本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「しやがれ」を見て寝て。

で、寝る前に日記を読んで貰ったら、案の定、親の方から一定の反発が来るわけで。で、特に「お歌」に関する反発が特に強いわけです。「なんで、自分がそんなことをしなければならないのか」とか「自分にはそんな能力はない」と述べるのです。でも、結局「やりたくない」のでしょ? となる。でも、いろいろ話した結果、私が歌詞をプリントアウトして、親に「誰それの歌だから」と言って、読んで貰う、ということになりました。そして話している過程で、親が「贈られてきた歌と現実との関わり」、それから「太陽女神に話しかけてくる人々と現実との関わり」に特に実感が持てないことが判明しました。それ以外のこと、例えば「敵」とされている人達の敵意がすごいこと、8,6,4といった数字が敵に好まれ、味方に嫌われていること、飛行機やヘリが警告を出すのに大きく関わっていること、テレビの中の味方の服装が警告と大きく関わっていること、には現実感を持てているわけです。でも、その人の服装には現実味が持てても、言ってくることにだけ現実味が持てない、というのも変です。

太陽女神が、何故そのような現象に「現実味」を持っているのかといえば、それはいろんな騒ぎが起きた初期にまでさかのぼる出来事があったからです。最初、家はごみだらけであって、味方の声は非常に届きにくかった。2012年の春に、太陽女神がミュージックステーションの録画を見たら、福山雅治氏がゲストで登場していて「生きてる生きてく」を唄っていた。それを見た直後から、明確にいろんなことを言う声が聞こえてくるようになった。しかも、何度も福山氏の映像を見るように要求された。そして、数日の間、すなわちしばらくいろんなことがあったあげく、「家におこもりしなければならない」と言われた。「いつまで?」と思っても答えはなかった。その時にも、またその週のミュージックステーションの録画を見なければ、と思いついて見てみた。見たら、ゲストに嵐が登場していて、登場した瞬間に画面に向かって「1年」と述べた。それで、太陽女神は、「1年家に掃除をしながらおこもりしなければならないし、福山雅治氏と嵐のメンバーは今起きている現象に、どう関わっているのかまでは分からないけれども、現実に大きく関わっている。」と確信を持つに至ったわけです。だいたい、そもそも、誰が敵なのか、それとも味方なのか。良い名字と悪い名字とは何なのか、ということには興味もなければ、知りもしなかったのは太陽女神も同様なので、外の人達に教えて貰わなければ分かるはずがない。今でも家族から「○○は良い名字?」とか「××は悪い名字?」って聞かれる度に、兄さん達にいちいち聞いて教えて貰っているわけだから、一人でそんなことが分かるはずもないわけです。しかも、自分が思っていることを、他人が言っているように表現するなら、それこそ「多重人格症」なんじゃないの? となるわけで。そんな表現方法を意図してしなければならない理由はありません。

それはともかく、お母さんの問題として、お母さんはそのあたりに「現実味が持てない」と述べた。その理由はお母さんにも「分からない」とも。その場では太陽女神にも分かりませんでした。だから、女神は自室に戻って、「指導医」であるトリイ・ヘイデンに尋ねました。「何故ですか?」と。そうしたら、こう言われました。「それは、お母さん自身が、そのことを現実のこととして認めたくないからです。それを現実のこととして認めたら、母と娘の間で築かれてきた共依存関係に第3者が入り込んで来ることを認めることになるからです。」そっかー、そういうことなんだ。と太陽女神は思いましたが、このように太陽女神自身は、一定の精神科領域の知識は持っていて、教科書に載っているような典型例については解釈できますが、非典型例については、自分でもすぐには対応できません。しかし、精神科領域の問題は、一人一人異なる問題を抱えていることが多くて、問題は千差万別です。そこで、症例経験の多い人物のアドバイスが必要とされるのです。

そして、お母さんも一定の譲歩を示してくれて、歌詞をプリントアウトしてくれば、その内容について述べる、と言ってくれました。専門医は、お母さんの述べるように、一度に大量の歌を渡すのではなくて、特に問題とされる点、「歌と現実との関わりに現実味が持てない」という点を補正できるような歌を少しずつ探して提示すべきだ、と述べました。歌の内容と現実で起きていることの間に関わりが認められるものはあまり多くないのですが、ないわけではない。そこから、現実味を持つ訓練を始めるのも一つの方法だと思うからです。

そして、お母さんの疑問にも、一つには答えたいと思います。例えば、太陽女神がお姉さんの結婚について、お母さんに述べた時に、お母さんは「では、どのような結果が良かったのか」と述べました。お母さんは、問題を提起すると、良くこのように述べます。しかし、それは第三者には判断できないことです。結婚というものを当事者同士だけのもの、とするのであれば、お姉さんが望む結果になることが、お姉さんにとって一番良かったのです。結婚というものが家同士の問題であるならば、それは家の問題を取り仕切るお母さんの望む結果になることがお母さんにとって一番良かったのです。そうとしか言えない。この場合、精神科的に問題となるのは、そういうことではないのです。ジブリの鈴木さんが連載の中で、カンヤダは貧しい農村出身の女性で、可能な目的を立てて、そこに向かって道筋を作ることができない人とされている。それと対象的にアツシ君は、可能な目的を立てて、そこに可能な方法でたどり着くことができる人、とされています。だから、お姉さんの「結婚」という事象に対して、当時、おそらくお姉さんとお母さんが最終的に望んだ「目的」はそれぞれ異なると思うのですが、それぞれの立てた「目的」は実現可能なものであったのか否か、それぞれはその「目的」に向かってどう道筋を立てたのか、そして最終的にその「目的」は達せられたのか否か、そういうことを精神科は総合的に判断して、どこに問題があるのか、あるいはないのか、で、その人の人となりを判断するのです。要するに、カンヤダのような無秩序な人間なのか、アツシ君のような理論的な人間なのか、ということです。そして、その人間性のどこかに病的な面が発見されれば、それに相応しい対応をするのです。

一方、結婚というものが当事者同士の問題であれば、当事者以外の者は、口を出すべきではありません。家同士の問題であれば、仕切るのは当然親のはずです。でも、ここに、その問題で、当事者でもなければ、親でもないのに、問題に巻き込まれて、心身の健康を損ない1年の留年生活を余儀なくされるほど尽くしたのに、昨夜の話し合いの中ですら忘れ去られていた人物がいます。何故、彼女が、関わるはずのない問題に巻き込まれたのかといえば、母親が自分のところにやってきて、愚痴をぐちぐちとうるさくいうので、母親のために何かせずにはいられない、という気持ちになる。それで頑張ってはみたけれども、自分には適する問題でもない、と思う。もし、自分の方が姉で、人生経験も豊富で、結婚していたりすれば、自分の経験からアドバイスできることはいくらでもあっただろうけれども、まだ若くて、男の人とつきあったこともなくて、人見知りも激しいお年頃であったのに、なんで姉の結婚問題で振り回されなければならないのだろう、と思う。親に対して、「親が介入するならするで、相手の人となりを知るために、調べるべきことはしっかり調べるべき。」と述べても、親の方は「三水のじいちゃんはそんなことはするもんじゃないと言っていた。」と言うし、だいたいその年で「親がこう言った」「ああ言った」なんて言うもんじゃないだろー、あなた自身がいい大人でしょ? とは当時から思っていたわけで。それで心身共に病んで留年するほど家族に尽くして疲れ果てたわけですが、感謝の言葉どころか、「お疲れ様」の一言すらなかったわけで。親は当時は、「親は子供の面倒を見るのが当たり前で感謝なんてされようと思ってはいない。」というようなことをいつも言っていた。だから、大陽女神は「自分の家族は、お互いに尽くし合っても感謝する必要性のない家族であって、それは世間のルールとはちょっと違うけれども、我が家ではそういうことなのだろう。」と納得することにした。でも、なんだか急に最近「感謝」「感謝」と言われるようになったわけで、「あれ?」と思う。我が家のルールは、いつ変わったのでしょうか? と思う。そして、ルールを変えるのであれば、私が失った1年はどうしたら良いのか? とも思った。そうしたら、西欧の人々にはこう答えられました。「例えば、専業主婦の人が離婚する際に、それまでの主婦としての賃金を請求し得るように、失われた時間はお金に換算しうる。あなたは、する必要のないことで1年間を無駄にしたけれども、学業を中断するにしても、その1年を自分のためにお金を稼いでいた時間だったとするならば、アルバイトをして月に10万円の収入があったとして、1年で120万円の現金は手に入れられていたはず。法律的には、それをお姉さんの結婚に関する労働の対価、あるいは損害賠償として請求し得ると、自分でも分かっているでしょう?」と、これは真面目に昨日言われたわけで。確かに、言われてみればそうかもしれないと思う。姉の結婚に関して、親が「どのような結果が一番良かったのか」と問うのであれば、私にとってはこれが一番ベストの結果だったように思う。それに、これは「労働の対価」とも言うべきものだから、その後の学生生活で、親が子供の面倒みたとかみないとか、そういうこととはまた別の問題だものね、と思う。恐ろしく現金主義な話ではあるわけですが。「時は金なり」ということになれば、望ましい解決方法はこれです。

そして、当時強く感じていたこと。自分に求められていたことは、親や家族に問題解決のためにアドバイスをすることを求められているのではなく、単純明快に、ことを母親の思い通りにするために動くことだったんだな、と思うわけで。思い通りに動かないと、いろいろと中傷されて、「お前は自分勝手だ」というようなことは何度も言われて、まだ若くて繊細であったので、非常に傷ついたりもしていて。で、親の方には、今でも述べるとおりに、「最初からうまくいかないと思っていた」とのことで、親が「うまくいかなければいい」と思っていたことで、1年間を無駄にさせられたわけです。今から思えば、自分にとって、笑ってしまうほど「不毛」な出来事であったと思う。親にとって、娘は自分と共依存関係に陥っている存在だから、自分と同じように考えることが「当たり前」であって、同じように考えない娘は、まあ娘ではない? みたいなことで、昨晩も似たようなことを相変わらず言われたなあ、と思うわけで。

しかし、当時の私は知るよしもないわけですが、こういう状況を間近で見て、母と娘の共依存関係に危機感を持った二人の若者がいた、ということで。彼らもまた医学生であったので、母親と娘との間の関係について、思ったことは私と似たり寄ったりであったと思う。問題は彼らだけの手には余るので、東京から応援が呼ばれました。曰く、長瀬君が、「ドラマのロケ」という形で松本にやってきた。彼は情報を直接二人から受け取って、東京に持ち帰った。長瀬君は7番目の兄さんと同い年で、かつ親友であるので、7番目の兄さんは専門書を自ら手に取ることになった。一方、問題の解決は若者達の間だけで図られるだけでなく、一方で小児精神科の専門家であるトリイ・ヘイデンの元にも届けられた。何故、「小児精神科」かといえば、太陽女神は既に成人していましたが、体が弱く奥手で、精神的にも幼かった。彼女自身はまだ子供のようであって、無事に「大人の世界」に引き出す必要があった。もう一方で、ジブリの三賢人の元にも届けられた。そこから、宮崎監督のアニメ制作ラッシュが始まるわけで。最初に作られた「もののけ姫」のヒロインであるサンは、人間の母親に捨てられて山犬の母親に育てられた娘であって、普通の人間ではない。「となりのトトロ」の主人公の2姉妹の母親は病気で入院中であって家にはいない。「紅の豚」のヒロインであるジーナさんは大人の女性であるので、母親は物語の中には登場しない。「千と千尋」の千尋のお母さんは魔法で豚に変えられっぱなしの上に、人間に戻ったときに、娘が自分のためにどんなに苦労したのかを覚えていなかった。「ハウルの動く城」のお母さんは自分の幸せのために娘を敵に売り飛ばして、言葉では「ごめんねソフィー」と言うけれども、ちっともそんなこと思っていなさそうな人。「ポニョ」のお母さんは海の女王だから、優しいお母さんだけれども普段は子供達のそばにはいない。どれもこれも、主人公級の女の子に関して、「普通のお母さん」というものは存在していないわけです。そして、物語の中で、「ヒロインのお母さん」に対して第三者が働きかける場面がほとんど登場しない。唯一といって良いのは、「もののけ姫」のサン、人間の娘というよりは「山犬の娘」と化していたサンについて、サンに心ひかれていたアシタカヒコが「母親」の山犬に叫んだ言葉、「サンを解き放て! 彼女は人間だぞ!」という言葉だけだ。アシタカヒコとは「ナガスネヒコ」の別名のこと。サンとは英語で「太陽」のこと。それは、20年以上も前に、蛇の兄さんが「母親」に向けて叫んだ言葉だ。そして映画のキャッチコピーはただ「生きろ」だった。ジブリの3賢人に一人につき、ただの1文字ずつの「生きろ」という言葉。問題解消に向けての「外」の人達の努力は、こうやって始まったのです。ただただ、今はまず、それを知ることから始めねばならないのです。20年前には、問題を解決するために、太陽女神は医者の世界から逃げ出さなければならなかった。今はまた、そのために医者を無償でやっているわけです。

そして、娘の物語を始める前に、お母さんの物語から始めねばなりません。お母さんは、娘に建礼門院徳子の話をした。お母さんは、徳子のことに興味を持ったけれども、徳子の人生に共感を持っているからではありません。平家物語の「おごれる者久しからず」という言葉が、徳子を象徴しているように思うからです。要するに徳子が「おごれる者」で、「盛者必衰」の象徴と思えるのです。では、平家物語には、どう書いてあるのでしょうか? 「おごれる者」とは「先相国入道平清盛」のこと、と書いてあります。あれ? 徳子のことって書いてないよね? となる。史実はどうであるのか? 徳子は、清盛の娘であって、父親の言いつけで天皇に入内しました。その結果皇子を得たけれども、平家が没落すると、産んだ皇子は皇位継承者から外されてしまいました。その生涯は、平家の栄光と没落と共にあり、彼女は自ら選んでお金持ちになったわけでもなければ、没落したわけでもない。父親の清盛の方は、自らのしあがった人物だから、彼のほうが「おごれる者」であるのは分かる。でも、娘の人生は「自らおごる」というほど能動的ではなくて、むしろ受動的な人生であったと思う。むしろ、自ら、「おごって」、「久しからず」であったのは、祇園女御とかであったのではないか、と思うわけで。彼女は、下級貴族出身で、白河上皇の側近となってその私生活をとりしきって栄華を誇り、上皇が死ぬと形見の衣装だけ貰って表舞台から引退してしまった人です。まさに「おごれる者久しからず」。でなければ、平滋子。彼女も下級貴族の出だけれども、後白河上皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。皇子は天皇となったけれども、滋子は若くして病気で死んでしまった。まさに「盛者必衰」。なのに何故徳子? と思う。それに加えて、お母さんは、割と「裕福な家庭の人」が嫌いです。若い頃は「金持ちだけが良い思いをしている」みたいな気分が強かったし、それで共産主義的な思想に心惹かれたこともある。だから、徳子は母親にとっては、「恵まれたお嬢様が没落して、いい気味」みたいな、そういう感覚の存在であるのか、と娘は思う。でも、母親だって、彼女の環境としては、割と学業とかは良い環境を得ているわけです。進学校に進学できたし。その上の学校にも一応行っている。子供の頃の同級生で、そういう機会に恵まれた人は少ないはず。徳子は親に恵まれていたお嬢様でした。それをうらやむのは分かる。でも、親が没落したら没落しました。母親は、学校も出ているし、たとえ親が没落しても、一緒に没落はしなかったはず。そこのところは、うらやむところじゃない。なのに、何故、徳子を取り上げる?

これがずっと私には疑問だったわけです。そして、「専門医」のご意見を伺いました。そうしたら、こう言われた。「親に恵まれて、お嬢様だった人がいる」。そういう人はいたかもしれないけれども、母親のことではないですよねえ? と思う。「親が没落していないのに、没落させれらた人がいる。その人はそれを恨んでる。だから、その感覚からいくと、親も共に没落した徳子のような人物に心惹かれる可能性がある。いいかえれば、自分が落ちたように、親も没落したら良かったのに、と考えている。」誰のことですか? それ? 「お母さん自身が、その女性と共依存関係に陥っていて、その女性の感覚を自分のもののように感じて表現しようとしている。そうすることで、今も母子の一体感を維持しようとしている。それは、お母さんが、実の母親と共依存関係に、今も陥っているということです。」それはばあさまのことかいーーー、ということで。恨みがましい性格だから、曾祖父母のことは恨んでたんだ? と思うわけで。私の母親は、無意識にそういう祖母の気持ちに寄り添おうとして、「平家が没落した」ことを通して「(母にとっての)祖父母も没落したら良かったのに」と代理で言おうとしていた。「専門医」はこうおっしゃっているわけです。私にこんなことが考えつくわけがないわけです。(ていうか、ばあさまはばあさまで、恨んでたんだ。恨んでたんだよね? 恨みがましいよね? と思う。兄さん達からは「自分も人のこと言えない性格でしょ?」って言われる。さあ、ばあさまに似たのかもねえ(苦笑)。とは、思うわけですが。母親が私に、いろいろと言われるのは自分の親にいろいろと言われるみたいで嫌なのですかねえ? 遺伝なんじゃないの? きっと? 足の形も性格も。と思うわけですが-;。)

というわけで、いつも昼寝をしている時間にここまで書いたわけで。その後、母親といろいろと話していたら、「お前にいろいろ言われると、母親に言われている気分になって嫌になる。」と言われて@@。専門医すげーー、とまずはそれしか思わないわけで-;。でも、ということは、親が娘を中傷していろいろ言っていたのは、娘に対する不満ではなくて、「母親に対する不満」の代替であったわけです。「親に対する不満は親に言えよ!」と思う。確かに昔は封建的であったので、親に対する不満を直接親には言いにくかったかもしれない。でも、それを子供にぶつけるのは筋が違います。母親の親が、子供に取って不満な親であったことの責任は、それこそ孫娘にはないからです。で、祖母と曾祖母との関係を聞いてみたら、これまた丁寧で慇懃であったけれども、温かみのないもののようであったそうで。祖母と曾祖母の関係も普通のようではない。祖母と母親の関係も普通では無い。子供とその母親との間には、まず最初にお互いに互いの気持ちに寄り添うような「正常な共依存」の状態が生じます。それが、手間のかかる赤ん坊の世話をして、育てる、という行為を可能にしている。昔のことで、子育てにあまり手間暇をかけていないとしても、子供がいないよりはいる方が手間がかかるのは明白です。だから、太陽女神の母親の心の中にはまず母親の気持ちに寄り添おうとする赤ん坊の気持ちが生じている。でも、祖母はそういう気持ちに応えうる女性ではなかったので、現実的には母親は、成長するにつれて、「父親(女神の祖父)に頼って面倒を見て貰う」ということにした。母親との気持ちに寄り添おうとする赤ん坊の最初の健全な発育の気持ちは、そこでそのまま満たされることも正常に発展することもなく、「時間が止まってしまっている」のです。だから、母親が祖母に持つ気持ちは、「母親に正常な共依存を求める赤ん坊の気持ち」のまま固定されてしまっている。だから、その「共依存状態」から今も動かせないでいるのです。と、「専門医」に言われる@@。だって、そんなこと私に責任のないことじゃんーーー。これからだって、言いたいことは言っていくし、誰に対する不満だって、他の人に八つ当たりせずに、当人に直接言うのが筋じゃん、と思うわけで。兄さん達からは、「(あなたも)めげない性格だよね。」と言われたわけですがー;。まあ、言いたいことを言うときに、気が付けば、言い方を気をつけるくらいはするかも? と思う。それはおいておいて、トリイからは、「カウンセリングは当事者の双方に必要です。どちらも自分の問題点を自覚する必要性があるからです。」と言われるわけで。もう「師匠と呼ばせて下さい!」と思うわけですが。

でも、そう考えると、母親の描く「徳子像」は、ものすごく愚痴っぽくて、親の悪口ばっかり言ってる徳子になりそうな気がする。そんな徳子像は読みたくないかも。私のお気に入りの建礼門院右京大夫が泣くかも、と思う。そうしたら、かつて平資守であった人から、「(徳子)は普通の人でしたよ。あんまり良く覚えていないけど。」と言われて-;。なんだか、今日はさすがにカウンセリングでお腹いっぱいです、ということで。(そして帰りの車の中で、親と話したわけですが、親の兄さん達の評価が「蛙の王家」の評価そのものなことに気が付いて。亀の子の「小物ぶり」な評価に苦笑いするしかないわけですが、そんなものであろうな、と思う。そして、何故親にばかり、裏山の総本家の人達の声が届くのだろうか、とも思う-;。ともかく、そういう干渉をされるのが困るので、蛇の目の兄さん達と、蛙の王家は「交戦状態」になっているわけで。西欧の執念深くて気性の激しい太母の名前を貰っている太陽女神は、その名前に相応しい気性を持っている女神なので。富の王家は、その気性を欲しているわけですが。そういう気性の扱い方を「一緒に勉強して行きましょう」と6番目の子に言われるわけで。翔君と相葉君がストレスためて、どんどん暗くなりそうだーー、と思ったのですがー;。(守達神は「そんなこと知ったことでは無い。」と述べるわけで。まあ、それもそうなわけですが-;。)親は、徳子を通して「人生のはかなさ、みたいなものを表現したかった」とは述べていたわけですが。でも、あなた、元々そういう「環境に恵まれたお嬢様」とか、「お金持ち」とか好きではないでしょ? と思うわけで。「お金持ちなんて威張っていて、好き勝手やってるもの」というそういう感じの思想は、ばあさまが自分の実家に持っていた感想なんじゃないかと思いますよ、と、そう思うわけです。)

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「ニノさん」と「SmaSTATION!?」を見て寝て。香取君が、なんだか強い「目の力」を使っていたので、何かあるのかも、と思っていて。そうして、今日穴を掘っていたら、奥の石が詰まっているところが、どうしても気になって。そこをつついていたら、上の方の崩れたところに、シロアリの巣の道を見つけて@@。そこを掘り上げて行ったら、道はすぐに途絶えてしまって。で、巣の本体に続く道はどこにあるのだろう? と思って周辺をつついてみて。とある石を一つ外したら、その後ろに前よりも大きな「蟻の道」を見つけたので、「出たー」と思って。そこは割と奥の方なので、周辺を掘り広げるにはもっと掘らなければいけないので。しばらくは、そこに向かうことを目標にして掘らなければならないわけです。そして、家に帰って調べてみたわけですが、比較的小型のシロアリは、ヤマトシロアリというらしくて、そこらへんに普通にいるものらしくて。

でもって、昨日のことになるわけですが、ノルウェーの国王様が降臨してきて、「普通、親子関係のカウンセリングとかは、文化とか風習の違いがあるので、同じ国の人が行うことが好ましいのだけれども、西欧の専門医の見解であれば中継できる。太陽女神は日本人だけれども、西洋医学の正規の教育を受けた人であるので、西欧の医者の見解を客観的に自分の問題を解決できうるヒントの一つとして受け取ることができるだろう。」と言われるわけで。それで、いろいろとお話して、新たな見地もいくつか得たわけですが。

でも、長期戦になるであろう問題は、すぐの解決は見込めないので、まずは今現在、「外」が問題解決に乗り出した動機から述べなければならないであろう、と言われる。その直接の動機は、昨年末から母親が太陽女神の食事の量を一方的に減らし出したことです。その理由については、「太りすぎていて、食事内容が好ましくないから。タンパク質は、腎臓に負担をかけるので、摂取すべきではないから。」というのが、母親の言い分であって。しかし、何度も議論の対象になっていることですが、太陽女神は食事の量を摂取しすぎて、関節炎、皮膚筋炎ような症状を発症したことは未だかつてなく、「摂取しすぎれば必ずそうなる。」という母親の主張には何の科学的根拠もないわけです。また、発症してもいないのに、その治療のための食事療法を行う意味はないのです。治療は、「発症している病気」のために行われるものであって、通常の食事とは異なる意味を持ちます。母親は看護師の資格を有していて、通常の食事と、「治療のための食事」の違いを知識として持っているはずなのに、それが全く機能していません。また、治療としての食事療法を行うにしても、当人の同意は必要なはずなのに、それもなく食事の量は一方的に減らされた。「外」の人々は、この現実に危機感を抱いて、斎宮の宮やキャサリン妃などから、複数の警告が出されていた。そして、しまいには、太陽女神も事態の深刻さに気がついて、「このままでは飢え死にさせられてしまう」と悟った。太陽女神は、母親の言い分も一通り聞いて、彼女の論理には全く「正確な理論に裏打ちされた根拠」がない、と、彼女が思ったことはこれだけでした。だから、「娘の自立(結婚)を拒否して、成熟拒否が来ている。」そして、その異常さは、さほど重症ではなく、自分の単独の力だけで制御していける、と考えていました。

しかし、今回、新たな問題が浮上していた。現場に余計なものが埋め込まれるため、早くに現場に入って、暗くなって帰るように指示が出されました。母親は、それに対して、最初抵抗を示した。実際、家事と現場の管理の両方を母親が担うことは大きな負担になることも分かっています。だから、太陽女神は「食事の支度とか、家のことでできることは、家にいる女神の姉にやってもらったらどうか。」と提案しました。お姉さんは、かつて母親が東京に行きっぱなしだったときに、働きながら家の管理をしていたのだから、今だってできないはずはないのです。そうしたら、母親は怒り出して、太陽女神の述べることは「上から目線」であり、「姉が荷物の積み卸しをしていることに対する感謝の気持ちがない」、そして「お前がしているのは車の運転だけだ」とも述べました。昔は、「事故でも起こしたら大変だから。車の運転をする人に無理はさせられない。」と、口癖のように言っていた母親であったのに。そして、太陽女神が「上から目線」とは、どの発言のことか? と具体的に求めたことに対して、母親は最後まで具体的な例を上げられませんでした。母親が、このように異様な状態に陥ってまで、台所の支配にこだわったことは、何か。そこにこだわることで、「家全体を支配する主婦、という感覚を手放したくないのだろう」と太陽女神は考えました。それで母親の負担が増えることは危惧しましたが、当人が自ら負担を増やしたがっているのであれば止められない。そして、母親が太陽女神にだけ負担を増やしたがっていることは、遺憾でもあり、不思議でもありました。姉は家にいて、自分の服を作る余裕がある。太陽女神は、寝る暇もないほど忙しかったからです。とても、母親の感覚の労働配分は、家族の中で、公平でも公正でもない、でもなぜ母親がそうしたがるのかが理解できていませんでした。

一方、外の人達はジブリに依頼して、今度は週刊誌での連載を始めて貰うことにした。ここまで太陽女神に説明すれば、女神自身悟ることがある。主人公の「カンヤダ」は、タイの貧しい農村地帯出身の女性であって、私生児を産んでいる。彼女のお母さんは、赤ん坊の面倒をみてくれているし、カンヤダが開いたレストランのコックも引き受けてくれている。でも、その一方で、カンヤダが働いて稼いだお金を全て持って行ってしまい、そのお金をカンヤダの弟や妹達だけでなく、親戚一同、健康なのに、仕事をせずに家で遊んでいる人達にまでばらまいている。だから、カンヤダはいつまでも働き続けていて、それなのに裕福になれないし、鈴木さんが支援しなければ、とっくの昔に人生に行き詰まって死んでいたはずだし、当人もそれは知っている。でも、その原因となるお母さんとの異常な関係に彼女は気づけない。コックをやって貰っているのなら、コックに支払うに相当の代金を支払えば良い、子供の面倒を見て貰っているのなら、面倒を見て貰っている代金を支払えば良い、そういう現代的な道理的な考え方を彼女はできないのです。なぜなら、お母さんとの異常な「共依存関係」に彼女は陥っているし、貧しい農村ではそういう関係に陥っている人は大勢いるので、そこでは彼女だけが異常とはいえないからです。でも、近代的西洋的医学の見地から述べれば、母親との異常な共依存関係が、ほっておくとカンヤダを死に追いやるほど危険なものとなっている。それをまず知りなさい。すでに、太陽女神は2回母親に殺されかかっている。1度目は、飢え死にさせられそうになった。2回目は、過労で交通事故を起こすように仕向けられた。そのような行動を続けさせていれば、3度目はどんな形で吹き出してくるとも知れない。そこまで、危険な関係に陥っていることを、まず自覚しなさい。そして、お母さんにも、できるだけ解消のために努力してもらわなければならない、なぜならそれは、どちらの側にも「自覚」が必要だからです。

だから、まずカンヤダの例を鈴木さんは揚げた。カンヤダがお母さんに必要と思われる以上のお金を渡し、それが親戚一同にばらまかれている点について、鈴木さんはこう尋ねた。「あなたが養わなければならない親戚は何人いるのか」と。そうしたら、彼女は怒ってこう述べた。「お母さんにはお金は渡していない。私の家族の悪口を言うな。」と。それはたぶん嘘です。でも、カンヤダはこう述べて、お母さんとの関係を整理することを拒否してきた。家庭内の問題に介入するためには当事者の協力が必要ですが、デリケートな問題でもあり、共依存関係が当事者同士の役に立っている部分もある。だから、まずは太陽女神自身が、家族の問題で、どう反応するかが確かめられた。彼女がカンヤダと同じ反応を示すなら、それ以上に強い介入を試みることは、逆に事態を悪化させる可能性があるからです。外の人達は家族全員を助けたいのであって、家庭を壊したいわけではない。でも、太陽女神はアツシ君以上のドライな現代人であって、しかも学生時代に自分が習ったことは、よくよく記憶していた。そして、現場でたたき上げた小児カウンセラーの専門家であるトリイ・ヘイデンのことも覚えていた。(ヘイデン氏は、現在結婚して仕事を引退し、イギリスに住んでいるのではないか、とそういう風に記憶しているわけですが。)でも、太陽女神自身は臨床経験が少なすぎて、一人では理解できていないことも多い。それは7番目の兄さんも同様で、知識はあっても彼は医者ではない。そこで、西欧での信頼できる精神科の専門チームが組まれて、太陽女神の足りない理解を、客観的な知識として補う試みがなされることになった。太陽女神なら、専門医の意見を仰ぐ、新人の医者のような立場で、事態の解決に臨みうる、とそれが期待されることになった、というわけで-;。トリイ・ヘイデン氏は、元はアメリカ人であって、アメリカの幼児虐待から来る社会的問題も、しゃれにならないくらいすさまじいものであるので。知能程度は正常なのに、親から受けた虐待が激しすぎて、正常な社会生活を送れない子供達を、一般社会に戻すために、彼女は力を尽くしてきた人です。それは知ってる。

でも、それはさておき、そんな感じで事態が進んでいるので、今日は朝から、誰かが6番目の子のことを指して「お母さんは、精悍なタイプが嫌いなんだってさ。」と言って苦笑いしているわけで。それで、けっこう疑問に思っていたことに気がついたわけです。それは、蛇の兄さんは、そこそこ親に気に入られている。7番目の兄さんも同様。でも、6番目の子だけが、なんだか気に入られていないわけで。親は「ああいうタイプはどうのこうの」と言うわけですが、みんな芸能人で、やっていることは似たり寄ったりなのに何故? とはずっと疑問に戻っていて。それで気がついたのですが、なんだかんだ言って、要するに6番目の子が、「親の好みのタイプじゃない」んだ? ということで。だって、結婚するのは私でしょ? 親の好みは関係ないでしょ? と思う。だったらお母さんにはこう言いなさい。「お母さんが親として果たすべき義務は、娘と結婚したいと言っている相手が、どのように娘を愛していて、どのように娘を幸せにしたい、と考えているかを知ることなのではないですか? お母さんが結婚するのではないのですから、お母さんの好みは関係ないですよね? 相手が何をどう考えている人なのか、お母さんなりに知る努力をすることが、「親の義務」なのではないのですか?」ということで。

で、そういえば、親は1番目の子のことが好き、とか言っていたし、最近では相葉君とか翔君が、まあ好感を持てる、とか言っていたわけですが。でも、それは相手の人となりや考え方を知ってそう言うのではなくて、単に上っ面から判断した自分の好みを述べていて、「共依存」関係からいえば、「娘が自分と同じ考えを持っていて当然」、と暗に思っているから言うんだ? と思うわけで。表面上は、母親は「お前の好きなようにすればいい」とかしか言わない。でも、その不満は、もはや娘に対する殺意として噴き出してくるわけで、しかも、娘が死んだら死んだで、「そうなるとは思わなかった」とか、そんなことしか言わない親であることも誰でも知っているわけで-;。確かに、それはある程度は自覚して貰わないと困る問題だ-、感謝がどうのとかいうことではなくて、私自身がまだ死にたくないし、と思うわけで-;。母親が向き合っている問題は、娘の問題であって、母親の問題ではない。何故自分の男性の好みで問題を解決しようとするのですか? そして、それだけでなく、6番目の子に対する中傷を述べるのですか? となる。でも、そう言うと、親は今度は「もう何も言わない」と言い出す。問題は、何かを「言う」「言わない」ではないのです。あなたは、婿の人となりを知って、娘に対する思いを知るために、どんな客観的努力をして、結論に達したのですか? それを、周囲の人が納得ができるように、客観的な言葉にして、他人にも説明できますか? 一つの問題を「もう何も言わない」で片付けてしまっても、自分の「ものの見方」を変える気は無い。そこで溜まった不満は、いずれ何か別の形で、娘に対する不当な発言として吹き出す。そういう自分をまず客観的に自覚して欲しいのです。なぜなら、外の人達は家族全員を置かれている異常な状態から救い出したいと考えているからなのです。そして、これが西欧からの最初のご挨拶、ということらしくて。家に帰って、再びトリイ・ヘイデン氏のことを調べてみました。彼女は今、結婚してウェールズに住んでいて農業をしている。おそらく、旦那さんはケルト系の人だと思うのですが、彼女自身は「人の世界は人の力で動かし得る、と信じているマギである。そして、実のところ自分の師匠とも呼ぶべき人です。」と、7番目の兄さんからは言われるわけで。マギというのは、基本的には敵の側でも、味方の側でもなくて、中立的で独立した立場にいる人達のことです。でも、ジブリの3賢人もそうですが、どちらかといえばこちらに好意的な人が多い気がするわけで。「自分にできることがあれば、力になりましょう。あなた自信も自分の問題をしっかり考えていって下さい。」と言っていただいたわけですが。

そして、7月8日はユナさんのお誕生日、ということで。おめでとうございます<(_ _)>、ということで。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「THE MUSIC DAY」のしやがれのコーナーで、潤君と相葉君の担当のものを見たのですが。6番目の子は、狂おしいほどの思いで好きな人を思っていて、ときどきその思いが目に出てしまうわけで。この人の目に巻き込まれて、巻き込んで、二人で生きて行けたらとても幸せだろうな、と思うわけですが、それはおいておいて、涼ちゃんとかのんちゃんを圧迫されるのは困るんだよ? と思うわけで-;。18禁指定の発言については、7番目の兄さんは「自分もHは上手だよ」と言ってくるわけで。やることは同じ気がするわけですが、7番目の兄さんの文言の方が、あっさりしていて普通な気がするわけですがー;。

で、本日も土台の下をせっせと掘って。シロアリが3匹出てきたわけでー;。タールの詰まった土の層が出てきたので、そこも掘らなければ、と思うわけです。

そして、暇なときに週刊誌を眺めて、ジブリの鈴木さんの連載を読むわけで。この連載の主人公は、タイの貧しい農村地域に住むカンヤダというシングルマザーであって。鈴木さんは、その女性の支援をしている。他の登場人物には、タイが好きでタイに住んでいるイタリア人のコルピさん、タイの事情に詳しい日本人の清水君がいて、鈴木さんの支援を手伝ってくれている。また、カンヤダの直接の支援はタイ人のお母さんと日本人のお父さんを持つ混血のアツシ君が行っている。アツシ君は、(おそらく)都会で生まれ育って、合理的な考え方をする現代人である。一方のカンヤダは貧しい農村の大家族で生まれ育っていて、合理的な生き方はあまりしていない。たくさんのお金を得ることを夢見ているけれども、目的に向かって計画的に生きることは得意そうではない。鈴木さんは、カンヤダとアツシ君が結ばれてくれればいいば、と思っているけれども、お互いを押し付け合いすぎることもなく、緩やかに暖かく二人を見守っている状態なのである。で、今週号の連載を見る限り、カンヤダの読者の評判はあまりよろしくないらしい。特に日本人は、風土病ともいえる感じで「コツコツ頑張る」とかそういうことが大好きであるので、そういうことが得意でない子には厳しいかも-、と思う-;。でも、私は、そもそも何故鈴木さんが、今になって女性週刊誌で連載を始めたのか、その動機がまず気になるわけです。そして、鈴木さんが連載を始めて2,3週間後に、スタジオジブリは宮崎駿監督が再び長編アニメの制作を再開する、と発表しているわけで。今までに何度も引退を表明している宮崎監督であって、前回「引退」してから、ジブリのアニメ制作チームも解散してしまっているらしいので、アニメーターとかのスタッフも、また1から募集中であるらしいです。でも、こういう一連の動きもけして偶然ではないと思うわけで。ジブリのアニメは、今まで多くのことを伝えてきてくれていた。その内の「ハウルの動く城」だけは家に入れることを許されて、家にあります。でも、宮崎監督は常々、アニメとは「子供の見るもの」で、しかも「よろしくないもの」と言い続けてきた。だから、私にはジブリの3賢人がこう言っているように思えるわけです。「もうあなたはアニメを見て、いろいろと勉強するような子供ではない。女性週刊誌を読む、大人の女性なのだから、言いたいこと、伝えたいことは女性週刊誌を通して伝えます。」と。だから、その代償として彼らは、再び新たにアニメを制作しなければならなくなったし、制作されるものはきっと「呪いのもの」であるのではないか、と思うのです。そして今はカンヤダと共に人生の旅をしているわけで。

今週号では、鈴木さんはカンヤダの人となりを伝えるために、タイの貧しい農村地帯の一女性のことを書いています。タイの貧しい農村地帯というのは封建的でもあって、離婚した女性は、いわば「傷モノ」とされて、その後の結婚生活とかで幸せになる見込みはないらしいです。だから、勇気を持って離婚に踏み切る人は少ないらしいのですが。その中で、しょうもない夫を持ったので、離婚したマリという女性がいて、その人は村にはいられないので、バンコクに働きに出て、そこでドイツ人の男性と知り合い、結婚してドイツに渡ったということで。でも、その夫は不誠実な男であって、妻に飽きると彼女を奴隷のように、別の男に売り飛ばして。慣れぬ異国で、彼女はそういう男達に従って生きるしかなかったけれども、最後の夫が親切な人で、結局夫の支援で生まれ故郷の村に戻って、今度は家族みんなで仲良く暮らせた、という話なわけで、実話であるらしいのですが。なんというか、それを読んで思ったこと。まずは、タイというのは仏教国であるのだけれども、そういう貧しい農村地帯の人々の貧しさを救うのに「宗教」ってあんまり役に立たないんだな-、と思って。仏教というのは来世のために宗教なので、確かに貧しい人々に「お金儲けのやり方」を教える、とかそういうのは違うと思うわけですが、具体的な現実を動かす力には乏しいんだな、と思って。それから思ったことは、このマリという女性もまた、カンヤダとは違っても、アツシ君とは対象的な生き方をする人だな、と思って。ドイツに行くなら行くで、ドイツ語や英語をせっせと勉強する、とかドイツ社会の中で、自分が不利にならないようにドイツの法律や行政の仕組みを調べる、とかそういうことはほとんどなくて。彼女の動向は、結局は「夫」次第であって、良い人に巡り会えたから幸せになれたけれども、巡り会えなかったらのたれ死んでいたかもしれないし、なんというか、ものすごく受動的であって。一方のアツシ君は、現代人であって、目的意識をもって、目的に沿って社会にどう働きかけるのかを知っている人であって。お店を開くとなれば、法律的にどういう手続きが必要なのか、短期と長期で目的を分けて、どちらでも有利になるようにいろいろと考える人であって。

それで、なんとなく思ったことですが、鈴木さんがマリを通して理解して貰いたい「カンヤダ」の像とは、貧しい農村地帯で生まれ育った女性、親は貧しいにもかかわらず避妊も計画もせずに子供を作るので、それも貧しさから抜け出せない一因になっているし、やはり親自身も「裕福になるためにどうしたら良いか」ということはあまり具体的に考えられないのだと思う。だから、そういうところで生まれ育った子供は、どんな境遇でも、一日一日をたくましく生きていくことは得意なのだと思う。でも、親の世代と同様、「貧しい境遇から抜け出すにはどうしたら良いのか」という具体的なビジョンを持つことは難しくて、それこそ夢のように漠然とお金持ちになること、お金持ちの結婚相手を見つけて援助して貰うこと、などを夢見てる。だから、人はあまり貧しい境遇に育つと、長期的な人生のビジョンというものを持てなくなって、日々生きることしか頭になくなるのだろうか、と思った。昔の日本、貧しかった頃の日本には、やはりそういう人達、そういう女性もたくさんいたのだろうか、と思うのです。

本日の日誌

昨夜はなんだか夢を見て。結婚する前に、いろんな「婿」と試しに寝てみて、一番気にいった人と結婚すれば? と言われる夢で。目が覚めたら、6番目の子に「頭の芯までしびれて、何も考えられなくなるほどの快楽を教えて上げる。」って言われて@@。忙しいのでそのまま出かけて、あんまり気にする余裕もなかったわけですが。お昼を食べている時に、今日買った週刊誌を見ていたら、嵐のCMの記事があって、潤君の写真を見たら、朝のことを思い出して。13も年下の男子になんだかいいように言われてる気がする、というか、どう見ても「R18指定の発言だーー」と思ったら、「やっぱり18歳という年齢に拘るんだ?」と兄さん達に突っ込まれるわけで-;。どんだけスケベなんだろう? と思って、なんだか、疲れたのですが。

で、今日は土台の下を掘って。朝、奥の方から巨大なみみずとシロアリがまた1匹出て来て。入れられたものだと思うわけですが、シロアリなんてどこから調達してくるんだろう? と思って。親に家の中央の東側を掘って貰い始めたのですが、そうするとなんだか車を使った敵のいやがらせが激しくなる気がして。やっぱり、そこが一番掘られたくない部分なんだなあ、と思ったのですが。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。梅雨前線が南下したので、何とか晴れ間が見えた一日だったので、早速土台の下へ潜って穴掘りを再開する。そうしたら、2カ所で土が崩落していて、だいたい自然に崩落した土の中には石やゴミが詰まっているわけで。で、親には玄関先の東側を掘って貰うことにして。蛇の兄さんは、割とそれぞれが互いの目の届くところで穴を掘っていると安心するらしくて。万が一、炮烙事故とかがあっても、その方が早く対応できる、ということで。で、奥の方の土の中から、またシロアリが一匹でてきて。普通、こういうものは、巣があって、ある程度集団で出てくるもののような気がするわけですが、ある箇所の土の中から、ときどき1匹づつばらけて出てくるわけで、何故なのだろう? と不思議に思うわけで。

で、お昼を食べていた時に、親から私がおやつに食べているパンは「自分が食べているロールパンよりも甘い。それを「甘くない」と言うのは、(お前の)味覚がおかしいし、それは砂糖を袋で抱えて食べていながら、砂糖を「全然甘くない」と言っていた義理の姉と同じで、異常だ。」というとうなことを言い出して。そのパンは、ブランロールというロールパンの変形のようなパンであって、菓子パンのように甘いものではないし、当然砂糖の塊でもないし、私が際限なく食べているものでもないわけだから、要するに「またか」と思うような「中傷」の部類であって。精神医学の分野からいえば、それは親が子供の自立を嫌って、自分が優位に立ちたいために行っている行為、であって最近の俗っぽい流行の言葉で言えば「マウンティング」というやつなわけで。で、普段なら「不愉快だけどほっとく」という程度のものなわけですが、親の言動が解離性健忘から来る妄想の応用版、すなわち「現実をしっかり客観的に認識できない妄想から来る言動」によるものだと分かれば、医者として何の対応もしないわけにもいかず。でも、こういうことの「療法」は、「消された記憶を再度認識させて新たな記憶を植え付ける」っていうそれだけなわけで-;。要は、相手が正しい記憶を認識するまで、「いたちごっこ」を繰り返せ、とそういうことなわけですが-;。で、この場合は、ブランロールがロールパンよりも本当に甘いのか、特に健康被害をもたらすほどに甘いのか、ということになる。で、味覚なんていう「主観」でものを言っても始まらないので、成分表を見て調べて見たわけですが、ブランロールの方には、甘み付けに蜂蜜とか砂糖を添加しているので、確かに甘みは感じるようである。でも、含まれている炭水化物はロールパンの方が多く、カロリーはほぼ同じである。要するにブランロールの方は、ふすまが入っているので、そのままだとパサパサし過ぎて食感が悪いので、蜂蜜みたいにしっとりするものが多めに入っているのだと思う。でも、炭水化物はブランロールの方が少ないし、食物繊維が多く含まれている分、健康的であると思う。だいたい、朝ご飯に食べているスティックパンの方がよほど「甘い」ので、ブランロールを私が「甘くない」と言っても、それが「病的な状態」だと決めつける理由には全くならない。

でもって、やはり「単糖類」が足りないと思うので、おやつに「ゆずピール」を食べてみたわけですが、こちらはドライフルーツみたいなものかと思っていたら、本物の「砂糖の塊」であって(苦笑)。一度に小指の先の一欠片以上食べたら危険なシロモノだと思うので、それ以上食べられないわけですがー;。でも、健康被害がどうのと言おうが、脳細胞は「単糖類」以外のエネルギー源では働かないので、仕事が終わった後に一欠片食べると、ほっと元気が出て「疲れてたんだな」と思うのも事実であって。「砂糖の危険は、食欲中枢を必要以上に刺激して、ほっとくと必要以上に食べ過ぎてしまうことなので、気をつけるように。」と7番目の兄さんに言われるわけですが、でも、脳細胞の件があるので「一欠片くらいは食べた方がいいですよ」って言われもするわけで。まあ、気をつけて少しだけ食べることにします、と思うわけですが。でもまた買いたい気分になるかどうかは微妙だ-、本気で砂糖の塊だし、と思う。

でも、この年になって、精神科的カウンセリングだなんて、それこそポリクリの時以来、というか、担当教官が「こういう患者さんは病歴も長いし、年もとってるし、頭がいいからその場しのぎでなんでも言い逃れで誤魔化すことに慣れてるし、完治の見込みはないけれどねえ。でも、症状はさほど大きな影響を与えるほどのものではないから、気長にコツコツとやってみるしかないねえ。」って、それこそ精神科の医者特有の無情な目で総評してくれるのが目に見えるような気がするわけで-;。こういうことは、ポリクリでやって以来、2度とやるまいと思っていたのに、無報酬で精神科医なんて、これこそ誰か私に正当な診療報酬を支払って欲しい、と思ったわけですがー;。だいたい、私自身が医者としては生きている人が嫌で、死体大好きな病理屋なのにーー、と思うわけで。でも、7番目の兄さんには「どういう対応をするのが一番ベストなのか、自分も一緒に考えるから」と言ってくれるし、あーやちゃんも「できることは頑張ってしましょう」と言ってくれるし、音楽家の兄さんも「(妻神は)なんだかんだ言って良い医者ですよ」と言ってくれるわけで。

でも、ふっとジブリの鈴木さんが連載しているカンヤダのことを思い出して。タイの貧しい農村で生まれたカンヤダは長女であって、家族のために働いて、得たお金を全てお母さんに渡している。で、そのお金はお母さんだけで無く、彼女の大家族のために使われている。弟や妹たちだけでなく、叔父さん叔母さんやいとこ達にまで。鈴木さんはその光景を「ちょっと前の日本では良く見かけた光景」だと言う。私にはその姿は、母親というよりも、母親よりも年上の叔母さん達の姿に重なる。彼らは学校を出て、紡績に行って、得たお金を祖父母に渡してた。祖父母はそのお金を下の子供が学校へ行くのに使ったと思うし、祖父母自身が土地とか家を買うのにも使ったのではないかと思うし、もしかしたら一部は叔母さん達が結婚するためにも使ったかもしれないと思う。でも、鈴木さんは自分の事例を挙げる。鈴木さんのお父さんは、会社を経営していて家族のために働いていた。それがお父さんの生きがいだった。でも、息子の鈴木さんが大きくなったある時、息子と話してお父さんはこう言った。「お前はサラリーマンになって自分のために生きなさい」と。それで鈴木さんはお父さんの会社を継がずに、まずはサラリーマンになった。そして、鈴木さんは最新の連載でこう述べている。「カンヤダが自分のために生きる日がいつか来るのだろうか」と。それをふっと思い出して、「いつか、家族をみんな安心して暮らせる安全圏に引き出すことができて、そうして安全に自分が外に出てこれる時ができたら、その時は自分のために生きなさい。みんな、あなたが家族のためにどれだけ尽くしてきたかは知っている。お母さんがどれだけ娘を自分の側に引き留めておくために、不当な中傷を仕掛けて来ようとも、この世には直接お金に換算できないことはいくらでもあるんだから。」と言われた気がして。まあ、そういう時がもし来ればね、というか、そういう時が来れば、お金に換算できることは全部蛇の兄さんの担当だから、と思うわけで-;。兄さんのことまで書く余裕がなくなってしまったのですが、食事の用意ができたので、今日はここまで、ということでー;。(っていうか、医療行為をすれば、それは本当は直接お金に換算できるはずのことなんざんすよ? 誰も正当な診療報酬を支払ってくれないだけでさ(泣)?)