昨夜は特に夢も見ず。今日の天気予報は午前中が晴れで、午後が雨、とのことだったので、午前中にできるだけの作業をしようとしたのですが、実際には午前中が雨模様で、午後が晴れていて。土台の下は、大きめの石がゴロゴロと入っているところにさしかかっていて、掘っても掘っても石が出てくる状態なわけです。
で、「いってQ」の「田植え祭り」では、慣れない日本人二人は、当然稲の苗を植えるのも下手くそなわけで。もっとちゃんとやろうと思えばできたと思うのですが、わざとやらなかったのだと思うわけで。何故なら、本場のタンムーズの儀式では、一部の穀物の新芽は、実らせるためではなく、太母にその命を捧げるために、実ることなく意図的に枯らされるわけで。それは、女神にその実を捧げて、子孫を残すことなく現世を去って行く人達のことも指すわけだから。それは、一般的には現代的には「僧」という言い方が一番近いのだと思うわけですが。だから、筆頭の植えた苗は、彼らの人生の如く、実を付けるまでには至らないことが当然とされているのだと思う。有能な若い人達の人生がそれでいいの? と思うわけですが、そういうこと言うと、だいたい「男心のことが全く分かっていない」とか、そんなことしか言われないわけで-;。まあ、分かってはいない、と自分でも思うわけですが;。
でも、ヨーロッパで古くから、穀物の祭祀と人肉食が密接な関係にあるとしても、倫理的とか衛生的な問題を覗けば、人肉だってしょせんは肉の一種であって、食べてもそれだけのものでしょ? と思う。ローマは何故、人肉食に関する祭祀を独占することに血眼になったのですか? と思う。そうしたら、そういう考えが間違っている。そもそも、「食べる」ということは、満足して快感を得る、という行為につながるので、全ての食物には「中毒性」があると考えて良い、と言われるわけで。人は、ものを食べなければ生きていけないので、「食べる」という好意は一般的には不快な行為ではなくて、快感をもたらすものなわけで、それは人だけでなくて動物全てに備わった、生きていくための「本能」です。もし食べることが不快なことであるなら、生き物はものを食べなくなって死に絶えるでしょ、と言われるわけで。だから、「ものを食べる」ということは、麻薬を摂取するのと同じ事で、「食べたものの中毒になる」ということ。で、中毒性のものを摂取する場合の対処法は2つあって、麻薬のように作用が強力なものは摂取を禁止して避けることが1つ。もう一つは、同じものを食べ続けて、その食物に対する耐性をつけて、中毒症状を緩和すること、と言われるわけで。だから、世界の大抵の民族は、自分達の決まったもの、すなわち自分達の体質にあった限られたものだけを食べて、外の部族の食べているものは口にしないわけです。あれもこれも「食べる」ということが、そもそも危険な行為であって。例えば、古代エジプトでは労働者に支払われる給料は「タマネギ」でした。それは中毒性の高い食べ物だから、為政者は敢えて一般の人々をタマネギ中毒にして、タマネギさえ供給していれば、人々を容易に支配できるようにしていたわけです。で、「人肉」というのは、中でも中毒性が非常に高く危険な食べ物、と言われるわけで@@。ヨーロッパでは35万年前の旧人類の遺跡から、食人の痕跡が発見されていますが、その頃の人々は、そもそも人肉を好んで選んで食べていたわけで。それは、「食べると発狂するもの」と言われるわけで@@。具体的にどうなるのかというと、食べ付けると麻薬中毒患者のようになって、倫理観が低下し、再びそれを食べるためにはどんなことでもするようになる。ものごとをしっかり考えるのが嫌になって、人肉がもたらす快楽だけを求めるようになる、と言われるわけで。で、一般的な「肉食中毒」の傾向として、性格が活発かつ攻撃的になりやすく、むしろ人が苦しむのをみて喜ぶ、という残虐性が前面に出やすくなる、ということらしくて。仏教が、人肉食のみでなく、広く肉食そのものを禁止しているのは、決して理由がないことではない、と言われるわけで@@。だから、35万年も前の人々はともかく、時代が下ると、人肉は特別な祭祀のときの食物とされて、食べることに制限がかかるようになる。それは、「発狂」の作用を押さえて、かつ適切に勇敢にもなれるように調整がかけられるようになったせい、と言われるわけで@@。でも、依存性の食物に共通することですが、希には中には人肉を食べても「中毒」を起こさない人もいる。で、現代では「神」とか「悪魔」という言葉があるわけですが、これはどういう意味かといえば、東洋に多い「神族」とは、人食いを禁止して、人の肉を食べない人達のこと、言い換えれば人肉食の毒に弱い人達。だけど、人肉食を行わない限り、極端な残虐性を発揮したりもしない人達、と言われるわけで。一方の「魔族」というのは、積極的に食べる、食べないは別として、人肉食は否定しない人達のこと。特に、人肉の毒に抵抗性が高くて、最近まで公然とそういうものを食べていた部族というのは、勇猛でかつ残酷であっても、発狂に至るまでの人は逆に少ない、と言われるわけで。だから、特に西方における「階級社会」の根本には、「人肉の毒に強い人は上流」「弱い人は下流」という意識がある。それは体質によるもので、家族の中でも人によって異なるものだから、それが西欧における「個人主義」の原因にもなっている、と言われるわけで@@。人肉を行う社会で、上に立つ人が簡単に中毒を起こして、見境無く人々を殺し始めたりすると大変なことになるので、そうはならず、状況に応じて、適切な判断を下せる人が上に立つのが当たり前、ということらしくて@@。だから、敵は「人肉」に関わる祭祀、とその流通を独占することで、誰にいつどこで何を喰わせるか、ということを考えて、人々を操り支配しようとしている、と言われるわけで@@。いったん、敵に人肉を食べさせられて、はまってしまえば、どんなに「目の力」の強い人でも再びそれを口にしたくて、敵の言いなりになる。だから、東洋でもそうだけれども、「上」に立って、人肉の毒に強い人達は、逆に積極的にそういうものを食べて、毒に対する抵抗力をつけようとしてきたわけで。斉の武王が、赤ん坊を唐揚げにして食べたのは、そのため。その人も抵抗力の強い人だったのだろうけれども、人肉食の結果、名前の通り武力に優れる人になった、と言われるわけで@@。だから、現代的に「何でも食べよう」という考え方は、抵抗力の強い人には食べ物の毒に対する抵抗力を高めることにつながるけれども、大抵の人はなんでもほいほい食べているとなにがしかの食物に対する依存を引き起こすもの、と言われるわけで。「げっ」と思ったわけなのですがー;。