊力を求める祭祀の一種であると思う。だから、古代には若い娘に田植えをして貰うだけでなく、田んぼの豊穣のために若い娘を生け贄に捧げる、ということがあったのかもしれない、と思います。これは、若い娘と鹿と「同じもの」と考えれば、播磨風土記の鹿の伝承と早乙女塚の伝承は、一致し「同じもの」と言えると思います。また、不思議なことに、中国では稲の豊穣性を求めるために、「子供をたくさん産んだ女性」に田植えをして貰う、という習慣があるそうです。要するに、「子供をたくさん産んだ女性」が穀霊の母親ともなって、多くの実をならせるように、という祭祀の一種といえます。普通、このような祭祀は、古くからあればあるほど、稲作の伝播と共に拡がるはずですから、本当は日本の田植えでも、ある程度年配の子だくさんの女性が田植えをしなければならないはずなのです。でも、それが早乙女、すなわち若い娘に変更されてしまっています。それが全国規模であるわけですから、誰か田植えの祭祀に関して権力を持っているものが、「意図的」に変更しているのです。いったい、どういう意味合いがあって変更させられているのか、ということになります。長江文明の稲作文明は、古くは母系の文化ですし、母系の文化は年を経て、特に子だくさんの女性は、出産や家庭に関する経験が豊富であるとして、尊敬されます。そういう経験と豊穣性を備えた女性が、田植えの祭祀から外され、経験の乏しい若い娘が、田植えの祭祀を受け持つこと、そして時には生け贄にされること。それは、それだけで長江文明の時代よりも、女性の地位や立場がこの国で低下していることを示します。経験豊富な女性は、もう尊敬の対象ではないのです。そして、三作の伝承とは対照的に、早乙女の場合、犠牲となるのは女性に限定されます。伝承の中には、夫の身代わりになって妻が殺されてしまう、という話もあるようです。そうすると、この場合の早乙女は春の象徴のような存在でありながら、「恋に溺れて身を滅ぼす」というような「秋の鹿」に象徴されるような存在ともいえます。うちの親は、「秋鹿さんのお祭りは春にやる」と言っていましたし、こういう複雑な意味を持たせれば、春に早乙女の祭祀あるいは、早乙女(秋鹿)を犠牲にする祭祀をするということになって、春に「秋の鹿」の祭りをする、ということに矛盾がなくなるのです。でも、普通に単純に考えて、一番分かりやすい祭祀の形態は「田んぼの豊穣が欲しいから犠牲を捧げる」ということだと思いますので、そこにわざわざ「秋の鹿」などという意味合いを持たせることが、意図的なのです。意図がなければ、普通に「田の神に捧げる犠牲」で済むのです。どうして、こんな「凝った」ことをしたのかは、検証しないといけないと思います。なぜなら、例えば寡婦殉死の制度があるような男系の文化でも、普通は若い娘は殺さないからです。特に古代においては、若い娘の数が減ることは氏族全体にとっての致命傷にもなりかねません。それなのに、なんで、「稲作の祭祀を司る、元母系の文化を持つ権力のある人々」は、敢えてそういう制度を作ったのか、どこからそういう制度のヒントを得たのか、ということになります。