昨夜は特に夢も見ず。昨日の日記を読んだ親から、「八幡神とミトラスの関係は?」というか、日本の国の「ミトラス」とは何なのか? というようなことを聞かれる。どうして、そんなに話が飛躍するのだろうか、という気もする。今、記紀神話で述べられている、神功皇后、仲哀天皇、八幡神(誉田別尊)の3神は、最終的にローマ式の原始キリスト教が優位を占めた結果形成されたもので、本来あった「神話」と比べて、ずいぶん書き換えられている、と見るべきだと思う。そして、ミトラスとキュベレー信仰は、当然その名前のまま入ってくるわけではないから、様々なものに名前を変えて入ってくる。だから、日本の国に「ミトラス信仰のままのミトラス」、「キュベレー信仰のままのキュベレー」なんて、最初から現在まで「あるはずがない」のである。あるのは、別の名前に形を変えて、でも、見る人が見れば、元がなんなのか、何を言いたいのかが分かる、と、そういうものなのである。分からない人が見れば「千と千尋」の「カオナシ」のごとく、本当はなんなのかが分からない、顔も正体も見えてこない、とそうなる。そして、そうやって敢えて変えることで、「分かる人は仲間」、「分からない人は仲間じゃない」みたいな暗号的な象徴としても使っているのだと思う。
おそらく、エフェソス初のミトラス・イエスとキュベレー・マリアの信仰の一番古い片鱗は、出雲国秋鹿郡にある佐太神社と秋鹿神社であると思う。伝承によると、「佐太大神は、神魂命の御子・枳佐加比売命(きさかいひめ、赤貝を神格化した女神)の御子。加賀の神埼で出産の時、弓矢がなくなった。枳佐加比売命が『この御子が、麻須羅神の御子ならば、弓矢よ出て来い』と云ったところ、水の中から角の弓矢が流れてきた。御子神に見せ、『これではない』と投げ捨てる。すると今度は金の弓矢が流れてきた。枳佐加比売命は、それを手にとり『暗い窟であることよ』と云って、射放つと、窟が貫通し光輝いたという。」ということである。このようにして、佐太大神は、自らが麻須羅神の子である証を立てたのである。この「麻須羅神」とは名前からしてミトラスのことであると思う。「金の弓矢」というのも、太陽神であるミトラスの化身であることをうかがわせる。一方、母親の枳佐加比売命は赤貝の女神であって、記紀神話によると大やけどをして亡くなった大国主命を蘇生した女神である。貝の女神が蘇生の魔力を持つ、というのは漁撈民の伝承的であると思う。一方、秋鹿神社には、秋鹿日女命という女神が祀られており、この女神が大国主命を生き返らせた女神とされている。秋鹿日女命が枳佐加比売命と同じものであるから、秋鹿日女命は佐太大神の母親であり、その夫は麻須羅神ということになる。佐太神社には、かつて天照大神の他に「天太玉命」とか「天赤女」という天照大神とは異なる鹿の太陽女神が祀られていた形跡があり、これがかつて佐太大神の母親であったのだろう、と思われる。でも、それは記紀神話として編纂される時代には、赤貝の女神に変更されざるを得ない事情があったのではないか、と思う。でも、本当の伝承のヒントは佐太神社と秋鹿神社に残されたのである。エフェソスのアルテミス・キュベレーの聖獣の一つは、「雄鹿」である。だから、キュベレーは両性具有の神だし、キュベレーが鹿、ということはその子供のアッティスも鹿、ということになる。母親であるキュベレーは大地母神であって、生け贄に若い男を求め、また彼を再生させる神でもある。「再生させる女神」の片鱗は佐太大神ではなくて、大国主命神話に残されている。要するに麻須羅神・ミトラス・イエス、秋鹿日女命・キュベレー・マリアと彼らの子神である佐太大神の神話が、出雲の大国主命神話と習合させられていた形跡がある。そもそも、ミトラスとは古くからの印欧語族の契約神であったものが、イランのアケメネス朝で発達したゾロアスター教の中で「救世の神」とされるようになったものであり、それが再び西方へ戻って原始キリスト教等と結びついたものだから、ゾロアスター教を知ってる人達が「救世の神であるところのミトラス」が、元々どのようなものなのか知らないはずがない。富の王家の先祖は、知っていて、わざわざ新興のエフェソス初のミトラス・キュベレー信仰と結びつこうとしたのであり、仲はそこそこ良好だったのだろう、と推察せざるを得ない。
そして、ちょっと余談、でも大事な余談なわけですが。潤ちゃんが「深山」という型破りの弁護士を演じた「99.9%」というドラマで、深山弁護士が働く法律事務所の名前は「斑目(まだらめ)」という。で、深山弁護士の上司は民事の得意な「佐田」センセイであって、所長は佐田先生を事務所の後継にするかもしれない、という話である。斑目とは麻須羅神・ミトラスのこと、佐田先生とは佐太大神のことだよねえ? とそれはだいたいすぐに分かる。では、「深山」とは何ですか? どこかの山奥に、斑目の「妻」に相当する「鹿の太陽女神」が隠されているという暗喩ですか? なぜなら、夫(深山)と妻は一体のものだから、彼は妻の影を演じているに過ぎない、とすればそういうことになる。でも、あの近戸皇大宮って、けっこうやばい神社ですよ? 知れば知るほど「呪詛って何?」と思うわけですが、山奥のローカルな神社すぎて、あの神社に関する情報はネット上にはほとんど出てこない。その詳細は「信州新町町史」くらいにしか載ってない。でも、それを見ると「うーむ」と思うわけです。近戸皇大宮とは、「千鹿頭皇大宮」と書き換えることが可能であると思う。要するに、そこに祀られている天照大神はトーテムが鹿に限定される。要するに、秋鹿日女命のことなのである。すなわち、麻須羅神・ミトラス・イエスの妻であるところの、秋鹿日女・キュベレー・マリアのことだよねえ?? と思う。結局、少しずつ名前も設定も変えるけれども、「分かる人には何のことなのか分かる」という古来よりのやり方を、あのドラマも踏襲している。そういうやり方は何千年も前から続けられているのです。
で、佐太神社のあるところの住所は、現在、「松江市鹿島町」となっています。「鹿島の神」といえば、現在では鹿島神宮の建御雷神が有名です。鹿島神宮では、「鹿島の神が白い鹿に乗って現れた」から、鹿が神のお使いとされた、とあります。でも、秋鹿日女の住まいの方が本来の「鹿島」であったのなら、本来は「鹿島の神」とは秋鹿日女のことであったはずです。それが、雷神であり武神である建御雷神に置き換わっています。建御雷神の前身が、ローマのユーピテルであるならば、本来は牛トーテムの神であったものを、わざわざ鹿トーテムに強引に置き換えていることになります。それは何故なのか、ということは伝承の仲にヒントがあるような気がします。
朝鮮半島のムーダンには、バリ公主(鉢里公主)の神話があります。鉢里公主は、親の病気を助けるために、弥勒菩薩の住む西域の国に出かけて、弥勒に妻として仕えて7人の息子を産み、その見返りに薬水を貰います。この場合の弥勒は、救世の神であったかもしれないけれども、医薬の神ともいえます。それは、原始キリスト教団のイエスが、医者としての仕事に拘ったことにもつながるように思えます。公主が戻ってくると、両親はすでに亡くなっていますが、貰った霊薬で彼女は親を生き返らせます。そして、その後一族郎党は栄えるのです。鉢里公主の「再生の女神」としての性質は、大国主命を再生させた秋鹿日女と重なります。そして、弥勒菩薩と鉢里公主という組み合わせは、祇園の八坂神社の古い神である武塔天神(牛頭天皇)と、その妻の頗梨采女(はりさいじょ)に移し替えられると思います。この場合武塔天神はミトラスであり、牛トーテムとして現されます。そして、本地垂迹では武塔天神は薬師如来として現されますので、「医薬の神としての弥勒菩薩」と同じ性質も持ちます。では、彼らの妻の鉢里公主と頗梨采女は元は何者だったのでしょう、ということになります。それはともかくとして、鉢里公主や頗梨采女が、秋鹿日女と同じ者であれば、彼らのトーテムは鹿であると推察されます。しかし、特に鉢里公主に顕著ですが、彼女は親のために異界(すなわち黄泉の国)に出向く存在であって、永遠の命を持つ大地母神ではありません。要するに、この辺りから、「絶対的な地母神であるキュベレー」から「誰かのために異界をさまよう鉢里公主」への変更がなされているわけです。それだけではなく、本来の東方密議では牛トーテムではなかったミトラスにも牛トーテムの性質が付加されています。牛トーテムのミトラスは、東方密議のミトラス、というよりは、ローマの牛トーテムの神であるユーピテルと習合したユーピテル・ミトラスといえます。例えば広隆寺の「牛祭」に登場する摩多羅神(まだらしん)は、天台宗の神とされ、牛に乗って登場して、広隆寺から出て薬師堂に入り、祭りは終わる。牛に乗っているということは、牛トーテムの神である、ということであり、摩多羅神という名前はミトラス由来のものと思われますが、弥勒菩薩ではなくて薬師如来と関連付けられている。要は、薬師如来であるところの弥勒菩薩です。鉢里公主の弥勒菩薩と同じものといえる。だから、出雲の麻須羅神はグノーシス主義的なミトラス、広隆寺の摩多羅神は牛トーテムのローマ的ミトラスで事実上ユーピテルかあるいはイエスのこと、となるのです。同じくミトラスを起源としていても出雲の麻須羅神は味方の神様、広隆寺の摩多羅神は敵の神、となります。しかし、誰が何のために、このような構図を作り上げたのか、ということになります。同じ事は、中宮寺の弥勒菩薩と広隆寺の弥勒菩薩にもいえると思う。聖徳太子は母系の支持者であり、推古天皇の宰相であり、エフェソス初の原始キリスト教を支持する人であったのだと思う。すなわち、彼が「弥勒菩薩」に中に見ていたのは、父なる神ミトラス・イエスであり、祖神であるグノーシス主義のミトラスであったと思う。でも、彼の側近の秦氏は、れっきとしたローマ人であり、秦氏の氏寺広隆寺で祀られていた「弥勒菩薩」は、牛トーテムのミトラス、すなわちユーピテル・ミトラスのことだったはずです。同じ「弥勒菩薩」でもその二つは異なるものだ。でも、秦氏は聖徳太子に「秦氏の弥勒菩薩こそが正統な弥勒菩薩だ」と認めるように迫ったでしょうし、その影響力が朝廷にまで及ぶのを恐れて、聖徳太子は朝廷から距離を置いたのかもしれない、と思います。でも、上宮王家がローマ人に対して、平和的な抵抗を試み続けた結果、彼らは一族郎党含めて皆殺しにされてしまうわけで、その後に来たのは、ローマを支持する天智天皇なわけだから。
だから、鹿トーテムの神の話を進める前に、ミトラスのことをまとめておかねばならない、と思う。ミトラスは、本来印欧語族の古い時代からの契約神でした。そのもっと古い形は、「モート」とか「モロク」という牛の神だったのだと思います。モーモー鳴く神様だから、その名前を持っているモー様系の神といえる。でも、その名前が広まったのはアケメネス朝のゾロアスター3神として、アフラ・マズダ(ヴァルナ)、アナーヒタ、ミスラに名前を連ねていたから広まったのです。ゾロアスター教は、動物のトーテムを廃して、神を観念的にし、ゾロアスターの神々を広い民族に受け入れられるように作り替えました。アケメネス朝は多民族国家であって、神のトーテムを特定することは、異なる神を擁する民族を差別することになるからです。そういう手法は古代のユダヤの十二枝族ですでに実行され始めていたのです。ゾロアスターにおいてはヴァルナが最高神とされて、その分彼は庶民からは遠い格の高い神とされました。その代わり、より下位の神であるミスラ(後のミトラス)が「世直しの神」「庶民の生活を守る神」とされて、広く人々の支持を受けることになったわけです。すなわち、当初のミスラは現世利益の強い神であって、現実の世界を救う、という点では「救世の神」と言えなくもないですが、末法に人間の世界にわざわざ降りてきて救う、というような弥勒菩薩のような性質は持っていなかったわけです。ただし、司法神としての性質から、「死者の行き先を決める神」ではあったのです。要するに仏教における「閻魔様」のような神でもあったわけ。ただし、ゾロアスター教には、末法あるいは終末において登場する「救世主」の思想がすでに登場していました。でも、この「救世主」は神ではなくて、人の中から現れることとされていました。当然神々の味方だから、アフラ・マズダやミスラの側の人間、とはされていたと思います。そしてミスラは人々にとても人気があった神であったので、ゾロアスター教の圏外にまで広まって、場合によっては主神扱いされることもありました。そうして、初期のミトラス信仰が形成されていったのだと思います。だから、救世主信仰とミスラ(ミトラス)信仰は、近い位置関係にありますけれども、ミスラが末法の世における救世主であるとか、あの世からこの世に降りてきて末法に人々を救う、という思想はそもそもなかったのです。で、その思想がまずどこに現れたのかというと、イエス・キリストのことを「末法における救世主」であると同時に、「その父神であるミトラスとも同じもの」と言い出した人達の中に現れたわけです。要するに、ミトラス・イエスが末法における救世主であると同時に、父なる神でもあるという思想を始めて作り出したのは、エフェソス初のグノーシス主義者達といえる。でも、このミトラスには妻なり神が存在していました。一方、大乗仏教の下生する救世神たる弥勒信仰とは、古くからあった弥勒信仰に紀元前後からつけ加える形で広まったものなわけです。というよりも、本来の仏教に「弥勒菩薩の下生信仰」が加わったものが大乗仏教といえる。大乗仏教の弥勒菩薩は妻帯していません。つまり、その弥勒菩薩が「作られた神」だとするならば、ローマ人が作った神、だと述べる他ない。ローマ人のイエス・キリストは妻帯していないからです。大乗の弥勒菩薩は、ローマのミトラス・イエスと相関関係があるように、最初から作られているのです。だから、遠いご先祖様であるところの金刺舎人が持ち帰った「大乗仏教」は何の目的で持ち帰ったものなのか、ということになります。まあ、それは置いておくとしても、そもそもゾロアスター教の末裔達の間で、彼らのミスラはどこに行ったのか、ということになる。富の王家の祖神の家、八束水臣津野命はヴァルナ、その女性形は「ヴァルナの乙女」と呼ばれるアナーヒタ女神のこと、と言われた気がするわけですが。ミスラはどこに行ったの? と思う。で、今日、木村君の回の「ニノさん」を見たわけですが。木村君から、「ミスラとは大国主命のことでしょ。それは、人々に現世の過福を与えた神だし、北東アジアの遊牧民向けにミスラを作り直したもの」と言われる気がするわけで@@。ということは、秋鹿日女が大国主命を再生させた神話というのは、偶然の産物では無い。キュベレーがその夫である死したるミトラス・イエスを再生させた神話が投影されている、と見るべきで、そもそも富の王家の大国主命神話は、ゾロアスターのミスラ神話とエフェソス初の原始キリスト教神話が習合してできたものなんだ?? と思うわけで@@。そもそも出雲風土記の大穴牟遅神(おおなむち)の「ナムチ」が「ミトラス」のことなんだけど、と言われる気がするわけで@@。だいたい、ミスラというのはそうやって人々に交じって、人々の生活を守り救う神と考えられていたもの、と言われる気がするわけで@@。中居君がわざわざ出雲まで出かけていって、でも暗くなって出雲大社の境内の中には入れなくて。それは、暗闇の奥にあるその神の正体が「まだ見えていない」ということを伝えるためのメッセージでしょ、と言われる気がするわけで@@。富の王家は、自分たちのあずかり知らないところで、ミスラが勝手に「末法における救世の神」にされて、いろいろに利用されてることにはけっこう困っているらしいのですが、だからこそ、誰を大国主命に任命するのかには神経質になる。その名前を持つ者は、聖徳太子と同じで、「自分たちこそを正統と認めるように」と、ローマの側からも、反ローマの側からも求められることになる。そういうことを乗り切れる者で無いと、その名前は与えられない、ということらしくて。で、結局最終的にその名前を貰ったのは、私と7番目の兄さんである。7番目の兄さんは、混血が進んで「蛇の目」を持っているけれども、その出身部族は宗像氏の末端に位置して、エフェソス初のグノーシス主義を支持する人達、と元々言われていた気がするわけで。だから、7番目の兄さんはグノーシス主義者から大きな期待を寄せられている人である。富の王家は、反ローマ主義のグノーシス主義者と、自分とこの王族扱いである私にその名前を分けなさい、と言ったわけだから、王家の反ローマ主義の思想もそこで透けて見える、ということで。
でも、記紀神話によれば、大国主命は2度死ぬことになっている。1度目は兄弟に殺されて。2度目は、いつの間にか黄泉の国に嫁取りに出かけることになっている。黄泉の須佐之男の元から連れ帰ったのが須勢理姫である。だいたい、そもそもミスラは契約神であって、閻魔様みたいな性質なんかなかったはず、と思う。富の王家は、元々印欧語族ではないので、印欧語族の神々を用いて神話を再編成する時に、自分たちの遠い先祖が古代エジプトから持ち帰ったオシリス信仰と習合させてるでしょ? おかげで、ミスラには潜在的に死んだり生きたりする性質が付加されているのではないの?? と思う。そう言うと、富の王家のおっちゃんが「ぐう」とかって言ってるから、そんなことなんだと思う。富の王家が勝手にオシリス的なミスラを作り上げたおかげで、それが原始キリスト教神話の勝手に死んだり生き返ったりするイエス・キリストに投影されている、と見るべきな気がする-;。だいたい、オシリスって何? と思うと、それは「アザゼルの山羊」だよ、と言われる気がするわけで@@。それはごく古い時代の神で、時代が下ると神としての地位が低下して「堕天」となる。すなわち、人界に下って、英雄となる、とそういうものである。だから、ゾロアスターのミスラは、人々に交じって現世利益をもたらす神になっている。「堕天」の性質は大国主命の先祖とされる須佐之男神話に受け継がれている、と思う。でも、須佐之男は起源的には、フンバン・クマルビと続く神々であるので。元々のトーテムは熊である。そして、大国主命は元々ミスラであるので、エフェソス初のミトラス信仰とは、けっこう習合していたのだと思う。出雲の神話の中で、大国主命の神話が一番多く生き残ったのも、それが関係しているのかもしれない、と思う。