昨夜は特に夢も見ず。本日は午前中を中心に雨が降っていて、かつ家人を病院に連れていかなければならない日であったので、「仕事」はお休みにして、運転手に専念して。
「建築基準法に適さない瑕疵があることが確実の建築物の引き渡し」について親と少し話したのですが、ものすごく厳密に言うと、契約的には「建築基準法に適した建物を業者は建てなければならない」という文言が盛り込まれていなくても、法律的にはそうしなければ「ならない」ものだし、そのために各種法令はあるのだし、工務店を監督するための建築設計士や行政があるわけだから。法令に違反するような瑕疵のある建築物なんて、いくら建ててもらっても、材料費すら支払う義務は施工主にはないわけです。(取り壊して、法令に適したモノを建て直せ、と言うことはできる。)
で、親としては「お金を払ったらそれで終わり」みたいな気分なわけですが、通常では、建てた建物にメンテナンスが必要な場合には、工事をした電気屋さんとか、工事をした水道屋さんに補修をお願いすることを前提にしていろいろな法令的な取り決めがあるわけだから、厳密に言えば、業者に原因がある瑕疵が支払後に発覚した場合には、当然瑕疵の修復とか、損害賠償を求め得ます。別に「払ったら終わり」ということではないわけですが、悪徳業者はだいたい裁判とかに持ち込まないと話が進まない、とかそういうことになるので、手続きが面倒くさいから、支払い前に分かっていることはカタをつけてしまうことが好ましいわけで。相手が誠実な業者であれば、必ずしもそういうことではないわけです。
だから、今回、工務店側が言ってきたことは、2重に意味があるわけで。本音は、ともかくもう、「これ以上掘らせるな」ということしかない。掘れば掘るほど、敵が不利になるからです。でも、表向きの意味は、彼らの言動から明らかなように、「できるだけ多く支払いをさせたい」ということにあるわけで、下手をすると「完了検査を済ませた」ことを理由として「瑕疵は無い」とか、そういう図々しいことを言いかねないと思うので。「法的な手続きのために、やむを得ず役所を誤魔化すとしても、今後瑕疵がなかったこととして本件を取り扱うつもりはない」ということは、表向きに明確にしておきたかったわけです。呆れるようなぼったくりの請求書が図々しく送られてくるようなら、そもそも法律の原則に則って「支払い義務がそもそもあったっけ?」と言わなければならなくなるかもしれないからです。でも、施工主の「支払い義務の停止」の原因が「工務店と建築設計士が隠蔽したがっている瑕疵」にある場合には、支払いをしなくても、彼らはどこにも訴え出られないでしょ? 隠蔽しなければならないんだからさ? ということになるわけで。結論から言えば、最終的に必要だと思われる予防線は、こちらとしては当然に張るけれども、「何言ってんだ?」くらいのことしか言われていない、とそういうことになるわけで。
古代ローマの歴代の皇帝の中には、年を経るごとに言動に異常を来して、自滅している人が何人もいる。それは歴史家からは、「古代ローマの上水道管には鉛が含まれていたので、鉛中毒の症状だったのではないか。」と言われたりするわけです。でも、古代のローマ人は、貴族も市民もみな同じ上水道を使っていたわけだから、皇帝だけがそれが原因で狂うのはおかしな話なのです。それに、イエス・キリストは、自らの組織が「新興宗教」として頭角を現していて時期に、エルサレムへ行ったら弾圧されて、身に危険が及ぶ可能性がある、と知っていたのにエルサレムに乗り込んで、結果ローマの手に落ちている。その点で、彼は「エリサレムへ乗り込んで、自らの勢力を更に拡大したい」という欲望に勝てなかった。すなわち判断が狂っていたのです。そして、手の付けられない暴君であった雄略天皇。結局臣下は、その家系そのものを見放して、用意周到に何代もかけて滅ぼしてしまうしかなかった。おそらく、その人も年を経るごとに残虐さを伴う狂気が増して行ったのだと思う。でも、それは「何故?」と問うと、「それが人肉中毒の症状で、年を経る毎、食べれば食べるほど症状は悪化するもの」と言われるわけで。古代ローマの皇帝とか、古代の天皇とか、そういう昔の人ではなくて、私が若い頃からよく知っている人で、明らかに年を経る毎に「言動がヘン」と感じる人がいる。そして、私の周囲の人達の言動も、確かに若い頃から「ヘン」ではあったけれども、でも、最初に働いた職場では、「勝手な人が多い」という以上のことは、どうにもあまり感じなかった気がするわけで。で、次に働いた職場でも、いろいろ嫌がらせは受けたけれども、でも、上司の「個人的な嫌悪」以上のヘンさは感じなかった、というかそんな感じであって。組織的に露骨なまでに「異常だ」と感じたのは、3番目の職場であって。これも、私自身のことではないけれども、私が年を経る毎に「周囲の狂気が増している」気がするわけで。で、遂に、工務店自らが「自分と建築設計士が共謀して、違法建築物を建てている」って施工主にカミングアウトする時代が来ましたよ。それが事実だと言うことは分かっているけれども、どうみても言動としては「異常」でしょうが、と思うわけで-;。誰が建築物を「違法状態」にしているとしても、責任があるのはその時期に現場に関わっていた工務店と設計士だぜ? と思うわけですが。
で、何故こうなるのか? と問えば、「人は上位に来る神に精神的に支配されている。上位の神が人肉中毒によって狂気を増せば、下位の神々の言動も狂気を増す。」と言われるわけで。工務店の社長の間抜けの極みの発言の原因は「鹿島の神」のご乱心ですか、そうですか? ということで。どうにも、危うい状態なので、ローマ人の中にすら、もっと正気で「人肉の毒」に強い神に交替させた方が良いんじゃないか、という意見を持つ人が出るくらいらしくってですねえ?
なんで、私は「人肉の毒」に強いってみな思うのですかね? と問うと、まず「そういうものは酒と同じで、弱い人は死体の匂いを嗅いでいるだけで中毒症状を起こす。」と言われる@@。でも、そんなものを直接「食べ続けたこと」なんてないですよ? 宴会でフランス料理のフルコースとか食べたことはあるけれども、「自分のための皿」なんて年に1回くらいのことで、それも合計3回くらいじゃん? 大学にいた時代から数えても、せいぜいが6,7回、と思うわけで。そうしたら、「死体を解剖したメスで切りつけられて怪我をしたことがあったでしょ。傷口から死体の成分が直接体内に吸収されている。あなたにとっての最大の『人肉の天秤』はそれであって、そこからどのような狂気が発動してくるのかを、敵はずっと観察していた。」と言われるわけで@@。だから、うかつに医者だの歯医者だの看護師だのになって「死の穢れ」にまみれるようなことはあってはならない。まみれればまみれるほど、人肉中毒に陥って、敵のいいなりになるしかならなくなるから。ということらしくて。だから、あれだけ死体をつつき回しておいて、「医者はもうやらない」と言って平然としているということは、それだけで中毒症ではない。しかも、例の大震災では、被災者を一人でも多く助けようとして多くの言霊を使ったけれども、苦しんでいる人達を見て、喜びを感じ「もっと苦しめば良い」とは思わなかった。それが、「人肉中毒のもたらす残虐さの狂気」は発動していない証拠、と言われるわけで-;。で、東京を去る前に、一番好んで食べていたものは何か? と聞かれるわけで。東京を去る直前に、「これからはもう好き勝手に肉もたらふく食べられないだろう。」と思って、お安いオージー産の牛肉で作ったビーフカレーをしこたま食べたわけで。まさに、それが東京時代の私の「最後の晩餐」になったわけで-;。東京時代の最後は、お値段的にそればっかり食べていた-;。そうして、裁判の書類を書き、何かを書いて戦っていたわけで。だから、「牛肉を食べて攻撃性が増すのだから、あなたは誰がどう見ても人肉中毒ではなくて、牛肉中毒でしょ。でも、そのせいで無作為に他人を攻撃したりはしていないから、西欧人からみれば、それは「肉中毒」の症状とは認められない程度にしか過ぎない。」と言われるわけで@@。理論的に言えば、「人肉よりも牛肉の方が禁忌」と言われるわけですがー;。でも、牛中毒は敵にとっては痛し痒しであって、最近では特に牛肉がお安くなっているので、食べようと思えば、それは敵と取引をしなくても手に入る品物であるので、敵はそういう相手を拘束しにくいわけです。肉が主食の西欧の人々にいろいろと期待されるのは、人肉を始めとして、「肉全般の毒」に強い体質だからなんだ? 肉を食べ続けて年をとっても、比較的正気を保てるから? と思うわけで-;。
で、家に帰ってから「ブンブブーン」を見たわけで。本日のゲストは貫地谷さんであって。貫地谷さんは「蛙の目」の女性であって、蛙の目の人で、吉備津彦命の配下の人である。彼女からはただただため息をつかれて、「私はいろいろと言う立場ではないから」と言われただけであってー;。チーズカルビ屋の姜さんにもため息をつかれるわけですが、なにか申し訳ない気はするわけですが、7番目の兄さんの前で言いたいことは言わせて貰えないだろうな-、と思うわけで-;。でも、吉備津彦命のことを思い出して、そういえばその人も「蛙の目」の人なんだなー、と今更ながらに気が付いて。周囲から「今になってそんなことで、毎日直接顔を合わせていた大学時代は何だったのか?」って突っ込まれるわけですがー;。そんなこと言われたって、わかんなかったものは分かんなかったんだし、と思うわけで-;。それで、いろんな動画を見ていて気が付いたのですが、なんでその3人は医者を辞められないのですか? とふと気が付くわけで。「彼らは、ただ太陽女神を助けるためだけに、行く必要もない医学部へ行って、人肉中毒になっているのです。だから、味方が手厚く守って、中毒の狂気が増さないように、かつ禁断症状を起こさないように、量を厳密に調整して肉を供給され続けられなければならない。だから、医者は辞められない。それは、ただあなたのためにそうなったのです。」と、貫地谷さんにため息をつかれるわけで@@。ため息の原因はそれかーーー、と気が付かされるわけで。多くの人に迷惑をかけてここまで来たことは知っている。でも、だからといって、その人達を特別扱いしなければいけいもの? とふと思うわけで。ダライ・ラマのおじいちゃんからは、「釈尊はどんなものを食べて中毒に陥っても、自らの意思を鍛えて、人としての正気を保つように、と述べた。それは、その人自身にしかできないことだから、それを実践することを「悟り」と呼ぶし、自力本願というのです。釈尊はそうするために家族を捨てて、一人で己の道を歩んだのだから、あなたも釈尊と同じように自分の道を行きなさい。」と、ただそう言われるわけで。チベット仏教の「活仏」とは「生きた仏」であって、代々生まれ代わると言われている。では、そうだとすれば、彼らはいったいそもそも「誰」の生まれ代わりなのですか? と思う。そうしたら、「それは一番最初に仏になった人でしょ?」といろんな人に言われるわけで。おじいちゃんは、自分がただの「シッダルタ太子」と呼ばれていた頃のことをどのくらい覚えているのだろう? と思う。そうすると、「だいたい、エリザベス女王と同じくらい」と言われるわけで@@。貫地谷さんには申し訳ないと思うけれども、その人達のところへは行けない、と思う。他に、「来て欲しい」と言ってくれる人達がいるのなら、そこへ行きたいからです。それだけのことなのです。