本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。ともかく、大きなアスファルトの塊を見つけたので、「掘り出してしまおう」と思って、今日はせっせと掘り出して。周辺の土を大量に崩したので、親にも手伝ってもらって、残りの時間は土の片付けに専念して。

で、いろいろと思うことはあるわけですが、「人肉中毒は危険」といっても、例えば昔、戦国時代とかは、今よりも当たり前にそのあたりに死体が転がっていただろうし、食環境も悪くて、誰でも「自分に合った」ものが食べられたわけではないと思う。じゃあ、そういう時代に生きた人達は、どうやって「人肉中毒」にならずに生きていたの? と思うわけで。そうすると、「そういう時代ほど、暴君とか独裁者というものは誕生しやすくなる。それは、一方では為政者が人肉中毒で残虐性と狂気を発揮するからだけれども、そうならない人達は麻薬中毒と同じで、面倒な思考を嫌ったりとか、本能的に生存に必要な目先のことにしか関心がなくなるので、庶民の中にそういう人達ばかりが増えると、暴君が発生しそうな兆候が見えても、無関心な人ばかりになって、事前に防ぐ、ということができなくなる。また、暴政に晒されても、そういう自覚すら持てなくなるから、対応能力もなくなる。そういうことを防ぐためには、いろいろな能力の乏しい庶民レベルから、自らの意思を鍛えたり、洞察力を身につけられるようにして、多少の人肉中毒に陥っても、正気を保てる人が多いようにしていくしかない。だから、一つには、自らに合った食物をできる限り選んで、危険なものにはなるべく手を出さないように、己を知ることをしなければならない。また、子育ての段階で、子供ができる限り精神的に安定してバランスの取れた子供に育てると、多少のストレスには負けない大人に育つので、自然と意思の力は鍛えられることになる。だから、現代的な『育児理論』とかそういうものは、肉中毒の症状から、子供や社会をどう守るのか、という観点から作られているので、それが徹底している先進国ほど、暴政とか争乱は起きにくくなる。」と言われるわけで。大抵の人からは、「誰でも肉の毒そのものに、多少は抵抗力を持っているものだから、普通に親戚が亡くなって葬式に参列した、とかその程度のことで、重篤な人肉中毒を発症する人はごく少ない。だけど、富の王家の伝承のように、「死体」を避けて、狂気の発動を極端に避けるためには、親の葬式にも出ずに清浄を保つ、とかそういうことになる。女王卑弥呼が、宮殿の奥深くに閉じこもって、穢れを避けて暮らしたのも、死体はそこらへんにゴロゴロある時代であるので、正気を保つため。」と言われるわけで-;。でも、結局は「アル中」と同じで、それは誰でもなるものだけれども、少々穢れに触れただけではそれほどの異常は生じるものでもないもの。でも、大量に摂取すれば人格の荒廃と狂気をもたらすし、そこから逃れ得るのは、毒にあまりにも強いので影響を受けない人か、あまりにも弱すぎるのでわずかな接触でも気分が悪くなって、それ以上の摂取が無理な人だけ。そして、育つ過程で、生育環境が悪くてストレスに普通でない反応を示すような、意思の力が弱い人が陥りやすいのも、アル中と同じ、と言われる。だから、普通の生活をしている人はほぼほぼ問題ないのだけれども、医者とか坊主とか葬儀屋とか、死体に濃厚に触れうる人はより危険度が増す。人肉食が当然とされる食文化の人々は、成人の通過儀礼として人肉を敢えて食べさせ、どの程度の症状が出るのか、どの程度その毒に耐えうるのか、ということを一人一人判断して、最終的なその人の「階級」を決める習慣がある。それが、エレウーシスとかそういう「密儀」であるわけだから。食べて異常を来す人は「下の階級」にせざるを得ない。毒に強い耐性を持つ人で、優れている人が指導者に選ばれるのは当然のこと、と言われるわけで-;。要するに薬物中毒一般と同じで、普通に中毒になると「いろんなことを普通に考えることが嫌になってできなくなる」人が多いわけで、そういう中に特殊な狂気を発動してくる人が混じる、とそういうことねえ? と思うわけで。敵はそれを自分達が世界を征服するために利用しようとする、味方はそれに対してどう対抗するかを常に考える、とそういうことなんだ、と思う。

先週の木曜日の「ニノさん」は、「偉人の隣人」とかというもので、「有名な人の近くにいる人を呼んで話を聞こう」という企画であって。「名探偵コナン」の作者の漫画家青山先生の担当編集者が登場して、トリックの作り方とかを話していて。青山センセイ自身は、ものすごく忙しくて外出することも滅多にないらしいのですが、なぜかスケジュールが空いていたとのことで、「ニノさん」の登場していて。「コナン」といえば、連載は少年サンデー、アニメは日テレ、ということで、アニメですら20年以上続いているし、毎年公開されるアニメの映画版は興行収入が630億になるビッグプロジェクトらしくて。で、何故これが気になったかというと、これを見たのが土曜日で、土曜日の昼間に作業をしていたら、ふっと大名家のおっちゃんが降臨してきて「青山君は、味方ではないけど、扱いやすい人だ。」と言ったからで。アニメ版コナンは、好きで騒ぎが起きる直前まで見ていて。コナンのプロデューサーは、日テレのアニメ部門の生え抜きの人で、諏訪道彦、という。この人は、大学卒業後、日テレに入社してアニメ部門に就任し、いろいろなアニメをヒットさせた、ということで、今では取締役に名前を連ねるくらい出世しているようなのですが。どうにも、どこかで大名家と繋がっているでしょ? と思う。大名家の当主の考え方は特殊であって、ともかく「武家の社会は『ご恩と奉公』なので、敵とか味方とか関係なく、一定の『奉公』を示してくれる人には、こちらも公平に一定の『ご恩』を返さなければいけないもの。」というものであって、青山センセイは、おっちゃんにとっては、「敵だけれども、一定の奉公はしてくれる人」であるらしくて。で、彼の作中のコナン君と同じく、「人を見る目の洞察力」は優れた人らしくて。センセイ曰く、「太陽女神が、一番普通の人らしく生活していたのは、埼玉に住んでいた時期である。そこで何を好んで食べていたかといえば、親の管理下にある時に食べられなかった豚肉をたらふく使ったカレーをお腹いっぱい食べていたわけで、豚肉食が「普通の人並み」の生活をもたらした一番の原因を思われる。一方、牛肉を食べるようになってからは、本人訴訟を起こしたりしているわけで、そういう才能があることは優れた人の証拠でもあるけれども、「普通の人並みの生活」という観点からすれば「普通」とは言いがたく、理性は保たれていても攻撃性が増している。普通と思われる範囲での適度な攻撃性と判断力を保つためには、適度に豚肉を食べるべき」ということらしくて。もう少し豚肉を食べる量を増やして貰うように、今は戦いの最中だから、といわれるわけで@@。要するに、センセイは私を直接鑑定するために「ニノさん」に出たのですねえ? と思うわけで。

日テレはジブリの映画にも出資しているし、今やアニメは日本が世界に誇る一大産業である。その中枢に、ジブリの賢人達とか、出雲神族の上層部の人間がいるということは、けっして偶然ではないし、富の王家はそうやって富を得て、お金を必要なところに回すことにたけている、と言われるわけで。しかも、子供向けのアニメは、友情の大切さとか、自分自身が洞察力を働かせて頑張ることの大切さとか、男の子は好きな女の子を守るために頑張らなきゃいけない、とかそういうことを子供達に教える役目も果たすので。そうやってお金や思想を、世間に回している、ということで。

で、二宮君が、コナン君を描いた色紙を青山センセイから貰っていたので、ちょっと「いいなー」と思ったというか、いずれ守達神に直接会うことがあれば、見せて貰おう、と思ったわけで。そうしたら、センセイから、「謁見する時には、そんなに欲しければ描いてあげるよ。」と言われたわけで@@。「でも、あなたに描くなら、描くのはコナン君ではなくて、蘭ちゃんでしょ。守達神のところにコナン君、太陽女神のところに蘭ちゃんの色紙があれば、それで二人はお似合いのカップルでしょ。」と言われて。それはそうかもしれない、と思う、というか、それが日頃、自分から「ああして欲しい、こうして欲しい」とほとんど言ってこなくて、6番目の子のサポート役に徹している守達神の望みなんだなあ、と気が付いて。コナン君は、本当は幼なじみの蘭ちゃんと同じ年なのに、謎の組織に謎の薬を飲まされて、年が一回りも若くなってしまったので、正体を隠して大好きな蘭ちゃんと一緒に暮らしているわけで。年が13も若いコナン君と、姥桜の蘭ちゃんですか? と思わず突っ込むわけですがー;。コナン君の本名は「新一」というので、おそらく本来は7番目の兄さんを想定したものであると思うのですが、守達神の功績を考慮して、彼の願いがこういう形で許されたのだと思う。私も、こういう形で望みを言って貰えると、それはそれで安心します。なにせ、「婿」の兄さん達の数が多すぎて、いろいろと大変だからー;。