昨夜は特に夢も見ず。本日もせっせと土台の下を掘って。昨日掘り出したとっこの周囲をできるだけ綺麗にして。で、目立つとっこは残り一つになったので、その周囲も少し掘って。そして、奥にある黒いビニールの袋のようなものも概要を知りたいと思って、おおよその幅掘り出して。で、石が詰め込まれている土がまだたくさんあるので、そこも掘り崩さなければ、と思った、というところで今日の作業は完了であって。今日は天気も良くて、良い一日でした。
昨日の続きで、エレウシスの人食いの儀式は、おそらく古代のヨーロッパではどこでも見られたものであろう、と思うわけで。でも、キリスト教の時代になると、表向きは、それは「異教の悪しき風習」として、弾圧され消え去るわけです。それにはいくつかの事情があるわけですが、キリスト教そのものは、「神への犠牲に捧げられた」のは「イエス・キリストただ一人」とされ、それ故にイエスだけが神と一体となった存在であり、イエスが死を持って人類の罪を贖ったとか、とされるわけです。でも、ミサなんかではパンを「イスの肉」、ワインを「イエスの血」と称して飲み食いさせるわけですから、かつてはそうやって人肉を儀式で食べていた風習があったことがうかがわれるわけで。キリスト教は、そうやって古代世界で普遍的に行われていた生け贄の儀式を、「イエス一人だけのもの」と特化させることで、他の生け贄の儀式を禁じてしまった、ともいえます。生け贄になるのも、一種「選ばれた人」ではあるので、そういう特別な人はイエスだけ、と述べているのです。でも、そもそもキリスト教とは、生きているイエスが作り出した新興宗教であったわけですから、「イエスだけが唯一絶対の犠牲となる存在(イエスのみが死すべき存在)」だという教えでは、本来なかったはずなのです。だって、教祖様が死んでしまうことが前提なら、なんのために新興宗教を興すのか? ということになるからです。しかも、紀元前後のユダヤの新興宗教というのは、ほとんどが「ローマからのユダヤの独立」を命題に掲げており、たいていは政治色の強いものだから、過激ではあっても現実的に「生きる」ということは大切にしていたと思うのです。イエスの弟子の中にも、政治的に過激な思想を持つことが明らかな人が何人もいました。だから、今現在のキリスト教の教えはイエスが作り出したものとは言いがたいのです。今のキリスト教の教えは、イエスの死後、その死を都合良く利用しようとした人々が作り出したものなのです。で、その最大の目的は、ヨーロッパ周辺で広く行われていた「麦の種まきに緘する人肉食の儀式」を禁止することでした。もっといえば、その「儀式」を行う特権は「教会にのみ存在する」と広言することであったのです。そして、その「権利」を彼らは実に残酷で、都合の良いやり方で行使してきたのです。