昨夜は特に夢も見ず。作業の方は、奥の方の崩れた土を片付けて、新たに土を掘ると、大きな石が出てくる、ビニールのゴミも出てくる、更に壁からもまだ石やゴミがゴロゴロと出てくる、という感じであって。でも、少しは作業も前に進んで、石もたくさん出せた一日だったのでした。
で、本日も作業が終わると、チビさんから「自分を見て見て」と言われるわけで。なついてくれるのはうれしいけれども、あんまりなマザコンに育ってもどうなの? と思うわけですが、大抵の人からは、「これで幼稚園なり保育園に入って、年の近い子供達との集団生活が始まって、そちらにかまけるようになると、また少し変わってくる。今は周囲に大人しかいない状況だし、赤ん坊の頃に考えていたことはけっこう忘れてしまうから、自分のことで忙しくなると忘れてしまいがちだし、今のところは『かわいらしい初恋』というところでちょうどいいんじゃないの。」と言われる。でも、本当のお母さんは「男の子って色気づくのがこんなに早いんだ?」と思って、「色気づく前にいろいろと口でしゃべれるようになって欲しい。」と思ったらしいのですがー;。まあ、発育が良くておませさんだよねえ?? と思う。
で、大学時代の同級生の取り調べも進んでいるらしいのですが、一人、人肉の毒にど強くて、完全に正気の人がいる、と言われる。それは、殷の王家の公主様、ということらしくて。彼女は、いろんな騒ぎの真の黒幕が誰かは知らなかったらしい。そして、「知ってたら協力しなかったのに。」と言って非常に悔しがったらしい。実際、進学校を出た人であるし、成績も良くて、彼女なら他の国立大学の医学部にも合格できるだけの実力はあったそうなので、言っていることは本当だろう、と兄さん達も思ったらしい。で、名家のお嬢様なので、いろいろな取引関係から、報復の対象から外すように、と嘆願が来ているし、ご当人も自分が知らなかったことで、報復の対象にされるのは不本意、ということらしくて。でも、総本家に協力したことは、それはそれで事実なので、ただで無罪放免にはできない。蛙の王家が嫌い、というならいうで、何か太陽女神に有効となる情報を提供して、その点では、こちらに敵意がないことを示して貰いたい、と言ったら、いろいろと教えてくれる気になったらしくて。
そもそも、アジアの僻地、ネパールとかチベットとかでは、今でも活仏、現人神という思想があるように、アジア本来の「神」のとは「生きている人」のことである。でも、今の中国では、孔子とか関羽とか、「神」として扱われる人は「死んだ人」であって、「廟」に祀られている。「廟」というのは、そもそも「お墓」のことである。神のことを「生きた人」ではなくて、「死んでお墓に封印した人」ということにねじ曲げた者達がいる。だいたい、「封神演義」ってあるでしょ。殷の王族を殺して、神に封じる、という話でしょ。古代の殷は、確かに羌族を圧迫して大勢捕まえては生け贄にしていた、という記録はあるし、遺跡からもそういう遺物は出てくる。でも、「封神演義」を見て変だと思わなかった? そもそも、肘王の皇后の姓は「羌」である。肘王を倒した、王の臣下の王の姓も「羌」である。だから、「羌族が殷の王家に苦しめられた」と言うけれども、上流階級には羌族も大勢食い込んでおり、そういう人達も当時の文化習慣として、殷ほどではなくても似たりよったりのことはしていたはず。そして、「神」のことを「死んでお墓に封印した人」のこととしたのは、羌子牙とその周辺の人達だし、だからこそ彼らの謀反は「封神」と呼ばれる。そうして、みんな似たり寄ったりのことをしていたのに、殷の王族が特に過ぎたふるまいをしたことを、非常に悪意にあげつらって、滅ぼしたあげくに、自分だけいい子になるように、「封神演義」なんてのを作ったのも、羌子牙とその子孫でしょ。その人とその子孫は、昔っから自分だけが「外面の良い良い子」にどうやってなるか、ってそういうことばかり考えて陰謀を巡らしていた人達だから。太陽女神は、自分のことを日本人だと思って、羌子牙から自分が何代目なのかも忘れてしまっているかもしれないけれども、ご先祖様大事の中国人である殷の公主様は、自分たちは一族郎党こぞって、殷のどの王族から何代目ってちゃんと覚えている人たちなので、ろくでなしの羌子牙の家系の人とは、殷滅亡以来の因縁で、おつきあいしないことにしている、と言われるわけで@@。
で、そもそも羌子牙の起こした国は「斉」と言うでしょ。「斉」とは蜀の言葉で「東」という意味である。西王母信仰の人達にとって、その言葉は不吉なものであるはずなのに、敢えてそれを国名にしている。それは、「反独裁主義」の西王母信仰ではなくて、その逆に「西王母」の力を抑えて王族の独裁を目指そう、という意味での国名だから、「神」ではなくて、「王家」による独裁主義を象徴する名前である。だから、神が生まれれば彼らは、神に従うのではなくて、利用してこき使うために従わせよう、というのが彼らの信条である。
そして、文姜公主の例にあるけれども、その女性は実兄と男女の関係にあって、夫を殺して好き放題した人である。ご当人は有能な人であったので、生きているうちは良かったけれども、死ねば結局その所行が遺恨となって周辺諸国は乱れるし、やっていることの世間体が悪すぎる。だから、それ以来、蛙の王家は、「太陽女神」の近親の男性が彼女を牛耳るけれども、世間に対しては、それを隠蔽して神を囲い込むことを非常に重要視するようになった。女王卑弥呼が、「閉じこもって暮らしていた」というのもそのためである。彼女の正式な夫は、景行天皇で彼女はその皇后であって、二人は異母姉弟であった。でも、昔は、母親が違えば「異なる家の人」であって、結婚の形式は通い婚である。だから、女王卑弥呼にとって、「真に愛していた男性」は、母方の身内にだれかいて、その男が女王のそばに常に近くにいたはずである。景行天皇は、彼女にとって「一番の夫」ではなく、「利用するための夫」であった。でも、「真の夫」の姿は歴史の上からは隠されている。なぜなら、世間体を守るために「隠されているから」。だいたい、あなたは前世のことを何も覚えていない、と言っても、あなたの分身の蛙の子は「当時、一番好きな人だったのは、夫である景行天皇ではなかった」って言ってるでしょ、と言われるわけで@@。
で、昼寝している時に、なんだか夢を見て。自分がどこかの強制収容所みたいなところに捕まっている? みたいな感じで、仲間の誰かが敵にだまされて、敵に協力するような形になってしまい、最後に鹿と一緒に、どこかの舞台みたいなところに引き出されて、公開処刑されそうになる、みたいな夢で。
で、目が覚めて、「そもそも、真言密教というのは、呪法を用いて調伏を行うのが役目であるし、それを勉強させるためにわざわざ空海を唐に留学させたのは桓武天皇である。そして、その生家をいち早く取り入れて、玉泉寺を田舎に招聘したのは総本家である。玉泉寺は、近戸皇太宮の出入り口にあって封印の役割を果たす。だから、皇太宮の出入り口は、お墓で封印されて、神の御霊は黄泉の国(天の国)から出られない状態で、それを更に真言密教で調伏しようとしている。要するに、近戸皇太宮が太陽女神の「廟」であって、そこから下る坂道が、黄泉比良坂であり、出入り口を寺が封じている。しかも近戸とは本来「千鹿頭」と書くわけだから、「戸」とは本来「頭」のことである。だから「戸隠」とは「頭隠」のことであって、神の頭を隠す山、ということになる。神はその口から水を吐き出す竜神であるから、水源地が「口」ということになるのだけれども、そこはすぐ下の崖で「八種」の石碑で封印されていて、神の頭は本体から切り離されて、本来の役目を果たせないようにされている。でも、神は自ら九頭竜社に出向いて、「八種」の呪いを解いたし、近戸皇太宮にも出向いて、御霊と結縁している。それから、どうするのか、ということになるが、結局元の菩提寺に戻る、ということは、総本家の下に戻る、ということになるから、須坂とセットの話になるし、須坂に行くことを承知しなければ、戻ることも認められないはず。でも、今は「お墓」がない状態だから、どこにでも行ける。富の王家に行けば、彼らが「同族」として扱って、お墓を用意することになる。諏訪に行って、千鹿頭神社に行っただろうけれども、あのさびれようは、本来そこに座すべき扶余(鹿)の神が死んで不在のことを示す。生きているのは黄泉の国の近戸皇太宮だけである。そして、そこには「もみの木」が生えている。クリスマスツリーにあるように、「もみの木」は黄泉の国の象徴で、生け贄の頭を飾る木である。近戸のもみの木に飾られるべきは、当然「太陽女神の頭」である。」と言われる@@。
要するに、「斉(東)」という国名そのものが、「西=良」という思想の人々からすれば、「悪」という国名そのものであって、そもそも「神を死んだも同然の状態の置いて支配して利用しよう」という思想に基づく名前なのだと思う。で、女王卑弥呼の時代も、それを実践していて、彼女は家に閉じこもって生活していた。だいたい、普通の程度の「神」ならちょくちょく生まれるけれども、「太母」となる「目の力」を持つ神は、200年から500年くらいの間隔でしか生まれない。しかも、時代が下るごとに生まれにくくなっている、ということで。女王卑弥呼と同じように、蛙の王家の言いなりになる「男」をつけて支配しようとしたけれども、うまくいかなかった、ということで。蛇の兄さんは、1番目の子と2番目の子が大嫌いである。でも、よくよく考えると、蛇の兄さんは4番目の子も大嫌いなので-;。たぶん、前世とやらで、2番目の子が果たそうとした役割を果たしていたのが4番目の子の前世だったのだろうなあ、と思う。それで嫌いなのね、でも、ご当人はあんまり前世のことは覚えていないはず??? と思うわけで-;。というわけで、蛙の王家から見ると、裏切り者の私は片付ける対象らしくて。それだけでなくて、4番目の子も、現世では私を味方する側につくことを決めたから、同様に片付ける対象ということらしくてー;。「いいのかねえ?」と思うわけですが、6番目の子からは「そんなこと言っても、完全に安全な環境でのうのうと動き回ってる人なんかいないでしょ。」と言われるわけで。だいたい、みんな危険と隣り合わせみたいな仕事だものねえ、と思う-;。
というわけで、殷の公主様からは、「だいたい、あなたは蛙の王家に生まれたのでなければ、太陽女神に選ばれるような「目」は持ってないでしょ。もぐらの神様のウェスタがお似合いな感じ。」と言われるわけで-;。どうせ、穴掘りだけが取り柄の土中のウェスタですとも? と思うわけですが-;。公主様は、仇敵の蛙の王家の人間と付き合う気はないわけですが、私が富の王家に移れば、個人としてのおつきあいをどうするのかは、「再び、直接会って決めたい。昔は、彼女は自分が何者かも分からず、何をしたら良いのかも分かっていなかったけれども、今なら自分がなんなのか知っているから、それこそ「対等な立場」で話ができるから。」と言ったそうで、彼女とは再び会うことになるだろう、と言われる。そして、こういう情報を私に送り込むことに協力してくれたから、無罪放免、ということらしくて。人肉の毒にもど強く、堂々として物怖じしない物言いに、富の王家のおっちゃんは「さすがに名家の公主様だ。」と感銘を受けたらしいのですが。
そして、こういう話を聞いて、ジブリの「もののけ姫」の話を思い出したわけで。ここに登場する鹿神は、奸計にはまって首を切り落とされてしまい、祟るけれども、最後には首を返して貰う。そして、元のような、生死を支配する恐ろしい神ではなくなったけれども、新たな姿は得たはず。「あなたも、自分の首を取り戻して、あなたらしい神になりなさい。」とジブリの三賢人はそう伝えたかったのかなあ、とふと思う。ジブリの鈴木さんは、某週刊誌に独特な個性を持つ「カンヤダ」という若い女性の連載をしている。彼女の人生は苦労の連続であって、彼女は「父親の愛」というものを知らない。しかし、鈴木さんのことは父親のように慕っており、鈴木さんもそのようにして彼女を支援しているし、これからもそれを続けるつもりなのだと思う。それで、ジブリの三賢人が太陽女神を「自分たちの娘のように思ってかわいがってくれきていた」ことを思い出す。彼女もまた「父親の愛」というものを知らない。だいたい、「財布」となる以外に何の役にもたたず、あるのは実力もないくせに家族を支配だけしたがるちんけな支配欲の塊であるー;。世の中には「財布」の役にも立たない「父親」も大勢いるだろうから、それに比べればましな点もあるかもしれないけれどもさあ、「まともな愛情」ってものはあんまりないよねえ?? という感じである-;。自分の首も取り戻したし、御魂とも結縁したけれども、とりあえずやっていることは「もぐら」なのですー;。
そして、殷の公主様からは、「そもそも御霊神社というものがあって、不幸に亡くなった人を神として祀って祟らないように封印する、ということを大々的に始めたのも桓武天皇である。そういう手法は、中国的な「廟」の概念と一致する。すなわち、そういう「封神」の手法を桓武天皇に教えたブレインが誰かいる。それは、そういうことを得意としている人達に決まっているでしょ。歴史を勉強するのは、そういうことを知るためでしょ。」と言われる。最大の敵は「悪」の名前を持つ味方と言うことで。どうりで、「僕は悪魔だ。」とかって言うわけだ。くだらないことを言う前に、まともな人間になる努力をするのが、当たり前なんじゃないの? と思うわけですが。